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10/14

10父の背中

ロータスには生みの父と育ての父がいます。

ロータスは、父である総裁に、

「少し、トイレに行ってきます。」

と告げた。父は冷やかな一瞥をくれただけだった。

 彼は一旦、トイレの個室に身を隠した。だがすぐに外へ飛び出した。がらんとした空港のターミナルを、駆け抜けた。狭い所に押し込まれるのは、息が詰まる。何もかもかなぐり捨てて、ここから逃げ出したい、と、ふと思う。人にすがりたい、とわだかまっている、おのれの気持ちは――心の底の弱さを見透かしている――ことになろうか。

(サラーフ! ……周長官! ……ハン・イク! ……いや、海麟でも構わない! 誰か――誰かいないか?)

しかし、どこにも見当たらなかった。

 ふと、足を止め、腕に巻いているミニ・パソコンの画面を見た。特に何も変わっていなかった。

(気のせいかな?)

さっき、画面が点滅するのを見たような気がした。彼はまた数歩走った。

(あっ!)

再び、画面を見つめた。いくつかの文字が、次々と現れていった。

「ロータス、私だ。C・W・Hだ。今、ちょうどいい投影箇所を探しているところだ。おまえの声ならば、どこにいても聞くことができる。あなたがどこにいるのかは、わかっている。」

 慌てて、辺りをきょろきょろと見回した。

(ここでは無理だろう……もっと多くの無線LANの集まっている所でないと……。)

画像の解析を自分の手で進めるのには、いささか無理があった。彼は、急いで、ひとまず総裁の元へ駆けて戻った。途中でチラとまた画像を見た。

「いいぞ。そのまま戻ってくれ。」

走りながら、思った。

(まったく、よくもまあ、こうも自由自在に他人のコンピューターに勝手に入れるものだな。空港内の無線も、まるで彼の私物だ。彼の地位を思えば、誰にもとがめられはしないが。うーん、なんという腕前だ。)

 総裁は、少しいらだっていた。

「ロータス、遅いじゃないか。なんだその汗は。」

ロータスは総裁のそばに近寄って、耳打ちした。

「下しそうなんです。」

もちろん嘘である。だが総裁は信じきってしまった。

「まったく!」

周りに詰めかけていた報道陣も、どうやらその会話から察したらしく、必死に笑いをこらえていた。ロータスは、はにかんだ。しかし焦りはつのった。頭の片隅で、文華を思った。

(書記はどうしたのかな……?)

けれども、新たなコメントは一切なし。

 とうとう、一行は自家用機に乗り込んでしまった。デッキにも、彼らが使った搭乗橋にも、文華は現れなかった。

(一体どうしたのかな……)

後ろ髪をひかれ、戸惑いつつ、ロータスは着席し、ベルトを締めた。隣には総裁がかけた。片手に、ワイングラスを掲げていた。

「ロータス、今も下しそうか?」

と上機嫌に、ニタニタしながら聞いてきた。

「いえ、どうにか、治まりそうです。大丈夫です。」

「そうか……」

と総裁は逆に声音を落として、

「とうとう周文華は出てこなかったな。わしが軟禁を解除したのに。」

と彼はつぶやきながら、もう一方の手を伸ばして、テレビをつけた。「わっ!」

と総裁は思わずワインをこぼしそうになった。テレビの画面から、文華と海麟が出てきた。

「ごきげんよう。ローラン・ユイ総裁。それと、ロータス。」

白い頭巾を被り、灰色のコートの下に白い服を身につけた文華は、恭しく二人に、中国古風の礼をした。胸の前で両手を合わせて丸めるというものである。

「周長官! こっ、こっ、この機材は、わしの私有なのだぞ! どうやってこのシステムの中に入った?」

総裁が突き出した指は、文華の体をすり抜けた。

「おっと、痛くもかゆくもありませんよ、総裁。」

「くっ、偉大なるハッカーめ。」

文華はにんまりした。

「総裁、最大の賛辞、ありがたく頂戴致しますね。」

「どうして、わしの前で黒を身につけず、灰色を着ている?」

文華は微笑を保った。

「ご想像にお任せします。」

総裁は辛うじて平静を保っていた。その隙に、ロータスは文華の服の色をまじまじと見つめた。白と灰色……?

