1地球から
今日も正門から大学内に入るのは無理だろう、連日のように反対の横断幕を掲げた群衆が敷地を取り囲んで騒ぎ立てている。
その声をはっきりと聞き分けるのは難しい。大体何を叫んでいるかはわかる。
「火星とは断交せよ!」
「地球から出てけ!」
とかそんなものだ。
二人の女学生が群衆のわきをそっと静かに通り抜ける。二人とも黒髪を背中まで伸ばしていたが、一人は東洋人にしては、彫りが深い顔立ちをしていた。
「こっちよ」
サラーフの手を、澪が引っぱる。澪は、秘密の通路を知っている。
民家の塀と塀の間、用水路に沿って横向きで歩き、低い生垣をかき分けて進む。まるで猫になった気分だ。そう、この道はよく猫が溜まっている。
「三毛ちゃん、あっち行ってね」
声をかけないと踏んでしまう。狭い空き地を堂々と横切り、フェンスによじ登る。スカートでも履いていたら、到底このフェンスは越えられない。
そして、下に降りれば大学に到着だ。
上着はいつも擦り切れてしまっていた。ここまでくれば群衆の声は遠い。
「大学の名前を聞いて」
澪は、サラーフの合槌を待って、言葉をつぐ。
「高校の担任も、先輩たちも皆、目を丸くした。
『お前そんな大学に行くのか?』と、詰め寄ってきた。
『聞いたぞ、その学校は、地球政府と火星政府が、かつて共同出資して設立したそうだが、今や、惑星間は戦争し合い、学内の風紀も頽廃的になってきているそうじゃないか』って。……そうね。世間の見方はたいていそんなものだわ。でも、私たちのように、奨学金目当てで入学したひとも大勢いる。医学部があって、奨学金も出るところなんて、他にどこがあるっていうの? 私は、医師の資格が必要なだけなの」
そして澪は、吐きすてるように言った。
「地火友好の理念だなんて、私には何の関係がないわ」
そうかもしれない、と、サラーフはうなずいた。
火星政府と地球政府とは、さかのぼること二十年前に、直接戦火を交えていた。以来、国交は断絶していた。もはや友好学院にとって、また学院生にとっても、地球と火星との関係を修復することは、夢のまた夢にしか過ぎないのかもしれない。……
大学に入ってから、すでに三年を過ごしてきた。
父にゆかりがあると聞いて、彼女はこの大学を選んだ。義父、母との不仲のため祖父にしか援助を頼めない身とあっては、給付制の奨学金も、ありがたかった。
医師になりたい、と強く感じたきっかけは、テレビのドキュメンタリー番組の影響も強いのかもしれない。戦場の医師の姿に、胸を打たれた。あたしもあのようになりたい、と思った。
なぜだか、あたしには死んで悲しむ両親もいなくて、たいして結婚願望とか、この世への、生への執着が弱くて、他人のために命をささげる、そんな生き方にあこがれた。
◆
彼女は高校生の時、祖父の一言がきっかけで今の大学を選んだ。その時の情景がありありと脳裏によみがえる。
「お前の父さんが行っていた大学に、一度行ってみないか?」
サラーフは、恰幅がよく背の高い祖父を見上げた。
「ハサンおじいさま、父の話とは、珍しいですね」
祖父は驚いたように、眉を上げる。
「そうか? 珍しいか」
サラーフがうなづくと、祖父もうなづき返した。
「そうだな。お前の母が、従兄と再婚してから周の話は控えていたな」
祖父は、落ち着かない様子で、眼鏡を持ちあげ、しきりに額の汗を拭く。
サラーフにとって祖父の言葉は事実の確認にすぎず、父への親愛の情などもはや感じられない。
父のことを淡々と述べる祖父の口ぶりに、娘として、さみしさを覚えざるを得なかった。
部屋の向かい側の棚に、サラーフが昔遊んだ小象のぬいぐるみが置いてある。その隣に、写真がいくつも並べられている。母や義父と撮ったもの、祖父を含め旅行先で撮ったもの。そこに、父の姿はない。
祖父も、物心ついてからは彼女に父の載った写真を見せたことがない。サラーフは、もう父の顔を思い出せない。
「お前の父は、東京の、地火友好学院と言うところに通っていたんだ」
「地火友好学院?」
聞いたことのない名前である。
「実は、古くからある大学の一つで、昔は別の名前で呼ばれていた。それが、百二十年前に地球政府、火星政府の両方の出資で、名称を変えた。それから地火友好学院と言われるようになったそうだ。」
「そういう大学が、あるんですか?」
「伝統もあるし、卒業生に有名人もいる。だが、ちと建学の精神が時代に逆行しつつある。今は、地球と火星のあいだに紛争が起きていたりするからな。それでも、惑星国家間の平和や友好をうたう学院の精神は残っている」
眼鏡の向こうの祖父の表情は、なかなか読み取れない。
「一度見てもらって、お前に考える余地を与えておきたい。だがわしは、お前にぜひその大学の正規の学生になってほしいのだ。そして、ぜひとも、お前の父のことを、――周文華がどこに消えてしまったのかを――調べてきてほしい」
