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13終戦

「完全な勝利もない、完全な敗北もない……双方打ちのめされて、お互いに、どちらが先に降伏の使者を送って遣わすか、探り合っているだけだ。」

文華はソファーを寝台代わりにして寝転んで、片手を掲げて数を数えながら、三人の聞き手に話しかけている。彼の目は、その掲げた手の先を見つめている。「時間はあまりない。マーズポート市に電文を送ってくれ。『降伏、降伏をせよ』、と。」

文華はぱっと手を下ろし、三人をそれぞれ見つめた。「そのうち、私もマーズポートに向かう……」

と彼はつぶやいて、身を起こそうとした。サラーフ、海麟、ナーガはすかさず文華の体に飛びついて、起きるのをやめさせた。

「いけません! なりません!」

「なにが悪い……? 電文だけでは、総裁が私の言うことを聞いてくれないことくらい、目に見えている。」

文華は続けた。「それに、この重体の身体で行った方が、説得力があろう。私は、死をも、厭わぬ。――マーズポートは、すでに、地球軍の、射程圏内に入っているのだぞ? わたし一人の命と、マーズポート全市民の命と、どっちが重い?」

 サラーフは、首をすくませてから、わざとという風に、言った。

「これは、これは。わかりました。いくらあたしが止めても、お父さんは自分で行くつもりなのでしょうね。でも、ケチなことは決して言わないで頂戴ね。公用機を使うこと。医者を何人か連れて行くこと。――いい?」

 海麟とナーガは顔を見合わせた。もうこれ以上言い足すことはない。彼女が充分に言ったから。

 文華は、ゆっくり、うなずいた。

「ありがとう。」


 オアシス市公用機が離陸後二十分して水平飛行に入った時、機内からでさえ、窓の外のはるか上空を望めば、いくつか地球軍の艦影を見ることができた。

 眠ってしまっている文華をよそに、海麟は、オアシス市に残してきたナーガと連絡を取り合いながら、上空の艦隊への傍受を試みていた。

 機内は消灯していた。乗り込んでいる医師たちやサラーフも仮眠を取っていた。時折、文華が浅い眠りから覚めて、海麟の作業をチラチラ見ていた。

 海麟はその時、数日前に文華が言っていたことを思い出していた。

「もし、私が地球軍の大将だったら、マーズポートを陥落させるために、まずは軍艦を数隻、差し向ける。」

「次に?」

と海麟はきいて、文華の言葉を待ったものだった。

「そうだな……。実は、三通りある。一つは、マーズポート空港に降り立って、都市ドーム内に恐ろしい病原体をばらまく。」

文華は息を整えてから、「二つ目は、より迅速な方法だ。用意していた数隻のうち、一番重いものから、都市ドームに落下・衝突させる。」

文華の口調は淡々としていた。海麟は思わず息を呑んだ。

「そんな方法が……まさか……」

と彼はうめいたものだった。

「三つ目は、核爆弾を打ち込むこと。だが、これは広島などでの経験からわかるように、味方にも被害が及ぶ。だから、あまり推奨されない。」

 地球軍への通信傍受に奮闘していた海麟は、やがて顔を上げ、

「ふうーっ」

と大きく嘆息した。

「海麟。三つのやり方のうち、どれで来そうか?」

 文華は率直にたずねた。声は弱く、ささやいているかのようだった。

「どうやら、――番目のようです。じきその時が来ます。我らが総裁のもとへ到着するのと、『衝突』と、どちらが早いんでしょうかね。」

「さあ」

と文華は呑気に告げた。「私は、どちらに転んでもよいように、十分な対策をしてきたつもりだよ。」

と言った。機材のエンジンの騒音で、二人の会話は他の者の耳には届かなかった。「私の後継者たちは安全な所に置いてきたし、医師は、三人もいる。生き延びた者が、他の命を救ってくれるくらいの災難で済むだろう。サラーフには、

