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放火

 彰麗を送り出すと、莉玲はとりあえず、その日はおとなしく私邸で過ごした。

 足が利かず、口も利けず、しかも公には謹慎処分を受けていることになっていると、莉玲にはほとんどすることも、できることもない。彰麗は、何か分かったら必ず知らせるからくれぐれも勝手な行動は慎み、ここでおとなしくしているようにと命じてから帰っていったが、あらためて命じられなくてもそうしている他はないのだ。門の外には深夜も見張りがいるし、侍女の出入りだって制限を受ける。だから夜になると、莉玲は自室で静かに眠りに入った。

 目が覚めたのは、突然のことだった。

 仰向けになったまま眺める天井には闇の色が侵食している。とはいえ真の闇に満ちているわけではない。どこかに灯りがあるのか光が射してきている。そのせいで深夜にもかかわらず天井の様子を仔細に見て取ることができた。

 莉玲は寝起きのぼんやりとした頭でしばし天井を眺め、そして急速に湧き上がってきた危機感に一気に覚醒して寝台の上に起き上がった。不自由な身体を捻って灯りの源を探す。すぐに光源は見つかった。窓の外が、赤々と輝いている。窓枠の隙間から熱気とともに何やら焦げくさい臭いも入ってきた。

 瞬間的に莉玲は事態を悟った。恐怖に駆られて寝台脇に据えておいた車輪付きの椅子を引き寄せると、両腕を使って自力で身体を移動させる。急いで逃げねばという焦りと恐怖が莉玲を支配していた。この部屋に火が回る前に目覚めてよかったと心の底から安堵していた。この邸は石造りだが、莉玲の身体では火事に気づくのが少しでも遅れていたら逃げ遅れていたかもしれない。そうなっていたら生命はなかっただろう。

 莉玲は可能な限り最速で車輪を動かした。寝室を出る扉に辿り着くと、莉玲が開けるよりも早く外側から激しい勢いで引き開けられる。侍女たちが血相を変えて飛び込んできた。莉玲の姿を見ると安堵したように一瞬だけ表情を崩したが、すぐに緊張の面持ちに戻って莉玲の椅子を押しながら追い立てられるような感じで廊下を走りだした。

 莉玲はかつて火災時の消火訓練で教わった通りに夜着の袖を口元に当てて煙を吸うのをできるだけ防いでいた。火災の時に恐ろしいのは炎ではなく煙だと莉玲は教わっていたからだ。火に巻かれて死ぬ者よりも、煙に巻かれて死ぬ者のほうが圧倒的に多いという統計報告も見たことがある。火はまだ廊下には迫ってきておらず、火元が莉玲の寝室の近辺でないことは明らかだったが、煙の量はすでに尋常ではなかった。しかし幸いなことに莉玲の生活空間は全て一階にある。この廊下を真っ直ぐ進めば、すぐに邸外に出られる扉に辿り着けた。そのうえ今の莉玲は謹慎中の身だ。邸の門前には監視のための兵士が夜間も控えている。運が良ければ彼らはすでに火災に気づいて消火活動を始めてくれているかもしれない。外に出ればすぐに助けてもらえるだろう。

 それにしてもいったいどこから出火したのだろうか、と莉玲は思う。莉玲が足腰に不自由を抱えているから、侍女たちは何よりも火災に関して警戒を厳重にしていた。就寝時には必ず全ての火を落としているし、昼間であっても火を使う時は必ず誰かが常時見張っている。そのようにして常日頃から充分な用心をしていたはずなのに、いったいどこに手落ちがあったのだろうか。

 思っている間にも煙はどんどんその濃さを増していった。もはやほとんど視界はない。そのなかを手探りも同然の状態で進んでいくと、ふいに莉玲の身体に衝撃が走った。体勢を崩して前のめりに倒れそうになり、慌てて肘掛けを摑んで転倒を免れた。それと同時に背後で侍女たちが恐慌に陥った気配が伝わってきた。莉玲の椅子が突如として動かなくなったと言って慌てている。視界がないなかで莉玲の椅子の車輪が、廊下の壁か家具に衝突したのだ、莉玲はすぐにそう了解できたが、侍女たちは違うようだった。混乱した様子で悲鳴を上げながら必死になって椅子を押し続けている。