サラーフは戸惑いを隠せない。
「い、いきなり言われても」
祖父の顔をのぞき見たが、祖父も、サラーフと同じように不安げな表情を見せた。
「そうだろう、わしもお前に同感だ。はっきりと言えないが、お前の父の、死の真相を詳しく知る必要性がでてきた。あれからもうすぐ、十七年近く経つ。あのとき小惑星帯で何が起きたのかを、お前なら、解明することができる。その有力な情報源は、在籍者しか、アクセスできない。お願いだ、考えてみてくれ」
「あたしが、高校生だから? まだおじいさまに進路の話もしたことがないから?」
「そういうことだ。わかっておる。お前だって、自分の人生を考えていることくらい。だがうすうす気づいておるぞ。お前が父のことを探したいと思っておること、そしてわしたちから遠く離れた所に行こうとしていることを」
◆
そうやって、強引な祖父の勧めに半ば屈したこともあり、入学した。
だが三年間、どこをあたっても父の情報を見出だすことができなかった。徒労にすぎないのか、とあきらめかけて、地火友好学院に来た意味を見出せなくなっていた。
そんな中で、火星からの留学生支援の件は、乾ききった日常に、新たな味を加えてくれそうな気がした。
ベッドの下に、見知らぬ女性が眠っている。ちぢれた茶色い髪の毛、利発そうな眼もと。サラーフは下を見やって、目をこすった。新しいルームメイトが来た。
昨日この女性は大きなバッグをころころと転がして、寮までやってきた。
「ここが地火友好学院の寮ね」
その目はいかにも古い建物だと言わんばかりだった。が、彼女は迎えに出たサラーフにいきなりバッグを預けて言った。
「ごめんね。ここの重力に慣れてないから、背中が痛いのよ」
荷物を持たされたサラーフは、目を丸くした。
「もしかして、あなた、留学生の……?」
「そう、私は尚美・バーンズ。火星からの留学生よ」
遠く離れた火星からの留学生が、サラーフのもとに現れた。目に強い光を宿していながらも、どこか雲のようなところがある頼りげないサラーフを、尚美という一陣の風は、簡単に吹き飛ばしてしまいそうだった。
尚美の来訪は、前もって全校生徒に周知されていた。
二十年ぶりの火星からの留学生のうわさで、学校中がもちきりだった。尚美の案内ボランティアとして、大勢の生徒が名乗りを上げた。
澪もサラーフを誘い、登録しに行った。くじ引きで、サラーフが的を射止めた。
そこから、彼女の人生は思わぬところへ、向かうのである。
「のっぽなお嬢さん、お名前は?」
「あたしは、サラーフ・S・周」
「え? あなたが……」
尚美が内心がっかりしたことは、鈍感なサラーフにも分かった。
それでも、サラーフの新たなルームメイトとして、食事にも、何度も誘った。何度も話をして、初めてわかる新たな一面をサラーフは持っていた。
サラーフはドジも多かったが、ミステリアスな雰囲気も持つ女性だった。だから尚美は意外と飽きもせず、彼女に接していられた。
尚美は、黒目がちの目を大きく見開いて、あたかも口癖のように、しきりに言うのだ。
「これは何? えっ火星と違うのね!」
重力の違いから来る建築物の違い、階段の一段一段の、大きさと数に目を留める。校内の機器、パソコンや印刷機の型や電圧が全く異なると、彼女はこぼす。
サラーフは丁寧に、ひとつひとつ使い方を教えていった。サラーフにとって、尚美は、未知の世界への扉だった。
のちに、本当に火星の地を踏むことになろうとは、まだ想像もつかない。
尚美は、地球の新しい環境はすぐ馴染んだ。
地球で好意的に受け入れられていることは、とても嬉しかった。しかしその自由は、期限つきの自由だった。
束の間ここに仮の宿を求めても、また引き離され、住みたくもない星に、戻されてしまうのである。
尚美は生まれた火星があまり好きではなかった。地球が、好きだった。いつまでもいたかった。火星に向け公文をしたため、送付する役割があった。
パソコンの前で、長いまつげを伏せ、尚美の目は、たしかにうるんでいった。
尚美が嗚咽をこらえて泣く姿を、サラーフは幾度となく目にした。ホームシックとは少し訳が違う、とかすかに気づきはじめていた。
火星とはどんな世界なのか。
火星のことを時たまはぐらかし、はにかんでしまうような友人の向こうに、途方もない世界を感じていた。
ある日尚美はふと、半田郁、という人の話を持ち出した。サラーフには聞き覚えのない名前であった。
「彼女は、火星で、私に地球の話をしてくれた人よ」
さも懐かしそうに、思い出している。
「二十年前の、留学生だった人?」
「ええ、そう聞いているけど……?」
微笑みながら、サラーフの顔を見て、どうしたの? ときいてくる。どぎまぎしつつも、サラーフは、こう言っていた。
