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〈第一話 マカロニグラタン〉
「ここが、かの有名な日農大……!」
俺はそこの正門の前に仁王立ちし、奥へと続いていく通路を見据えながらそう呟く。
農場を含めると総面積は東京ドーム三個分にもなるという、大首都・東京という立地にして絶妙なアクセスの悪さを誇る全国最大級の農業系大学、国立大学法人日本農業大学。略して日農大。
実家から電車に揺られて辿り着いた駅には、見た感じ同年齢の人間がぞろぞろと列をなしていた。考えなしにそれを辿って来たが、まさかのまさか、ここにたどり着くとは。
「忌々しい気配がぷんぷんするぜ……」
仁王立ちついでに、少し厨二を被ってみる。そうだなあ、例えばこの俺を落とすような、冷酷非道なオーラとかだろうか。
「ふっ、ここで会ったが百年目、どうやら相当に防御を固めてきたらしいが」
奥の校舎にやっていた目線を移して、すぐそこの正門あたりを見る。紺色の征服……じゃなくて制服に身を包んだ警備員らしき人が二人、門番として立っていた。
「ククク、しかし我が手にかかればこのような規模、一瞬で消し飛ばせるわ……」
ハッハッハ、と校門の前で邪悪に高笑いする俺。
そして突き刺さる、いかにもアブナイ人を見るような冷たい視線。
「……まだ俺という存在に気付いていないのか、愚かな人間どもめ……」
と、ちょっと恥ずかしい気持ちをごまかすべく、自分でもよく分からない恨み言を吐いていると、向こうから当の警備員らしき人が歩いてきた。やっべぇ。
「…………あほらし」
さすがにキャラ崩壊をやめて我に帰り、引越し初日から補導されないようそそくさと脇に逸れて、本当の目的地へと向かうことにする。
今の俺の表情はきっと、心の中の妬みを体現するかのごとく、かなり威圧的な感じなんだろう。そう思いつつも、自分とは逆の方向に歩いていって門の中へ入っていこうとする人々を、俺はすれ違いざま睨みつけていく。
めちゃくちゃタチが悪いのは自覚しているが、こんなことでもしてないとやってらんねえ。
…………あぁ、そういえば、この列だけれども。
いやですね、実は今日、入学者への一斉説明会だったそうですよ奥さん。だからこんな人だかりなんだそうですよ旦那さん。どうしてよりによってこんな日取りにしちゃったかなあ、先週の俺さん。
***
すっかりキャラ崩壊が板についてきた気もしないけど、気を取り直して。
先ほどの悪の組織総本部(仮)から歩いて七、八分、駅の目の前にある、この辺一帯の幹線となっている都道を途中で曲がり、こぢんまりとした商店街を通り抜けて坂を下ると見えてくる住宅街。
山を切り崩して造ったベッドタウンとしての性質上、その商店街を頂点とした小高い丘のようになっているこの町の中腹部、一車線道路が入り組む場所にそのアパートはあった。
「やっと着いた……」
グランメゾン中ヶ丘。大魔王(笑)・瀬川達也の当面の本拠地である。
ちなみに中ヶ丘ってのはここら一帯の地名だ。丘の中腹だから中ヶ丘。安直すぎて、むしろすぐに頭の中から吹っ飛んでいきそうなネーミングである。
さて、そんなグランメゾン中ヶ丘にはひとつ、他のアパートとは一線を画す最大の特徴があった。
それは、一階に地元密着型、激安スーパーマーケット「いたるや」があることだ。
どのくらい激安かというと、玉子一パックが常時九十八円で売られているほどには安く、インターネットでも検索すれば「住宅街の救世主」とかいう二つ名で出てくるほどには話題の店なのである。分かりにくいかつ地味な例えで申し訳ない。
世間一般では、一階に食べ物を扱う店があるとその上の住居にはGが出るやら下水が詰まるやらなんやら、とよく言われている。
が、そもそも三度の飯より大好きなものがなく、将来は食品メーカーに就職するべく農業系大学に入学しようとしていた俺にとってはかなりの好都合。というか桃源郷。
実のところ、明後日から勤務するバイト先もここだったりする。
俺のプランはこうだ。朝九時に起床、昨晩の残り物を使って有り合わせで朝食を済ませる。昼飯は「いたるや」特製のお惣菜たっぷり弁当で済ませ、午前十一時から夜五時まで働く(休憩一時間)。買い物もそこで済ませて帰宅のち八時まで料理、夕飯食べて風呂入って少し勉強して、十二時就寝。
時給は九百五十円、週五日出勤で月四週とすると月収およそ九万五千円、税金とか引かれてだいたい月八万くらい。食費光熱費等々考えても、家賃がかからない今の状況では生活していくのに十分な収入だ。
「完璧だ、完璧すぎる……!」
心に描く未来予想図を思ったとおりに叶える空想上の自分。思わずガッツポーズをし、声を漏らして感嘆する。……このネタ、通じてるだろうか?