 莉玲は侍女たちの様子にかつてないほどの焦燥と恐怖を感じた。莉玲の座るこの車輪付きの椅子は、前方だけでなく後方にも移動できるように作られている。したがって侍女たちが椅子を引いてさえくれれば、難なくこの苦境を逃れられるのだが、今の彼女たちにそこまでの考えは回らないようだった。ただひたすらに椅子を押し、動かないことに絶望の悲鳴を上げ続けている。これでは莉玲は自力で逃げることができない。声を出すこともできないのだから、侍女たちに自分の意思を伝えることもできない。

 自分のことなど放置して早く逃げてくれないだろうか、莉玲は切実な思いで侍女たちに願っていた。だが侍女たちは何としても莉玲を助けるという意思を捨てようとはしなかった。常であれば誉められるべきその忠義は、今の莉玲にとっては生存を妨げる障害に他ならない。莉玲は手の届く範囲で侍女たちの腕を摑んだり叩いたりして、なんとか落ち着かせようと努めてみたが、莉玲の行為はかえって彼女たちの恐慌と混乱に拍車をかけるものとなってしまった。

 莉玲はもうどうしたらいいか分からなかった。声を出せないことがこれほど辛いと思ったのも初めてだ。一言だけでもいいから喋ることさえできれば、彼女たちに意思が伝わるのに。

「ご無事ですか!」

 ふいにどこからか男の声が響いてきた。聞き慣れない声の主は、まるで莉玲の思いを感じ取ったかのように大声で呼ばわりながら邸内を移動しているようだ。足音が迫ってくる。こちらに近づいてきていた。

 すぐに煙を掻き分けるようにして複数の男たちが姿を現わし始めた。

「莉玲さま、ご無事ですか?」

 莉玲は安堵のあまり身体じゅうの力が抜けそうになった。どうやら自分の命運はまだ、尽きていたわけではないらしい。

 現れたのは、門前で監視を任されていたと思われる兵士たちだった。


 莉玲は兵士たちに助けられて、無事に邸外に避難することができた。

 門前での監視を任されていた兵士たちは、自分たちが見張っている当の邸から火の手が上がっていることに驚愕したらしい。ある兵士は火勢の強い場所から消火活動を始め、また別の兵士は付近に緊急事態を報せに走り、さらに別の兵士は莉玲たち住人の安否を確認するため捜索をしていた。庭に姿が見えないことから、まだ邸内にいる可能性を察して、火の回っていないところから窓を壊して室内に入ると、微かに侍女たちの悲鳴が聞こえてきて、それで莉玲たちがまだ無事であることと、どこにいるのかを知ったということだった。

 莉玲が庭で兵士たちに守られながら消火活動の様子を見守っていると、しばらくして彰麗が駆けつけてきた。莉玲の安否が気になったか、あるいは彼の邸が莉玲の邸に隣接しているから万一を考えて避難してきたのかもしれない。たぶん避難してきたのだろう。彼は莉玲同様、いかにも寝起きの直後らしい姿をしていたから。

「莉玲がどこも怪我をしていなくて、本当に良かった」

 彰麗が心底安堵したように言葉を紡ぐ。莉玲も頷いた。あの時、兵士たちが来てくれなかったらと思うと、今も生きた心地がしない。彼らには何度感謝しても足りないだろう。

 莉玲は火勢が落ち着くまで彰麗と消火活動を見守り、その後でいったん軍補の執務所に移った。火災時の様子について簡単に事情を聴かれ、それが済むとそのまま彰麗が自分の邸に連れて行く。どうやら莉玲と莉玲の侍女たちの身柄は、とりあえず彼が預かることになったらしい。莉玲の邸は全焼こそ免れたものの、とても居住に適した状態とはいえなくなってしまったため、早急に生活の拠点を移さなければならないのだ。莉玲の謹慎の処置はまだ解けていないから、軍の監視が行き届く施設にいなければならず、その両方の目的に適う場所が彼の私邸だということなのだろう。

