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クロエ -Crowsed Box-

作者: THE★プリン

――――明確なビジョンも終着点も往く宛てもなく夜を彷徨するのは愚か者と俺だけでいい。そもそもこの旅の道連れなんか最初から何もなかったはずだろう?――いや、「何もない」があるとどこかの偉い人が言っていた気もするが。生憎ながら、この場合の「何もない」は本当に単なる無だ。無そのものだ。切り裂いたはずの風も、慄いたはずの宿敵も、きっと。あるように見える全てのものは、創造ではなく想像に過ぎない。

……まかり間違えば偶像かもしれないな。崇めるべき神はいつだって俺の外に位置している。箱の中にはいったい何が入っていたのだろう、今や、その断片すら拾い上げる事も叶わない。青だったのかもしれないし、赤だったのかもしれない。寧ろ、はじめから箱など無かったのかもしれない。何れにせよ、今の俺に知る由などない。

 なあ、俺。満足しているのか――それとも、後悔しているのか。

 掴めそうで届かなかった空に、もう一度挑むのか。

 それとも、地べたを這いずり回って、明日死ぬとも知れぬ道を選ぶのか。

 この翼が模造品じゃないのなら、何故全力を尽くs


「うるさい黙れ」


 夕陽の差し込む廃墟の街で、いつまでも続きそうな彼の繰り言は、鋭い声で制された。高く、幼さすら感じさせる声だ。それは何処か弱々しくさえある。普段の彼なら、声に従う道理など無い。けれど彼は、不服であるかのように短く鳴いて、語るのを止めた。そして緩慢な動作で首を巡らせ先程の声の主を見る。


 少女だ。十代前半ほどの、年端も行かぬ少女。着ている服は全体的に黒ずんで、髪にも僅か、脂が浮いている。恐らくは何日も風呂に入っていないのだろう。近寄れば僅かに鼻につく異臭。それが何よりの証拠となる。尤も彼にとって、そんなことはどうでも良かったのだが。ドブや生ゴミの臭いは寧ろ身近で馴染み深く、だから、それは少女を拒む理由にはならない。

 薄汚い路地の薄汚い地面に腰を下ろし、背後の薄汚い壁に背中を預けている薄汚い少女の表情には隠し切れない疲労と憔悴が浮かんでいて、けれど、彼を捉える眼光だけは酷く、鋭い。射抜くような視線に一ツ、肩を竦めるように翼を掲げると、彼は二、三歩地面を蹴って少女の元に歩み寄る。その際足元にある違和感は黙殺した。考えてもロクな事にならない。ただ憂鬱になるだけだ。そう判断しての事。けれども少女は彼の事など構わずに、違和感の元を鼻先に突き付けるのだ。


「……おまえはあたしが拾ったんだ。おまえの怪我も、あたしが治した。だから」


 彼は少女が、彼と出会ってから一歩も動いていない事を知っている。それどころか、何も口にしてはいないことも。

 この数日間、否、数週間か。

 彼女が摂取したものといえばそう、この場所の淀んだ空気と、降り注ぐ雨粒だけ。

 それだけだ。

 それだけで吹きさらしのこの場所に雨の日も風の日も、ただ、空を眺めているだけ。恐らくは、彼と出会う前もそうだったのだろう。その顔面に落ちてきたのが彼だった。近くの町で人間に石を投げられ、運悪くそれが翼に当たり怪我をして、折悪く町で大規模な害鳥狩りを始めると聞いて、急いで逃げて来て力尽きた、一羽の烏。

 初め、少女は彼を食べようとしたのだ。

煮もせず焼きもせず、生で、彼をその手で縊り殺して。

慌てて逃げようにも翼に力は入れられず、走って逃げようとした頃には、もう少女は彼を捕まえていた。

暴れ狂う彼の首に手が掛けられ……けれど、その手が首を折ることはなかった。躊躇ったわけでも、諦めたわけでも無い。ただ、少女のか細く、衰弱した腕では、それが叶わなかっただけのこと。それでも首を絞められれば呼吸は出来ない。薄れ行く意識の中、彼は藁にも縋る思いで助けてと呟き――――そして。