と、しばし物思いにふけっていると。またも周りからの目線が怪訝なものであることに気付く。
そして自分がまだ、路上のど真ん中にいたことに追って思い出し、しかも口角が若干上がっていることをはたと気付く。
道端のど真ん中で拳を握り締め、ニヤニヤとしている自分の姿。うっわ、気持ち悪。
あわてて取り繕うべく、少し大きな仕草で左腕にはめたAmaz○nで五千円の時計を見ると、昼の一時を回っていた。家を出たのが朝十時ごろだったので、少し寄り道したことを考えると、まあ妥当な時間だろう。
とりあえず、いたるやの入り口脇にあるアパートの階段を登って二階へと向かい、真っ先に寄るよう言われていた、大家の住む二〇一号室へと向かう。
このアパートの設計上、共用廊下を歩いているときはいたるやのひさしの真上を歩いている形になるのだが、果たしてあのひさしに意味はあるのだろうか。そんなことを考えながら一番奥の二〇一号室の前にたどり着き、インターホンを押す。
少し低めのチャイムが小気味よく鳴って、中からドタバタと足音が聞こえてきた。
しばらくしてガチャリ、とドアが開く。
「はーい、どちらさまでしょ」
「あ、ども、本日からこちらにお世話になります瀬川です」
「あーはいはい、瀬川さんね、話は聞いてるよー」
扉の隙間から顔を覗かせてきたのは、ぱっと見二十代前半だろうか、髪色は明るいブラウンのショートヘア、長袖タンクトップにスウェットというラフな格好の、どこかのんびりした印象を感じさせる女性だった。
玄関の横に置いてあるシューズボックスの上の収納から、ひとつカギを取り出し、クロックスを突っかけてその女性は扉から出てくる。
「いやあ、四十歳の男の人って聞いてたからなんかびっくりだよ」
「それ多分父親です、名義は父親にしてるんで」
「あー、なるほどねー」
会話は一旦そこで途切れる。大家さんと俺は、先ほど歩いてきた階段側のほうへと向かう。
そして二〇一号室の隣の隣、表札に何も書かれていない二〇三号室の前で止まった。
「はい、ここが瀬川さんの部屋。下がスーパーだから夜はちょっとうるさいかもしれないけど……、大丈夫かな?」
「あー、たぶん大丈夫です」
鈍感なほうなので、と付け足しておく。
そっかそっかー、と特に意にも留めない様子で大家さんは話を流し、手に持ったカギを差し込んでから扉を開けた。
「はいどうぞー」
「お邪魔します」
大家さんに促され、軽く会釈してから先に部屋に入る。ニスに似た、新居の独特のにおいが立ち込めていて、念入りにクリーニングしてくれたのがよく分かった。
1K風呂トイレ付き、事前に資料で確認していた通りの間取り。ガスコンロが三口あるのは、自炊派の俺にはなかなかうれしい誤算だった。
「そんじゃーこれ、カギね」
「あ、どうも」両手を差し出して、マスターキーを受け取る。
「電気ガス水道は通してあるし、インターネットも奥に端子があるからそれ使ってね。あとなにか、分からないことある?」
「とりあえず、大家さんのお名前を……」
「あー」
俺の疑問に、そういえばそーだったね、と苦笑いでその謎の女性は応える。
「私は鳴海莉愛、よろしくね」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
鳴海さん。その苗字の響きに、甘酸っぱいような苦々しいような懐かしいような、ごちゃごちゃした複雑な感情が湧いてくる。
そしてその機微を鳴海さんも感じ取ったのか、生まれてしまった一瞬の沈黙が気まずい。急いでその気持ちにフタをして、
「鳴海さんは一人暮らしなんですか?」
軽い気持ちで話の取っ掛かりを作ってみる。
「んー、まあ半分そんな感じかなぁ」
「? というと……?」
「このアパートは両親の持ち物なんだけど、管理するために前から私がここに住んでたんだよね。なんだけどつい最近、妹がこっちに越してきて」
ちょうどそっちの部屋だね、と言って隣の二〇二号室を壁越しに指す。
「だから半分二人暮らしだけど、別々の部屋で暮らしてるから半分一人暮らし」
「なるほど」
含みを持たせた発言に対する疑問が晴れ、合点がいく。
妹さんか、ちょうど今はいらっしゃらないようだけど、機会があったらお会いしてみたいもんだ。
「そうそう、私のことは莉愛でいいから」
「いやいや、そんなわけには……」
「大家さん、だと堅苦しいし、鳴海さん、だと妹いるからややこしいでしょ」
「はあ……」
フレンドリーに接してほしい、との要望が言外にあった気も幾分するが、まあ嫌な気もしないので莉愛さん、と呼ぶことにした。
そのあといくつか事務的な質問(ゴミはどうするかとかポストはどこか、とか)に対して返答(ゴミは決まった曜日に脇のゴミ捨て場へ、ポストは裏口にあるよ、とか)をしてもらい、ひとしきり疑問を解消すると、
「じゃ、頑張ってねー」
とだけ言い残して莉愛さんは自室に戻っていった。
時計を再び見る。現在一時半。
引越し業者は三時に来る予定になっているので、まだ時間はある。特段することもないので、暇つぶしがてら、噂の激安スーパーへと足を運んでみることにした。どうせだし、夕食の買い物もしてきてしまおう。
さて、今日の夕飯は何にしようか。