「あの火事は放火の恐れが高いそうだ」

 莉玲が彰麗の邸の客室に落ち着いてからしばらくして、当の彰麗が客室を訪ねてきた。火事の原因について調べた結果を報告してくれる。

 莉玲は彼の言葉に驚愕した。すかさず机に向かい、莉玲のために彰麗が与えてくれた筆談用の紙に言葉を綴る。〈本当に原因は放火で間違いないの?私の邸はずっと軍が監視していたはずでしょ?〉

 彰麗は溜息をついた。

「他に考えられないということだった。なぜなら最も燃え方が激しいのは裏庭で、火を使う設備のないところだったからだ。しかも裏庭に面する門の扉には、明らかに誰かが外から力ずくでこじ開けたと分かる痕跡があった。何者かが裏庭に侵入して庭木か何かに火をつけ、建物のほうに延焼させることを謀ったのは明白だろう」

 莉玲は呆然とした。どうしてそんなことが可能になったのだろう。軍補の邸は他の高位貴族や高官と同様に王宮の内部にあり、簡単に侵入できるような場所ではない。莉玲の私邸の火災が真実、放火であるならば、それを行った人間はいったいどうやってここまで侵入してきたというのだろう。しかも、放火の目的は何だ?謀反が目的ならば、国王の宮殿を襲わずに軍補の邸に火をつける理由が分からない。それとも、火事の混乱に乗じて窃盗を働こうとしたのだろうか。しかしそれならば、謹慎処分のせいで軍人の監視が付いていた莉玲の邸よりも、狙いやすくて収穫の多そうな邸が他にあったのではないか。すると、やはり莉玲個人に怨みがあったから火をつけたということになるのだろうか。莉玲は軍補に異動して以来、ほとんど隠居も同然の暮らしを送ってきたが、将軍だった頃なら、軍人という職業柄、他人の恨みなど無数に買っているだろう。莉玲を恨んだ何者かが、莉玲を殺す目的で邸に放火していたとしても、何も不思議はないのかもしれない。

 ならば、と莉玲は寒気を覚えた。莉玲がここに滞在していれば、次は彰麗の邸が放火犯に狙われるのではないだろうか。王宮に侵入してまでも莉玲を殺そうという意思を固めた人間ならば、目的のためにはどんなことでもするだろう。そして、万一にも彰麗が襲われるようなことがあれば軍への影響は計り知れないものになる。なにしろ、彼が現在の国軍の事実上の統率者なのだから。

 莉玲は急いで紙に走り書きした。〈私をどこか辺鄙なところに移して。できれば王宮の外のほうがいい。また、私を狙って誰かが事を起こすかもしれないもの。私がこのままここにいて、それでもしも彰麗の生命が危険にさらされたら、取り返しがつかない〉

 莉玲は文字を通して彰麗にそう訴えたが、彰麗は眉を顰めてその紙を取り上げると、くしゃくしゃに丸めて近くの屑籠に投げ入れてしまう。

「こちらができもしないことを要求してくるな。謹慎処分を受けているうえに生命を狙われているかもしれない人間を、王宮の外になど移せるか」

 〈けど私がこのままここにいたら、今度は彰麗の邸が放火犯に狙われるかもしれない〉

 莉玲は改めて懸念を伝えた。しかし彰麗は臆した様子もなく不敵に微笑む。

「そういうことになるんなら、かえって好都合だ。犯人のほうからここに現れてくれるのならむしろ捕まえやすくなるというものだろう。だから莉玲は私の心配なんかしなくていい」

