王妃
「仮にも軍補が兵士の職務を妨害し、罪人を逃亡させるなんて、愚かなことをしたものね」
冷ややかな女の声が聞こえた。莉玲は真っ直ぐ顔を上げて、目の前に立つ女の顔を見上げた。例の車輪付きの特殊椅子に座っている莉玲にとって、彼女の顔はかなり高い位置にある。彼女は険しい表情で莉玲を見下ろしていた。常には気品に溢れた静かで優雅な微笑みを浮かべている彼女が、こんな表情をしているところを、莉玲は初めて見た。
莉玲がいるのは彼女の私室だった。室内にいるのは自分と彼女だけ、他には誰もいない。女官たちは彼女が全員を退出させたため一人もおらず、彼女が産んだばかりの王子もまた、乳母に抱かれてこの部屋を出ている。
彼女はこの国の王妃だった。莉玲は自分が動きを遮っていた兵士たちに罪人の逃亡を幇助した疑いで捕らえられ、そのまま王宮に連れ戻されたのだが、王宮に戻されると莉玲はなぜか、ほとんど兵士に尋問される暇もなく王妃の私室に連れて行かれた。どうやら莉玲の所業を伝え聞いた王妃が自分を私室に連れてくるよう命じたらしい。珍しいことだと莉玲は思った。国軍は国王をはじめとする王族たちの私物で、軍務とは直接の関わりがなくても王族であれば現場の兵士たちに直接命令できるし、命じられれば拒むことのできる軍人はいない。しかし戦時でもない時に軍に直接命令を下す王族は普通いない。軍は軍の統率に基づいて動いており、普段の軍務では命令のできる者は決まっている。いくら王族でも軍人でない者が安易にその統率を乱せば現場が混乱するからだ。にもかかわらず王妃はあえて軍を動かしてまで莉玲を私室に連れてこさせた。いったい王妃の目的はなんだろう。叱責だけとはとても思えないが。
「なぜあんなことをしたの?」
鋭い詰問だったが、莉玲は怯まずに手許で帳面を広げて自分の言葉を書きつけた。〈自分が何をしたのかについては私が最もよく存じ上げております。感情に任せて自分でも信じられないような短慮を起こしてしまいました。どのような処罰も覚悟しております。どうぞ如何様にも処分してください〉
帳面を見せると王妃は険しい表情のまま苛立った様子を見せた。莉玲の腕を摑むと声を荒げる。
「私はそういうことを聞いてるんじゃないの。そんなことを言わせたいためにわざわざこの部屋まで来させたわけじゃないのよ。あなたがどうしてあんな行為に及んだのか、その理由が聞きたいの、知りたいのよ。それ以外のことは言わなくていいの」
莉玲は王妃の言葉に困惑した。なぜ、彼女が自分が秀珠を逃がした理由などに拘るのだろう。その理由如何によっては莉玲の処分の内容を変えさせるつもりなのか。一国の王妃ともあろう人物が、そんな法を乱すようなことをしてもいいものなのだろうか。莉玲は怪訝に思ったし、だとするなら自分は王妃の期待を裏切ることになりそうだとも思った。莉玲の愚行に他人が思わず哀れみたくなるような思いなどない。単に知人が目の前で死ぬという事実が嫌だっただけだ。そしてその程度の思いなら、ああいう場に知人が引き出されたのを見た人間なら誰でも抱くだろう。自分だけがその思いを理由に特別扱いを受ける謂れはない。
莉玲は身振りで筆記をしたい旨を王妃に告げた。王妃は意味を理解してくれたようで、すぐに腕を離してくれる。莉玲は再び帳面に向かった。次第に文字で溢れてきた帳面の、白紙の部分を探して莉玲は当時の自分の思いについて書き綴る。それを見せると、なぜか王妃は眉を顰めた。
「・・あなたが将軍を逃がしたのは、本当にそれだけが理由なの?彼に死んでほしくなかった、本当にそれだけ?そこには何の他意もないのね?」
莉玲は頷いた。それ以外の理由なんてあるはずがない。莉玲は内心で首を傾げた。王妃はいったい、どんな理由で莉玲が短慮を起こしたと思っているのだろう。
「本当にそれだけなのね?貴女は何も知らないのね?」
王妃の念を押すような再三の問いかけに、莉玲は戸惑いながらも頷いた。すると、王妃は何かを安堵したような息を吐く。
「貴女が将軍を逃亡させた理由が、本当にそれだけのことならば問題はないわね。軍補の身分にありながら兵士の軍務を妨害したことは問題だけど、問題はそれだけなのだから貴女はしばらく自分の邸で謹慎していなさい。副将軍には私から話しておくから」
そういって王妃は莉玲から離れようとした。莉玲は咄嗟に王妃の腕を摑んだ。
「なにかしら?」
王妃が咎めるような声を発してきた。莉玲は思わず腕を摑んだ手を引っ込める。身が竦んだのではない。自分の行為が大変な非礼にあたることに気づいたからだ。臣下の分際で王族の行動を妨げるような真似をするなど、許されることではない。
「何か言いたいことがあるの?」
王妃が口調の険しさを緩めないまま訊ねてきた。どうやら莉玲の行動に何かを疑っているらしい王妃は、やはり何か言い足りないことがまだあるのではないかというような顔で莉玲を見下ろしてくる。莉玲は急いで帳面に書きつけた。〈王妃さまは、いったい私がどのような理由で秀珠を逃亡させたのだとお考えになっていらっしゃるのですか?〉
単刀直入な問いかけだった。王妃が莉玲の問いかけに答えてくれる可能性は低い。けど、どうしても訊ねたかった。
「私が自分の考えについて、軍補に説明しなければならない必要を感じないわ」
案の定というべきかどうか、王妃の答えは予想通りのものだった。王妃は無言で莉玲の傍から離れると、大きな円形の卓上から銀製の小さな鈴を取り上げる。軽やかな音が鳴り響くと、すぐに部屋の外に通じる扉が開いて王妃に仕える女官たちが姿を現した。
「軍補が無事に邸に帰れるよう、私邸まで同行してあげなさい。彼女が邸に帰り着いたら、副将軍に連絡して私が軍補に謹慎を命じたから私邸を監視するように、伝えて」