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杏華

 莉玲は自分の身体が揺れている感覚を感じて目を覚ました。

 辺りは暗かった。しかし真の闇と呼べるほど暗くはない。どこからか微かに、ほんの微かに光が射してきている。莉玲は自分の両腕を動かしてみた。それで自分が縛られたりしているわけではないこと、どこか狭いところに押しこめられた状態にあることを理解する。自分の周りには布しかなかった。感触からすると麻の布で、それほど上等な布ではない。衣に使うような布ではなく荷物の運搬に使うような粗末な布だった。腕をどんなに激しく動かしても布が取り払われることはなく、そうしているうちに自分がどうやら大きな布袋のようなもののなかに詰め込まれているらしいことを認識することができた。布袋の口の部分はしっかりと閉じられている。莉玲は何者かの手によって荷物も同然に運搬されているのだ。それで自分は誰かに拉致されていると瞬時に理解する。そうでなければこんな方法で人間を運ぶはずがない。

 莉玲はその場でうつ伏せになり、両腕を伸ばして閉じられた袋の口を自ら開けようと試行錯誤してみた。すると、思いのほか簡単に袋の口は開く。眩しい光が射しこんできた。実際にはさほどの光は射してきていないのだろうが、暗いところに慣れた莉玲の目にはとても明るく感じられる。莉玲は目が慣れるのを待って袋から這い出した。誰かが待ち構えていて、出たところを襲われる可能性は考えなかった。その危険があるのだったら、莉玲が袋の中で身動きしている時に外から何らかの攻撃があっただろう。そんなことはされなかった。

 袋から這い出すと、自分がいるのは全体が板張りの粗末な部屋だと分かった。窓はなく、時おり微かに縦に振動する。建物の一室ではなく荷馬車の荷台かもしれない。周囲には莉玲が詰めこめられていた袋以外にも雑多な品々があったが、他に人の姿はなかった。

 莉玲は安堵の息を吐き、そしてふいに彰麗と星珠はどうしたのだろうと思った。二人も莉玲のように誰かに捕らえられているのだろうか。それとも二人は無事で、莉玲の行方を捜しているのだろうか。莉玲には自分のことよりも二人がどうなったかのほうが何倍も気懸かりだった。もしも彼らも捕らえられているのだとしたら、一刻も早く救出せねばならない。そうでないのなら、できるだけ早く、二人に自分の無事を報せねば。

 莉玲は両腕を使って身体の位置を変えながら壁際に近づいていった。脱出できるところがあるかどうか辺りを手探りする。それで莉玲はこの部屋の壁には窓がないのではなく、内側から板で窓を塞いでいるだけなのだと気づいた。街道を往来する荷馬車によく見られる造作だ。常には窓を塞いで荷馬車として使い、運ぶ荷物がない時には窓を開けて通気を良くし、普通に旅客を乗せて小金を得る。やはり、ここはそうした用途に使われる馬車の中なのだ。

 莉玲はどうにかしてこの板を取り外し、窓から外に出られないだろうかと思案してみた。板に手をかけ、力を込めてみる。すると、たったそれだけのことで意外なほど呆気なく板は動いた。しっかりと固定されているわけではないらしい。拉致した人間を運んでいる馬車にしては随分と杜撰な処置だった。どうせ逃げるなんてできないだろうと判断していたのだろうか。だとしたら莉玲には都合が良かった。おかげで莉玲でも簡単に窓を開放させることができる。

 窓を開け放つと莉玲は慎重に外を窺った。とりあえず見える範囲、攻撃できる範囲には敵らしき姿は見当たらない。逃げるなら今だと莉玲は判断した。両手で窓枠をつかみ、懸垂する要領で身体を引き上げようとするが、巧くできない。何度も繰り返しているうちに窓枠をつかんだ指を滑らせて転落してしまった。床に腰を強打し、思わず呻く。しかしその時、ふいに何かが身動きするような音を耳が拾って、莉玲は車内を振り返った。

 車内には誰もいない。いないはずだ。誰の姿も見えないのだから。にもかかわらず何かが身動きするような音と気配がある。何の音だろうと莉玲は目を凝らし、それらの音が車内に積まれた布袋の一部からしていることに気づいた。莉玲が詰め込まれていたような大きな布袋だ。ふいに嫌な予感を抱いて、莉玲はそちらに這い寄っていく。物音がする布袋の口を縛った紐を緩めると、中から視線が飛び出してきた。

