12思いをつなぐ
サラーフは、クリスマスと正月休みを過ぎたある日、文華の書斎に呼び出された。
文華は、入手していた戦局状況を、こっそり耳打ちした。サラーフは、それを聞いて、顔を引きつらせた。
「信じられないわ!」
と彼女は叫んだ。「誰も、どこのマスコミも、そのようなことは言っていないもの。本当に、火星側は、苦戦しているの?」
「まずは見てくれ。」
と文華は言いつつ、彼女にパソコンの画面を指し示した。正面に海麟が座って操作した。サラーフは、書斎備え付けの本棚に手を掛けながら、画面を見守った。文華は
「これが二週間前の前線だ。こっちは一週間前。そして、これが五時間前のものだ。」
と言った。「この三枚を重ね合わせてみよう。――右下に縮尺が載っている。一センチメートルが五光秒だ。」
サラーフは思わず口を押さえた。息を呑むときの癖だった。たまにこらえ切れなくて噴き出してしまうことがあったからだ。
「火星軍の退路を断とうとしているの?」
と彼女はごにょごにょ言った。
「じりじりと追い詰められている。補給路も、いくつかは、危ない。総裁も恐らくこのことには気づいているはずなのに。まあ、私は彼のことを助けるつもりはないさ。だが一つ、やりたいことがある。」
と文華は話して、サラーフに向き直った。「サラーフ、私に医師として、外出許可を出してくれないか?」
「えっ? ……ええ。」
彼女は外出を認めないわけにはいかなかった。ここのところ、文華の体調は、市民投票の頃を思い出させるくらいに、よく落ち着いていた。彼は最近三階建てのこの小さな家のどの階にも出入りしていた。一階のイクのいる客間と、自分とサラーフの主寝室、二階の台所、居間、それからテラス、そしてこの三階の(吹き抜けと)書斎にも。書斎とは名ばかりで、本は五十冊ほどしかなかった。だが紙媒体というかたちで、本を持っている人は、この時代ではめずらしい。宇宙文学全集のうち、ひいきにしている作家の本や、『史記』、ハッカーたちがハンドルネームを使って書き下ろしたマニュアル本、図鑑、辞典などが並べられていた。
「外出しても構いませんよ。でも、一体どこに行くの?」
と彼女は訊いた。
「おまえと、海麟と一緒に、刑務所に行くのさ。」
と文華は、さも簡単そうに言った。
「刑務所に?」
とサラーフは目を見開いて言った。目を輝かせて、といったところか。彼女の、好奇心も手伝っていた。
「囚人ランス・ナーガに会って、話をしたいのだ。彼は、火星と、小惑星帯一のハッカーだ。いや本当は、私の次、なのだがね。彼は、私よりずっと若い。かつて那由他コンピューターの子機に進入しようとしていた。彼の居所をつかんで、小惑星帯から、火星の政治中枢をつかさどるマーズポート市へ連行させたんだ。けれど、そのうちオアシス市長官であり逮捕の功労者である私のお膝元の方がよいという意見が多くあったからね、今も収監されている。まだ会ったことがないんでね……」
と文華は弁解した。
「さっき、お父さんはあたしに、戦局を見せた。もしかして、一種のサイバー戦争をしようとしているの?」
「戦争ではない。我々は、ハン・イクを含めてでも、四名にしかならない。どうかお願いだから、これ以上詮索しないでくれ。」
海麟が、文華の公邸(オアシス市長官公邸)から公用車を一台まわしてきてくれた。四人乗りのその車の運転席に海麟、助手席にサラーフ、後部座席に文華が乗り込んだ。トランクにはサラーフの医療鞄が積み込まれた。
文華は、乗車中に、後部座席に寝そべりながら、刑務所所長に電話をかけた。
「ハロー、わたくし、長官の周文華と申します。今から、私の連れと補佐官と共に、そちらへ伺います。と、所長にお伝え下さい。はい。お伝えいただけますね?はい。では。失礼。」
電話を切った。文華は
「……下っ端が取ったようだ。私を本物だとわかっているのかな?」
などとぶつぶつ言っていた。前の座席の二人はおかしくて、精一杯笑いをこらえた。文華が自然体すぎるのだ!
