外交街
外交街というのは、正式な名前ではない。
王都には他国から交易のためにこの国を訪れてくる商人や、王都の学府に留学してくる学生たちを、彼らの出身国が責任をもって保護し管理ができるようにするための施設や機関ばかりが集う区画がある。さほどに広くはないが、王都の中にあって異邦人ばかりが行き来し、飛び交う言葉のほぼ全てが異国語というこの区画は、王都の住民には異質の極みのような場所に見えていた。ここに住まう者のほとんどが、何らかの形で外交と関わっていることから外交街と呼ばれているのだが、区画自体を統括するための公的な名称はないのだ。ここを訪ねる者に必要なものは、訪ねる施設や機関の個々の名称だけで、全体を統括する名称を必要としていないからだ。
外交街にある施設や機関は全て、この国ではなく他国の所有となっている。法的にも治外法権が認められており、この区画にある施設や機関は、建物ごとに異なる国の統治下に入っていた。したがってこの区画では、街路にいる時は合法だったのに施設の中に入った瞬間に違法行為をしているとして逮捕されるというようなことも起こり得るため、よほどのことがない限り王都の住民は外交街には近寄らず、施設の中に入ることもしない。このような区画は他国にも同様にあり、例えば神聖教国においても、聖都と呼ばれる首都にはこの国から外交の官が出向していて、この国の民の保護を、この国の法に基づいて行っている。外交街を成り立たせている制度は、国と国との間で取り交わされた約定に基づくものなのだ。
外交街はそういう特別な区画だから、莉玲は杏華から秀珠と恵昌が外交街にいると聞いた時、思わず盲点をつかれた、と思ってしまった。恐らく彰麗も同様だろうと思う。軍は基本的に外交街の警邏は行わない。したがって犯罪者が外交街の施設に逃げこんでいた場合、軍の目から完全に隠れることが可能で、莉玲は今までそのことに全く気づいていなかったからだ。気づくよう諫言を受けた覚えがなく、治安維持において盲点ができていたと言う他ないだろう。外交街の防犯や防災は、基本的にそこに施設を構える各国の自警自助に委ねられていて、この国はそれに関知しないことになっているが、もはやそれは言い訳でしかないのだ。何かよほどの緊急事態でも起きれば軍が援助の手を差し伸べることもできるが、それはあくまでも慈善であって、決して義務ではないと、佐帥だった頃に莉玲は当時の将軍からそのように指導されたことがあったが、その指導を今日まで引き継いではならなかったのだろう。今まで莉玲は軍を統帥する上で、外交街のことに関しては、それこそ火災が起きようが殺人が起きようが無視するのを普通にしてきた。以前の将軍もずっとそうしてきていて、それを誰かに咎められたこともなかったから何も感じなかったが、軍が今までずっと外交街に関してそういう扱いを続けてきたから、今回、外交街が犯罪者にとって恰好の隠れ場所になりうるのだという事実が生まれてしまったのだろう。施設内は勿論、街路上も、定期的に警邏するべきだったのだ。莉玲はもう、今さら気づいても遅いのだが、彰麗はこれから、外交街の警邏についてどういう方針を採るのだろう。
莉玲は今後のこの区画の警邏方針について彰麗にどう助言していくかを考えながら、杏華に先導されるようにして、生まれて初めて外交街に入った。周囲の様子を見聞しながら神聖教国の施設に向かう。来客のための案内表示によると、神聖教国の施設は単に国民保護所と呼ばれているようだった。表示の文字は勿論、神聖教国の言語で書かれているが、莉玲は兵長の位に就いていた頃に暇を見つけては王都の私塾に通って勉強していたから最低限、暮らしに必要な程度なら数か国語の会話と読み書きができる。神聖教国の文字も理解することは容易だった。
神聖教国の施設は、外から見る限りでは三階建ての立派な石造りの建物で、いかにも重厚な雰囲気を漂わせている。神聖教国は木造建築が多いと話では聞いているから、なんとなく彼の国の施設としてそぐわない気もしたが、おそらく異国の地に建てるにあたって防犯か防災を重視したためにこのような造作をしているのだろう。入口は地面より少しだけ高くなっていて、出入りの扉までは数段の石段を上らなければ辿り着けないようになっていたが、杏華と彰麗が手伝ってくれたおかげで、莉玲でもすんなりと内部に入ることができた。
施設内に入ると、すぐに大きな広間のような空間が広がっていた。大勢の人々が行き交っている。辺りは喧騒に包まれており、周囲の人々は誰もが盛んに様々なやり取りを交わしていた。広間の様子はこの国の役所とそう変わらないが、聞こえてくる言葉は全て神聖教国の言語で、そのことが何よりも、ここが異国の統治下にある施設だということを雄弁に物語っている気がする。