 布袋の中では星珠が口を塞がれ両腕を縛られた状態で蹲っていた。

 莉玲は驚愕した。急いで袋の中に手を伸ばすと、星珠の腕を縛っている縄を解く。腕の縛めが解かれると、星珠は自由になった手足を動かして自力で袋の外に出てきた。特に彼女が大きな怪我をしている様子はなく、口許を覆っている布は自分で外してその場に投げ捨てた。忌々しそうなものを見る目で星珠は自分が押しこめられていた布袋を一瞥すると、車内を見渡し、ここがどこだか確かめるような素振りをみせる。そしてようやく、彼女は莉玲を見た。小声で囁くように語りかけてくる。

「お怪我はございませんか?」

 莉玲はうなずいた。すると星珠は安堵したような表情を見せ、莉玲に背を向ける。自分に負ぶさるように指示してきた。

「一刻も早くここから逃げましょう。私たちは誘拐されているわけですから、役所か、警邏中の兵士に保護を求めるのが最良ですよね。急ぎますよ」

 莉玲は首を振った。星珠の袖をつかんで車内の一隅を指差す。

 星珠は首を傾げて莉玲が指差したほうを見た。そして、彼女は眉を顰める。奥のほうにまだ、独りでに揺れ動く不審な布袋があるのだ。それを見て取って、星珠は慌てたようにそちらに駆け寄る。莉玲は彼女が袋の口を開けるのを見守っていた。すぐに彰麗の姿が袋から現れ、莉玲はほっと息をつく。見たところ、彼も特に大きな怪我をしている様子がない。彰麗は星珠に自身の縛めを解いてもらうと、すぐに莉玲の存在にも気づいたらしくこちらに駆け寄ってきた。莉玲を抱え上げて辺りを見渡し、先ほど莉玲が開けたばかりの窓に歩み寄っていく。外の様子を僅かに窺う素振りを見せてから、彼は星珠を振り返った。

「後に続け」

 彰麗はそう言い放つと同時に、勢いをつけて窓から飛び降りた。


 落下は一瞬だった。 

 彰麗は走行中の馬車から飛び下りると、すぐに路傍に着地しようとしたが、莉玲を抱えているためか体勢を崩し、足を滑らせた。辛うじて転倒することは防げたものの、今のは確実に大きな隙になったと自覚する。いま無事でいられるのは単なる幸運で、この状況で今度、今のような隙を作れば確実に誰かに攻撃されると、自分を戒めた。敵の正体や規模が不明な以上、いったん隙を見せれば誰にどこから襲われるか分からない。

 路傍を走った。周囲に広がっているのは畑ばかりだった。農地が広がっているのは王都でも外れのほうだ。ならば、いま自分たちがいるのはその辺りだということだろうか。まずは、ここが正確にどこなのかを確かめなければいけないと彰麗は思った。自分たちがどこにいるのかが分からなければ、安全に避難することなどできない。

 背後を振り返った。星珠が自分を追って走ってきているのが視認できた。彰麗は安堵したが、ちょうどその時、星珠の背後で馬車が急停止したのが見えた。少なくとも二人の人間が、御者台から飛び下りてこちらに向かってくるのが見える。

 彰麗は足を止めて莉玲を地面に下ろすと、駆け寄ってくる御者に対して身構えた。星珠も追いついてくると、彰麗の体勢を見て敵の存在を察知したらしく、歩くことができない莉玲を庇うようにしながら御者のほうを警戒した目で見やる。あの馬車の御者が自分たちにとって無害であるはずがなく、自分たちが逃げたことに気づけば確実に再び捕らえようとするはずだ。ひょっとしたら、今度は殺すつもりかもしれない。しかし勿論、彰麗にはおとなしく捕まってやる気も、殺されてやる気もない。逆に彼らを捕まえて、どんな手を使ってでも問い質すつもりでいる。彼らが何者で、どういう目的があって自分たちを拉致したのか、自分の私邸に現れた刺客とは関係があるのか否か、少なくともそれだけは把握しておかなければならないからだ。

