国王
「――それは、全て誠なのだな」
静かな声が聞こえてきて、莉玲は頷いた。彼の口調からは、微かではあるが彼が莉玲の話に対して不審を抱いていることが伝わってくる。それでも、彼は今の話には概ね納得しているらしかった。とても信じられないし信じたくないが、あいつならばそれぐらいのことは充分にやりかねないだろう、と感じているように、莉玲には見える。彼にとって、祀主が叛意を抱き、将軍を利用して謀反を起こそうとしていたという莉玲の話は、それほど意外を誘うものではなかったのだろうか。
「――それで、君はこの事実をいったいどうするつもりだ?」
彼が訊ねてきて、莉玲はすかさず彼に帳面を見せた。これを問われることは予測できていたから、返答はあらかじめ書いてきていたのだ。〈どうもいたしません。私は今さらこのことを公表したりはしません。王子様が実は主上の御子ではなかったなどと、今から公表すればそれこそ国の恥になります。けれど、公表しないことをこの場で確約申し上げるためには私にも条件がございます。秀珠と冬華、恵昌に出された有罪の判定は、全て誤りであったと認め、彼らの復位を許してください。そして、祀主が二度とこのような混乱を起こすことがないよう、宮中から追放し、今回の件で不快な思いを強いられた神聖教国に対して、主上の御名で正式に謝罪してください〉
「・・三人を無罪にしろ、というわけか」
彼は莉玲の言葉をそのように要約して告げてきた。口調は何となく冷ややかだった。
「彼らの場合は、無罪というのは、少し違うような気もするがな」
〈私の言葉をお聞き届けになってくださらないのでしたら、公表いたしますよ。何もかも全て。勿論、一年前に主上が本当の王子を自らの御手で殺したことも含めてですが〉
言葉を書き終えると、莉玲は帳面を掲げて彼を睨んだ。返答は返ってこなかった。目の前の男は沈黙だけを莉玲に返してくる。
「・・君は、自国の王を脅すつもりか?」
しばらくして、彼は漸く口を開いた。一国の主である彼にとって、己の臣下に脅迫されるというのは許し難いはずだろうに、彼は淡々と受け止めているようだった。寛大というよりも、諦めているのかもしれない。ひょっとしたらあの日にすでに、彼はいつか莉玲がこういう態度に出てくると、覚悟していたのかもしれないから。
莉玲がいま会話しているのは他でもない、この国の王だった。莉玲のことなど、おそらくは欲情の捌け口としてしか見ていないであろう、この国の主。莉玲は今や、彼に対しては憎悪以外の感情がなかった。将軍に昇進させてくれたことへの恩義や感謝すら、とうの昔に消えてしまっている
〈勿論、そうしているつもりですよ。一年前、私は主上のご寝所で主上の御子をお産みいたしました。まだ覚えていらっしゃいますか?とても元気な男の子でしたよね?本来であれば第一王子として世継ぎの座に上げられるはずだった子ですよ?もしかしてもうお忘れですか?そうだとしたらとても悲しいことです。しかし、それも仕方がないのでしょう。主上は私の子の誕生を喜ばしいものと感じてはいらっしゃらないようでしたからね。無理もありません。私は王妃ではありませんし、国王の正妻ではない女が産んだ子が王子となるなど国の恥になりますから、主上は早くお忘れになりたかったはずです。だからこそ主上は私の子の存在が公に知られてしまう前に、生まれたその日に息子の口を、塞いだのでしょうから。おかげで私は一度も自分の息子を、腕に抱くことができませんでした〉
言葉を綴っているあいだ、ずっと莉玲の耳には生まれたばかりの息子が上げる力強い、生命力に溢れた産声が甦っていた。おそらく一生、莉玲には忘れることができないだろう。他ならぬ父親の手で、生命を絶たれた息子のことを。あの子はただ、莉玲が王妃ではなかった、莉玲と国王の関係が公に知られたものではなかった、そんなことのために生命を奪われたのだ。