杏華が付近を歩いていた施設の者と思しき男性に声をかけた。彼女は流暢に神聖教国の言語を操っている。莉玲は僅かに驚いた。宮廷に仕える官吏や貴族なら異国語など、数か国語は話せて当たり前だが、侍女の身分でそれができる者は珍しいからだ。
男性は杏華が話す内容をしばし黙って聞いていたが、やがて大きく頷くと、杏華にしばし待つように告げてから広間の奥のほうに走っていった。言われたとおりにしばらく室内を眺めながら待機していると、それほど長い時間がかからずに先ほどの男性が戻ってくる。奥にお進みくださいと告げて、彼は自ら莉玲たちを先導し始めた。
彼に導かれながら施設の奥に進んでいくと、室内を彩る装飾は徐々に豪華なものに移り変わっていく。施設の人間しか使わない区画に向かっているのかもしれない。最後に辿り着いた扉の造作に至っては、あの晩餐が行われた迎賓宮の広間の入口に匹敵するほど華麗なものだった。男性がその扉に向かって莉玲たちの来訪を告げる。すぐに扉の内側からそれに応じる声が聞こえて、静かに扉が開かれた。扉を開けたのは、やはりここの施設の者と思しき男性で、彼に招かれるようにして莉玲たちは室内に進み入る。なかに入ると、すぐに聞き覚えのある声が明朗な調子で聞こえてきた。
「久しぶりだね。元気そうでよかった。軍補は立て続けに災難に見舞われているから、いろいろと大変だろうけど、それだけは安心したよ」
莉玲は軽く頭を下げた。正式な拝礼の仕草をすることで彼の挨拶に応える。そうしてからここに来るまでに杏華が与えてくれた帳面と常筆で言葉を綴った。〈お久しぶりです。昭陽さまが秀珠と恵昌を保護していると聞いて、ここまで来ましたけれど〉
室内にいたのは他でもない昭陽だった。晩餐の日の後、自分を見舞ってくれたのが彼に会った最後だから、まだそれほど日数が経ったわけではないけれど、会うのはずいぶん久しぶりのような気がする。
昭陽は莉玲の言葉に何故か肩を竦めてみせた。彼は手を振って莉玲たちを連れてきた男性と、室内にいて扉を開けてくれた男性を退出させる。自分以外の施設の者が全て退出してしまうと、昭陽は口を開いた。
「確かに彼らは我が国が保護しているよ。貴国の王族が自分の都合だけで犯した罪を、我が国に擦りつけるつもりでいるのなら、我々とて黙って見過ごすわけにはいかないのでね。祀主には自分の犯した罪を償い、宮廷で流れた不快な噂によって我が国が名誉を傷つけられたことを詫びていただきたい。さもなければ、私は自国の矜持を傷つけられた者として、この国に対し何らかの報復処置を検討せねばならなくなる」
〈お訊ねいたしますが、昭陽さまはどうして、祀主があの謀反を主導した人物だとお考えになられたのですか?秀珠はあの謀反を起こしたのは自分だと告白して、祀主の指示があったことを感じさせるような発言はしていないと思いますが〉
「どうして将軍が謀反の首謀者でないと見抜けたのかって?簡単なことだよ。君を見舞った時に、軍補の病状のことは医官に聞いたから、どういう種類の毒が謀反に使われたのかはその時に分かっていたんだ。毒の種類が分かれば入手経路もある程度は推測できる。私は立場上、流通のことには詳しいから、どういう人物でないと入手できない毒なのかは、それですぐに理解できた。あの毒を調合できるのは祀主しかいないはずだ。では将軍はいったどこから毒を入手したのか?この疑問は謀反を主導していたのが祀主だと考えれば、すぐに氷解する。私に気づけたぐらいだから、貴国の宮廷でこのことに気づいている人間は意外と多いのではないか?事が謀反だから気づいたとしても口を噤む可能性は高いかもしれないけどな。首謀者が王族なら、下手に将軍を擁護などすればどうなるか分からないし、恐ろしくて口になどできないだろう。誰も、給仕をしていただけで断罪された冬華の轍は踏みたくないはずだからな。軍補もそうだったのではないのか?君が気づかなかったとは思えないからな」
莉玲は首を振った。〈気づいていませんでした。私は、自分から声を奪った毒が何の毒だったのか、いっさい知らされていなかったんです。そういう知識にも疎くて、自力で気づくこともできませんでした。今になってそのことがとても悔やまれます。もっと早くに、医官を問い質して毒の正体を探っていればよかった。そうしていたら、刑場に引き出されるようなことになる前に、秀珠を助けられたはずなのに〉
莉玲がそう言葉を綴ると、昭陽は苦笑したように微笑んだ。
「神知の将と呼ばれていた人物にも、見抜けないものがあるものなのだな。――軍補は、将軍の謀反について今ではどう思っている?」
莉玲は首を傾げた。〈どう思う、とは?〉