 御者の一人が腰に佩びた剣を抜きながら彰麗に迫ってきた。彰麗の知らない男だった。星珠も莉玲も、それは同じだったらしい。二人とも見知らぬ者を見る目で男を見ている。しかし目の前の男にとっては違うのだろう。男に自分たちを殺す意思があることは明白だったからだ。全身に殺気が漲っている。ならば、とりあえずはあの剣を奪い取って動きを封じねば、自分たちの生命はない。

 男は剣を大きく振り上げた。星珠の悲鳴が聞こえる。しかし彰麗にとっては何ら怯えを齎す動きではなかった。身を屈めて、振り下ろされる白刃を難なく避けると伸び上がりながら男の手に拳を突き出す。彰麗の拳は男の手を直撃した。男は呻いて剣を握る力を緩める。その隙に彰麗は男から剣を奪って構え、切っ先を男の喉に突きつけた。男はぴたりと動きを止めた。先ほどまでの殺気はどこかに消えてしまい、怯えた表情でそろそろと両手を上げる。

 兵士ではないなと彰麗は直感した。もしもそうならここまで隙だらけの戦いは仕掛けてこないだろう。たぶん、徴兵経験もないに違いない。多少でも実戦経験があるのならば、そもそも素手での戦いを得意としていない彰麗にこれほど楽に武器を奪うことなどできなかったはずだ。

「お前はどこの何者だ?私たちを連れ去ってどうするつもりだった?」

 彰麗はできる限り穏やかに訊ねたつもりだったが、男は自分に突きつけられた切っ先に、真に恐怖し絶望しているような視線を向けてくるばかりだった。口は動かしているから、何かを伝えようという意思はあるのだろうが、言葉は出てきていない。

「そう怯えなくてもいいわよ。私が何もかも話せば、副将軍は生命だけは助けてくださるかもしれないわ。お優しい、恩情のある御方だと聞いているから」

 ふいに女の声が聞こえてきた。彰麗はそちらに視線を向けなかった。あえて注視せずとも、どこから誰が発した声なのかは分かっていたからだ。声を発したのはもう一人の御者だ。それが男に追いついてきて彼の背後に立っている。視界の隅には御者の顔が映っていたから、彰麗には彼女の素性も分かっていた。彼女が目の前の男の仲間であることに彰麗は驚いたが、努めて顔には出さずに静かに女に訊ね返す。

「さあ。生命を助けるかどうかは君たちが我々を拉致した理由如何によるかな。――どうして私や莉玲を拉致したんだ、杏華?」

 彰麗がうろ覚えの記憶の中から、莉玲の侍女の名前を探し出して呼ぶと、杏華は静かな眼差しを返してきた。


「軍補の私邸の侍女にすぎないお前が、自らの主人でもある莉玲の拉致など企てたのは何故だ?莉玲にどんな恨みがあったというんだ?」

 彰麗が詰問すると、杏華は静かに首を振った。

「莉玲さまに、私が何か恨みを抱いているということはありません。危害を加えたくて拉致したわけでは、決してないんです。私がこんなことを言うと、あなたがたは信じられない、と仰るでしょうけれど、これが私の本心です」

「ならば何が目的だった?莉玲を害することを目的としないのならば、彼女を拉致する理由はないように思うが?――ああ、金か?莉玲は存在そのものが軍事機密の塊だからな。一歩でも国境を越えれば彼女を欲しがる人間は数限りなくいる。そのなかの誰かが金銭で引き渡しを求めてきたのか?相手はどこの国の誰だ?」

 問いかけの形をとってはいたものの、彰麗は自身の言葉には確信をもっているようだった。それ以外には考えられない、という顔をしている。

 しかし杏華は再び首を振った。

「私は誰からも金銭など受け取ってはいません。莉玲さまの拉致は、あくまでも私自身の意思で行ったものです。どうすれば莉玲さまの御身をお守りすることができるか、そのために私が莉玲さまにしてさしあげられる最良のことはなんなのかを、私は私なりに必死で考えました。それでー―」

