2火星へ
火星に到着しました。
火星の第一印象は、身体が軽い、というものだった。踏みしめる一歩一歩が、なんだか頼りないものに感じられた。
見上げると、「ようこそオアシス市へ」という大きな看板が掛かっていた。花柄をあしらった赤いカーペットの上を、輸送船に乗っていた人たちは、皆、押し黙って歩いていく。
入国審査の前で、人々は所属別に分かれる。
正規のオアシス市民は「居留民」の表示のもとで、並ぶことなく審査を通過する。
月や小惑星帯からきた観光客や、火星のほかの都市から来た人々は「訪問者」の下に集まり、長い列を作る。着いたばかりなのに、なかなか休めない、との不平をこらえ、順番を待つ。同じ便に乗っていた人たちの約半分がその列に並んだ。
サラーフは、かろうじて「居留民」の一員なので、早く審査を済ませることができた。荷物を回収し、オアシス市郊外・大学地区に向かうシャトルバスを探して、さまよった。
向こうから歩いてくる一団があった。はっと、胸を突かれた。
全員が衣服の上に、大きな青い紋章を縫い付けている。
まるで、宗教団体の気味の悪いコスチュームのようであった。しかし、その青い紋章は、地球出身者の身分を示すものだ。
同じ船に乗っていた人の半数が、青い紋章を身に付けていたのだ。顔を曇らせ、だんまりとして、出来るだけ目立たないように、小さくなって、隅の辺りに身を寄せて歩いている。
青い人たちに、暴言を吐く者もいた。
「地球人め! 消え失せろ!」
まだ幼い子供たちが、おびえて、しくしく泣き出した。
サラーフはここで泣くわけにはいかなかった。彼女の心は地球出身者だった。だが、外見上は、火星出身者のシンボルをつけていた。
ふと、二十年前の父を思った。父は灰色の衣を着たのだ。同胞を守ることもできず、見せかけだけの同胞に、寄り添わなければならなかった。
◆
空港から下宿までは四十分かかった。ベッドに腰を下ろすと、窓の向こうにボールが見えた。
バレーボールでもやっているに違いない。しかしこの三階の窓まで、高く飛ぶものだとは。なんだか、しっくりこない。
それに、空。なんとも言いようがない、不思議な橙色を帯びている。少し曲線を描いている。あれは、人工のドームなのだ。
ドームの外は、希薄な火星大気しかなく、人々は酸素マスクなしでは生きてゆかれない、今までに幾人が、この薄い帳の向こうで姿を消していったことだろう。
父はこの帳の向こうからやってきた。戦争を生き延び、今このドームのどこかで暮らしている。
――火星は都市国家の寄せ集めでできている。それぞれの都市は、物理的にドームで区切られ、外の希薄な空気とは隔てられている。
各都市は独自の行政構造や社会組織を持っている。人々はかつて、一番住みたいと思った都市に定住した。今でも多少の流動性はある。市民権の変更はいたってたやすい。しかし根本的に他の惑星や衛星からの移民が市民権を持つのは、難しい。
中でも今までの星間対立の影響で、地球は仮想敵星とみなされ、出身者は徹底的に差別されるか、排除される。
各都市の特徴ある構造について、開いた画面の見ていった。
火星で最も人口の多い都市は、マーズポートと呼ばれる。
名前の通りに、火星の玄関口、貿易港として栄えている。星内の各都市を強力な交通網で束ねた、政治上の中心地、文化の中心地である。この年では階級の格差が大きく、かつては貴族のような特権階級が置かれていた。現在でも有力者の家系がいくつも残っており、政治上の重要なポストを占めている。選挙で選ばれるものの、事実上投票の秘密が守られていない。
火星で二番目に大きな都市はオアシスという。
その名の通り、街外れに大きな貯水湖がある。経済金融面でも、科学技術の水準からいっても火星内で首位に立っている。公式見解にはないが貯水湖の下に太陽系一といわれるコンピューターが据え置かれているそうだ。政治の構造は特殊だ。もともと一つの社団国家であったらしく、企業組織を基本とした官僚国家の様相が顕著である。極端な実力主義で、発明家を好む国土。
三番目の都市は、前者より規模はかなり劣るが、ピースと呼ばれる。
文字通り平和主義の福祉国家で、青少年の教育に力を入れている。しかし気楽な老後を過ごすために、現役世代は搾取にあえいで暮らしている。
ピース以下の中小都市群は、大体同じような特色を持つ。
あるものは共産主義、あるものは宗教国家、さらにマーズポートやオアシスに従属して成り立っているものもある。総数で三十余もの都市がある。
そこまで読んで、終わりにした。「小学生高学年の地理歴史」のサイトへの閲覧の履歴を消し、画面を暗くした。
◆
病院の喫茶室入口に目を留めると、ちょうど扉が開いた。
一人の青年が姿を見せた。すらりとした体躯に、さわやかな空気をまとっている。小気味いい青年だ。夜陰のせいで顔は定かには見えなかった。
が、サラーフは思わず身を固くした。青年は、首と肩に恐ろしい火傷跡が残っている。そして、彼女に気付いて、まっすぐこちらに歩いてくる。サラーフは照明の下で、足を止めた。彼のただれた右側の顔が視界に入った。同時に、反対側の顔も目に入った。一瞬、言葉を失った。だが振り返ると、そこから歩き去っていく青年の姿はなかった。
そこで、サラーフは目が覚めた。火星に来たばかりの若かりし父の幻覚を見た。そういうような気分だった。疲れているのだろう、と彼女は思った。
友好学院の火星本校オアシス校に到着してから、睡眠以外の時間は、附属病院での検査に追われている。彼女自身も検査を一通り受けた。検査を終え、火星の生活に溶けこむための研修を終えない限り、友好学院の敷地から出ることはできない。
火星には、地球にあるスーパーコンピューターよりも大きなコンピューターがある。火星の各都市にある統御コンピューターを子機と呼べば、母機はオアシス市の貯水湖下に設置されている。
それら全部をひっくるめて、火星中央コンピューターとか、通称を、那由多とか言う。太陽系一といっていい。長年、太陽系の人々の心を虜にしてきたものでもあった。
それは、地球の者たちまで惹きつけていたのである。
オアシス市の貯水湖。そこに行こう、とサラーフは研修を終えたとき思った。赤い空には慣れてきていた。
だが、荒涼とした赤い地平線と、帳の向こうの砂塵には辟易していた。まるで砂漠に閉じ込められた気分。息がつまりそうだった。
水面が見たい。そこに行けば、きっと地球を思い出せる。
次回、父に会えます。