「将軍がどうして祀主の謀反に協力していたのか、軍補はそのことについてどういう考えを持っているのかな。私の目には、昇進して間もない将軍が謀反を起こす動機なんてないように思えるから、それが疑問で、軍補の考えを聞かせてほしくてね。いくら王族に命じられたとしても、国王を弑せという命令に従わなければならない義務はないはずだし、謀反の実行犯の行き着く末路など、軍人なら誰よりもよく分かっているはずだ。にもかかわらずあえてそんなことに協力していたのはなぜだろうか」
莉玲は昭陽の問いに曖昧に微笑んでみせた。<さあ。私には、分かりかねますが。秀珠はこちらにいらっしゃるのでしょう?本人に直接、お訊ねになったらいかがですか?>
「訊いたよ。彼は、祀主が国王として即位すれば自分を宰相にしてくれる、そういう約束をしていたと言っていた。しかし私には、それは虚言に聞こえたな。そんな安易な口約束で国王に叛意を抱かない者が謀反に協力するはずがない。二人の力関係を思えば、謀反が失敗しても成功しても、実行犯となる将軍は罪の全てを負わされて殺されるだけだろう。彼がそれくらいのことを分かっていなかったとは思えない。ならば、将軍が謀反を企てたのには、彼の言葉とはまた別の動機があるのではないかな。将軍は祀主に命じられたら、それがどんなことであっても絶対に逆らえないよう何か弱みを握られていたのかもしれない。だとしたらそれはどんな弱みなのだろうかと思ってね」
〈そのようなことを私に問われても困ります。見当もつきませんから〉
「本当に?私は軍補なら何か知っているのではないかと思っていたんだが」
昭陽はそう言うと莉玲をじっと見つめてきた。莉玲はあえて真正面から彼を見返した。ここで迂闊に視線を逸らしたりすれば、かえって怪しまれる。
莉玲は本当は、謀反を主導したのが秀珠ではなく祀主だと知った時から、秀珠が祀主に協力を強いられていた理由には見当がついていた。星珠から話を聞いた時は、まさか王族が謀反を起こすはずなどないと思ってしまったが、杏華の言葉によって祀主が秀珠を主導していたことが事実と分かると、秀珠が祀主に従っていた理由は一つしか思い浮かぶものがない。莉玲であるからこそ推察できることだった。しかし推察ができても、莉玲にはそのことを公にすることができない。してはならない、とも思っていた。公にしたところで、何か莉玲に実害があるものでもないのだが、王子の生命に危険が及ぶ恐れがあるからだ。生まれたばかりの赤ん坊に罪はない。子供の生命を守れるかどうかは、たぶん莉玲の意思ひとつにかかっているのだ。
おそらく、祀主は何かの弾みに王子の本当の出自に気づいたのだろう。祀主は国王の実の弟だ。国王の私室にも立ち入ることができるのだから、気づいたとしても不思議はない。そして莉玲と国王の本当の関係と、王妃と秀珠の繋がりを知ったのなら、きっと推測は容易だったはずだ。王子が国王の実子ではなく、秀珠の息子であることなど。
王妃が秀珠と不義密通していたことを、莉玲はよく知っていた。どうしてそういう関係になったのかまではさすがに分からないが、王妃は確か、代々作司を務める名家の姫君だったはずだから、同じように武門の名家の出である秀珠と個人的な繋がりを、元々から持っていたとしても特に不思議なことはなく、ならばその繋がりが恋仲にまで発展することだって充分にありうることだろう。作司は軍に提供される装備などを研究し製造し、あるいは修繕したりすることを主な職務としているから常に軍とは関わりが深いのだ。そして国王は、王妃が王子を身籠った頃にはすでに王妃に女性としての関心を全く向けていなかった。国王夫妻はもうかなり以前から関係が冷えていて、莉玲は王妃の懐妊が分かると同時に、子供の父親が誰なのかも悟っていた。たぶん国王も同様だろうと思う。それでも国王は王子を世継ぎと認めた。おそらく国王にとっては生まれた子供の血筋の由来よりも、王妃の不義密通が明らかとなることで自身の罪まで暴露されてしまうことを恐れたのだと、莉玲はそう解釈している。
国王は一度、生まれた子供を世継ぎの王子と認めてしまった以上は、何が起ころうとその決定を覆すようなことはしないだろう。莉玲もわざわざ、国王の犯した罪を告発するつもりはない。そんなことをしても自分が惨めになるだけであることは、莉玲は誰よりもよく分かっていたからだ。しかし秀珠と王妃は、祀主に自分たちの犯した行為が知られてしまったとなれば、正気ではいられなかっただろう。王妃と臣下の身分を超えて不義密通していただけでも許されない行いなのに、その結果として王妃が子を身籠り、さらに国王によって生まれた子が世継ぎと認定されているのだ。二人の罪はもはや謀反など遥かに凌ぐ重罪といえる。正当な王統にない子供が王子として玉座を継ぐようなことがあれば、この国の根幹が乱れるからだ。発覚すれば秀珠は勿論、王妃も王子も生命はない。秀珠の家は、家系に連なる者の全てが絶やされてしまうことだってありうる。それを免れるためなら、たとえ謀反の実行であっても秀珠は引き受けただろう。ひょっとしたら彼はそもそも謀反の罪など犯しておらず、本当に謀反を起こしたのは祀主で、秀珠は祀主の罪を身代わりで自白しただけなのではないか。それを王妃は何もかもを承知で故意に静観していたのかもしれない。命じられていたのか本人の意思だったのか、どちらなのかは分からないが王妃は秀珠よりも我が子を守ることのほうを優先したのだ。