 そして、ふっ、と、少女の腕に篭る力が抜けた。怪訝に思った彼が荒い息を吐きながら少女の顔を見上げると、そこには目を丸くした少女の顔が、

「え」と小さく呟いて、


「……今、助けてって、言った?」


 それから。それからだ。彼が少女と共に過ごすようになったのは。さすがに言葉の通じる相手を食べるのは気が引けたのかそれとも他の理由があるのか、少女は彼を傷付けるようなことはしなかったが、けれど彼は、少女から逃げることを諦めなかった。

傷ついた翼を何度も何度もはためかせ、空へと逃げようとしたのだ。けれど、怪我の癒えていない羽では空など飛べるはずもなく、結局は、業を煮やした少女に繋がれてしまった。彼の足首と少女の手をつなぐ、糸。彼の手当てをした時と同じ、少女が自らの服を切り裂いて作った襤褸切れで作られた、長い糸だ。


「さむい」

『ざまぁないな』

「おまえのせいだ」


 こんなやり取りがあったのも、少し前のこと。

今はもう、少女にそんな体力は無くなってしまっている。

話したとしても二言三言、文章ではなく単語の纏まりとして話す程度だ。

衰弱しているのは分かっている。けれど彼女はその場から動かない。違う。動けないのだ。少女の両足は、膝から下が無かったのだから。生まれた時から、ではない。明らかに人為的な手段で、それは切り取られていた。鋸か何かで切り取った、ぎざぎざした断面を彼は一度だけ覗いたことがある。ひどい有様だった。も消毒もされていなかったせいなのか、傷口は化膿して異臭を放っている。止血は行っているのか、腿のあたりに巻きつけられた布は見えたが、それだけだ。すぐにでも病院に行かなければならないような傷なのに、医者にかかった痕跡はない。人の体の仕組みに疎い彼でも、その状態がどれだけ拙いものなのかは理解できた。

 けれど少女は動けない。這って行こうにも、腕の力だけでは到底進むことなど出来はしないし、その所為で傷口を擦ってしまえば、状態が悪化するかもしれない。食料も無く、ただ死を待つだけの状況。けれど少女は諦めず、だから、動けない自分の代わりに、翼を治した彼を使って助けを呼ぼうとしたのだ。


「だから、あんたはあたしを助けるんだ」


 それが今、この時だった。


 彼の、翼を振る動作に淀みは無い。どうやら凄ぶる快調のようだ。かつてあった怪我の痕跡など感じられぬ程に力強く広げられ、朝日を照り返す烏羽玉の翼は、頼もしささえ感じさせる。

 飛べる、と彼は思った。今なら、挑むことの出来ないでいた蒼穹に、その翼を突き立てる事が出来る。振り仰ぐ空は快晴。東の空から注ぐ光が、浮かぶ雲の陰影を濃く映し出している。


――旅立つ天気には、調度良いじゃないか。


 心中は曇天もかくやという程に、一片も光は差さないのだから、せめて目に見える天気くらいは良くなければ。


 足は、まだ、繋がったままで。彼の空に自由など、最早有りはしないのだから。せめて飛ぶ空くらいは、澄んでいる事を望むのだ。

 そして彼の足と繋がった糸の先、足の無い少女は、か細い糸を握り締め、繋がりをそこに確かめるようにして、こう言うのだ。


「いいか、よくきけ」


 まるで自分に言い聞かせるように強く、


「あたしはいつもあんたのそばにいる。いつでもあんたを見張ってる。だから、にげようなんて考えるな。かならずここに帰ってこい」

『……イエス、マスター。我があるじ』


――もしも、彼が人ならば。それは、どれほどの嘲りであっただろう。

 けれど彼は人ではなく、故にただ一ツ鳴き声だけを漏らすのみ。


 阿呆、と、ただ一ツ。まるで自分を嘲るように。


 それから彼は翼を大きく羽ばたかせると、羽根を散らして飛び去った。









 青い空に、黒が混ざる。




 飛び立った彼が最初に見たのは、荒れた大地と崩れた町の残骸だった。体積の半分以上を失った建築物が林立する町、その隙間に身を潜めるように体を小さくする少女の姿も見える。観察するように、或いは再び空に上がれた事を喜ぶように、彼はそのまま町の上空を旋回する。すると少女はぎらついた目で彼を見上げ、そして言うのだ。