「莉玲を拉致することにしたのか?なぜ莉玲を拉致することが莉玲を守ることに繋がるんだ?お前の中ではいったい、莉玲にどういう危難が迫っていたんだ?」

 彰麗が呆れたような調子で杏華の言葉を継ぐと、杏華はいたって真剣な目で彰麗を見た。

「莉玲さまの存在を、()(しゅ)はずっと危惧しておられるんです。莉玲さまが刑場で将軍を逃亡させた時から、ずっと」

「何?」

 彰麗は眉を顰めた。

「それは本当か?確かに祀主は莉玲の存在を危険視しているのか?」

 杏華は頷いた。彰麗は不審なものを見る目で彼女を見る。

「なぜ、軍補の侍女にすぎないお前が、祀主の心情などを知り得ている?」

 彰麗の質問は莉玲の思いを見事に代弁していた。祀主とは宮廷にあって文字通り祭祀を主催する者だ。実際の政治には参与しない名誉職だが、国政において要職ではあり、通常は王族の中でも特に国王に近しい者しか就任することがない。よって現在、祀主を務めているのも国王の実弟だ。それほどに高位の者の心情を、なぜ杏華が知り得ているのだろう。杏華は莉玲の私邸において、莉玲の身辺の世話をすることを任されている侍女に過ぎないため、祀主のような高位の者と接触する機会を持たない。莉玲も、祀主には祭祀の場でしか会ったことがなく、満足に言葉を交わした経験もなかった。主人である莉玲ですらほとんど会ったこともない相手のことを、当の主人の侍女にすぎない杏華がどうして知っているのだ。

 杏華は苦笑した。

「それは私が、祀主から直接、副将軍と莉玲さまのお二人を殺害するよう指示を受けていたからです。従わなければ、お前が(とう)()の妹であると公表する。私がそうすればお前など、二度と宮中に足を踏み入れることはできなくなる、と伝えられておりました」

 莉玲は驚いた。彰麗も星珠も同様だったようで、驚愕の表情を浮かべている。冬華というのは、秀珠に共謀して謀反を企んだとして、現在は秀珠同様、行方が分からなくなっている女官の名前だ。杏華が、その冬華の妹だというのか。しかも、と莉玲は思う。冬華は秀珠の実の姉だ。刑場で罪状が読み上げられた時に、この姉弟が宮中で謀反の大罪を犯した、という言葉があったから間違いはないはずで、杏華がその冬華の妹なら当然、彼女は秀珠にとっても妹ということになるのではないか。秀珠の妹なら彼女は自分など足下にも及ばないような名門貴族の令嬢のはずだ。それほどの出自の者がなぜ、自分の侍女などしているのだろう。貴族のお姫様は普通、侍女のような他人の足下に膝をついてその世話をするような務めはしない。王族の女官ならともかく、それ以外の単なる貴族や官吏が主人となる侍女では、彼女たちの矜持に瑕がつくからだ。ましてや莉玲は平民の出身で、貴族たちが軽蔑してやまない浮浪者からの成り上がり者である。本来であれば、貴族の令嬢は自分を嫌いこそすれ、決して近寄ったりはしない。侍女として仕えるなど、ありえない話だろう。

「お前は冬華の妹なのか?秀珠に、妹はいないはずだが」

 彰麗が驚きながらも不審を感じたように杏華に訊ねる。杏華はあっさりと頷いた。

「そうですよ。公的な記録ではそうなっているはずです。秀珠にも冬華にも妹などいない。私は妾腹の娘ですからね、父は私を自分の家系に連なる者として認めていないんです。だから私があの二人と一緒に暮らしたことはありませんし、あの二人も自分たちに妹がいるなどとは知らないと思いますよ。それでも一応、父は私のことも我が子と思ってくれていましたから、私は恵まれていました。父とはほとんど会ったこともありませんが、私はこうして無事に生きていますし、父はお金だけは渡してくれていましたから、暮らしに不足を感じることもなかったですしね」