正面玄関ロータリーに公用車で乗り入れたが、出迎えは外に出てはこなかった。
海麟はトランクを開けながら、
「そら! 言わんこっちゃない。いたずら電話だと思われたのだ! 誰も書記の来所を信じちゃいないんだ。」
と言った。
「あれ? 彼、今、入り口のところに入っていきませんでしたか?」
サラーフはカバンを引き揚げつつ、遠くを見やった。
案の定、三人が合流するまでに、文華は受付の女性職員二人を相手にして、何やら困った珍問答を繰り返した。
「すいません、来所者記入欄に、ご氏名を、周文華、ご職業を、オアシス市長官と書かれるお方は一体、どういうつもりで書かれているのですか?」
「あ、いや、弱ったな……。黒衣は、海麟が持っているんだ。」
などと言って、後方をそっとうかがった。そこに海麟とサラーフの姿を認めた。
「周長官!」
と二人は叫んだ。
「ほれ見なさい、海麟の手に黒衣があるから。……」
と文華は、にこにこしながら二名の受付嬢に言った。彼女らの顔にはたちまち大粒の汗が流れ出た。冷や汗かもしれない。その汗のせいで、化粧ののりが危機に瀕していた。ハンカチで汗を押さえながら、もう一方の手で、所長に電話を入れた。
程なくして所長が慌てて駆けつけた。丸い体つきで、背の低めの、頭部がつるりと禿げ上がった男だった。
「長官! 副長官! 御両名ともおそろいで……。」
と彼は杓子定規的な挨拶でその場を取り繕った。
「ナン所長」
と文華は言った。所長は、文華に名前を覚えられて、嬉しいやら、怖いやら、二つの感情がないまぜになっていた。文華は続けてきいた。「ここにいる囚人のランス・ナーガ氏と面会させて頂きたい。よろしいかな?」
面会室のガラスの向こうに、灰色の小惑星帯のブローチを身につけた、やせた若い男が腰掛けた。
周文華は、目の前のランス・ナーガをよく見ていたが、自ら名乗ることもせず、
「ここの食事はうまいかい?」
とはじめに聞いた。ナーガは、自分と同じ色のバッジを着けている文華ばかりを見ていて、後ろに立っている海麟とサラーフには興味を示さなかった。
「悪くはないよ。」
とナーガはつぶやく。「あなたも、小惑星帯出身者か?」
「そういうことになっている。」
と文華は答えた。「新聞は読んでいるか? ランス」
「ああ。退屈だからね。ここにいる間に、文学全集も読んでしまったさ。ここの図書のセンスも悪くはない。」
とナーガは言った。
「気が合いそうだな。」
と文華は独り言をつぶやいた。
「さあ、どうかな。」
ナーガは栗色のくしゃくしゃの髪をかいた。黒色の肌に、くりっとした黒い目が光を発している。「相性がいいとは思わない。なぜなら、あなたはまだ僕に正体を明かしていないから。あなたは僕のことをよく知っているはずだ。でも、僕があなたを知っているのかどうかを試している。――知っているよ。あなたのことなら。――あなたは、僕のことを見破って、こんな目に遭わせている、〈黒衣の賢者〉。」
後ろに立っている海麟とサラーフは顔を見合わせていた。始終微笑を浮かべている文華と、隙を見せないナーガのやりとりを、ひやひやしながら聞いているのだった。
文華は、声をひそめて、
「ここから出してあげてもいい。ただし、条件がある。」
と告げた。
ナーガは、表情も口調も変えずに言った。
「聞いてやってもいい。」
「私の補佐のポストが、一つだけ、空いている。ここにいる海麟と共に、私の下で働く気があるのなら、ここからあなたを出してあげよう。――あなたは、収監される前は、企業の重役の秘書をしていたそうじゃないか。」
ナーガは表情を険しくした。
「僕に、何をさせようとしている?」
ときいた。
「別に海麟に気兼ねする必要はない。彼は一年前に補佐官になったばかりだ。それにあなたとはやる仕事は違うし、得意分野だって違う。私は、あなたのハッカーとしての腕を買っているんだ。」
サラーフは、これは、文華が二十年前にさせたことと同じことをしているのだと気づいた。罪を許すのと引き換えに、若い鳥の羽をもぎ取る、そんなことを平気で繰り返そうとしているのだと。ただし、ナーガと文華は幾分状況が異なっていて、ナーガは敵である地球に家族を残してきたわけではない。家族はなく、故郷に帰ることはできるのだ。
しかし、ナーガは吐き捨てるように言った。