『ついてくるな。』

とあれほど言ったのだが。来てしまったね。彼女だけがまだ何もわかっていないんだよ。とにかく、まだ私から離れるなんてことは、思いつかないんだろう。」


 地球軍首脳部が最終決定を下した。

 地球軍内部にあった二十年前の会議録の中から、上層部の者の一部が、興味深い録音を発見していた。周文華という士官が発言していたものである。

「火星軍は、装備では勝っていますが、ひとたびかの地に踏み込めば、一気にこちらが有利となるでしょう。ペストでもなんでも、昔の強い病原菌・ウイルスを蘇えらせて、向こうに送り込めばよいのです。」

文華の義兄にあたるアブマリク上級士官が、この録音の吹き込まれたレコーダーを引っ張り出してきて、会議でかけたのだった。

 司令官は、

「この周文華という者は、たしか、前の戦争で行方不明になった士官の一人だよな。」

と言った。続けて、アブマリクを名指しし、

「それに、いくつかの情報筋では、きみの義弟にあたり、また、今、火星でオアシス市長官をしているとかいう。」

周りの者らがざわついた。司令官は、強面を彼らに向けて鎮まらせる。

「その者の提言は、今なお古びてはいないというきみの意見はもっともである。しかも、その者は中立諸市の指導者にしか過ぎないから、この作戦もしくは、これに類似する新たな作戦を施しても、火星の戦争参加の都市は、何も対策をしないままだろう。」

そのような司令官からの支持を受け、アブマリクらは作戦を練り上げたのであった。

 一方、アブマリクの父親であるハサン=アブダラは、その会議を中座して、自船へ戻ってしまった。息子からは距離を置いた。司令官のあまりの低能ぶりに、いまさらいましめる気にもなれない。

「馬鹿め!」

とさかんに毒気づきながら、床の上を、うろうろ、うろうろしていた。そんなハサンの様子を、ロータスは陰から見ていた。

 ハサンは、椅子を蹴飛ばし、ロータスにも気づかずに、あたりに怒鳴り散らした。

「わしのどら息子め! アブマリクめ! なぜお主は、自分の義弟を殺すようなことをするのか? 自分の姪を、道連れにさせるようなことを言い出したのだ? こっちが白旗を掲げてもいいくらいだ! 人道的な物の見方のできるやつは、火星首都の喉首を切るようなことはしない!」

 ロータスはがたっと音を立てて、陰から飛び出した。

「何だって! マーズポートの喉首を切る? 周長官とサラーフさんを殺す? ……うわあああ!」

と彼は取り乱し、泣き崩れた。

 ハサンは今になってロータスがいたことを思い出した。無論、焦った。しかしとっさに機転を利かして、駆け寄り、ロータスの両肩を揺さぶった。そのまま大喝した。

「心配するな! ロータス! 君を育てた周文華は、このことくらい、予期して、なにか打つ手を考えているに、違いない! 泣くな! みっともないぞ!」

 ロータスは涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔をハサンに見せたのだった。

「もし……もしも、周長官が、心臓発作で、何もできなかったら……?」

 ハサンは、その場に立ち尽くしていた。彼の眼鏡はたちまち曇ったが、彼の顔は青ざめていった。信じられない、信じたくない、という彼の気持ちが、ありありとロータスにまで伝わった。


 火星・マーズポート市空港から一台の救急車が、道行く他の車を押し分け、猛スピードでマーズポート都市政府庁舎へと進んでいった。

「揺れるなあ。」

と横になっている文華はつぶやいた。

 救急車の後ろには、一台のオアシス市公用車がついてきており、中に乗っている海麟は、いつも以上にいらいらした表情を見せていた。この公用車には、他の誰も乗っていなかった。その代わり、大小さまざまの荷物が積み込まれていた。文華が指示したのだった。用途は、第三者にはよくわからなかった。その荷物が、ガチャガチャとひどい音を立てている。海麟のいらつきはそこから来ていた。