莉玲がそこまでを考えていると、ふいに酒場でのことが思い出されてきた。越境者として知られていた男が、秀珠が来店した直後に行方を眩ましたというあの話が耳に甦ってくる。秀珠はやはり、彰麗が言っていたとおり、自身が王都に留まり続けることが容易になるように越境を依頼したのではないか。しかしその理由は、決して彼自身の逃亡を容易にするためではないだろう。大金を払ったにしろ弱みを握って脅したにしろ、秀珠が越境者に国境を越えさせたのは、軍の目を国外と国境付近に向けさせ、王宮の動向を探りやすくするためだったのではないのか。祀主が王宮にいる以上、王子の生命が今後も脅かされる恐れがある。だから彼は王子を守るために宮廷の様子を知ろうとしていたのかもしれない。だがもしもそれで、再び祀主に不穏な動きが出てきた時には彼はどうするつもりだったのだろう。すでに自分には逆賊の烙印が捺されているのだからと、今度こそ本当に、躊躇いもなく自らの意思を持って謀反を起こしたのだろうか。冬華は秀珠や王子のことを、いったいどこまで知っているのだろう。姉弟なのだから、ある程度までは把握していておかしくないが、彼女は全く何も関知していなかった可能性もある。だからあの時、とにかく死にたくないあまりに咄嗟に秀珠を連れて刑場を逃げ出したのではないか。莉玲はそう推測してみた。こう考えると辻褄はあうような気がした。自分の考えが、真実かもしれないと思えるほどに。
――自ら生命を絶つようなことをしたら駄目だ。歩けなくなったからといって、莉玲の可能性がなくなるわけじゃない。自分の生命を自分で絶つのは、その可能性を自ら棄てることだ。それがどれほど愚かなことであるか、神知と称えられるほどの将軍がなぜ気づかない。
かつて秀珠は、足腰が利かないことで全てに絶望して自ら死のうとしていた莉玲を、そう言って叱った。そして今も使用しているこの特殊な車輪付きの移動道具を誂えてくれた。莉玲でも自力で自由に動けるように、莉玲が自分の可能性を自ら棄ててしまわないように。しかし今はどうだろう。自らの生命と可能性を、自らで絶とうとしていたのは彼のほうではないのか。秀珠が刑場まで行く必要は全くなかったのだ。自分が短慮を起こさなければ、あのまま秀珠は死んでいて、そうなっていたら、かえって王子の生命は危険に陥っていたことが、なぜ彼に分からなかったのだろう。祀主が秀珠の死後に、王子の出自を公表しないなんて保証はどこにもない。秀珠が死んだ後でそのことが公表されれば、王妃一人では王子を守りきれないのではないのか。たぶん、王妃は何もかも話さなければならなくなっていただろう。そうなっていたら、国王とて、王子の廃嫡は決断せねばならなかっただろうし、そうなれば王子の生命が奪われることになるのは自明の理だ。どうして自分に一言、言ってくれなかったのだろう。莉玲が秀珠と王妃の関係を知っていたように、秀珠も莉玲と国王の関係のことは知っていたはずなのに。莉玲なら秀珠が祀主の脅迫などに屈さずにすむ手段を考えてやれたし実行もしてやれたのだ。不本意ではない。何の罪もない赤ん坊が殺されたり、逆賊が宮廷を暗躍している状況が続くより、ずっとましだ。
「――あの、お話しのお邪魔をするような真似をして申し訳ないとは思いますけれど・・」
杏華の遠慮がちな声が聞こえてきて、莉玲は自身の思考から覚めた。思わず彼女を振り返ると、全員の視線が杏華に集中している。杏華はその視線に僅かに居心地の悪そうな顔をしたものの、静かに言葉を紡ぎ出した。
「・・私には、お一つだけどうしても、昭陽さまにお伺いしたいことがあるんです。昭陽さまはどうして、将軍だけでなく恵昌も保護しようと思われたのですか?どうして、恵昌が莉玲さまを襲ったのも、祀主の主導によるもので、将軍の謀反とも関連していると見抜けたのですか?普通に考えれば、恵昌のしたことは大義も何もない単なる私怨、というより逆恨みにしか見えないと思うのですが」