 莉玲は思わず杏華から目を逸らした。杏華の言葉には莉玲に対する気遣いがあったが、莉玲にとって杏華の出自は、聞いているだけで自分が経験してきた耐え難い過去の苦痛を思い出させるものだったのだ。この国では妻のある男性が、正妻とは別に愛妾を抱えて子を孕ませることは大きな醜聞になる。したがって、杏華のように愛妾から生まれた子に対して、養育費は支払うが認知は拒むというようなことはよくあった。生存を許され、金銭の援助を受けられただけ杏華はまだ幸運なのだということも、莉玲はよく知っている。最悪の場合は、子が生まれる前に母親が堕胎を強要されたり、産声を上げる子供の口を塞いで殺したりすることさえあるのだ。莉玲が将軍に就任した当時から侍女を務めてくれている杏華は当然、ここ数年間の莉玲の暮らしというものを、この場の誰よりも熟知している。自分の不用意な発言で莉玲が傷つかないよう、細心の注意を払って彰麗に話しているらしい様子を見ると、確かに杏華には、莉玲に対する害意などないのかもしれない。そう思えてくる。

 だから、と杏華を続けるのが聞こえてきた。

「私は父の後見などなしに独力で将軍の、莉玲さまの侍女の地位を得ました。けど、もしも祀主に私が秀珠や冬華の血縁だと公表されたら、この地位はすぐに剥奪されてしまいます。謀反人の身内なんて、宮廷にはいられませんから。私は今の地位を失いたくはなかった。あの二人のために自分の人生を壊したくはなかった。私は莉玲さまを心から尊敬していますし、これからもずっと支えていきたいんです。けど、祀主がいる限りそれはできません。私には莉玲さまを守って宮廷を追われるか、莉玲さまを害して宮廷に残るかの選択しかできなかったんです。私はそのどちらも嫌でした。それで私は見かけだけ祀主に協力しているように思わせて、故意にお二人の殺害は未遂に終わらせ、副将軍に捕まるつもりでおりました」

 彰麗が怪訝そうな顔をした。

「私に捕まることが、お前の目的だったのか?なぜだ?」

「私が何某かの事を起こした後で副将軍に捕まり、事情を全て話せば、副将軍はご自分と莉玲さまの御身が狙われていること、御身を狙っているのが祀主であることを認識されるはずです。何も起きていない時に私が何を言っても、お二人はお笑いになられるだけかもしれないと思いましたので、このような方法を採ることにいたしました。勿論、私が副将軍に捕らえられて、尋問されて、祀主のことを話したとしても、祀主は必ず否定するでしょう。私の言葉など、単なる愚かな女の妄言だと仰られるはずです。それは私も承知しております。けど、私が副将軍に外交街のことをお教えすれば、副将軍は必ず私の証言のほうを重く見てくれるはずだと思っています。昭陽さまの証言が得られれば、主上も私の証言のほうを重視してくださるでしょうし」

 昭陽、という名前を聞いて、莉玲は再び杏華を見上げた。なぜ杏華の口から、彼の名前が出てくるのだろうと疑問に思ったからだ。星珠は昭陽が誰なのかもよく分からないらしく、首を傾げている。

「昭陽、というと、もしかして祝賀行事の使節団にいた、神聖教国の男のことか?確か、外交司の長官だったと思うが。なぜ、彼の証言がそれほど重要なものになるんだ?使節団の連中なら、全員がもう帰国の途についているはずだが」

 彰麗が首を傾げながら杏華に問いかけると、杏華は首を振った。

「昭陽さまは、まだ王都の外交街におられます。外交上、緊急かつ重大な問題が起きているのだからまだ帰るわけにはいかないと仰っておられました。当然のことだと思います。宮廷では一時、国王を弑そうとした秀珠は神聖教国に寝返った売国奴ではないかと噂されていたのですからね。噂されていたのは、莉玲さまがまだ迎賓宮で療養なさっていた頃ですから、莉玲さまは御存知ないかもしれませんけれど、神聖教国は秀珠を使ってこの国を侵略するつもりだとか、かなり一方的な、誹謗中傷に近い噂が流れていました。宮廷でそんなことを噂されて、黙って帰国できるはずもありません。主上がすぐに緘口令を布かれて、噂はすぐに立ち消えになりましたから、誰が流した噂なのかは私にもよく分かりませんけれど、昭陽さまがその噂に激怒していることは私にも分かりました。昭陽さまは、どういう根拠に基づくのかは不明ですけれど、謀反を起こした首謀者は秀珠ではなく祀主だと早くから確信しておられたようで、首謀者が祀主なら、噂を流したのも彼ではないか、と仰っておられました。この国の王族が事実と異なる発言をして我が国を陥れようとしているのなら、我が国にも考えがある。あの謀反を主導したのは将軍ではなく祀主だろう。我が国はその証拠も摑んでいる。自分の対応次第では祀主は己の立場を失うことになる。そうなりたくなければ、事実と異なる発言をして宮中を乱し、我が国に不快な思いをさせたことを認め、我が国に対して公式に謝罪しろと祀主に伝えろと、私は昭陽さまに命じられました」