「では、これで失礼しますね。総裁。ロータス。……ご武運を!」

と二人を見つめ、文華はぱちんと指を鳴らした。海麟とともにたちまち姿を消した。

 総裁は歯ぎしりした。

「あの地球野郎!」

と息巻いていた。「あれで、病人か!」

 そして、ロータスの腕の小画面には、文華からの長めのメッセージが残された。

「ロータス。わたしの予想では、今度の戦争は厳しいものになるだろう。私は、できるかぎり、あなたたちの動向をつかんでおく。もしも、あなたたちが押され、敗走して、地球軍を火星に上陸させるのを許す事態になったら、私はマーズポート市に体を送るなり、それなりの処置をして、全力を尽くす覚悟だ。私の体のことは、サラーフに任せておく。だから、心配するな。そして、サラーフが言った通り、私の義父のサイイド・ハサン=アブダラと義弟のサイイド・アブマリクに会う機会を得るかもしれない。そのときは、どうか、私やサラーフのことを伝えてくれ。

 最後に一言。――今まで書いてきたことと関係はないかもしれんが、――『自分自身を信じろ。』それでは、また。ロータス、さようなら。C・W・H」


 二人並んで椅子に座って眠りこけていた文華と海麟は、ほぼ同時に覚醒し、イクが被せていた毛布を外して、ゆっくり伸びなどしている。海麟は、先に立ちあがった。それから、文華に念押しするような視線を送る。残る仕事に片をつけるため、イクと文華を残し、廊下へ出て行った。

 文華は、まだ椅子にもたれかかったまま、頭だけイクに向けて、

「イク。やるべきことは、やった。」

と言った。彼女は、文華のことをこうやって近くで見ていられることが嬉しくて、言葉に詰まった。頬を零れ落ちる涙を拭わなければならなかった。

「イク。私のそばにいておくれ。」

彼女はこくりこくりとうなずき返しながら、顔をタオルにうずめていた。

 文華は言う。

「戦争が終わったら、静かに暮らそうか。」

「ええ……」

とイクは涙をふきながら答えた。

 文華はにこりと笑っていた。まるで夢のよう、と思い、彼も心の底からの喜びをかみしめていた。イクはなおも文華を見つめていた。

 突如、彼はぎゅっと目をつむった。

「ああ!」

文華はいきなりうめいた。

「文華?」

イクはとっさに反応できなかった。文華は苦痛に顔をゆがめつつ、胸を押さえた。他の手で何かをまさぐった。小さな容器だった。錠剤を一つ取り出し、震える手でそれを口に、入れようとした。ようやく、事態を悟ったイクは、彼の腕に手を添え、飲むのをうながした。

(はやく、効いて! 死なないで!)

イクの手は汗でぬらぬらして、彼の腕を思わず放しそうになった。彼の額にも、どっと汗が噴き出し、顔は蒼白になった。文華は、幾度か、浅く呼吸をした。

「文華!」

彼の拳は何回か空気だけを掴んだが、イクの腕を最後に握った。その強い力に、イクはヒヤッとした。

 しばらくそのままの姿勢でいたが、次第に、文華は落ち着きを取り戻していった。顔にも赤みが戻ってきた。

「海麟を呼んでくれ。ベッドへ……」

かすれた声で言った。彼は目をつむったままだった。そっとイクの腕を放し、やや顔を上げた。「だが、イク、言うな。今のこと。ただ、疲れたのだと言え。」

二人の目は合った。イクはびくんとした。おずおずと、

「わかりました……」

と答えた。まだ目が離せなかった。文華が目をそらしたので、ようやくイクはドアへ視線をやって、車椅子の向きも変え、そろりと廊下に出て行った。

「海麟さん。」

と呼び、「どうか文華さんを、ベッドへ運んでやってください。疲れて……動けないそうです。」

と告げた。

「はい。」

と海麟は言ったが、主寝室に戻って、文華の眠っている様子を見て、「ハン・イクさん、何か変わったことはありませんでしたか?」

と心配そうに、言った。

「いいえ。」

「そうですか……いつもより顔色が悪いように見えますけど。」

そのように海麟は言った。

 イクは内心あせった。勘づかれているのだ。

(海麟さん、あなただけは、駄目。文華の仕事を、代行しているあなただけは。仕事に支障が出てはいけないから。恐らく、文華は、そう言いたかったと思う。戦争が終わるまでは、最低限、文華が今の地位にいないと、大変なことになる。だから、勘弁して……。)