杏華のその言葉で、莉玲は思わず昭陽の様子を窺ってしまった。確かにその通りだ。莉玲の邸が恵昌によって放火されたのが祀主の意思によるもので、祀主が恵昌の場合も、杏華や秀珠と同じように、発覚したら本人の身の破滅を招くような弱みを握って脅していた。だからこそ、あの犯行が起きた。そして祀主がそんなことをする理由は、莉玲が刑場で秀珠と冬華を逃がしたことで、祀主が自分が謀反の首謀者であることを莉玲に気づかれたのではと恐れたからではないかなどと、他国の人間である昭陽が表面化した事実だけで気づくことなど不可能に思える。いったいどうして、昭陽は莉玲よりも早く、その事実を悟ることができたのだ。
そうだね、と昭陽は頷いた。
「私も最初はそう思っていたよ。恵昌の起こしたことは私も人伝に聞いて知っていたが、謀反の件に関係はないだろうと思っていた。私が関係があると知っていたのは将軍が莉玲を連れてきて、君と会ってからだよ。将軍も刑場で読み上げられる罪状で初めて確信できたらしい。君は刑場にいたのだろう?それならば刑場で読み上げられる恵昌の罪状で、恵昌が過去に起こしたという重大な事件を引き合いに出して彼の極悪さを強調するような言葉があったことは覚えているか?将軍はその言葉で恵昌の背後に祀主がいることを悟ったのだそうだ。将軍が言うには恵昌は過去にいかなる事件も起こしていないそうで、公的な彼は清廉そのものの経歴をしている。にもかかわらず罪状朗読では彼が過去にも重大な事件を引き起こしたことのある極悪人だとの発言があった。これはいったいどういうことなのか?罪状に書かれた事件とはいったい何の事件なのか?将軍にもその事件が何の事件なのか正確には分からなかったらしいが、彼に言わせると分からないことがかえって事態を雄弁に語っているのだそうだ。こうした事態が起こり得るのは二つの場合だけで、一つは貴国の司法大臣が恵昌の極悪さを強調し死刑の正当性をより高めるために罪状を偽りの罪で装飾した場合、もう一つは、実際に恵昌は過去に何某かの事件を起こしたことがあり、その事件は発生を知っている者が故意に揉み消しを謀っていたもので、それ故にこれまでは公にされることがなかったが、今回、恵昌の死刑が執行されるにあたってその誰かが司法大臣に事件の存在を報せた場合だ。この二つの場合しか考えられないということだった。恵昌が捕縛された罪名を考えれば、司法大臣がわざわざ罪状を装飾しなければならない必要は皆無なのだそうで、ならば恵昌は実際に過去に何かの事件を起こしていたのではないか、それを誰かに揉み消されていたために今までその責を問われたことがなかったが、そのために、その誰かによって強請られることになって、軍補を襲わねばならなくなってしまったのではないか。ではその誰かとは誰なのだろう。将軍はそれを考えて、そして恵昌の背後に祀主がいることを悟ったのだそうだ。いま宮廷で、軍補をそこまでしてでも排除したいと思っているのは彼だけだろうとね」
「――それは、秀珠は自分が逃げた時点で、将軍が軍補によって逃げることができたのは彼女の短慮によるものではなく、彼女が明確な意思を持って彼を匿うために逃がしたのだと、周囲が解釈すると認識していたからこそ出てきた考えですか?周囲がそう解釈すれば、本当の首謀者である祀主は何が何でも莉玲を排除して、間違っても彼女が主上に祀主の疑惑を伝えることができないようにするだろうと、秀珠はそこまで予測していたのですか?その秀珠の言葉を信じて恵昌を保護したのなら当然、貴方は秀珠の推測が真実であるかどうか、恵昌が過去にどのような事件を起こしていたのかまでも御存知ですよね?恵昌は過去にいったいどのような事件を起こしたのですか?私はここにいる星珠から将軍の謀反に祀主が関与していた疑惑があることを伝えられてから、秀珠が外交街にいるかもしれないとは考えておりましたが、それはあくまでも秀珠が国王の御身を脅かす逆賊の情報を武器に他国に亡命を図るつもりだからかもしれないと考えていたからです。祀主の叛意を知り、それを巧く利用して国王の御身を救ったという実績を作り上げることができれば、今後の外交で有利に事を進められると考える国があるかもしれない、それならばその国に対して情報と引き換えに自身の亡命を約束させることも可能になるのではないかと秀珠が考えた恐れもあると、私が推測したからで、決してその時は恵昌の犯行までもあの謀反や祀主に関連しているとは思っておりませんでした。貴方は恵昌の口から、彼の犯罪が祀主や秀珠とどう関係しているのか、お聞きになっておりますか?」
彰麗が昭陽にそう訊ねた。昭陽はそれに曖昧に頷く。