「命じられた?お前はその、昭陽という人物に会ったのか?」

 彰麗の口調からは杏華の言葉に対する不審が感じられた。

「昭陽という人物は神聖教国で外交司の長官をしている人物ではないのか?この国で言えば外務大臣に匹敵する要職を任されている人物のはずだ。それほどの人物に、お前はいつどこで会ったんだ?そう簡単に面会が叶うような相手ではないはずだぞ」

「お会いできたのは偶然です。あの日、恵昌が秀珠に主導されて刑場から逃亡した日に、私は王都におりまして、私も秀珠と同様に恵昌の処刑は阻止するつもりでいたんです。もしも秀珠が刑場に現れなければ、私が恵昌を逃亡させていました。恵昌の存在そのものが、あの謀反と、莉玲さまのお邸が放火されたことに祀主が関与していることの重大な証拠となるからです。あの時はまだ、昭陽さまが秀珠と冬華を匿っていることなど想像もできませんでしたから、何としてでも私が恵昌を保護しなければならないと考えておりました。秀珠が現れたのは、私がそのためにどうやって彼を逃がすか考えている時で、私は全く予想できませんでしたから急いであいつの後を追いました。それで昭陽さまにもお会いすることができたんです。秀珠は複数の同行者を連れていましたけれど、その者たちが昭陽さまを警護するために神聖教国から来ていた、あの国の正規軍兵士だということもその時に知りました。私は昭陽さまや秀珠と話して、あの人たちが恵昌を連れ去ったのが私と同じ目的のためだと知ることができましたから、そのまま恵昌は彼らに預けることにしたんです。その時に昭陽さまは祀主へ伝えてほしいと先ほどのように仰いました。私にとって昭陽さまの存在は願ってもいない幸運です。昭陽さまが恵昌を保護してくれているのなら、後は私が副将軍に捕まって、全てを話せばそれだけで何もかも解決すると思いました。昭陽さまの証言は私などの言葉よりずっと重みがあるのだから、祀主はきっと、恵昌の存在が致命傷になって失脚し、莉玲さまの御身もそれで、安全になると」

 杏華はそこまでを言うと、いったん言葉を切った。それから未だに彰麗に剣を突きつけられたままになっている男を見やる。

「だから私が今日、この男と二人であなた方を連れ去ったのは、あなた方に危害を加えるためではありません。私の目的は、あくまでも襲撃したという事実を作ることだけですから。街路で莉玲さまをお見かけした時に、あの場で襲って捕まろうかとも思ったのですけど、その時にふと気が変わりまして。どうせ襲うのならば外交街で襲って、神聖教国の方々に莉玲さまを保護させ、昭陽さまが公然と事態の対処に関われる状況を作ったほうが都合がいいのではないかと思ったんです。それで莉玲さまの後をつけて、労遣場に入ったのを確認した後、私たちも失業者を装って施設に入りました。施設の者に見つからないように意識を失ったあなた方を借りてきた馬車に乗せて、外交街が近づいてきたところで逃げられるようにそれとなく環境を整えて、逃げたところを襲うつもりだったのですけど、少し私の予想が外れたせいでこういうことになってしまったんです。これほど早くに逃げ出せるとは思いませんでしたし、彼が私の指示を聞かずに独断で副将軍を襲うなんて予測もしてませんでしたから」

 彰麗は黙って杏華の話を聞いていたが、杏華が言葉を切ると彼は静かに溜息をついた。

「では、私の邸に現れたあの不審者の群れはお前の、あるいはこの男の同輩なのだな?連中を邸内に入れたのもお前か?そういえば水差しの水には毒物が混ぜ込まれていたが、あれもお前の仕業か?」