「いちおう卒業生名簿を見てみない?」
我ながら、落ち着かない気分だった。人に言ってこなかった秘密を、もうすぐ打ち明けるのだ。
「あたしね、卒業生名簿を開くのが、趣味のようになっているの。趣味というか……義務なのかな。いまは学校の誰よりも詳しくて。それでも、どうしても見つからない人っているものなのね……」
見つからない人とは、父であった。
父の消息を、つかみたいとは望むものの、結局、父のことはわからずじまいなのかな、と諦観するようにもなっていた。
尚美は、サラーフの心中を察してか、素知らぬふりなのか、一言だけ告げた。
「彼女は、第七九期よ」
学校図書館の地下書庫に向かうためには、厳重なセキュリティーチェックをくぐりぬけていく。ほとんど所持品の携帯が許されない。
火気も、水気も寄せつけない。
奇妙に静まり返った、広大な地下空間は、迷路のようでもあった。
棚から分厚い本を取り上げ、机の上に広げた。サラーフは、火照った顔のまま、読み上げた。
「東京校・教養学部、半田郁……美しい人ね」
ため息がついて出た。
「あら、昔も、こんなに綺麗だったのね」
尚美は額の汗をぬぐった。横目で、サラーフを見た。
サラーフは、半田郁の写真を見てなどいなかった。
父の姿を見つけたのだ。震える指先で、ちょうど半田郁の一つ上を指していた。
そこには、つるりとした肌の、朗らかな、童顔の男性が写っていた。
「周文華」と名が載っていた。
消息の途絶えた父。既に、死んでいるものと思っている。
呆然としたまま、ただ父の写真を指差し、サラーフは動けないでいる。
「サラやん、その人は……」
尚美はまごついていた。自分でも、何を口走っているのか、わかってはいなかった。
「この、写真の男の人に間違いないわ。驚いたことに、偽名ではなく、周文華という名前をそのままに、かたっている。――私は火星で、彼に会ったことがあるの」
サラーフは口をつぐんだままだった。いや、恐らく何も聞こえてはいまい。
死んだと聞かされていた父が、生きている。それも、火星にいる。父は、二十年前の戦争で、地球のために戦って、死んだと聞いていたのに。
尚美はまだ慌てふためいているようで、サラーフの顔を見て、またしゃべり始めた。
「彼は地球出身だということを隠しているわ。それでも、地球との友好の精神を捨てたわけではない。ローラン・ユイ総裁の威光すら恐れない、勇敢な人だわ――」
尚美は、サラーフに、父のことを伝えた。
「ごめんなさい。あなたに打ち明けるわ。あなたが彼の娘だということを知っていて、私はここにきて、パートナーに選ばせてもらったの。半田郁さんに頼まれたからよ。地球であなたを探し出し、あなたの事を調べる使命を帯びていた。そして、本当のことを伝えてほしいと言われたわ……」
サラーフは表情を変えず、信じるつもりなど毛頭ないまま、聞いていた。尚美の目にも、不安の色があった。
「私は、あなたより多くのことを知っているわ。でも、私の知識が、どれほど歪められていないのかは、自信がないの。あなたなら、恐らく実の娘だから、この学校に収められている資料に、アクセスできるはずだわ」
尚美はサラーフに目を戻した。なぜだか、彼女の瞳は濡れていた。
当時、父は火星内での権力争いにくみしていた。何も知らないサラーフに、いきなり真実を告げることに、尚美は、責任を持ちきれなかったのではないか。
父との記憶は僅かなものだった。私は父に抱き上げられ、なにか生き物の大きな背中に乗せてもらった、それが最初の記憶。
眠れない夜に、何かの物語を話して聞かせてくれた、もうひとつの記憶。
そしてある日突然いなくなった父を思って泣きじゃくっていた私を、祖父がなだめて遊んでくれた。たったそれだけの記憶しかない。
大学に入学する前、私はしまわれている父の写真、家族皆で写った記念写真を眺めた。記憶とは違って細身の、照れたような顔をしている父の姿があった。
私は寮に戻って、自分の棚を引きあけて、家から持ってきた写真を探した。
尚美は何と言った? 記憶にある父からは予想もつかない、別人のような父の姿を描写した。勇敢な人だ、と言った。
――嘘。嘘よ嘘。
私の父はそんな人ではなかった。やさしくて、どこか軟弱なところがあった、と祖父は言っていた。人に流されてしまうようなところがあった。私みたいに時々、ぼうっとしていた、そう言っていたはず。
だが父がいなくなってしまってから二十年がたつ。決して仕事には妥協しなかった、天才的なひらめきをした、とも言われた父が、今も火星にいて生きているのなら。
父の資料を見よう、と決心するまでは早かった。
サラーフは、一時間以上にわたる映像資料を見た。
その中で、彼女は何を見たのだろう? 何を感じ取ったのだろう?