 赤色灯を回転させている救急車の中には、文華以外に、サラーフを含めた医師三名、運転手を務めてくれている、マーズポート市の地理に明るい看護師が乗り込んでいた。

 道は果てしなく長い一本道だった。両側には大きな貯水湖が広がっていた。

 オアシス市に次いで建設され、人口規模も火星第一位を誇るマーズポート市は、長年の政治の中心地であった。かつては大統領府が置かれ、現在は総裁府と名称を変えた行政機関の中心に、さまざまな下部組織が隣接し、緑豊かで整然とした区画を作っていた。そして、他のどの都市よりも高くそびえるビル群が、美しい屋上庭園を備え、他市から来た者たちを魅了していた。

 ローラン・ユイ総裁兼マーズポート市長官は、近従から周文華・オアシス市長官の来訪を告げられると、

「ほう」

と驚いた様子だった。文華がじきじきにマーズポート市まで足を運ぶとは思いもよらなかったようだ。

(――意外と、平身低頭な態度も見せるんだな。)

と、彼はあごに手を当てて、感心していた。

「公用機でお目見えです。一時間前に空港に到着し、ただいま、救急車と公用車とに御一行は分乗して、こちらへ向かっている模様です。」

 総裁は眉をひそめた。

「何、パトカーではなく、救急車による先導なのか? そこまで無理をしてでも、わしに会いに来るのか。あきれたものだ。」

 総裁はやがて、双眼鏡を手にして、ヘリポートもある屋上部分へ行った。もう一方の手にはワインを持っていた。半ば冗談だと考えつつ、この目で見ない限りは信じない、というふうだった。ローランも、歴代の総裁もどちらかといえば監視カメラなどの記録は当てにせず、どこか形式ばった人的作業のほうを好む性質があった。機械を愛し、その道の第一人者であるオアシス市長官とはかなり対照的ではあった。

 文華は左手を持ち上げ、腕時計型のミニ・パソコンの表示を覗き込んだ。と同時に彼の腕につながれている点滴の管が揺れ、頭上に吊り下げられている点滴本体の袋も大きく左右に揺れた。

 画面を見るなり、一度信じられないという顔を見せ、目をつむり、再び開けた。

「とうとう来るか……」

と彼はつぶやいた。それから、彼は無線をつないだ。

「私だ。――両車に告ぐ。直ちに減速し、車内の機密を確保すること。――来るぞ、大きな衝撃が!」

そう言ってから、彼は手すりに強くしがみついた。辺りが一瞬青白く光ったことを除いては、はじめのうちは何ともなかった。やがて、遠雷のような音が聞こえたかと思うと、大きな爆発音がし、地震のような大きな揺れに見舞われた。

 車内の全ての荷物や人がシートベルトを着けていたのは幸いだった。

 しかし、その衝撃波だけにとどまらなかった。

 たちまち竜巻のような強風とひどい耳鳴りが一向に襲いかかった。一行の周辺だけではなかった。その嵐はマーズポート市全体で吹き荒れた。

 救急車と公用車の外では、湖の水位が一時的に上がり、膨張したかのようになって、道路の一部が冠水した。それから、無数の魚や水鳥が強風にあおられて、巻き上げられてどこかへ飛んで消えてしまった。

 車のワイパーもちぎれて、吹き飛ばされた。

「これは……ドーム内の急減圧によるものだわ……一体、どうして?」

サラーフは文華を振り返って見た。彼は気が遠くなって、目を半ばあけたまま、ストレッチャーの縁に引っかかっていて、動かなかった。彼女は、これは減圧症によるものだわ、と考えて、酸素マスクに手を伸ばし、口にあてがった。しばらくして、文華は息を吹き返した。サラーフは

「この車も、百パーセント免れたわけでもないってことね……」

と、外の惨状と見比べながら、つぶやいた。都市ドームのどこかに開いている穴から、空気が漏れて、そこに向かって吹き込む風が、何もかもを吹き飛ばして言ったかのようだった。車の周りにあらゆるものが散らばっていた。植物や建物の残骸、動物や、おそらく人の、遺骸の破片まであったようだ。彼女はそこまで気づいていたとは思えない。