「顔色が悪いのは、当然でしょう。力を出しきったのですから。」

海麟は、文華から、今度はイクの顔をのぞきこんだ。

「たぶん、体力も、気力も。」

とイクは、文華の顔を見ながら、つぶやいた。

海麟は押し黙ったままである。

「海麟さん。」

「はい。」

「私たち……戦争が終わるまで、文華さんを支えていくしか、ないと思います。それが一番、この星のためになるのでしょうから……」

イクの声が震えた。

「ハン・イクさん。だから、周長官が発作を起こしたことを、この私にさえも、隠しておくのですか?」

海麟は鋭く突いた。隠し通せると思っているのですか? と、その目は強く言っていた。イクはたじろいだ。

「文華さんが、言わないようにって……」

目を伏せた。

海麟が稲妻に撃たれたかのように、目を見開いた。

「周長官が?」

体から力が抜けていった。

「……サラーフに話しましょう。」

イクには、そう言うのが精一杯だった。


 次の朝、文華の顔色は良かった。彼は、皆を呼んだ。

「今日中なら、地球に通信できるかもしれない。」

突拍子もない文華の言動に一番振り回されているのは……。イクとサラーフはおずおずと海麟の様子をうかがってみた。

文華は椅子に腰掛け、

「やれるか、海麟?」

案の上、気を遣った。

「挑戦してみます。」

海麟は堂々たる態度だ。これなら心配いらない。

「以前作った、マニュアル通りだ。それと、サラーフ。」

文華はサラーフを見た。そら来た、とサラーフは思った。「おまえが義父上と話すのだ。」

「――はい。」

覚悟していたことだ。しかしいささか緊張してきた。最後に文華はハン・イクを見た。

「海麟が駄目だったら、きみに、地火友好学院火星本校に連絡を取ってもらいたい。」

「わかりました。」

イクはうなずいた。

「だが、学院の通信手段は旧型だから、心もとないんだ。」

と文華は臆することなく言う。イクはにやりとした。やっぱりそう言うと思ったわ。文華の真意はつかんでいる。海麟に遠慮して――。

 文華はサラーフと共に、主寝室へ戻った。

 海麟と、ハン・イクは文華の書斎へ向かった。

「何か、私にも手伝えることがあったら、是非やらせて下さい。」

と、イクは海麟に頭を下げた。

「心強いです。ありがとうございます。」

と、海麟もイクにならって、頭を下げた。長官補佐の、前任者と後任者が、ここではじめて肩を並べる。二人の間には、心地よい緊張が張りつめる。

 文華がかねてから温めていた地球と火星との交信方法は次の通りである。彼は、最短距離で地球と火星を結ぶ経路も、もちろん準備していた。地火友好学院の使う経路と同一である。その他にも、小惑星帯や月、静止衛星、星間衛星などを経由する経路も、用意していた。コンピューターが、月や衛星の自転・公転周期なども考慮に入れて、計算できる分だけ様々な組み合わせで実行できるようにしていた。

 サラーフの祖父、ハサン=アブダラの所有するコンピューターシステムに入るためには、文華がお家芸とするハッキング技術が必要だ。今回は、代わりに海麟にさせる予定である。

 地球と火星の間には、電磁波、つまり光速で情報をやり取りしても、多少の時間差(約五分半)が生じる問題点がある。

 文華は主寝室で、その点についてサラーフに説明した。

「私が地球から火星のコンピューターに侵入した時は、その時間差を考えて、もう一つ画面を用意して、約五分半前にしていたことを表示したものだ。今回は、そこまでする必要はない。だが、一気に、ある分量の話をした方が良いだろうな。」

 サラーフはその話を聞きつつ、文華の脈を測って、カルテに記入していたりする。彼女にとっては、文華が前日に発作を起こしたことが、深く深く心に突き刺さっていた。

(はやく長官職を辞めてもらいたい。でも、このままでは、地球に帰れない。)