「今更どこのシステムに侵入するんだ? ローラン・ユイ総裁のマーズポート市コンピューターへか? 戦争開始以来、総裁が、オアシス市にあるマザーコンピューターとの接続を切ったとか、他のハッカーが言っていた。だが、〈黒衣の賢者〉であるあなたが、既に元通りにしないはずがない。」
「その通りだ。マーズポートは未だ、私の手中にある。」
と文華は答えた。
「さすが、周長官だ。右に出る者はいない。」
とナーガはうなった。この時、彼の奥底に隠れていた、文華への尊敬の念がちらと現れて見えた。それから、畏れと期待とが入り混じって現れた。
「周長官、まさか、地球軍を相手にするのでは?」
文華は、ゆっくり、無言のままうなずいた。
「でも、地球はあなたの故郷だ!」
「でも、地球はあなたの故郷です!」
「でも、地球はあなたの故郷よ!」
と、ナーガ、海麟、サラーフは一斉に反論した。
「静かにしてくれ。三人とも。確かに、それぞれの言い分があるのかもしれない。それに、わたしが故郷をまだ愛していて、帰りたがっていることくらい、みんな、よく察してくれていて、それには感謝している。けれども、地球と、地球軍とでは違う。しかも、私は、あるべき自分の像として、弱い者の味方でありたいと、かねてから思っていたんだ。――火星内で、地球出身者が、虐げられていた時、私は手を差し伸べた。火星がまだ開戦すべきでないと思った時、開戦に反対した。火星軍内へ左遷される者がわかった時、その者に、総裁の手から逃れる道を用意した。――傷つく者、傷ついている者は、必ず私の腕の中に、入る。私の敵は、ただ強い者だけだ。時には、私自身が、敵であったこともあった。だが、今は、私の体力は随分落ちた。」
「どこかお具合が悪いのですか?」
とナーガはきいた。
「ここをわずらっている。」
と文華は、自分の心臓の辺りを指して言った。「前と比べて、一人でやれないことも多くなった。パソコンを扱う仕事は、ずいぶん心臓に悪い。ハン・イクが異動して以来、しばらく私一人でやってきたが、もうそういうわけにはいかなくなった。去年から海麟に補佐してもらっているが、戦争が長引いている今、あなたの力も貸してもらいたい。戦火は、まもなく小惑星帯を抜けるだろう。しかも、だいぶ散り散りに広がってしまっている。火星の人工衛星が、地球軍からの射程圏内に入るのも時間の問題だろう。……そもそも、人類はこの宇宙の中で、もろい存在にしか過ぎない。酸素・食料・水のいずれかが欠けるだけで、もしくは、宇宙線にさらされるだけで、死ぬ。火星に散在する都市のドーム、その中の適切な環境が壊れてしまえば、市民たちの命は消えるのだ。――だから、ここの貴重で清浄な空気に手を触れる者は、わたしが断固として許さない。」
ナーガは頭を垂れた。
「僕のような者でも、あなたの助けとなれるのならば、どうか存分に使ってやってくださいな。」
それから、首をもたげて、文華の顔をのぞき見た。
海麟は、そんなナーガの様子を不思議そうに見ていた。
(文華の手法は、いささか強引なものなのに、この青年は、かつて父が前のオアシス長官に対して抱いた感情とは、異なるものを抱いている。恐れてはいるけれど、かつての父よりは、主体的に受け入れている。それが、どうしてなのかは分からない。)
(前の長官や私が、前に周長官に対してした処置の、二の舞になるのではないかと心配したが、どうやら大丈夫なようだ。彼は、変わった。……実によい上司となった。)
海麟はある結論を導き出していた。文華は、理想だけではなく、実績があるから、皆に慕われている。それで彼の下に集まる者がいるのだ。
ナーガは、そのままの姿勢で文華をのぞき見ている。文華は、腕につけているミニ・パソコンを触って、二人を隔てるガラスの扉のロックを解除した。
文華は、ナーガの手をとって、刑務所の廊下を突き進んでいった。だが一行は玄関ホールでナン所長とその配下たちに阻まれた。
所長は、顔を怒りで真っ赤にし、息を弾ませて待ち構えていた。文華たちはたちまち、所長と配下に取り囲まれた。
「周長官! この囚人を逃がすおつもりですか? そ、それは、越権行為もはなはだしいですよ!」