 救急車の他のメンバーも、適宜酸素マスクを装着した。サラーフが後ろの公用車に目をやると、海麟も酸素マスクを付けていた。

「納得。お父さん、あれを積み込ませていたのね。」

そして前方を振り向いて見た瞬間、サラーフは思わず悲鳴を上げてしまった。とっさに文華が手を伸ばし、彼女の口を封じた。文華は力強く、彼女を抱き寄せた。サラーフはしばらく激しく泣いていたが、次第に父の腕の中で、落ち着きを取り戻していった。

「お父さん、大丈夫。あたしは、もう大丈夫よ。ありがとう。」

文華は腕を放した。彼女は起き上がって、もう一度その光景を見た。

 もうもうと立ち込める煙の向こうに、何かがあった。

 巨大な艦影が、マーズポート市のドームにめり込み、ドームをひしゃげさせていた。その艦は、ビル群の尖塔の上部にも深く突き刺さり、無残にも裂けて、はらわたを見せていた。

 地球軍の一艦船が、マーズポート市に突っ込んだのだった。

 都市ドームは中央から割れ、相当の空気が漏れていったのだ。高層ビル群は、艦を串刺し状態にし、また、自らの瓦礫の山にも埋もれてもいた。火の手は上がったものの、酸素が薄すぎて、すぐ鎮火した。

 サラーフの両眼には、また徐々に、涙があふれていった。

「なんで……なんで……どうして」

文華はそろそろと腕を伸ばし、そっとサラーフの腕をつかんで、

「私にも見せてくれ。」

と頼んだ。

 サラーフは、涙をこらえながら、文華を抱き起こした。正面にかれは向き直り、その光景を直視した。サラーフは、自分の涙を再び父に見られるには忍びなかった。だからうつむいて、誰にも顔を見られないようにした。やや経って、そっと文華の顔を盗み見た。

 文華の眼にも涙はあった。その光景から決して目を背けることはなかったが、彼の目には、サラーフが今まで誰の目にも見たことがない、深い悲しみがあった。自分の故郷が、彼を裏切り、差し向けた牙を、じっと佇んだまま、逃げ出すこともせず、見つめていた。文華は袖で、涙をぬぐった。サラーフは、

(同じ思いだったんだ……)

と、内心ホッとしていた。父が、近くに感じられた。二人は同じ故郷を共有し、血がつながり、同じ思いを抱いていた。二人が隔てられた年月も、この時、やっと解消されたように感じられた。

 この時だけだった、文華が等身大の、しおらしい姿を隠さず、人の目に見せたのは。それより前も、またそれより後も、彼は長官という一人の専門家として、あるいは一人の指導者として、重い責任を背負い、人々の期待を担った。そのために、自信に満ち、笑いに富んだ面を見せることしかしなかった。

 彼まで、幾分、絶望したかのようだった。

 人々の目は文華に向けられ、彼を見守っていた。みな、優しかった。彼の心の傷を、周りの者たちは、

「わたしたちは、周長官についていきます。」

と口々に言い、癒そうとした。ぽつりぽつり、とあるメロディーを口ずさみ始めた。火星の歌だった。昔、火星を開拓した者たちが、歌っていたもの。その歌の出だしはとても静かだ。文華を取り囲んだ人々は、歌を唱和して、まるで葬送の歌のように悲しく響かせた。文華も、歌に合わせて、唇を動かした。

 彼ははじめて、その歌を口ずさんだ。火星に連れてこられてから二十年目に、はじめて、歌を受け入れたのだ。やがて、一同の歌は終わった。皆、文華の次の行動を待っていた。

 文華は無線マイクの電源を入れた。

「――私だ。ここにいる皆が無事で、何よりだ。エンジンの点検が済み次第、運転を再開してくれ。」

と号令した。

 のろのろと二台の車は再び動き始めた。道は水浸しで、行く先は煙と瓦礫にまみれた廃墟だった。いつの間にか路端に人々の姿が現れだした。どの家にも大抵こういう減圧を想定した緊急用具が備えられてあった。減圧時の大風に吹き飛ばされるのを免れた人々は、めいめい酸素マスクを口にかぶせ、ただ何の目的も見出せないまま、かつて全ての中心だった廃墟に向かってとぼとぼと歩き続けていた。そういう人々の数はたちまち膨れ上がり、まるで難民の列か、葬列のように延びていった。