 〈彰麗を侮るわけじゃないけど、王宮に侵入できたような犯人が、そんなに簡単に捕まるとは思えない〉

 莉玲が懸念を重ねると、彰麗は意外なものを見たような顔をした。

「莉玲は、放火犯は王宮の外の人間だと思っているのか?私は、それだけはないと考えているんだが。王宮の警備は厳重だ。外部の人間が誰にも気づかれずに入ってきて、人知れず宮内を移動するなんて不可能だろう。犯人の可能性を探るなら、まず宮廷の人間を優先するべきではないのか」

 莉玲は彰麗の言葉を受けてふいに重大な事実を思い出した。彰麗は放火犯は裏庭に面する門から侵入したと言っていた。莉玲は普段、裏庭の門は使わない。あの門を管理し、使用しているのはほとんど侍女たちだ。けど、莉玲が謹慎処分を受けてからは当然、そこにも監視の兵士がいたはずだ。莉玲があの門から勝手に外に出たりしないように、誰かが見張っていなければおかしい。何者かが侵入した時、門を警備していた兵士たちはどこにいたのか。

 莉玲がそのことを訊ねると、彰麗は特に思い出そうとするような素振りもみせずに答えた。莉玲が訊ねなくても最初から話すつもりだったのかもしれない。

「裏庭の門の監視に当たっていた兵士は三人だ。裏庭から出火したと分かったからには当然、真っ先に彼らに事情を聴くべきで、それで彼らを探したら、当の兵士たちは門からさほどに離れていない外路の目立たない辺りで倒れこむようにして眠っていた。起こして事情を聴いてみると、用足しに行って戻ってきた同輩が持ってきた水を飲んでから意識を失った、ということだった」

 水を飲んだら意識を失った。その言葉に莉玲は注意を喚起された。

「彼らの話によると、裏庭の門の監視を任せていた兵士三人のうち一人が、深夜に小用を済ませに行くと言って任務を離れている。その兵士は軍補の執務所の厠で昏倒しているのが見つかっているんだが、彼は厠で用を済ませて出ようとした時に背後から誰かに襲われたと証言しているんだ。それ以降の記憶は彼にはないらしい。つまり、その時に彼は意識を失ったのだろう。発見された時、彼は軍人としての装備をいっさい身につけていなかったが、外路で倒れていた兵士たちによると、彼は用足しに行った後にきちんと戻ってきたという。もちろん装備も身につけてな。倒れていた兵士たちは、この兵士から貰ったという水を飲んだ後に意識を失ったんだ。莉玲の邸が放火されたのは、時間的にこの直後だろうと思われる。ついでに外路で倒れていた兵士たちは、自分たちに水を飲ませたその兵士の顔を見ていない。暗くてよく見えなかったそうだ。声もよく聞き取れなかったそうだから、確かに自分たちの同輩が戻ってきたのかどうか、今では断言できないらしい。これだけ言えば、莉玲は理解できるのではないか?兵士たちの身に何が起きたのか」

 〈何者かが兵士の一人が監視の任務を離れたのを確認したうえで襲い、装備を奪ってその兵士に成り済ましてから、眠り薬か何かを入れた水を持って裏庭の門に戻ってきた。時刻は深夜だから周囲は暗くて同輩の兵士たちは別人が戻ってきたことに気づかず与えられた水を飲み干した。結果、誰かの思惑通りに裏庭の門に監視の目はなくなり、侵入と放火という犯罪を許してしまった。そういうことかしら?〉

 莉玲が確認すると、彰麗は、そういうことだろう、と頷く。

「兵士たちがわざわざ自分たちが疑われるような状況を作ったうえで放火するとは考えにくいからな。供述の言葉にも不審なところはなかった。兵士たちが放火とは無関係ならば、莉玲の邸に放火した犯人というのは、邸の監視体制や軍人の動きについてある程度には把握できていた人間ということになる。そうでなければ一瞬であっても軍人に成り済ますなんてことができるとは思えない。そしてそんなことは王宮の外の人間には容易く把握できることじゃない。時間をかければ把握することができた人間がいた可能性を皆無とは言わんが、放火が起きたのは莉玲への謹慎命令が出た当日のことだ。外部の人間が情報を得て計画を立て、具体的な行動を起こすには、些か時間がなさすぎるだろう。疑うべきは王都の人間などではなく、同じ宮廷の、我々にとって近しい場所にいる人間だと、私はそう思う」