血のつながる父の、異郷での足跡を目にし、父が踏みだした新しい生活を見た。
資料の最後は、次のように締めくくられていた。
※この記録を作ることになった際、私はどこにも名を明らかにするものを示さない方がよいと考えた。しかし、本人の呼称がないと、この文章に登場するいくつかの場面で戸惑うものがいるに違いない。また本人の希望によって、実名を伏せることはあえてしなかった。
※周文華氏に関しての記録は、地球と火星において、これ以外にはありえないと考えてよろしい。火星に降り立った後すぐに、彼の地球における全記録は、火星側の意図によりすべて焼却処分となってしまったからだ。だが彼の頭を空っぽにすることは誰にもできなかった。だから私はこの記録を書くことができる。昔話の、地中に真実を埋め込もうとした愚かな男のように、私もこれをいち早く書き終えてしまって、封をしたい。
※周文華氏には地球に妻と一児があった。願わくは、この二名にこの記録が読まれんことを。
◆
教室から出てくる学生の列が途切れるころ、サラーフが、
「心ここにあらず」
といった感じで現れた。
やむを得ないだろう。死んだはずの父の資料を目の当たりにしたのだ。
その資料から受けた衝撃は大きかった。
父は火星で存命しており、地球出身の事実を隠し、そうとう高い地位まで上り詰めた。
サラーフの「生きていて」と願う夢が現実のものとなった。会おうと思えば、いつだって会えるかもしれない。手を伸ばせば、すぐ火星に届くかもしれない。
夢は果てしなく広がっていく。
しかし、「国交断絶」という辛い現実に、打ちのめされてしまう。
「尚美……、わかってるわ。会いにゆくことは、簡単に叶えられそうにない。あたしをこの星に縛り付けるものは、制度だけしかないけれど……父が、果たして会ってくれるか……」
「あなたはどうなの? はっきり言ってちょうだいな。私が火星に定時連絡する際、あなたのことで、ハン・イクさん……ああ、半田郁のことね、彼女に、そして機会があれば、彼女を通じてあなたのお父さんに、働きかけることくらいできると思うわ」
尚美はサラーフの顔を覗きみた。
「どうか、そうしてほしい」
サラーフは短く返答した。
◆
長すぎると思えるほどの時間をかけて、ようやく半田郁との交渉が実った。
父への訪問が、現実のものとなってくる。もうすぐ、会える。父はあまり時間を取れないかもしれない、でも、ひと目でもいいから、と思う。
半田郁は、尚美と親しいようだ。事務的な文面の向こうに、郁の人柄を夢想した。距離は適度に保っていたが、彼女は包容力のある人で、少なからず、母性愛を感じさせた。
暗記するほど見た父の資料から推測もした。郁は、父が火星に住まうようになってから唯一、心を許した女性だ。父に、そういう存在があっても、いやとは思わなかった。
郁は、火星で通称をかたっていた。
ハン・イクといった。
しばらくするうちに、輸送船を利用して、彼女から小包が届けられた。検閲を逃れられるだけの度胸と実力が、ハン・イクには備わっているようだった。
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親愛なるサラーフ
火星での身元引受人の件に関しては、御存知の通り、ナオミでは不適格だったため、僭越ながら面識がないわたくしが引き受けさせて頂きました。また、こちらに火星オアシス市民票を同封致しました。どうかお役立て下さい。マーズポート市にお越しの折は、ぜひともわたくしの事務所にお寄り下さい。
では、お体に気をつけて。よい旅を。
ハン・イク
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小包から取り出した手紙を、大切に胸にしまった。サラーフは湧き上がる感動に浸る。
「夢が現実になる。父のいる星に行く」
彼女はつぶやいた。
「でも、期待してはいけない。現実を見て、失望するかもしれないから」
荷物をまとめ、先に送った。祖父にはテレビ電話に一言、録音を入れておいた。
「火星にいる、父のもとに行ってきます。父は生きています。私は父に会いに行きます。おじいさま、ごめんなさい、いつ帰れるかわかりません……」
通話を切る。彼女は電話機の前で、泣き崩れる。祖父を思って。そして、父を想って。
次回、火星に到着します。