…………「行け」、と。


 言われるまでもない、と翼を振って答え、彼は行く。方角は東、朝日に向かって、振り返らずに飛んだ。




 だから彼は、この時少女の頬に伝った物を…………知ることはない。


 決して。










そして、箱は閉ざされた。











 閉ざした嘴で風を切り、翼を羽ばたかせて空を飛ぶ。全身に感じる透明な空気に、彼は狂喜していた。長らく待ち望んだ空だ、そこに居られる事は、彼にとって何にも代え難い喜びなのだろう。視界を遮る物など何も無い、何処までも遠く広がる自由の空だ。

 しかし、足はまだ、繋がったままで。彼の空に自由など、最早有りはしない。そして彼の足と繋がった糸の先、足の無い少女は、か細い糸を握り締め、繋がりをそこに確かめるようにしてこう言うのだ。


『いいか、よくきけ』


 まるで自分に言い聞かせるように強く、


『あたしはいつもあんたのそばにいる。いつでもあんたを見張ってる。だから、にげようなんて考えるな。かならずここに帰ってこい』

「……イエス、マスター。我があるじ」


――もしも、彼が人ならば。それは、どれほどの渋面であっただろう。

 けれど彼は人ではなく、故にただ一ツ鳴き声だけを漏らすのみ。


 阿呆、と、ただ一ツ。まるで自分を嘲るように。


 それから彼は翼を大きく羽ばたかせると、羽根を散らして飛び去った。




 視界にはまだ、空しか無い。





――駄目か。


 彼はそう吐き捨てると、路傍に転がる浮浪者の頭を一際大きく突いた。鋭い痛みに浮浪者が跳び起きるが、その頃には彼はもう居ない。遥か遠くビルの上まで飛び去っていた。

 憤慨する浮浪者を見下ろし、駄目か、とまた彼が呟く。

 この町に来てから試した手段の悉くが失敗に終わっている。

 医者を頼りに病院に行っても不衛生だとつまみ出され、ならばと今度は彼の言葉を理解できる人間を探そうとしてこの様だ。少女に言葉が通じたことから、もしや自分は特別な烏ではないかと思いはしたのだが、なんてことはない、特別か、はたまた異常だったのは、彼ではなく少女の方だったのだ。ただ、それだけの事。だがただそれだけの事で、彼はもう、他人に少女の事を伝える術を失ってしまった。

 眼下では浮浪者が、こちらに背を向けるのが見えた。怪我を追わせた犯人を探すことを諦めたのだろう。額に宛てがった手の隙間から赤い雫を零しながら、憤懣やる瀬ない様子で去っていく。それを呆れたような目で見送りながら、彼は心中で溜息を吐いた。


――俺には後どれだけの手段と、時間が残されているのだろう。今や少女の安否は箱の中、俺は勿論の事、余人には預かり知る事の出来ない物になってしまった。


 ならば、と彼は考える。ならば、


――ならば最早、俺にすべき事は無いのではないだろうか。


 一瞬浮かんだその考えを、肯定してしまいそうになる。

 しかし、足はまだ、繋がったままで。彼の空に自由など、最早有りはしない。そして彼の足と繋がった糸の先、足の無い少女は、か細い糸を握り締め、繋がりをそこに確かめるようにしてこう言うのだ。


『いいか、よくきけ』


 まるで自分に言い聞かせるように強く、


『あたしはいつもあんたのそばにいる。いつでもあんたを見張ってる。だから、にげようなんて考えるな。かならずここに帰ってこい』

「……イエス、マスター。我があるじ」


――もしも、彼が人ならば。それは、どれほどの渋面であっただろう。

 けれど彼は人ではなく、故にただ一ツ鳴き声だけを漏らすのみ。


 阿呆、と、ただ一ツ。まるで自分を嘲るように。


 それから彼は翼を大きく羽ばたかせると、羽根を散らして飛び去った。







 途方に暮れて、不夜の街を飛ぶ。








 彼がこの街に来てから数日。未だ進展の無い状況に、彼は焦躁を感じ始めていた。いっその事諦めてしまおうか、と考えることも一度や二度は有った。しかし、それでも彼は、今日も少女のために不自由な空を飛び回っていた。