 彰麗の言葉に星珠は目を見開いて彼を見ていた。莉玲も毒物が混入されていたという話にはさすがに驚いてしまった。そんなことは彼から一度も聞いていなかったからだ。

 杏華は静かに頷くことで彰麗に肯定を伝えた。

「そうです。副将軍の邸内にいたのは、この男も含めて全員が祀主の家臣たちです。私は王都から戻ってすぐ、副将軍がお邸にお帰りになるよりも前に、家人の出入りに紛れさせて祀主から借り受けた家臣たちを邸内に入れました。彼らを使ってその日の夜には邸内で襲撃するつもりでしたけれど、万一にも副将軍か莉玲さまがそれで負傷するようなことがあれば大事になるとも思いましたので、彼らを動かす前に祀主から渡されていた毒物を使おうと思ったんです。毒物は副将軍のお部屋の水差しに入れて、様子を見ていました。あの毒は祭祀で捧げられる羊を殺すのに使われる毒と同じものでしたから、祀主でなければ入手のできない特殊なものです。所有者が限られているのだから、うまくすればその水差しだけで副将軍は事態の真相に気づくと思いました。あの毒は臭いがきつかったですから、副将軍が誤って飲まれる心配もなかったですし」

 杏華は自嘲するように笑んだ。

「けど、私にはしょせん、こういう作戦を練る才はなかった、ということなのでしょうね。副将軍は私の思ったとおりには動かれなかったですから。水差しのことにも、彼らが潜んでいるのにも気づいていらっしゃるようでしたのに、それらの全てを無視して、深夜に、その必要もないはずなのに大勢の下人たちを動かして、彼らに紛れて邸外に出られるなんて私は予想もしていませんでした。彼らは副将軍の動きに全く気づいていませんでしたから、下手に彼らに指示して襲わせれば、勘違いで全く無関係の下男が襲われる恐れもあって、私は動くことができなかったんです。副将軍が本気で私たちのことを憂慮したからこそ、そうした行動を起こされたのだとしたら、私の考えは相当に浅かったのですね」

 彰麗は薄く笑った。

「お前の側の事情が分かっていたら、そういう行動はとらなかったよ。私が邸を出ようとしている時に、どこからか石を投げてこなかったか?あれを私への攻撃とみなして、その場でお前を捻り上げただろう。――ひとつ訊いていいか?」

 杏華は頷いた。

「恵昌がなぜ、一連の件に祀主が関与していることの証拠になるんだ?本人の存在そのものが、それだけ重要な証拠になるのなら、恵昌は尋問の際にでもそのことを証言したのではないかと思うのだが、あの男はいっさい、祀主の存在を感じさせるようなことは話していなかった。お前が言う証拠というのは、恵昌自身も認識していないようなものなのか?そうでなければ簡単には証明できないようなものなのか?」

 杏華は首を振った。この時初めて、彼女の顔には当惑に似た表情が浮かんだ。

「いいえ。そんなことはないはずです。私が言った証拠というのは、秀珠が使った毒物も、恵昌が使った眠り薬も、祀主でなければ入手ができない特殊な祭祀用の薬だということです。祀主が関与していないのなら、絶対に入手などできない。薬の分析結果は軍が保管しているでしょうから、後は彼らの入手経路についての証言さえあれば決定的なものになるはずなんです。祭祀用の薬を保管する部屋の鍵は、祀主しかお持ちではないと聞いたことがございますから」

「ならば、秀珠も恵昌もなぜ、尋問の時にそのことを話さなかったのだろうな。二人とも自分から罪を告白してきたのだから、真っ先に話してくれてもいいような気がするが。二人とも、薬の入手経路のことは王都で違法薬物商人から買ったと話していたからな」

 彰麗の言葉に杏華は首を傾げた。

「さあ。それは私にもよく分かりません。ひょっとしたら恵昌は、実際に罪を犯したのは自分なのだから、違う人間に罪を擦りつけようとしているととられかねない発言は避けようと考えたのかもしれませんけど」

 彰麗は何かを考え込むようにした。しばし口を閉ざして思索に耽る様子を見せ、それから再び杏華に語りかける。

「秀珠も恵昌も、外交街にいるのだな?ならそこへ行って、本人たちに直接聞いてみることにしよう。どうせ今日はそこへ行くつもりだったんだ。ついでだから、杏華、案内してくれ」


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