「サラーフ」

文華が声をかけて、彼女の思考をとぎれさせた。「この紙に書いてあるようなことを話せ。修正したいところがあるなら、今のうちに、私に話してくれ。」


 サラーフの祖父、ハサン=アブダラの元に、一本のテレビ電話がかかってきたのは、標準時二一時四八分のことだった。

 その電話を取った秘書が、怪訝な顔になった。

「妙な電話なんです。相手の姿もちゃんと映っているのに、返答がないんです。」

 ハサンは机を叩いた。

「それは火星か小惑星帯からの電話だ!」

手がジーンとしびれてしまった。眼鏡を鼻の上に強く押しあてる。

「わしに見せてみい。」

彼は白い立派なひげに覆われた口元をもぐもぐさせて言った。途端、彼の目は、大きく見開かれ、こげ茶色のターバンにくるまれた明晰な頭脳は、高速で回転し始めた。

「火星とか、小惑星帯とかいうのは、近頃開戦の準備をしていたとか言っておりますけど」

と秘書は話した。

「その通りだ。」

やや背が低めであるハサンは、秘書を見上げつつ、言った。少し出っ張った腹のベルトを上にずらし、直しながらも。「でもわしには火星の知り合いがおる。」

「ハサン様を裏切って、火星に住み着いたチョウ・ウェン=ホヮ(周文華)などという元娘婿までいる!」

と秘書は頭に血を上らせた。

「まあ、まあ、落ち着いた、落ち着いた。さて、これは火星からの直送便だ。しかも、セキュリティは超一流だ。わしの電話へつなげ。」

「はい、わかりましたよ」

と秘書はブツブツ言いながら、転送の操作をする。

ハサンは受信画面を見た瞬間、のけぞりそうになった。

「サ、サ、サラーフ!」

そして画面に飛びついた。「わしの名は誰か? お前の出身校はどこか? お前の父親はどこにいる? 答えてみい!」

ハサンはそのまま五分半待った。

「ハサンおじいさま、お久しぶりです。孫娘のサラーフです。今、火星におります。では、あなたからの質問に答えましょう。――あなたは、サイイド・ハサン=アブダラ。あたしは、地火友好学院・東京校・医学部医学科の出身です。父は、火星におります。」

 ハサンは画面にかじりついた。

「おお、そうか、そうか! テストは完璧だ。お前は本物のサラーフだ。火星に無事着いたか! そして、その後、そち、実の父親に会ったのか?」

 五分半後に返事が来た。

「会いました。ここで、言います! 父は、火星オアシス市の長官、そして同盟書記です! そして、こちらは、父の家の客間です。」

ハサンはしばし目を白黒させた。

「オアシス市長官だと? 本当か? ……本当なのか? そのテレビ電話の通信体制を作れるのは、周文華しかいないと思ったが――なぜ、彼はそこにいないのか?」

 五分半後。

「そうです。本当です。指示を出したのは父です。でも、この電話には出られません。あたしは、医者です。あたしが止めたのです。父はこの電話に出たいと申しておりました。けれど、身体に負担がかかりすぎるのです。」

「彼は、体調が、すぐれないのか?」

 返答。

「今は小康状態です。父から伝言があります。この男の写真をスキャンして下さい。」

とロータスの写真を画面にかざした。

「ロータス・ユイ。総裁の息子ですが、実は、あたしの父の養子でした。ロータスは、今度の出兵に、総裁の命で無理矢理参加させられています。どうか、地球軍に手引きをしてやって下さい。お願いします。」

「実際の状況によって、手引きするかどうかは決めることだ。だが、ロータス・ユイ、か。――覚えておく。わしから、周文華へ大した伝言はない。彼が長官に昇りつめたことくらい、うすうす気づいていたさ。病気だというのは、同情しよう。拒否権を出して、長官を引退して、はやく地球に帰ってこないか。ここで自然の空気をたっぷり吸って、療養しないか。そう伝えてくれ!」

 ハサンは、サラーフの座っている部屋をじっくりと見渡した。白い壁の部屋だが、よく見ると漆喰で塗り固められている。木の梁なども視界に入っている。テレビ電話の置かれている机もまた、木でできている。ずいぶん明るい光が差し込んでいるが、火星のドームの中では、地球に比べて弱い太陽光を補うために、人工照明なども設置されているのだろう。ドーム自体が光を放っているとも聞いたことがあった。さらに、家の調度品に使われている木材は、火星ではかなり希少なものだろう。それにしても、静かな部屋だ。サラーフはきっと、部屋の窓を閉めているに違いない。

「あたしも同感です。父には、もう辞めてもらいたいのですけど……」

と、サラーフは言った。見る間に、彼女は泣き顔になった。

「でも、許してあげて……! 父は火星で、この戦争を止めるために、ベストを尽くしたわ。拒否権は出さず、代わりに全市民投票を発議して、民主的手段で、戦争を止めようとしたわ。でも、一部の賛成者たちを止めることはできなかった。許してあげて……! 戦争はやめて……! 何で、父が地球の敵にならなくてはいけないの……?」