 そして空を飛べば、エネルギーは消費されるものだ。この数日間、殆ど食事をしていないのなら尚更の事。羽ばたく翼にも力がない。故に彼は食事を採ろうと考え、ビルの林立する街の中心を目指してふらつきながら飛んで行く。

 と、眼下に広がる住宅地の中の一軒に、大きな鳥籠が見えた。


――鳥を飼っているのか。


 調度良い、と彼は考えた。鳥を飼っているなら餌は有るだろうし、このような都市の住宅なら飼っているのは精々インコなどの小鳥だろう。であれば、それを食べて飢えを凌ぐことが出来る、と。

 高度を下げ、鳥籠の下がっている家のベランダに近付く。そうして始めて気付く鳥籠の異常な大きさ。正方形のそれは、小鳥を一羽飼うためには明らかに大きすぎた。しかし空腹と疲労で思考が鈍っていたのか、彼は特に警戒することも無くベランダに足を掛け、そして、それを見た。

 足だ。しかし彼のものとは違い、ただ枝に留まるためだけに使われる訳では無い……猛禽の爪。それが彼の元に向かい、そして鳥籠に阻まれて止まった。金属が揺れる音が、閑静な住宅街にけたたましく響き渡る。

 あまりの出来事に身動きも出来ないでいた彼に、驚いたような、或いは呆れたかのような声が掛けられる。ほう、と嘆息のように吐き出して、


「ほう、猫や泥棒の類では無かったか。済まないね、最近どうにも物騒なものでね。少々手荒ながらもお暇してもらおうとしたのだよ。……尤も、そんな必要は無かったみたいだがね」


 済まなかった、ともう一度だけ言うと、巨大な鳥籠に見合うだけの体躯をもった梟は翼を振るって鳥籠の中央に戻った。彼の物よりも幾分か力強い羽ばたきの音が耳朶を打つ。


「ふむ。ここで会ったのも何かの縁だ。きみさえよければ、少々、取るに足らない世間話にでも付き合っては貰えないかね?」


 一介の飼い梟たる私には出せる茶も無いのだがね、と、梟は言う。

穏やかな口調だ。人の良い老爺の、穏やかな笑みを想起させる。

 それは、他人に安堵を齎すものであっだだろう。しかし、心身ともに余裕の無い彼にとっては、逆に苛立たしいものでしかない。

 相手に焦りが無いことに、理不尽な怒りさえ覚えるのだ。苛立ち混じりに否と吐き捨て、彼は申し出を断ろうとした。が、それよりも早く梟が鳥籠の隅に何かを転がした。小振りな鼠だ。既に息は無く、それどころかヒトが手を加えたような跡すら有る。先程の事も有ってか中々手を出そうとしない彼に対し、梟は「警戒するのも無理は無いか」と鷹揚に頷く。


「とはいえ、客人に口を付けたものを出すのも忍びないのでね。黙って受け取ってはくれないか? 何、心配することは無い。それ自体は私の主人が市販されているものを購入してきた物だ。本当は知人に譲ろうと思っていたのだがね。まぁ、彼には申し訳ないが我慢してもらうとしよう」


 一片の嘘も感じられないその言葉に彼はようやく警戒を解くと、鳥籠に近付いて鼠を啄み始めた。久しく忘れていた肉の味に、何か、込み上げるものがある。脳髄にゆっくりと染み入るような、甘やかで切ないそれは――或いは、郷愁と呼べる物だったのかもしれない。実際の所その感情がどのような物なのか……彼には、知る由も無いのだが。


――主人、か。


 呟く彼の心中に僅か、疼くような痛みが走る。足に感じるのは襤褸切れの枷、今にも千切れ落ちてしまいそうな頼りない感触。



――想起する。



 繋がった糸の先で、今、少女は。

 何を思い、感じ、憂えているのだろう。


 それすら、既に少女と共に無い彼には知り得るものではない。認識から隔絶された少女は筐中の猫に等しい。全ての知覚が及ばない厳封された箱の中、不確かな少女の存在を、彼はただ、思うことしか出来ないでいる。



――少女を。



 噛み締める肉の味。似ても似つかない。遠い過去のような最近の事が、脳裏に過ぎる。

 食え、と少女は言った。何を、と彼は問う。不機嫌そうな顔で突き出したのはひどく膿んだ足の断面、僅かな腐敗臭が鼻につく。

 何故、と彼は問う。腹が減っただろう、と少女は言った。それとも腹が減らないのか、と加える彼女に否定を返し、彼は言う。自分の身体を喰わせるなんて頭がおかしいんじゃないのか、と。