莉玲は十二の時に、先代の将軍の息子であった秀珠を差し置いて将軍に就任したが、その異例の昇進の理由が、目の前のこの男の勅命以外に何もなかったことは、他ならぬ莉玲がいちばんよく分かっている。将軍に莉玲を置かねばならない必要など、当時の軍には全くなかったのだ。軍人としての経験の長さも武術の腕も、当時から秀珠や彰麗のほうが、莉玲よりも何倍も優れていた。実際、莉玲はあの二人と訓練で幾度となく剣や槍の試合をしたが、一度も勝てた例がない。莉玲は子供で、しかも非力な女で、二人は大人の男だったのだから当然のことだ。結果的に莉玲が神知と称えられるほどに知力で名を馳せることができたのは単に運が良かっただけにすぎない。それでどうしてこの男は莉玲を将軍に任命したのか。単に莉玲を堂々と自分の居室に呼び出せる、他に適当な地位がなかっただけだ。莉玲はすぐにそのことに気づいた。この男は最初から、莉玲のことはそういう目でしか見ていなかったのだから。
〈主上は私の息子の生命を奪った後で、私の望みはなんでも叶えてやるから子供のことは忘れろと仰いましたよね?あの時の言葉は本心ですか?それならば、今この場で私は自分の望みを伝えます。秀珠と冬華と恵昌、この三人の復位を許してください。秀珠が、我が子と暮らせるようにしてあげてください〉
「・・分かった。約束しよう」
国王は静かな声で呟くと、頷いた。彼がこれほどあっさりと莉玲の出した条件を呑むとは思わなかったから、莉玲は僅かに驚いた。今この部屋には国王と莉玲の二人しかいないため、莉玲は最悪の事態まで考えて謁見に臨んでいたのだ。最悪の場合は、莉玲の言葉が国王に全く信用されず、莉玲のほうが逆に王族に対する不敬罪で捕らえられることもありえたからだ。
国王は静かに溜息をついた。
「君が、王子の廃嫡を望まなかったのは意外だったよ。私は、君がそれを要求してきたらどうしようかと、王子が生まれた日から考えていたのだからね。君は、王子を憎んでいて当然だ。本当なら君の息子こそが、世継ぎの王子であるべきだったのだからな」
莉玲は首を傾げた。
〈憎む、とはどういう意味ですか?赤子には、何の罪もありませんよ。大人の都合で子供の人生が捻じ曲げられるようなことだけは、あってはなりませんから〉
国王の眉がぴくりと動いた。
「・・大人の都合、か」
莉玲は頷いた。
「君は、なぜそれほどに献身できるのだ?」
莉玲は首を傾げた。
「不幸な偶然の結果とはいえ、将軍は、君から声を奪った存在のはずだ。いや、無論、実際に酒杯の酒に毒を盛ったのは弟であろうが、そもそも将軍の犯した過ちがなければ、弟とてこのような蛮行はしでかさなかったであろうから、君にとっては将軍も同罪ということになるのではないかな。君の恵昌とかいう家臣に至っては、明確に君の生命を脅かしているはずだ。たとえ彼に君を害する意思がなかったとしても、君は彼の起こした行為によって、一瞬ではあっても生命の危機を感じたのではないか。そんな二人を、君はどうして庇うことができるのだ?普通だったら弟と共に二人も宮廷から追い出そうとするのではないかと思うのだが、君はわざわざ私の部屋まで来て、私に彼らの有罪判定の取り消しや復位までも要求している。なぜ君は、そこまであの二人に献身するのかと思ってね」
〈それだと何か、問題でもありますか?〉
「大いにある。人は何の思惑もなしに他人に利益を図ってやれる生き物ではない。特に相手が、かつて自分に対して害を加えたことのある人間ならなおさら無私で便宜を図ってやるなど不可能なはずだ。すると、君がそれほどに彼らに献身するのには、何か思惑がなければおかしいことになる。いったい君は、どんな思惑で彼らのために動いているのだろうか」
莉玲はやっと彼の言いたいことが理解できた。同時にいかにも彼らしい問いだとも思う。身分の頂点にいる彼に献身する者は、彼から利益を得ようとする者だけなのだから当然なのかもしれなかった。恩義も忠義も、誰よりも向けられる者でありながら、実は彼は誰よりもそんなものの存在を信じていないのかもしれない。