 赤色灯を回転させる救急車とオアシス市ナンバーの公用車は、そんな人々の群れと共に、同じ方向に向かって進んだ。人々は左右に分かれて二台の車に道を開けて、通してくれた。車は、先を急ぐことができた。

 人々はその二台の車を、まるで棺を見送るかのようなまなざしで見つめたものだった。


 ローラン・ユイ総裁は、双眼鏡の向こうに救急車とオアシス市ナンバーの車を見つけて、

「ふ、ふ、ふっ」

と不敵な笑いをこぼしたものだった。「周文華、お前はそうやって、このわしに、

『わたしはここにいる。』

とでも言うのか? わしに、降伏を勧めに、来たのか? その、病気持ちの、体で? 悪いが、お前はわしより先に死ぬ身だぞ。全素性を市民にさらけ出した挙句、もうスポットライトに当たる機会もなく、このマーズポートで、客死するつもりか? ふ、ふっ」

 ローランは、ワインをグビリ、とやった。一陣の風が、さあっと後ろから吹いてきて、彼の黒衣の端をひらりとなびかせた。

「そもそも、マーズポートは、総裁の城じゃぞ……。文華よ、ここはオアシス市長官の来る所ではない。わしに呼ばれてもいないお前が、来るべき所では、ないのだ。」

 突然不穏な影が、ローランの立っているヘリポートにさした。

「むむっ!」

彼は急いで振り返り、その艦影をにらみつけた。銀色のその艦船は、艦首部分に、青い旗をひるがえしていた。

「地球軍! ……うわあ……落っこちてくる!」

 マーズポート市ドームが、艦船のぶつかった衝撃で大きくたわみ、中心から樹脂状に亀裂が走っていった。さらに艦船が重力に耐え切れず、深くまでめり込むと、ドームは一部崩落し、穴の開いた所から、逃げ場を得た都市内の空気が、まるで排水溝に吸い込まれていく泥水のように、渦を巻き、あらゆるものを巻き込んで、一気に抜け出ていった。

 艦船が中央塔にはじめに突き刺さる前に、ローランは中央塔から暴風によって吹き飛ばされてしまっていた。巨大な艦船は、中央塔のみならず周りの十数ものビルディングの上に覆いかぶさり、三箇所で折れ、むごい姿をさらした。

 瓦礫と火の手の中に、ローラン・ユイの身体は横たわっていた。彼の黒衣はずたずたに引き裂かれ、顔には血糊が付着していた。彼の白髪は所々焦げて褐色に変色していた。彼を見つけ、周りを取り囲んだ人々は、総裁の身体を抱え上げ、一応酸素マスクをあてがって、皆が集まり始めていた広場へ運んでいった。

 広場の群衆の中には、何人か総裁の下で働いていた者も混じっていた。彼らは総裁の載せられた担架が到着するや否や、彼の身体にしがみついて、おのおのが酸素マスクの下で泣きじゃくっていた。

 辛うじて正気を保っていた者が、

「誰か……誰か、医者はいないのか?」

と聞いてまわっていた。だが、大勢の怪我人がいる中で、弧軍奮闘している医者ばかりが多くて、総裁のほうまでろくに手を貸せる者はいなかった。

 総裁が薄目を開けた。

 遠くから、空港の方面から、ピーポーピーポーと鳴り響く救急車のサイレンが聞こえてきた。丘の上から、葉を失い折れ曲がった街路樹の木々の向こうに、赤色灯の明滅が、かすかに見えてきた。