文華は彼らの熱気に周りを囲まれながらも、ひとり涼しげな顔をして、すっくと立ったままだった。一瞬、困ったな、という表情を見せた。左隣にいるサラーフのおびえが伝わってくる。ナーガは、上気した顔をさらして、文華の後ろにぴたっとついている。海麟は、文華の斜め前に立って、いつでも腰の銃を抜けるように心構えをしていた。この人の命は、私が護る、と前総裁に告げたのは、いつの日のことだったろう。
文華は片手を宙に揚げて、皆の注目を引いてから、言った。
「所長! 私は彼を釈放したんだ。特赦だ。後追って、今日中に文書を出す。いいか! よ
く覚えておけ! オアシス市長官は、行政の範疇に納まる。だが、同盟の書記は、司法・行政・軍事上に立つ!」
所長は、体の震えがどこからか来て、いっこうに止まらなかった。彼の正面に、文華は真面目な顔をして、立っていた。もう笑ってはいなかった。
「で、ですが……ぜ、前例がありません……総裁にも、書記にも。それから、同盟の議長にも。」
文華はさらりと言う。
「所長、では、これが見本だ。第一、この者は、私が通報していなかったら、補佐官になっていた珠だ。」
「へ、へえ……」
と所長はやっとのことで答える。
(市民投票を発議して、市民に裏切られたこの男が、このように息を吹き返してくるとは。おれは、もう周文華は総裁に叶わないとおもった。周はもう落ち目だと思った。だが、この男には、何人も味方がいるし、総裁よりも、後継者を探し出す手腕は上なのだ。)
「周長官たちを、い、行かせてやれ!」
文華たちを取り巻いていた者らは、そろそろと輪を緩め、身を翻して、その場を去っていった。
所長は、よけい小さく縮こまって、文華に非礼をわびてから、自分の部屋へ戻っていった。
(ふう、これで、この職から解任される恐れはなくなったぞ。)
文華はナーガに多くのことを指導した。また、ほとんど一文無しのナーガに、海麟の家に住むように勧めたが、こちらは聞き入れられなかった。
「海麟さんは、あなたの書斎に泊まっておられる。だから僕も、〈黒衣の賢者〉のそばにいたい。」
と、まるで子供のように、駄々をこねた。文華は、もはや一階でハン・イクと同棲しているも同然だったので、これ以上の住人の増加は歓迎できるものではなかった。しかし二階の居間の上のハンモックに、ずうずうしくもナーガは自分の寝場所を確保した。さらに、ハン・イクのことを
「周夫人」
と呼んでからかったりもした。それに対してイクは顔を赤らめただけだった。文華は公然と、
「まったく、もう! 私がローランの手から守っているだけだ」
などと反論していた。文華はただサラーフに遠慮していただけかもしれない。彼女は、毎朝かれの家に訪問治療をしにきて、時々、夜も泊まりに来ていた。文華とイクのことを見張りに来ていたのかも知れないが、サラーフの口からは何も聞き出せなかった。彼女は、
「家に医者が常駐していたほうがいいでしょ」
とばかり言っていた。サラーフは父にどことなく似た性格を持つナーガに心惹かれていてもおかしくはなかった。一方、ナーガはあからさまに文華に心酔していた。表裏のない男で、文華を一目見ただけでも、顔がゆるんでいた。
文華が壁に貼り付けていた物価のグラフは、一ヶ月間、右肩上がりを示していた。文華は時たまハン・イクと、このグラフを見ながら何かを話していた。
そんなある日のこと。書斎からナーガが飛び出してきて、危うくゆっくり階段を昇ってきた文華にぶつかりそうになった。
「わっなんだ、ランスか。」
ナーガはかなり興奮していた。
「周長官! ロータス・ユイ第十三次隊・隊長が、激戦の末、地球軍に投降した!」
「そうか!」
と文華は喜んだ。ナーガは、文華の晴れ晴れとした顔をよく見て、
「なぜそんなに嬉しそうにする?」
ときいた。
「ロータスが、あのまま私の養子でいてくれたら、と何度も後悔していたんだ。総裁と私の板挟みになっているのを見ていたのがつらくてね……。ああ、よくやった! よく生き延びてくれた! これで、彼の道が広がった。」
ナーガはじっと文華を見つめていた。
(ロータス・ユイはちっぽけな器のものだと思っていた。だが、違うのか? 周長官の言う通りだと、ロータス・ユイは、地球という新天地で大きな飛躍を見せるのか? 火星軍として、今のところ、彼の投降は大した損失ではないだろう。しかし、今後、波紋を呼ぶかもしれない。長官は、一体どんな未来を描いているのか?)