莉玲は首を振ってみせた。
〈思惑など、何もございません。強いていえば、私は秀珠と恵昌の二人に今まで充分以上に助けられてきましたから、その恩義を返したいだけです。他には何もありません〉
国王は苦笑した。
「なるほど。あの二人が羨ましい限りだな。君のような主人はなかなかいないだろう。私が国主でなく平民であったなら、今すぐ軍に志願したかもしれん」
莉玲もその言葉に思わず苦笑してしまった。そして、国王の前で笑うなど、果たしてかつてあったのだろうかと思いながら、目の前の彼に対して、上半身を折って頭を下げる。臣下としての正しい拝礼の作法に則って礼をしてから、帳面に言葉を綴った。
〈では主上にも、いまこの場で、私は与えられた御恩をお返しいたします。平民出身の浮浪児で、傭兵からの成り上がり軍人だった私を、将軍に昇進させていただいた御恩を。私もいつでも、偽りの罪を被る覚悟はございますから〉
国王は眉を顰めた。
「偽りの罪、だと?」
〈主上はその必要があれば、いつでも私の息子のことは公にして構いません。そしてそうなった場合、私は必ず、主上の御身の名誉をお守りするために、自分が関係を結んでいたのは主上ではない、と証言いたします。例えば、祀主であったということにしてもいいでしょう。祀主が逆賊として宮廷を追われるのならば、彼の言葉に耳を傾ける者など誰もいないでしょうし、都合がいいかもしれません。私は祀主と密かに契りを交わして子供を産んでいた。しかし祀主は妻子ある身で、彼と結ばれないことを悟った私は絶望して我が子を道連れに自害しようとし、その結果、私一人だけが生き残ってしまった。主上がもしも、ごく僅かであったとしても私の息子の生命を奪ったことを悔いてくださっているのでしたら、その事実をそういう物語に変えてしまえば、それでご自身の罪をなかったことにできるはずです。私の息子は祀主の子であり、子を手にかけたのは私であって、主上は最初から何事にも関知していなかったことになるのですから。それで御心は晴れるのではないですか。私は主上の罪を代わりに負うことになり、殺人の罪を犯したことになりますが、それでも全く構いません。なぜなら、そうなれば私の息子は確かにこの世に存在していたことになるからです。最初から全く存在すらしなかったことにはなりません。生まれたその日に生命を奪われても、確かにこの世に生まれてきたのだという、その事実さえ、この世に残してあげられれば、私は息子のためにきちんと墓も用意してやれます。母として、我が子を弔ってあげることもできます。けど、今のまま、息子が最初から生まれてもいなかったという状態のままでは、私は無実でいられても、私は息子のために冥福を祈ってやることすら、満足にできません〉
莉玲は言葉を書き終えると、帳面を掲げながら国王に微笑みかけた。国王は言葉を失ったような顔で、呆然と帳面を見つめ、莉玲を見つめ返してくる。莉玲は彼に内心で語りかけた。
――主上、私は、主上にとって意外なことでも申し上げましたか?そうだとしても、これは私の本心です。私は息子を守りたかった。けれど、私は息子の生命さえ、守ってあげることはできなかったんです。ならばせめて、私は息子が確かにこの世に生まれてきていたという、その事実だけでも守ってあげたい。そうでないのなら、いったい私の息子は、何のためにこの世に生まれてきたというのですか?せめて親だけでも、その事実を死守して、その上で息子を弔ってやらねば、あまりにも息子が哀れにすぎます。私は息子が確かにこの世に存在していたという、息子がこの世に唯一残した、その証さえ守れるのならば、いつでも、たとえ罪名が殺人であったとしても、偽りの罪を被ることができますよ。