 莉玲は思わず考えこんだ。〈宮廷の人間が私を殺すのに、放火なんて荒っぽい手段を選んだのはなぜかしら?謹慎の命が出て、監視体制が整ってから襲うというのも釈然としないわ。宮廷の人間が私を排除したいと思ったのならもっと穏当というか陰湿な手段を選びそうなものだけど〉

 莉玲が書面で伝えると、彰麗もこれについては疑問を感じたようだった。

「たしかにその通りだな。ひょっとしたら犯人は相当に焦っていたのかもしれない。一刻も早く莉玲を葬らなければならないと感じていた。犯人がそう考えていたとしたら、放火をいちばん確実な手段と判断した可能性はある。邸に火がつけば、足の不自由な莉玲は逃げ遅れる危険が高いからな」

 莉玲は彰麗の言葉に思わずあの時の恐怖を思い起こしてしまった。いま思い出しても全身が震える。

「大丈夫か?」

 彰麗が莉玲の様子の変化に気づいたらしく気遣わしげに訊ねてきた。莉玲は首を振って、なんでもないと身振りで伝えたが、彰麗はなおも心配そうだった。

「無理はしなくていいぞ。いくら莉玲でも動揺するのは当然だからな。それに、ひょっとしたら今回の謹慎命令と放火は、全くの無関係じゃないかもしれない」

 莉玲は首を傾げた。自然に手が動く。<無関係じゃないって、どういうこと?>

「ただの勘だ。莉玲は私が前に王妃様は莉玲を何かから守るために謹慎処分の命令を下したのではないか、という推測を話したことを覚えているか?放火なんて事態が起きたのがその命令の出たすぐ後であることを思うと、もしかしたらこの放火犯こそが王妃様の恐れていたものなのかもしれないと思ってね」

 莉玲は眉を顰めた。〈王妃様は、あの放火が起きることを前もって予測していた。彰麗はそう言いたいの?〉

「さすがにそこまで具体的に予測できていたわけではないだろうな。けど莉玲に危険が迫っていることだけは認識なさっていた。それで謹慎命令の形で莉玲を守ろうとしたが、肝心の危険は放火という形で莉玲にやってきて、効果を充分に発揮することができなかった。・・まあ、これは私の想像だから、莉玲は冗談だと思って忘れてくれていい」

 莉玲は首を振った。〈冗談だとは思えない。彰麗の話には納得できるものがあるから。けど、もしも王妃様が彰麗の言うとおり私への誰かの襲撃を予測していたとしたら、なぜそのことを公にして問題視しなかったのかしら?そのほうが謹慎命令なんかを出すよりも確実に、私を保護できると思うんだけど〉

「公にすることができない事情があったんだろう。単に確証がなかったから迂闊に口にするわけにはいかなかったのかもしれないし、あるいは王妃様はすでに、誰が莉玲を狙っているかの見当もつけておいでだが、その人物を庇いたいからあえて口にすることは避けたのかもしれない。他にもいろいろ考えられ――」

 彰麗はふいに言葉を切った。部屋の外から扉を叩く音が聞こえてきたからだ。

「誰だ?」

 彰麗が扉を振り返って誰何する。扉の外から遠慮がちな声が聞こえてきた。彰麗の私邸に仕える下男の声だ。

「あの、旦那さま、お忙しいところをお邪魔して申し訳ありませんが、軍補の御邸の火災のことについて、旦那さまにお伝えしたいことがあると、()(すい)の方がお越しになっていらっしゃいます。お通ししても宜しいですか?」

