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来客

「あの時は災難だったな」

 その日はそう言って莉玲を訪ねてきた客人があった。

 訪ねてきたのはあの晩餐の席を含めた一連の祝賀行事で初めて会った、あの外交司の長官の若者だった。

「もう、具合はいいのか?」

 莉玲は頷いた。することもなく寝台の上に座って書物を読んでいたところだった。あの晩餐の日からはすでに、三日が経っている。まだ、自邸に戻る許可は出ていなかった。おそらくそれで、彼は自分を訪ねてくることができたのだろう。国王主催の晩餐会であのような事態が起こるなど滅多にあることではないから、帰国の前に当事者の様子を見たかったのかもしれない。

 莉玲は書物を傍らの小卓に置いて、代わりに帳面と(じょう)(ひつ)を手に取った。常筆は細長い硝子製で中に墨汁が注がれている。先端についた尖った金属の先から少しずつ墨汁が染み出して文字を書く道具だった。小さいから携帯しやすく、いちど中を墨汁で満たしておけば数日は墨汁を補充しなくても使用できる。今の莉玲にこれは必需品だった。常筆で書いた文字を目の前の若者に見せる。〈国賓を前にしてこのような姿で迎える不躾をどうぞお許しください。私はあの時の後遺症でまだ声を出すことができませんが、このようなお答えの仕方で宜しければどうぞ、御用件の内容を仰ってください〉

 若者は莉玲に示された文章に眉を顰めた。

「口が利けないの?軍補は足腰も利かないのに?そりゃまた不自由なことだね。不便だろ?いろいろと」

 若者は公式行事の時と比べると、ずいぶん砕けた軽い口調になっていた。宮仕えをするようになってからというもの、久しく聞いていなかったこの種の言葉遣いに、莉玲は僅かに懐かしさを覚えたが、そのことを顔には出さずに問い返した。〈御用件は如何なものでございましょうか?〉

 若者は笑って首を振った。

「べつに大した用件なんてないよ。私は明日にはもう帰るから、その前に見舞いを、と思っただけだ」

 若者は莉玲に歩み寄ってくると、勝手に莉玲の傍に椅子を運んできて腰かける。寝台傍らの小卓に置いた書物に目をやった。

「・・兵法書に軍法書か。将軍職を退いても、まだ熱心にこんな本を読んでるんだな。療養の間くらい、もっと楽しい本を読めばいいのに」

 莉玲は苦笑して帳面に走り書きした。〈実戦に出られないのだから、せめて誰よりも軍備に詳しくないといけない。そうでなくなったら私なんか何の役にも立たなくなる〉

 若者も差し出された帳面を見て苦笑した。

「素晴らしい心構えだな。このまま軍補を私の国まで連れて帰りたくなってきた」

 本気とも冗談ともつかない口調で彼はそう言い、そしてふいに真顔になった。

「それだけ職務に熱心なら、当然、(しゅう)(じゅ)という男のことも聞いてますよね?」

 莉玲は彼の顔を見た。秀珠のことなら勿論知っているが、なぜ今この場で彼のことが話題になるのかが分からない。急いで帳面に書いた。〈勿論秀珠のことならよく知っています。私の後任として将軍の地位に就いた男です。先日の晩餐の席にもいたはずですよ。彼がどうかしましたか?〉

「その彼だそうだな。先日の晩餐で国王の御酒に毒を盛ったのは」

 莉玲は衝撃を感じた。咄嗟にそれはどういうことだと問い返そうとしてふいに襲ってきた激痛に蹲る。彼が慌てたように背をさすりながら声をかけてきた。彼が普通に声をかけられるというのが、なんだか今の莉玲にはひどく恨めしい。

「急にどうした?大丈夫か?」

 莉玲は頷いたが彼には何も答えられなかった。医官の話では、莉玲が声を出せなくなったのは毒物を嚥下した際に喉にある声を出すための器官を傷めたためだろうということだった。ならば、少なくとも莉玲はその器官が完治するまで、声を出すことも言葉を語ることもできない、ということになる。

「医官を呼んできたほうがいいか?」

 痛みに喘ぐ莉玲に彼が心配そうに訊ねてくる。莉玲は首を振った。以前に比べれば、これでもあまり痛まなくなったほうだ。自分の不手際のせいで訪れた苦痛なのだし、しばらく我慢していれば自然に治まる。医官を呼べば痛み止めをくれるだろうが、彼らは本来、莉玲の主治医というわけではないのだから、あまり手を煩わせたくはないし、不用意に発声したことを叱られるなど、さらに嫌だ。

 しばらく痛みを我慢して深呼吸していると、次第に落ち着いてきた。痛みが治まってくると、莉玲は帳面と筆を手に取った。〈驚かせて申し訳ありません。もう大丈夫です。それより、主上の酒杯に毒を盛ったのが秀珠というのは、どういうことですか?私は、そんな話は聞いていません〉

 彼は首を傾げた。

「私もあまり詳しいことは聞いていないよ。所詮は他国の使節の一人にすぎないのでね。ただ、そういう話は伝わってきたので、軍補なら詳しいことを知っているだろうと、ここを訪ねてきたんだが」