文華の大きな安堵とは裏腹に、ハン・イクが彼女の副官と電話をしている長さも頻度も増していった。ハン・イクの統轄する都市は小さな規模であったから、副官は一人までとなっていた。だが小規模である分、物価の高騰のあおりを、顕著に受けてしまっていた。
(中立諸市は、公では戦争実行諸市の支援はしていないけれども、身内とか、私企業の単位では、そうでもない。こちらは戦時下ではないのに、価格統制に踏み切るというのは、気が引けるが……。やむを得ないかもしれないわ。)
ロータスの投降から二週間ほど経った日の夜、イクの使う客間で、電話が鳴り響いた。この日はサラーフは夜勤でいなかった(来ないことが確実だった)ので、文華はイクと添い寝しようと客間に上がっていた。
イクは例に漏れず、長く受話器を握っていた。やがて、
「はい、では、おやすみなさい。失礼します。」
と言って、切った。
「文華」
と、イクはうつむいたまま呼んだ。そして、顔を上げて、
「行かなければいけない。」と告げた。文華もイクも覚悟していたことだった。
「私は構わないよ。」
と、ベッドにふわりと腰掛けている文華は、さりげないように言う。それから、彼はちらりとイクを見た。
イクは精一杯言おうとした。
「でも、あなたと離れてしまうのは……」
あとは声が詰まって、言えない。
イクは車椅子をベッドの脇までゆっくり転がし、そのあと、腕力とテコの原理を上手く使って、ベッドの上に乗った。
文華はややうつむいたまま彼女のそばに歩み寄ってきて、イクは彼の腕とベッドの端を押さえながら、文華の腕にしがみついた。
彼はイクを抱き、
「予期していたが……つらいな。」
と耳打ちした。
「――この、私の気持ちを除いては、もう、何もきみを引き止める理由はない。ローラン・ユイ総裁だって、今のあの戦況では、きみのことをあきらめざるを得ない。副官が、きみを待っている。長官公邸ではなくて、彼女の家に泊まらせてもらえば、ローランにも手出しはできない。」
イクの副官は、実家が警備保障の会社を営んでいる。
(今の文華は、すごく元気そうに見えるの。でも、一度別れてしまったら、もしかしたら、もう二度と、彼に会えないかもしれない。いつなんどき、彼が突然また発作に襲われるかわからない。発作を起こして、たちまち死んでしまうかもしれない。ああ、今この瞬間が、永遠ならばいいのに。)
「文華。」
と彼女は再度呼んだ。「夢みたいなひとときだったわ……あなたと、一緒に暮らせた日々が。」
文華は彼女を抱きしめたまま、彼女の髪に顔をうずめて、
「お互い、学生だったあの頃、将来を誓い合ったが、それは破れたかのように思えた。だが、ふたたび巡り合って、こうして火星にやって来て、ロータス坊やを介して、何度か会ったものだったね。この私の病が、私たちの絆を深く結び合わせてくれて、ひょっこりやって来たサラーフも、私たちのことを黙認してくれた。私たちは紆余曲折あったけれど、結局幸せをつかんだのさ。幸せ者だ……私は……。」
と語りかけた。
「文華。私、写真を持っているの。」
「写真?」
と彼はきいた。
「あの時の写真……」
「イク……」
文華は、言う。「待たせたね。本当に、よく辛抱してくれた。」
「文華。でもね、私の体のことで、果たせなかったこともあって、……ごめんね。」
「いや、いい……。」
火星大気は、もとは地球大気の厚さの一七〇分の一しかなかった。気圧も同様に一七〇分の一だった。火星の両極に眠るドライアイスを溶かして、二酸化炭素を発生させ、地球から苛酷な環境に耐える、耐寒性の植物を移殖して、火星大気を地球大気にできるだけ近づけるというテラ・フォーミング計画があったが、まだその途上にあった。
現在の火星大気は地球大気の三分の一にまで増えた。大気組成は二酸化炭素八十パーセント強、酸素十八パーセントと、酸素の混合比は地球と同程度となっていた。だが、それでは地球最高峰エベレスト山頂上での酸素の濃度と大差ない。火星では、まだほとんどの人は、酸素ボンベが必要なのだ。それが、火星の都市ドーム内での現状だった。
火星各都市ドーム内での、伝染病の問題は、相も変わらず周文華長官の心配の種でもあった。密閉空間である都市ドームでは、もしかしたら最大の脅威かもしれない。
周文華が地球軍の接近を恐れた理由はそこにあった。地球軍が伝染病を持ち込む危険性が大いにあった。実は二十年前に、彼自身がその案を提示していたのである。
「――火星軍は、装備では勝っていますが、ひとたびかの地に踏み込めば、一気にこちらが有利となるでしょう。ペストでもなんでも昔の強い病原菌やウイルスを蘇えらせて、向こうに送り込めばよいのです。」
まさか、その害を被る可能性のある側になろうとは。
地球軍はじわじわと火星との距離を縮めつつあった。そんな最中、周文華・書記兼オアシス市長官の名で、市全域に以下の告示を出した。
「中央(那由多)コンピューターの整備に伴う夜間停電のお知らせ
三月六日~十五日にわたって(以下略)」