「まあ一応は聞いているよ。あまり詳しくは聞き取っていないけど、概要ぐらいは直接、恵昌本人に聞いた。彼は昔、人を殺したことがあるのだそうだ。もう十年以上も前のことらしい。王都の近く、紫流とかいう地方の近郊の街で、彼は夫婦を殺したことがあって、恵昌はそのことを公表されて捕まりたくなければ自分の命令に従えと祀主に脅されてたんだそうだ。それで命令の通りに祀主から眠り薬を受け取って段取りを整えて、軍補を襲うことにしたが、勿論そういうわけだから軍補を殺す意図は彼にはなかったそうだ。それで軍補を直接襲うことを避け、軍補に危険が迫るよりも前に自分が捕まるような犯行を計画したらしい。聞いた話では彼が事を起こした当日、軍補の邸の周囲には大勢の軍人がいたそうだな?だからとにかく派手に事を起こせば早く捕まるだろうし、万一そうでなかったとしてもその時は自分が早々に自白すればいいだけだと思ったそうだ。どうせ自分の犯罪はすでに知られているのだから、何をしようともう先は見えている。ならばさっさと捕まって刑場で死んでしまいたい。自分が祀主の命令を無視しても結果は同じになるし、そのほうが軍補には最善の行いとなるが、それだと軍補の経歴に瑕がつくんじゃないかと心配で、不安だったと言っていた。祀主に逆らって捕まれば、軍補が殺人犯を故意に隠匿していたとして宮廷で不利な立場に追い込まれる恐れもあるんじゃないかと思ったんだろうな。彼は自分が、軍補を殺そうとして未遂で捕まれば、軍補はただ家臣に裏切られた哀れな主人ということになって、同情こそ得られても決して不利な立場に追いやられることにはならないだろうとも言っていたからね。私には、彼は人を殺したことがあるとは言っても、人としての良心は失っていないように見えたよ。彼がどこまで本心を語ったかは私には不明だから断言は避けるが、彼は襲撃を決行する時も、絶対に軍補に危険が及ばないように取り計らって、それでももしも危なくなるようならその時は自ら軍補を助け出すことにしていたらしい。これ以上詳しいことは、後でここにあの三人を連れてくるから、直接恵昌に聞いてみてくれ。あまり私が他人の心情について代弁を続けるのも考えものだろうしな。――ん?どうした?」
ふいに昭陽が莉玲を覗き込むようにした。それで彰麗も彼女のほうを振り返る。そしてようやく、彰麗は莉玲が身体を震わせていることに気づいた。莉玲は何かに怯えたように身を震わせながら、懸命に平静を装おうとしている。彰麗は久しく、莉玲のこんな表情は戦場でも見たことがない。そのためいったい彼女が何に対して怯えているのか、咄嗟に思いつかなかった。
「――莉玲、大丈夫か?」
彰麗は屈み込んで莉玲に訊ねた。莉玲は彰麗と視線が合うと、何かを懸命に訴えようとするような様子を見せ始める。彼女は必死の形相で唇を動かしては、荒い息を吐いていた。何かを伝えたいが、巧く言葉が出ずに焦っているように、彰麗には見える。彰麗が怪訝に思い、莉玲の膝の上の帳面を取り上げてこれに書きつけなさいと伝えると、彼女は自分が唖者であることを急に思い出したように帳面と常筆を握って、見るからに必死の様子で文字を綴りはじめた。彰麗は莉玲のそうした様子を黙って見守っていた。いったい彼女は、何をそれほどに焦って伝えたいのだろう。
「――悪い。ひょっとして私が軽々しく恵昌を擁護するような発言をしたのが不安だったのか?どんな事情があったにせよ、恵昌は人を殺した男で、軍補を襲った男だ。そんな男が他国の人間に保護されていて、保護している当の人物が彼を擁護するような発言をしていれば、たとえ軍補でも不安に思うのだろう。済まない、私の配慮が足りなかった。軍補を怯えさせるつもりはなかったんだ。私は祀主の謝罪の言葉さえ受け取れればあの連中のことはすぐに貴国に引き渡すし、その後は貴国の宮廷のまともな人間が、恵昌のことはきちんと処断してくれるだろう。だから軍補は何も不安に思わなくてもいいんだ」
昭陽が自分を宥めようとする声が聞こえてきた。莉玲は彼に対して、そういうことではないのだと、大きく首を振って答えて見せる。何とかして彼に自分の意思を伝えたかったが、動揺からか手が震えて巧く常筆を動かせなかった。やっと書けた文字も、乱れて自分にすらよく読めない。彰麗が自分を抱き寄せて肩を撫でてくれ、何とか落ち着かせようとしてくれるものの、莉玲の心は逸ったまま、いっこうに静まらなかった。言葉が出せないことが恨めしくて仕方がない。莉玲は本当はこの場で声を大にして叫んでしまいたかったのだ。恵昌は誰も殺していないのだと。あの日、莉玲の両親を殺したのは恵昌ではないのだ。
心の奥に、あの日の光景が甦ってくる。
莉玲はそもそも、紫流近郊の小さな街で生まれた。両親はどちらもありふれた装飾職人だったと思う。依頼を受けて建物や家具に絵を描いたり小さな彫刻を施したり、衣服に小さな刺繍をつけたりする職人だ。確かにそうだったかと問われれば断言はできないものの、家にいた頃に恵昌がそういう装飾の仕事をしているのを何度も間近で見たことがあったから、そうなのだと思う。莉玲はもう、両親のことは勿論、郷里に関することは思い出したくもなかった。