 ローランの秘書は、

「そうか……周文華が来るんだったな……」

と、ぼんやりとつぶやいた。


 総裁公邸正面の小高い丘に、大勢の人々が腰を下ろし、虚ろな目をしたまま、ただ身を寄せ合っていた。

 その丘と行程を隔てる一本の細い行き止まりの道に、救急車と見知らぬナンバーの公用らしき車が停まった。

 救急車の中から酸素マスクをした白衣の男が姿を現し、後続の車から出てきた背の高い男と、何か、一言二言、言葉を交わした。

 その二台の車を群衆は取り囲み、また丘に居並ぶ人々をかき分けて、総裁の載った担架と、総裁の秘書の男が、車に向かって丘の斜面を下っていった。総裁を運んでいる一行は、救急車の前にたどり着くと、背の高い男に話しかけた。

「あなたは、オアシス市長官補の、海麟さんですか。」

男は相変わらずの気難しい顔を見せつつも、

「そうです。」

と、丁寧な言葉遣いで返答した。海麟は聞いた。「あそこから、人を載せた担架が降ろされてきていますね……もしや、あれは、総裁ではありませんか?」

総裁秘書は、沈んだ声で、

「もう隠しようもありません。総裁はもう、駄目かもしれません。ああ、海麟さん、私たち、どうしたらいいのでしょう……」

と海麟をすがるような目つきだ見上げた。

「ちょっと待ってください。中の人たちと、話をつけてきますから。」

と言うなり、海麟は救急車の助手席のドアを開けて、中に乗り込んだ。まもなく担架は救急車に横付けされた。少しして、海麟は同じドアから出てきて、「大丈夫ですよ。どうぞ、後ろから乗せてください。」

と言って、ゴーサインを出した。

 総裁を載せた担架は、後ろのドアから、救急車の中に収められた。中では、文華は自分の載っていたストレッチャーをたたんで、男の医師と、看護師に両脇から支えられて立って待っていた。

 文華は担架の上に横にされている白髪の男の名を呼んだ。

「総裁」

ローラン・ユイは、その声に、ピクリと動き、目を声の主に注いだ。

 サラーフは、ローランの容態を確かめていたが、

「虫の息です。」

と、彼の酸素マスクを押さえながら告げた。文華の見知らぬ総裁秘書が、

「あの船の激突時に、総裁は運悪く、塔の屋上に出ておられたのです!」

と、泣きわめいた。文華は、

「あなたは、総裁の秘書の方か?」

ときいた。秘書は、黙ってうなずいた。

 文華は、

「ローランよ」

と総裁に親しげに呼び掛けた。

 総裁は時折まばたきをしながら、文華を見上げた。文華は言う。

「もっと早くから、わたしの忠告を聞いていればよかったものを……。ローラン、わたしが今から、あなたの職を引き継いでもいいか?」

(そのご病体で?)

とローランの目は言いたげだった。けれども彼はその後、ゆっくりと一回まばたきをした。

「構わないのか?」

と二人の男に支えられた文華は大声で尋ねる。

 ローランは、また、ゆっくりとまばたきをした。文華は無言のままうなずいた。それからくるりとサラーフに向き直った。

「サラーフ! ローランを、生き返らせてくれ! 任せた!」

「はい。できる限り、やらせて頂きましょう!」

と彼女は答えた。

 救急車は、今度はサイレンを鳴り響かせ、さっき来た道を引き返した。また、丘の広場には、文華、海麟、ローランの秘書、そして医師一名が残った。

 文華を中心に、群衆がまわりをぐるりと取り囲み、中央から座っていった。人々は文華の言葉を待っていた。戦争の終結を待っていた。

 文華の声は小さく、かすれて聞き取りづらかった。誰もかもが酸素マスクをしていたから、当然のことでもあった。

「皆さん。――総裁代行となりました、周文華でございます。この現状を見てお分かりでしょうが、マーズポート市は、地球軍の艦船の体当たりを受け、崩れゆく途中にあります。私たちにできる最後の道は、地球軍に降伏し、この戦争を終わらせ、いちはやくこのマーズポートを再建することです。」