その初日、三月六日の夕方、周文華、海麟、ランス・ナーガ、サラーフ・S=チョウの四名の姿は、オアシス市地下基幹部コンピューター・管制室にあった。間性質の正面にある窓からは、直径二十メートル以上はある円柱型の那由他コンピューターが見られた。その下部は巨大プールに浸っていた。これが、太陽系一のスーパーコンピューターだった。
文華とナーガは、薄青色の貫頭着のような作業服に身を包み、腕や足は靴も何もつけず、むき出しにしていた。二人は裸足でぺたぺたと歩き回っていた。一方、サラーフと海麟は白衣といういでたちだった。それから、四名全員が集まって、最終打ち合わせをした。
文華は、
「出発前に一言。」
と底抜けの笑顔で言った。「全市民にひとつだけ、通告し忘れていた。昏い夜空を見上げていなさい。そうすれば、無数の流星雨を見られるから。」
ナーガは文華にたずねた。
「僕は、あなたの後についていればいいのだっけ?」
文華は首をかしげた。
「いや、厳密には、違う。同じ乗り物の上に乗る格好だ。しかもそれは、まるで空飛ぶ絨毯のような。」
「では、しっかりつかまっておきますね。僕は、あくまでも、あなたの補佐。足手まといにならないようにしよう。」
文華はこくりとうなずいた。
液晶タッチパネルを触りながら、白衣姿の海麟が、
「長官、ソフトが受理されました。準備完了です。」
と、告げた。まもなく、海麟の前方の床から、二台の、人がすっぽり入れるくらい大きな白い機械が姿を現した。サラーフは、機内アナウンスを真似て、
「ご搭乗の方は、こちらへ。」
といって、貫頭衣の二人を招いた。
文華とナーガはその機械の上に寝そべった。サラーフは二人の間に立って、さまざまなパッドを二人の手足に貼り付けて固定していった。文華は彼女を呼び止めて、
「サラーフ、私の体を頼む。緊急の時は、ランスが知らせてくれるはずだ。」
といった。「随分身体に負担をかけることになる。だが私は今宵限りだ。明晩は海麟に変わるから。最初の試運転でもあるし、今回はランスに道を教えなければいけないんだ。それを、承知で、行く。」
「お父さん」
と、サラーフはつぶやいた。ナーガはしかとそれを聞いた。けれども、敢えて二人の方を向いて見る、なんてことはしない。
(やはり……そうだったのか。彼女の、父だったのか。)
サラーフは文華に言った。
「戻って、来て下さい、必ず。」
「――そうだな。」
と文華は言いつつ、サラーフの髪をなで、そしてその腕を下に置いて、「ではしばらく眠るとしよう。どうか、私から離れないでくれ。海麟、帰るための、道標になっていてくれ……。」
と、彼を見下ろしながら立っているサラーフと海麟に目を配って、言う。
「では参るぞ!」
彼の目に映るものは、サラーフの不安げな顔から、暗黒の宇宙へと移りゆく。サラーフは文華の顔を見つめ続ける。傍らに、海麟がやってきて、
「離れていてください。」
と諭す。彼は、眠っている二人の上に蓋をかぶせ、いくつかの接続ケーブルをつなぎ合わせて、「その代わり、こっちを見るといいですよ。」
と窓の外を指差した。
那由他コンピューターの柱が、淡い白色光を発していた。
「全市の電力を使って、まったくもう、贅沢なものですね。」
とサラーフは嘆息した。
「そうでもないですよ。――実は彼、二十年前に、この方法を思いついたそうです。地球の旧式スーパーコンピューターから、この『那由他』に侵入した時に。あれからずっと、この計画を実現させるために、何百回もソフトを作り直していたんです。時にはアイディアに詰まって、やけになって、家から飛び出し、湖のところで無心に模型飛行機を飛ばしていたけれど、――数週間前、ついに完成させたのです。そして、ナーガまでも連れ出してきましたね。この計画は、彼の人生の半分をかけた、とても、とても大きなものなのです。この計画は、周文華という一人のハッカーが、リスクこそ高いが魅力的な最大の方法として選んだものなのです。まさに、彼はこの時のために、今までの人生を生きてきたのでしょう。――特に彼は、ハッキングに関して、天賦の才を持っている。いけないことだとわかっていても、この才能を無視することができず、ついに戦時下の書記として、合法的にやってのける機会まで掴み取った。」
海麟は、一旦息を整えた。
「命を捧げてまでもやりたいこと、それを確かに持っている人がうらやましい。生きがいがあるから、その人は幸せで、周りも応援してあげたくなる。そんな存在に、なりたい。
夢を持つ人に、人は魅かれる。
夢は人を変える。
夢には力がある。」
周文華とランス・ナーガは、自らの意識を火星の那由多コンピューターに取り込み、結合させ、電磁波に乗って、宇宙空間を光速で飛ぶことができた。
彼らの意識の中では、共に白いひらひらとした絨毯の上に乗り、宇宙を疾駆していた。
暗黒の闇のもとで、遠く輝く恒星たち、はぐれ小惑星、超高度軌道火星衛星、宇宙ごみ(デブリ)、そして地球軍の大小さまざまな艦船が、次々に視界に入った。
(ランス、一番近い艦隊へ向かうぞ!)
