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落し物

作者: 白石美里

 私の掌に収まるほどの小さなピンクのスニーカー。ちっとも汚れていない靴。もしかしたら、持ち主は外であまり歩かないのかも知れない。それとも、ずっと抱っこされているのだろうか。持ち主の赤ちゃんを想像すると自然と頬が緩んでくる。


 小さな落し物を見つけたのは、パート帰りに寄ったいつものスーパーだった。


 今日は散々な日で、さっさと家に帰って横になりたかった。しかし、冷蔵庫が空で夕飯の用意もできないのでしょうがなくスーパーに寄ることにした。買いだめをするとついつい食材を使い切れずに腐らせてしまっていたので、細々と買い物をするという方法に変えたのが仇になった。やはり、少々は買い置きをしておくべきだった。主婦をうん十年続けてきても、家にある食材で効率よく料理を作るというのは、自分にはできない。


 夫も朝から機嫌が悪かったと思う。


「卵ある?」


 と朝食のテーブルに乗っている卵焼きを見ながら言った。我が家は週のほとんどが夫と娘の好物の甘い卵焼きだ。


「生卵。卵かけご飯が食べたい」


 少しイラっとする。こちらは人数分を考えて作っているのだ。第一、夫はお腹が弱いくせに。しかし、無言で生卵を渡す。イライラしていたせいか、いつもは聞こえないふりをしている夫のくちゃくちゃという咀嚼音が我慢できなかった。


「そのくちゃくちゃ言って食べるのやめて」


 すると夫はさらに大きな音を立ながら卵かけご飯を掻き込んだ。私も負けずに大きな音を出して箸を置き、片付けを始めた。こうなったら、お互い近づかないようにするのが、大きな喧嘩をしないようにする予防策だ。話し合って決めたわけではないが、ルールができるきっかけの大喧嘩があった。


 その頃、私は初めての育児で、自分の思い通りにならない娘との毎日は悪戦苦闘していた。夫は仕事でいつも不在。


 娘が二歳の頃だったと思う。とりあえず、私の誕生日だ。イヤイヤ期と言われる彼女は、食事も着替えもオムツ替えも簡単にはさせてくれない。暴れる彼女を押さえつけるたびに、私のイライラも増していく。夫の帰宅が遅いので自然と生活は彼女と二人きりだ。そのせいで追い込まれていたのかも知れない。その日、誕生日というのに夫が手ぶらで夜遅く帰ってきて「なんだビールもないのか」 と言ったのだ。夫も毎日遅くまで仕事で疲れているのだろう。家に帰って一杯ぐらいビールも呑みたいだろう。なんて思えるわけがない。私は暴れる娘と戦いながら買い物をしているのだ。自分のビールぐらい自分で買ってこい。そうして私たちの喧嘩は始まった。ビールから始まり、日頃の育児への無関心、果てには給料の額にまで発展していく。夫自身も私が育児にかりかりしているので、家に帰るのが億劫になっていたところのこれだった。お互い火種が燻っていたので、大喧嘩に発展しとんだ誕生日になってしまった。


 結局、実家に帰る帰らないとなり、夫が不承不承折れることで収束した。夫が折れた理由は娘がパパ、と泣いたからだ。その頃から娘に弱いのだ。それ以来、暗黙のルールができた。そのおかげで、まあまあ仲良く夫婦生活を送ってきた。


 朝食後、夫はトイレに篭っていたので、やはり生卵にお腹が下ったのだろう。少し胸がすく。朝がゆっくりな娘が、私が出かける頃に二階から降りてきたが、無言で朝食をとっていた。いつもなら「いい年して家事くらい手伝ってから仕事へ行きなさい」 と小言を言っているところだが、今日はそんな気にならず、私も無言で家を出たのだった。


 そんな気分で出社したら、職場でもミスが続き、沈んだ気分に追い打ちをかけることになってしまった。



「あー! すみません。その靴私のです」


 声に振り返れば、若い母親が小脇に赤ちゃんを抱えるようにして走ってきた。スーパーで買ったであろう袋を腕に下げ、肩には荷物でぱんぱんに膨らんだ鞄をかけている。靴がないのに気づいて急いで戻ってきたのだろう。


 ふっくらとした頬に、丸々とした黒い目。そうだった。赤ちゃんの黒目はとっても綺麗だったのだ。真っ白で柔らかそうな手は、思わず触れたくなってしまう。


「かわいいわね。うちも、もうすぐ、娘の子が生まれるのよ」


 娘から妊娠していると告げられてたのは昨日だ。彼氏がいるのは聞いていたが、驚いた。夫はそれすらも聞いておらず、相当ショックだったようだ。ただ、口に出すことはなくむっつりとしていただけだった。きっと今朝はやつあたりされてしまったのだろう。


 忘れていた。赤ちゃんがこんなにかわいいなんて。来年には、鼻の下を伸ばして赤ちゃんをあやしている夫が容易に想像できた。

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