 彰麗と莉玲は束の間、顔を見合わせた。佐帥とは副将軍のすぐ下の位で、現場で実際に動く兵士や傭兵、徴兵の市民たちを取り纏める兵長たちを、さらに纏める役目を担う。佐帥が直々に報告に来るということは、新たな事実が出てきたのだろうか、そう思い莉玲が頷くと、彰麗は扉に向かって声をかける。通せ、と命じた。

 扉が外から静かに開かれた。入ってきたのは下男の言葉どおり、佐帥その人だった。彼は彰麗と莉玲に一礼すると、淀みのない口調で言葉を紡ぎ出す。

「副将軍と軍補にお報せしたいことがございます。つい先ほど、軍補の御邸に放火した人物が出頭して参りました」

 莉玲は驚愕した。彰麗も目を見開いて驚きを露にし、勢いこんで訊ねた。

「誰だ?誰が名乗り出てきたんだ?」

「軍補の下官でございます。恵昌という男です。この者がつい先ほど、軍補の御邸に放火したのは自分だと名乗り出てきました。自白に基づいて彼の居所を捜索したところ、厠で襲われた兵士の軍装が隠されておりました。我々はこれを動かぬ物証とみなし、恵昌を放火の罪人として捕縛いたしました」

 莉玲はあまりの事実に言葉を失った。自分の意思が如何にあるのか、自分でも分からない。佐帥に何を問うたらいいのかも分からない。恵昌が、莉玲の邸に火をつけて自分を殺そうとした、どうしてそんなことが起きてしまったのだ。

「動機は?彼はなぜそんな蛮行に及んだと言っている?それについては自白しているか?」

 彰麗が静かに問うた。莉玲の心情を代弁するような問いかけだった。佐帥はそれについても淀みのない口調で問うたが、言葉を発するよりも前にちらりと、莉玲のほうを気遣わしげに見た。

「自白しております。恵昌は以前から軍補が気に入らなかった、ということでした。平民の女で、物乞いのくせに将軍になって自分の上にいるのが気に入らない、と。足が利かなくなってやっと軍を去るかと思えば、軍補として未だに宮廷に残っている。忌々しいので自分で手を下すことにした、と。深夜、寝静まったところに邸に火をつければ、足の悪い軍補は逃げ遅れるだろうと考えたとのことでした」

 彰麗は顔を顰めた。吐き捨てるように言い放つ。

「愚かな。軍というのは完全な実力社会だ。昇進や降格に身分や出自など関係ない。平民でも、女でも、力さえあれば将軍にまでなることができる。曲がりなりにも軍務に携わる者として、なぜそれが分からんのだ。莉玲が軍を退かなかったのは主上が莉玲の功績を正当に評価なさったからだ。出自が平民だから将軍になるのが筋違いだというのならば、私だってこの場にいるはずがない」

 佐帥は大きく頷いた。

「副将軍の仰られるとおりでございます。けど、残念なことですが貴族の中には未だにこのように考える者がおります。平民ごときが神聖な宮廷に土足で上がり込むなど許し難いと。恵昌は代々軍の文官を務める家の出身だそうですので、まあ、下級貴族にはありがちの下劣な考えを抱いて蛮行に走った、ということでございましょうな」

 佐帥は恵昌を本気で嫌悪するように言葉を紡いでいた。莉玲も、もし自分が佐帥の立場であったなら同じように言っただろう。軍において実力の違いは身分の違いを超えるほど大きなものだ。生命をやり取りする場においては平民も貴族も関係ない。だから力のある者が上に立つのは当然のことで、そうでなければ軍はどんどん弱体化する。死ななくてもいい人間まで、無駄にその生命を散らすことになってしまうのだ。

「その恵昌とかいう下官は今、どこにいるんだ?」

「牢に入れております。軍補の執務所の牢に。己が奉職した人物の牢に入るというのは、皮肉の極みというものかもしれませんね」


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