莉玲は両親のどちらにも可愛がられた記憶がない。母は莉玲にいっさい、関心を示そうとはしなかった。それでも暴力を振るわれることがなかっただけ、父よりはましだったかもしれない。父は莉玲を殴ることにも全く躊躇を見せなかった。莉玲はいつも些細なことで殴られたし、夜が来ればそのたびに性的な奉仕も強要されてきた。莉玲にとって父はこの世で最も恐ろしい存在だった。いつ殴られるか、いつ罵られるか分からず、郷里では恐怖しか感じたことがない。
それでも莉玲が無事に郷里で生きてこられたのは、全て恵昌がいてくれたおかげだった。当時の彼は徒弟で、職人として修業するために莉玲の生家に入っていたのだ。この国では職人は概ね自らの弟子を徒弟として家に入れて技術を指導し、生活の面倒まで見るのが普通で、徒弟は自らの親方でもある職人から技術の指導を受け、日々の暮らしから職人として独立後の資金まで面倒を見てもらう代わりに、親方の家内で生じる家事を含めた様々な雑事をこなすことで親方への謝礼とするのが、一般的な慣習なのだ。商人の見習いや、芸人の下積みにも、多少の違いはあれど似たような慣習があり、先に技術を習得して独立している年長者が、そうでない若者を自らの後進として指導することには変わりがない。恵昌も最初は、その慣習を利用して将来は職人として独立するつもりでいたのだろう。彼は下級貴族の生まれだが、貴族に生まれても生涯を通して貴族であり続けられるのは家を継げる長男だけのため、家督を継げない次男以下の子息たちは、どうしたっていずれは家を出て、自力で生計を立てていかなければならなくなるからだ。そうして自立を強いられる大半の貴族の子息たちは、親兄弟の地位や名前に頼って官吏や中位の軍人などに職を得るか、王都で商いを興すものなのだが、腕に自信があればあえて市井の平民となって、職人や芸人となる道を選ぶ者もいるのだ。恵昌はそうした道を辿ろうとしていたのだろうし、彼が一時でも、職人となる道を辿ろうとしてくれたからこそ、莉玲は今も生きていられるのだ。
恵昌は生家にあって、唯一の莉玲の味方であり庇護者だった。小さい頃に莉玲をずっと世話してくれたのは彼だ。恵昌だけは決して莉玲を殴ることも、罵ることもしなかったのだ。邪険に扱うことなどなく、いつも優しく抱き上げてくれ、慈しんでくれていた。もしも彼がいなかったらと思うと、莉玲は今でも恐怖を感じる。間違いなく自分は、他ならぬ両親の手によって、とうの昔に殺されていたであろうことが簡単に想像できるからだ。
あれはいったい、自分がいくつの時だったのだろうか。あの日も確か、深夜に莉玲は父に性的な奉仕を強要されていた。その際に、いったい何に激昂したのか父に殴られて、反射的に布団で自分の身を守ろうとして、父と揉み合いになったのだ。そしてその結果、気がついたら莉玲の身体の下には布団と、父の顔があった。莉玲が我に返った時には、父はすでに動かなくなっていたのだ。布団で口と鼻を押さえられたせいで窒息したのだろうとは、後に恵昌に聞いた。
母と恵昌が父の寝室に駆けつけてきたのはその時のことだった。かなり騒々しい物音がしたはずだから、常には莉玲に無関心だった母も、さすがにあの夜ばかりは異常を感じて様子を見てみることにしたのかもしれない。母は莉玲と、動かなくなった父の姿を見て、状況を悟ったようだった。母は莉玲を人殺しと罵った。真正面から母の顔を見たのも、母に直接、言葉をかけてもらったのも、莉玲にとってはそれが生まれてはじめてのことだった。母は恐ろしい形相で莉玲に駆け寄ってきた。恵昌が呆然としている間に母は莉玲に迫ってきて、莉玲は自分の母親から逃れようと、無我夢中で近くにあったものを手当たり次第に摑んでは投げたり振り回したりした。そのなかの一つに、鋏もあった。髪の手入れなどに使われる鋭利なもので、莉玲は咄嗟にそれを自分の母親めがけて振り下ろしたのだ。
母の顔から、鮮血が飛び散ったのを莉玲は確かに見た。
それ以降のことは、莉玲もよく覚えていない。次に記憶しているのは、血まみれになった母の亡骸だった。あの日が人生で初めて、莉玲が死体というものを見た日となったのだ。
突発的に起こった異常な事態に、幼い莉玲にはどうしたらいいか分からなかった。それでも、そんな時でも恵昌は莉玲を助けてくれたのだ。それまで呆然としていた彼は、ふいに我に返ったような顔になると、異常な事態にひたすら泣きじゃくることしかできなかった莉玲に、慌てたように駆け寄ってきて抱きしめてくれた。彼は決して莉玲の行動を責めたりはしなかった。逆に莉玲が感じていた恐怖を慰めてくれ、二度と莉玲が父母に苦しめられることはないから、安心していいんだよとまで言ったのだ。それから彼はこうも言った。莉玲は誰も殺していない。二人を殺したのは自分だからね、と。