 仕方ないだろう、と少女は言った。何が、と彼は問う。その言葉に、少女は周りを見渡す。釣られて彼も周囲に視線を巡らせるが、周りには瓦礫が有るばかりで何も無い。食料も、その代用もだ。だから、文字通り身を削って捻出する以外に無いのだ、と、少女は言う。

 阿呆か、と彼は問う。失礼な、と少女は言った。他に案が有るなら言ってみろ、とも。それに彼は閉口せざるを得なくなる。何を言おうが彼が飢えているのは確かだったし、他に食料が無いのも事実だったからだ。

 頼む、と少女は言った。本当に良いのか、と彼は問う。彼の言葉に頷きを返して、少女は言う。それに、と。


「それに、かゆくてしかたないんだ」


仕方なく、彼は少女の疵に嘴を寄せる。やはり鼻につく腐乱臭を、無理矢理に捩伏せて啄んだ。

 ぐ、と少女が呻きを漏らす。

例え腐りかけでも、痛いものはやはり痛いのだ。目尻に涙を浮かべ、しかし叫ぶようなことはしない。彼の食事が終わるまで、歯を食いしばりじっと堪えようとしていた。それどころか、目の端に雫を浮かべ、食いしばった歯の隙間から呻きを零しながらも――微笑ったのだ。未だかつて彼が見たことも無い程優しく、

「うまいか」と言って――――。



――美味い筈無いだろうが。


 吐き捨てる悪態もまた、少女に届く事は、無い。口に合わなかったかね、と問う梟に否と答えると、彼は鼠を全て食べ終えた。礼を言い、飛び立とうとする彼を、梟は呼び止める。もう少しだけ話がしたい、と言う申し出に、しかし彼は首を縦には振らなかった。ならば一つだけ、と梟は言う。


「見た所きみは野に生きていた訳では無さそうだが、何かあったのかね」


 もしかしたら力になれるかもしれない、という梟の申し出に、彼は逡巡を見せる。手詰まりなのは確かだ。彼に取れる手段は全て実行してきた。しかし成果は現状が示している通り……まるで上がっていない。従って、知恵を貸してもらえるならそれに越したことは無いのだが。

 焦りが悠長に話などしている暇は無い、と彼を急かす。刻一刻と迫り来る刻限の気配が、背中にべったりと張り付いて離れない。否、だからこそここで知恵を借りるべきなのだ。そう割り切り、彼はここに至るまでの経緯を全て話すことにした。

 彼が話している間、梟が何かを言う事はなかった。適当な相槌を打つ事すらしない。ただ、彼が訥々と言葉を紡ぐのを黙って聞いているだけだ。反応らしい反応と言えば、彼が話し終えたときの溜息一ツだけ。そしてしばらく考え込むような素振りを見せると、やがて

「きみは」と口を開いた。


「きみは、その娘の事をどう思っているのかね」と、意図の読めない言葉を吐く。彼が怪訝に思い問い質すと、梟は言い方が悪かったか、と反省の色を滲ませる。


「つまり……なんと言ったら良いのだろうね。きみは、本当に彼女を助けたいのかね?」


 どういうことだ、と彼は問う。


「きみは、本当に自分にそれが出来ると思っているのかね?」











 痛む翼をはためかせ、遠く広がる空を飛ぶ。流れ行く景色、眼下には何も無い。当たり前だ、彼は今、自身が滞在した街から遠く離れた空をヒトリで飛んでいるのだから。かつていた共に行くような仲間も、彼の主人たる少女も、彼女を救う術も無い……たった独りで、だ。


 求めたのは、自由な空。最初からそれだけだった。故に、これは当然の帰結。疑念を挟む余地など無い。足に纏わり付く感触は既に無く、それが余計に彼の心を波立たせた。

 鼓動が早い。ともすれば内側から弾けてしまいそうな程。逸る気持ちを原動力に羽ばたく翼は力強く、透明な空気を裂いて飛ぶ。行く末はそう、彼にしか分からない。




 そして彼は想起する。



 彼が今ここに居る、その全ての理由を。











「我々がヒトに自分の意思を伝えるなど、不可能に等しいのだよ。単純な意思表示ではないのなら尚更だ。それをきみは、本当に出来ると思っていたのかね?」


 問いに、彼は答える事は出来ない。しかし、答えは既に知っていた。否、だ。それは、以前から気付いていながら目を背けて続けて来た事実――無力。自分が、少女のために何も出来ないなどと認めたく無かったのだ。