人々の多くは泣き出していた。遠くからさらに多くの人々が押し寄せ、その誰もが口を閉じ、耳をすませて文華の話を聞いた。「――私は、地球のことや、地球軍のことをよく知っています。彼らが、一度降伏した者たちを、不当に扱うことはありません。もし、このわたしの言葉が嘘だとしたら、いや、もしくはわたしたちが裏切られたとしたら、わたしが彼らに手をついて、頭を下げて、説得します。それでも駄目ならば、わたしが全責任を負い、地球軍の牢に行きます。」

人々の涙のさざ波は、絶えることはなかった。人々は新しい指導者と、その言葉を、素直に受け容れようとしていた。


 ハサン=アブダラはコンピューターの画面いっぱいに、マーズポート市の上空写真を拡大させて、見入っていた。彼の眼鏡は画面の光を反射して強く光っていた。彼は、こらえきれず、思わず、深く息を吐いた。

「マーズポートが……壊滅した……。」

ハサンはうなだれ、肩をがっくり落とした。

(ロータスに告げたら、彼は卒倒する)

とも思った。

 マーズポート市にいる人々の安否はまだわからなかった。ハサンばかりではなく、精神的な動揺と失望は、地球軍内部まで広がっていき、深い根を張って、むしばんでいった。

「何も、ここまでしなくても良かったのではないか……?」

とささやき合う者の数は次第に増えていった。マーズポート市のドームにひびが入って、気圧低下が起こることは予想していたが、その後の爆発的な威力の風が発生することまでは、誰も考えていなかった。

「マーズポート市は不毛の地と化したか……?」

という印象を、火星内外の人々に深く刻み込んだ。

 地球軍の一部の船隻は、人命救助と情報把握のために、マーズポート空港へ降り立った。空港だけが、ほぼ無傷で残った建物といえたが、ターミナル内部には、盛んに水が溢れ出していた。地球軍兵士は、駐機場に停まっている小ぶりの、「オアシス市」と書かれ、マークが入った公用らしき飛行機に気づかないわけがなかった。

 その隣に救急車が横づけされるところだった。

「ちょっと待て! その中には、一体、誰が乗っている?」

と地球軍兵士たちが救急車に追いつき、窓や車体を激しく叩いた。

「どうしよう……これでは乗り移れないよ」

運転台にいる看護師が弱気なことを言った。

「大丈夫。あたしに、任せて。」

後方からサラーフが声を張り上げた。「代わって。」

彼女は助手席の医師に後ろから声を掛けた。

「あたしが、真実を話すわ。」

明るく、自信ありげに言った。

「サラーフ=周先生!」

と一人が引きとめようとした。「はたして周書記が許すでしょうか?」

「ええ。問題ないわ。」

と彼女は笑顔を振りまいた。「だって、彼が嘘を嫌うことくらい、一番あたしが知っているのだから!」

二人の医師は閉口した。首肯するしかなかった。

 救急車の助手席から、サラーフが、風に美しい黒髪をなびかせながら、降り立った。彼女も酸素マスクをつけていて、来ている服には血と煤がついていたが、その服は白衣には間違いがなかった。

 地球軍兵卒二人と伍長一人は、この女性医師が、火星側を代表したメッセンジャーなのかと一瞬戸惑った。

「あたしの名は、ドクター・サラーフ・サイイド=周と申します。」

サラーフは背も高く、美しかったので、三人の兵は、彼女に見とれたものだった。サラーフは愛想も良かったが、意志の強そうな声をしていた。三人も自分の名を告げた。それから、丁寧に尋ねた。

「その車には、どなたが乗っておられる?」

サラーフは真ん中の伍長から目を離さずに言った。

「ローラン・ユイ火星総裁です。大怪我をなさっておいでです。これから最寄の都市に送ります。」

 三人はしばし面食らった。

「……では、総裁の代わりに、今、マーズポート市の被災民を取りまとめて、秩序立て、こうやって総裁の輸送体制を指示したものは、一体誰です?」

 サラーフは、ひとつ息を吸って、火星風に言った。

「〈黒衣の賢者〉、いえ、周文華書記・オアシス市長官です。」


次回で完結です

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