二人は艦隊中央の最も大きな旗艦の脇にそっと忍び寄り、そして、大音響と共に、内へ侵入した。
「システムに侵入者! セキュリティ、ブロックせよ!」警戒警報のサイレンの音は二人の耳には届かない。二人の意識は、光速で動いているのだから。
二人は背後に迫り寄る防衛システムの擬人化された影を振り切りつつ、破壊すべき箇所を目で追った。
親切なことに、「おすすめの一品」などというふざけた、けれどもセンスのいい札が必ず付いているのだ。これは、文華が前もって設定していた表示方法であった。彼の趣味が全面に出ていた。ナーガは思わず笑いを噴き出しそうになるのを、必死でこらえる羽目になった。
「今日のイチオシ」や「シェフのご自慢の一皿」などのプレートを見つけるや否や、二人の野蛮な招かれざる客は、丁寧に味見することなく、底無しの胃袋、宇宙へと放り捨てていく。
赤い札の組み合わせを取ると、その艦は火を噴いて炎上してしまう。ナーガは、
(このプレートは、燃料系統を示しているんだな……)
と思った。絨毯の端をつかんでいるのが精一杯だった。目の前の文華は、電光石火の鮮やかな腕前だった。ただ掴まっているだけで何もできない自分との格の違いを、思い知らされた。
(くそう……追いついてやる)
後部席で歯ぎしりする他はなかった。
文華は初日で地球軍の最重量級の艦を片っ端から蹂躙してしまった。それらの艦の間の船の大多数は航行不能に陥り、一部は流星となって散った。
地球軍首脳部が対応に追われていた。
「おそらく火星側のサイバー攻撃と思われますが、発信源が全く特定できません。まるで忍者のような奴らです。」
「何を言っている! 早く駆除せんかい!」
「無理です……!」
その母艦から少し離れたところに、実践向きでない小さな艦艇が浮かんでいた。青色で塗りつぶされた船体の一部が、緑色の地の色も見せていた。また、白色で「後方支援機」と書かれている。
艦橋に、ハサン=アブダラが眼鏡の奥に険しい目をたたえ、じっと佇んでいた。その傍らに、ロータス・ユイ捕虜が座らされていた。
「見たか……あの流星群を……。」
「はい。」
ハサンは唇を噛み、ダン! と右手で手すりを強く叩いた。
「悔しい。」
と彼は短くつぶやいた。「地球軍のコンピューターシステムが、得体の知れないハッカーにやられておる。それでもなお、手も足も出すことができない。」
ハサンはこめかみをぎゅっと押さえた。
「泣きたい。」
と言った。「――あれは、周文華だ。」
ロータスは、ぎくりとした。
(その名を、なぜ知っているんだ?)
それでも、何も言い返せなかった。(俺は、まだ黙秘権を実行している最中だ。この老人に、「お前が、ロータス・ユイか?」
などと聞かれているが、一度もうなずいたことはない。だから俺は、この老人が誰なのか聞いたこともない。だが、もしや、この老人はサラーフの祖父という人ではないだろうか?)