「本当は、わしも、彼と会って、話がしたかった。けれど、お前がストップしなくても、わしは、会うことはできない、と思った。火星内でもひどく騒がれたあの記事の概要なら、地球軍の上層部も、わしも、手に入れておる。わしは、周文華に、

『地球軍のスパイ』

だという嫌疑をかけさせたくはない。だから、彼に会わないのがいいと考えたのだ。このくらいにしよう、サラーフ。最後に、ひとつ尋ねる。彼の病は、篤いのか?」

 サラーフは、通信の待機時間の最中に、やはりハサンの部屋を眺めていた。かつての執務室。幼い頃の彼女は、入ることは許されなかった。けれども、母アーイシャのアルバムが収められていたのは、この部屋の本棚だった。父・文華も載っていた写真類は、アルバムから抜き取られ、別途、他のところへ移し替えられて、鍵のかかる棚の中に入れられていた。しかし、祖父ハサンは、サラーフの誕生日がめぐってくるたびに、必ず、そのときだけ、鍵を解いて、彼女に父・文華も写った写真を見せてくれた。祖父は何食わぬ顔というか、どこか物悲しげな様子を見せた。だが時折過去を懐かしんで、彼女にやさしく説明してくれたものだ。

「その最後の質問の、父の病気については、うまく答えられません。父を取り巻く状況次第で、刻々と変化するからです。――あたしからは、以上です。おじいさま、ではさようなら。」

「さようなら、サラーフ。」

こうして通信は途絶えた。ハサンは急いで先程の秘書を呼び、もう一人、技術者も呼び、

「録画はできたか? 今の電話が使用したルートは解析できたか?」

と慌ただしく叫んだ。二人の部下はひっきりなしにパソコンを叩いていたが、しばらくして、一方は、

「録画は大丈夫です!」

と言い、他方は、

「それが……」

と呟いて、言葉を切ってしまった。

「どうしたのか?」

「追えません。まるで霧の中に入ってしまったかのようで……。分析が途中で停止してしまうのです。ですが、わかることは一つ。相手は、一秒間に何千回も経路を変えて、私たちのコンピューターネットワークに入ってきたようなのです。そちらに解析結果を転送してみますね。」

ハサンもパソコンの画面に身を乗り出した。

「そのようだな……。恐らく、電磁波を、小惑星帯のところで、無数のパターンで屈折を繰り返させたのだろう。だが、ピンポイントな位置までは分からない……。こんな大がかりな作業は、向こうの『オアシス長官』にしかできない……。いや、この見事な忍術は、やはり、『彼』のものだ。――周文華に違いないのだ。」

 ハサンは、部屋から、ふらっと外の回廊へ出て行った。真っ青な水面が目に入る。中庭には、大池があるのだ。

ハサンは、大池を右手にして少し歩いてから、暗く長い廊下へ進んでいった。

 玄関の扉の前まで来て、少し後ろを振り返った。扉の金具は冷たく、開けると、キーンと澄んだ音を響かせた。

 (静かな夜だ……。戦が近いというのに。この建物に、彼が足を踏み入れた日は、二十五年以上前になるだろう。彼と、アーイシャとわしとで共に、アーシェのスープを囲んだ。あの夜と同じくらい静かで、同じくらい、星が綺麗だ。火星では、ここまでの星空は望めないだろう。ドームに覆われて、霞がかってしまっているから。)

 そこは、砂漠も近くて、通りまでひっそりと静まり返っていた。

 ハサンは、自邸の玄関先に立ち尽くしたままだった。彼の目には熱いものが溜まっていた。それを拭うこともせず、流れるままに任せた。

 文華本人に向かって、言いたかった。けれども、会えない。

「周文華! 君は……!」

君の目には何が映っているのか。

「わしを、見ているか!見ているならば……!」

聴いてもくれ。

「わしは、君に、かなわない。世の中を把握するのにおいて、わしはあらゆる手段を使ってきた。その中で、わしは、君を見初めた。アーイシャだって、君に恋した。」

「わしは、ずっと思ってきたが、……君は、未来をも見据えるのだろう!」

かつては、君の力を欲した。だが……。

「君はわしのものではない。わしに縛られて欲しくはない。いや、どうか、……どうか、君よ! 誰にも縛られないでくれ!」


よい義父…! ほっこり

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