――なら何故、俺は頑なに、約束を守ろうとするのだろう。


 本来なら彼にその義理を通す理由は無い。義理や人情などとは縁遠い生活を送っていた彼だ、今更律義に応えてやる必要は無い筈。いや、始めから約束を守るつもりなど有りはしないのではなかったか。何故ならあれは、約束などでは、無かったのだから。そう、今も耳に残るのは、



 “かならず”



「きみは」梟が言う。

「きみは馬鹿だね。愛おしく有る程」



 “かならずここに”



――初めてその言葉を聞いた時、俺は何を浮かべたのだったか。何を無茶なことを、と呆れただろうか。俺を信じるなどと馬鹿な事を、と嘲っただろうか。違う。それもあっただろうが、違うのだ。そう、浮かべたのは今と同じ。


 “帰って”


――――空しさを。形容し難いほどの空虚を、俺は感じた。だってそうだろう、その言葉には……


 “帰ってこい”


 既に自分の命を捨ててしまったかのような、諦念があったのだから。


 “かならずここに、帰ってこい”


――イエス、マスター。我があるじ。それがアンタの望みなら。


 もしも彼が人ならば、それは、どれほどの苦笑であっただろう。

 けれど彼は人ではなく、故にただ一ツ鳴き声だけを漏らすのみ。


 阿呆、と、ただ一ツ。まるで自分を嘲るように。


 彼は本当は理解していたのだ。

少女が、何一つ信じてはいなかったことを。

自分が助かる事も、彼が人を連れて帰ってくる事も、全て諦めて送り出した彼女の真意を、彼は知らない。しかし彼は思うのだ。ふざけるな、と。最初から全て諦めているなら、何故、彼を空へと放ったか。何故、自分の身体の一部を分け与えてまで彼を助けたか。彼には理解出来ない。出来るはずも無い。少女は、何も言わなかったのだから。

……そう、隔絶された(ココロ)の中は、余人の預かり知る所ではないのだ。

 故に彼は心に決めた。少女の期待を裏切ろう、と。何も希望を持たないのなら自分自身が希望に成り代わる。例えそれを少女が知ることは無いのだとしても、だ。


――それが、せめてもの報いなのだから。空に焦がれ地べたで朽ち果てるを良しとしなかった、それでも及ばず力尽きようとした俺を……再び空へと還した少女への恩返し。何、自由になるのはそれからでも遅くはない。これは、些細な寄り道だ。そういう風に考えればいい。


「……筐中の猫の逸話を知っているかい?」


 今まさに飛び立とうとしている彼の背中に、梟は問い掛ける。返事は無い。にも拘わらず、梟は構わずに言葉を続ける。


「世界は完全なる混沌になく、例え箱を開けなかったとしても筐中の猫は猫以外に有り得ない。猫が自身を猫で有ると認識する限り、観測者が猫を猫とする限り、猫は猫で有り続ける」