ハサンは言った。
「周文華。わしの娘婿だった男の名だ。」
ロータスは、はっとして、ハサンの顔を振り返って見た。
「あなたは、……確か、ハサン=アブダラという……」
ハサンはロータスから目をそらしたまま、ゆっくりうなずいた。ロータスはさらに、
「あなたを知っています。――周長官の口から、聞いたことがあります。」
ハサンは言った。
「では、お前は、やはり、ロータスなのだな。一時期、周文華の養子だったとかいう。」
ロータスはうなずきも、否定もしない。ハサンは、ロータスにも聞こえるような大声で言う。「周文華。彼を敵にまわしてしまった。……本気にさせてしまった。これでは、――これでは、いけないんだ。」
文華は帰りの道の途中で、気を失っていた。オアシス市が近くに感じられた時、文華はひどく衰弱していて、倒れて、動けなくなった。
ナーガは文華の体を押さえて、残りの道のりを急いだ。急を告げる信号を海麟の元に送った。届いてくれ、と祈った。その時、前方から大きな光の玉が近づいてきた。ナーガはよけようと方向転換を試みたが、上手くいかない。終わりを予感しながら、がむしゃらに何か叫んだ。そのまま、二人とも光の玉に飲み込まれた。
ナーガはまぶしくて、何が何なのか見当もつかない。文華の体を抱きかかえて、その場をやり過ごそうとしていた。どこからか、水のようなものがひたひたと二人の足元に流れてきて、そのうち、水位を増した。文華の体は、危うく、流れに持っていかれそうになった。ナーガは目を開けることもかなわない。辛うじて文華の体をひきとめていた。
ジャブ、ジャブと水をかきわけて、何かが二人の脇に立った。何か、というよりは、誰か、と言うべきだった。ナーガはそれに目をやった。女性のようだった。コンピューターが作り出した映像だと直感した。
女性は、
「起きて、立ち上がりなさい。」
と言った。しかし文華には全く手を貸さない。この女性の声と、ナーガの知るハン・イクの声とは同じで、うろたえた。
女性は、ようやく文華に手を差し伸べた。
「さあ」
よろよろと文華は立ち上がる。彼の体を、ナーガは脇で支える。文華は、
「『那由他』、なぜ私を起こす?」
とかすれ声で言った。「私の最後の仕事は終わった。ほれ……ここにいるランス・ナーガや、海麟に、あとは任せられるのだから……」
「いいえ。」
と女性は答える。「あなたは思い出さなければなりません。あなたを待っている人たちがいるのです。その人たちの元に、お行きなさい。」
「嫌だ……! 私は弱い。惨めなほど弱くなった。……」
と彼はうめく。うなだれたままで。
「恐れないで。」
そっと背を押される。
ナーガは文華を支えながら、水に腰まで浸かりつつ、渡った。ナーガはふと後ろを振り返ろうとした。
「見ないで。」
その女性は言った。「火星の子らを、守って……!」
文華はバシバシと頬をはたかれた。
「うう……!」
サラーフだった。海麟は、AEDと書かれた空の容器をまだ小脇に抱えたまま、彼女の隣に控えていた。二人とも、額には、汗がびっしりとこびりついていた。
「お父さん!」
「周長官!」
二人の悲痛な叫び声が、文華の耳にも届いた。彼は、両腕を上げようとし、
「サラーフ? 海……麟?」
と弱々しく呼びかけた。
海麟は、額を拭きつつ、珍しくサラーフに笑みを見せ、
「上手くいったようですね。」
と言った。文華は、
「……そうか?」
といつも通りのとぼけた様子になった。
「そうよ。」
とサラーフは、泣きじゃくりながら言った。向かい側で息をひそめつつも横になっていたナーガが、天井を見つめたまま、ふいに、
「……あの女性は、誰だったんだ……?」
とつぶやいた。
「女性? ナーガさん、一体何のことです?」
と海麟が聞いた。
「あれだ。」
と、文華は窓を指差した。窓の外には、マザーコンピューターの白い壁が見えていた。「――前の長官が、引継ぎの時に言っていた。……『那由他』は、稀にトリッキーなことをする、と。たぶん、私を必死で、現世につなぎとめてくれた、海麟とサラーフを代弁して、私たちに伝えてくれたんだ。」
翌晩からは、海麟とナーガが襲撃を続けた。
「ふっ、ランス、よくやっているなあ。素質があるぞ。」
と、ストレッチャーの上に横たわっている文華が、スクリーンを見ながら、しきりに嬉しそうにうなずいている。白衣を着ているサラーフは、文華の手を握ったまま、離さない。
ナーガは、あれ以来、那由多コンピューターの女性の姿は見ないと言った。
「うん。そうだろうな。」
と文華はうなずいた。「多分、次に見る機会は、ざっと二十年後くらい後かな。」
「そ、そんなに? とはいえ、あなたは、僕が二十年後も、この那由他に触るとでも言っているのか?」
とナーガは驚いて目を丸くした。
「そうさ! なぜなら、きみはその頃には、長官になっているのだから。」
と文華はさらりと言った。
その場にいた海麟・サラーフまで凍りついた。
(これが、彼の遺言となるのか……?)
「海麟! 筆記具を用意しなさい。」
と文華は命じた。海麟はすぐに持ってきた。「よし。サラーフ、起こしてくれないか?」
サラーフも戸惑いを隠せない。
文華の前に、机が引き出された。紙も、用意された。
「私が、ここに書く。」
と、さらさらとペンを動かし始めた。「海麟。あなたが保証人だ。この用紙を取っておいてくれ。」
と海麟に手渡した。「いや、別に私が近いうちに死ぬのではないか、とは思わんでくれよ。ただ、これを書いたのは、戦争が終わったら、しばらくハン・イクの手にオアシス市長官の座が移り、それからランス・ナーガに替わるだけのことだから。」
と文華はあくまでも陽気な口調で言った。けれども他の三名はひとしきり顔を泣きはらしていた。
だんだん終わりに近づいています