――莉玲は何も悪くないんだ。この二人を殺したのは私で、私はずっとこいつらを殺したかったんだよ。私はこの二人をずっと憎んでいた。こいつらには最初から徒弟を育てる気なんてなかったんだ。技術はいっさい教えず、家内の雑事だけを押しつけて、挙句の果てには私の作った品を自分が作ったとして客に売り渡していたんだからね。徒弟はいちど親方の家に入ったら、親方の同意がないと師弟関係が解消されないし、解消されないとどんなに腕が良くても職人として独立できないんだよ。こいつらはそれを利用して徒弟をただ無報酬で働いてくれる奴隷にしようとしていたんだ。こいつらがいる限り、私は一生をかけても独立ができなかったし、この家を出ることもできなかった。だから殺したんだ。そういうことだよ。いま莉玲が見たものは、私がそういう理由で起こした行為の結果なんだ。これからそういうことになるんだからね。だから莉玲は何も悪くない。今夜起きたことは、全てそういうことになるのだから、それ以外のことは忘れてしまいなさい。
恵昌は莉玲に言い聞かせるようにそう語りかけると、家の炊事場から包丁を持ってきた。そしてその包丁で莉玲の両親の死体を切り裂いたのだ。まるであたかも、二人は彼が殺したかのように偽装するために。誰の目からもそういうふうに見えるようにするために、彼は死体を裂いたのだ。莉玲は彼のそうした一連の行動をずっと間近で見ていたが、自分の両親の死体が切り裂かれるという光景に、特に何も感じるものはなかった。あの時点で莉玲の心は、何かが麻痺して正常には動かなくなっていたのだろう、と思う。
恵昌が偽装のための工作をあらかた終えてしまうと、莉玲は彼に抱えられるようにして家を逃げ出した。そういえばその時のことだった。あの夜、確かに莉玲は、夜会の帰りのような華やかな装いをした、貴人の馬車を見かけた。
今にして思えば、あの時に見たあの馬車に乗っていたのが祀主だったのではないか。おそらく通りかかったのは偶然だったのだろうが、祀主が自分たちを見ていたとしたら、深夜に逃げ出すように家を出て行く男と子供を必ず不審に思ったはずだ。そして、もしもその後で、彼がその家のなかから夫婦の「惨殺」死体が見つかったという話を聞いたなら、祀主が恵昌を殺人犯だと判断しても何も不思議なことはない。それでも恵昌は今日まで捕縛されたりはしていないし、莉玲も今まで、誰からもあの日のことについては問い質されたりしたことがない。それはひょっとしたら、祀主が自分が目撃したものを、何かの時には恵昌を思うままに操れる強力な弱みとして使えるとして、意図的に己の内心で秘匿していたからではないのか。だからこそ今まで、自分は平穏に暮らしていられたのではないのか。
莉玲は目許が熱くなってくるのを感じた。目の前にいる彰麗が驚いたような表情を浮かべるのがぼやけて見える。それでようやく、莉玲は自分が涙を流していることに気づいた。恵昌は自分で主張していたように、莉玲のことが嫌いで殺そうとしていたのではなかったのだ。彼は彼なりに莉玲を必死で守ろうとしてくれただけだったのだ。莉玲の両親を殺したのが彼でない以上、彼はそのことで祀主に脅されたとしても、発覚を恐れて祀主の要求に応じなければならない必要はどこにもなかった。彼はいつでも自身の潔白を主張することができたのだ。けれど彼がそうしていたら、莉玲は親殺しと言われて今頃は宮廷での立場を大きく変えていただろう。だから彼は、莉玲が宮廷でどんな不利益も被ることがないよう、自分が何も言わないことで莉玲を守ろうとしてくれたのだ。そして彼のその意思が変わることはなかった。たとえ自分が刑場に立つことになっても。
莉玲は今日初めて、何も言わないからこそ守れるものがあるのだということを知った。秀珠は息子の生命を守るために、恵昌は自分の立場を守るために罪を犯し、あるいは犯してもいない罪を犯したと偽った。自分一人が何も語らずにいることで、誰かの生命を、立場を守れることがあるのだ。祀主とて、叛意を抱いて脅迫の材料にさえ使わなければ、莉玲や杏華や、王子の立場を守る一役となれたのだろう。本人の考えひとつで、物言わぬ存在は守護者にも脅迫者にもなりえるのだ。祀主は脅迫者となる道を選んだ。秀珠と恵昌は偽りの罪を抱えてまでも、他者を守り続ける道を選んだ。自分はどうするべきか、と莉玲は思った。全てを知った今、自分は彼らを守るためにいったい、何をしてやれるのだろう。