 莉玲は首を振った。莉玲は全くそんな話は聞いていない。この三日の間、国王夫妻をはじめ、あの晩餐会に出席していた人々が幾人か莉玲の見舞いに訪れてきたが、誰もそんな話はしていなかった。あの晩餐会に出席していた者たちは、主催の国王を筆頭にこの国の重臣や他国の国賓たちばかりだ。他国の者たちはともかく、この国の者たちが国王の暗殺を謀ろうとした逆賊が判明したなどということを知らなかったとは思えない。彼らが莉玲に何も語らなかったのは、意図的に莉玲に語ることを避けたのだろうか。だが、なぜだろう。秀珠はかつての莉玲の側近で、それは現在も変わりがない。その彼に逆賊の疑いがかかったのならば、本来、真っ先に莉玲に伝えられるべき事柄ではないのか。

 莉玲は帳面に常筆を走らせた。〈貴方は、秀珠のことを誰から聞きましたか?〉

 この問いかけへの返答は曖昧なものになる恐れが高いと莉玲は考えていた。彼が噂などで情報を得ていた場合、誰から聞いたか彼自身がよく覚えていない可能性がある。だが、予想に反して彼の返答は迅速で正確だった。

「我らが神聖(しんせい)(きょう)(こく)の使節団の身辺の世話に遣わされてきた、この国の女官から聞いたよ。昨日になって、主上の御酒に毒を入れた逆賊は捕縛された。逆賊は晩餐会に出席していた秀珠という新任の将軍だ。逆賊は厳正に処罰するから、私たちは安心してこの国で過ごし、帰国していってほしいとね」

 神聖教国というのは目の前の彼の祖国だ。使節団の世話をするために遣わされてきた女官の言葉なら、彼の言っていることは全て事実だろうと思う。けど、だとしたらなぜ、自分の見舞いに訪れたこの国の者たちは皆、自分には何も伝えてこなかったのか。もはや意図的に隠していたとしか思えなかったが、なぜそんなことをしたのだろうか。

 莉玲は考えたが、そのことに対する答えはでなかった。ならばと、帳面に言葉を綴る。自分から訊きに行ったほうがいい。〈貴方にお願いがあります。そこの壁際に置かれている車輪付きの椅子をこちらに持ってきてください〉

 彼は文面を眺めると、厭う素振りなど微塵も見せずに頷いた。

「いいよ。少し待ってて。――あとそれから、私は(しょう)(よう)っていうから。忘れてるのかもしれないけど、長官と呼ぶつもりがないのなら名前で呼んでくれないかな。ここは公式の場じゃないし、私はそもそも貴方と呼ばれるのは好きじゃないんだ」

 莉玲は少し戸惑ったが頷いた。莉玲には如何なる関係も持たない全くの他人の男性を、名前で呼び捨てにしたことがない。かといって、家臣でもないのに非公式な場で長官と呼ぶのには抵抗があった。呼びにくいが、本人が望むのならば仕方がない。帳面に書きつけた。〈では昭陽さま、お願いします〉

 昭陽はすぐに壁際から車輪付きの椅子を運んできてくれた。それだけでなく、ついでだからと、軽々とした感じで莉玲を抱え上げてその椅子に座らせてくれる。莉玲は頭を下げて彼に感謝を表すと自分で車輪を動かして鏡台の傍まで移動し、髪を整えて最低限の身繕いをした。今の莉玲は自力で着替えができないため、簡素な部屋着の上から外出用の上着だけを羽織る。身支度のための品々は迎賓宮の世話をする官が整えてくれていたが、さすがに昭陽に着替えの手伝いまで頼むのは抵抗があるので、下半身も部屋着のままで膝掛けだけをかけた。無作法な装いで外に出るのは気が咎めるが、今だけは勘弁してもらおう、と思う。

 身支度を整えると莉玲は再び寝台まで戻って帳面と常筆を手に取った。当分の間、これらは必需品になりそうだから部屋を出る前に白紙と墨汁がまだ充分にあることを確認する。それらは落とさないよう、椅子の肘掛けに取り付けてある貴重品収納用の布袋の中にまとめてしまった。

 その様子を見ていた昭陽が訊ねてくる。

「どこかに行くのか?」

 莉玲は頷いた。しまったばかりの帳面を取り出して書きつける。〈軍補の執務所に戻ります。昭陽もどうぞ、お戻りになられてください。大事なことをお教えくださいまして、有り難うございました〉

 昭陽は何かを悟ったような顔をした。当然だろう。秀珠が逆賊として捕縛されたと教えた直後に莉玲が自分の執務所に戻るなどと書き出せば、何をするために戻るのかは彼でもだいたい察しがつくのだろう。

「軍補も大変だな。次から次へと。一人で戻れるのか?」

 莉玲は頷いた。窓から見える限りでは、この部屋は一階にあるようだし、迎賓宮から莉玲の執務所まではそれほど遠くない。執務所に着けば莉玲の移動を手伝ってくれる家臣もいる。問題はないはずだ。


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