 翼を広げる。黒々とした羽根が宙を舞う。ふわり、空を惜しむように浮かび、彼の力強い羽ばたきに飛ばされた。仰ぎ見るは空――――彼が何よりも焦がれ求めたもの。


「きみは最初に気付いておくべきだったんだ。きみが手にする箱の中には……希望など、有りはしなかったことを。悲劇は変わり得ぬために悲劇なのだと」


 愚かしいね。そう漏らす梟の声に侮蔑の色は無い。有るのは悲哀だ。雑多な感情がないまぜになった、哀しみの色。

 何を悲しむ事がある、と彼は言う。悲しむべきは自分であってお前では無い、と。返答は無い。 ただ、羽ばたき、中空へと飛び去っていく彼を見上げるだけだった。

 だから、呟きはもう聞こえない。聞こえないのだ。

 青空に黒が見えなくなってから呟かれた言葉は、決して、彼に届くことはない。




――――明確なビジョンも終着点も往く宛てもなく夜を彷徨するのは愚か者と俺だけでいい。そもそもこの旅の道連れなんか最初から何もなかったはずだろう?――いや、

「何もない」があるとどこかの偉い人が言っていた気もするが。生憎ながら、この場合の

「何もない」は本当に単なる無だ。無そのものだ。切り裂いたはずの風も、慄いたはずの宿敵も、きっと。あるように見える全てのものは、創造ではなく想像に過ぎない。……まかり間違えば偶像かもしれないな。崇めるべき神はいつだって俺の外に位置している。箱の中にはいったい何が入っていたのだろう、今や、その断片すら拾い上げる事も叶わない。青だったのかもしれないし、赤だったのかもしれない。寧ろ、はじめから箱など無かったのかもしれない。何れにせよ、今の俺に知る由などない。

 なあ、俺。満足しているのか――それとも、後悔しているのか。

 掴めそうで届かなかった空に、もう一度挑むのか。

 それとも、地べたを這いずり回って、明日死ぬとも知れぬ道を選ぶのか。

 この翼が模造品じゃないのなら、何故全力を尽くさないのか。

……結果の出ないことが、そんなにも恐ろしいのか。


 彼は自問に是と返す。

 確かに彼は恐れていた。

 空を飛べぬことも、少女の力になれぬことも。最初から結果など見えていたというのに、だ。彼は翼を持つが故に空を飛べ、彼が人ならぬ故に少女の力になれはしない。それは当然の理屈、そして当然の帰結。彼は何も成してはいない、成せはしない。ただ願った通りに空に在る。彼の、そして彼女の願った通りに。

 皮肉な話だ。共通する希望が破滅を招き、そして二人を引き裂いた。

 否――端から希望など存在しない二人に、偽りの希望を刷り込んだのだ。

 故に、彼はその希望を砕きに行くのだろう。

 黒い(キボウ)をはためかせ、二人が望んだ(ユメ)を裂き、その声で、終焉を告げる為に。




――眼下に、見慣れた景色が写る。






――あたしは、そらをとべない。


 もしも少女が鳥ならば、彼女は空を飛べただろうか。その仮定に意味は無い。彼女は人でしかなく、故に大地に這いつくばり、明日死ぬとも知れぬ道を進むだけ。

 歩むことすらままならず、ただただ命を終えるだけ。


――目にうつるのは、そら。とどくことのない、青。それだけで、けれど、それだけあればじゅうぶんで。そこをあいつがとんでいるとするなら、それは、身にあまるこうふく。


 果てぬ、空への憧憬は、託した彼によって果たされた。

故に、少女は全てを諦めた。

 (ココロ)に秘めた希望の一片すら、残さず空に放ったのだから。それは当然の理屈、そして当然の帰結。

……そう、崩れ去ったこの町は、少女にとっての箱庭。膝下から絶えず感じる苦痛すら、もはや彼女を苦しめない。希望を放逐したモノに待つのは絶望、或いは空虚。少女とて例に漏れることは、無かった。


 ただ、涙を一筋、頬に這わせて……諦めた。命すら、全て。






 つまるところ、その時既に、少女は、命を終えていたのだろう。







 崩れ去った町が有った。

足を失った少女がいた。空を飛べない烏が居た。空は澄み切って青く、いくばくか浮かぶ白い雲はゆっくりと東に向かって流れ行く。上天に照る太陽が降らす暖かな陽光以外に何もないこの町は、無音。鳥の囀りも虫の声もなく、人の息遣いの音もない。完全なる静謐と穏やかな空気に包まれて、地の上に横たわる二人が居る。

 

 


――もしも、彼が人ならば。それは、どれほどの微笑であっただろう。

 けれど彼は人ではなく、しかし確かに微笑んで――――







 もう、翼は空に届かない。筐中の烏は、ただ、少女の胸中で。






 眠る。





てなわけでクロエ、お楽しみ頂けたでしょうか。これは知人が書いた文章(作中の序文はこれをそのまま持ってきてます)に手を加えて改編しまくったものなんですが、いやはや。イメージ通りには、多分仕上がってないんでしょうね。個人的には後悔の強く残る作品。機会が有ったら再編します。



2010年2月26日、ちょいと手直し。

やっぱり粗の残る作品です。

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