星珠
翌日、莉玲は彰麗とともに労遣場を出た。
昨夜は結局、莉玲は彰麗とあの客室で身体を休めた。部屋は同じだった。犯罪者の巣窟である労遣場で、身体に不自由を抱えた莉玲を、たとえ一時でも一人きりにすることを彰麗が不安がったからだ。莉玲はまだ未婚だから、本来であれば男と同じ部屋で休むことにはいろいろと問題が生じる。しかし莉玲には何の抵抗もなかった。よく知っている者が傍にいればそれだけで心強い。それに、莉玲にとっては男と同じ寝所で寝るなど、今さら問題ではなかった。彰麗は寝台を別にしてくれた。それだけで莉玲は彼が信用できる。彼は自分の寝込みを襲ったりしない、と。事実、そういう種類の危険が莉玲に降りかかってくることはなかった。そして、その事実が莉玲にひとつの喜びをもたらした。夜に同じ部屋で過ごして、自分の身体を求めてこなかった男は彼が初めてだ。自分は男性にとって、性欲の捌け口になるだけの価値しかないわけではないと、昨夜、人生で初めて実感することができたからだ。
労遣場にいるあいだに莉玲は様々な者たちに接触した。施設の者たちは勿論、朝になって施設を訪ねてきた貧民たちからも様々な話を聞く。そうして一人から、ようやく秀珠らしき人物の目撃情報を得ることができた。情報を提供してくれたのは施設を訪ねてきた貧民で、彼は最近、行きつけの酒場で秀珠とよく似た特徴の男を見たという。
莉玲はその情報を得ると、急いでその酒場に向かうことにした。目撃者が寄越してくれた情報によれば、その酒場の主は越境者として知られた人物だったからだ。それなら一刻も早く連絡をとらなければ行方が摑めなくなる可能性もある。莉玲の気は急いた。
越境者とは他国に不法に出稼ぎに行こうとする者たちの援助をすることで利益を得ている違法商人たちの通称だ。顧客から金銭を受け取って不法に国境を越える手伝いをする。彼らが利用するのは主に国境の死角だ。一言に国境と言っても国境線にはそれなりの長さがあり、隈なく兵士を配置しておくことは現実的でなく、したがってどうしても警備の目が行き届かない場所ができてしまう。そういう場所を国境の死角といい、越境者たちはそれらがどこにあるのかを熟知しているのだ。国境の死角は総じて足場が悪く移動の難しい場所ばかりだが、概ね山歩きに精通している者が越境者となることが多いために、その事実が不法越境を阻むことはほとんどなかった。その越境者が営んでいる酒場に秀珠が現れたというのは、大きな意味があると莉玲には思える。
秀珠は現在、逃亡中の死刑囚だ。したがって当然のことながら彼は通常の旅人と同じように国境を越えることができない。普通に出国しようとすれば必ず国境で兵士に阻止され捕まるはずだ。しかし彼が何としても他国に出たいと考えたのなら、越境者を頼ることが彼にとって最良の選択だろう。国境を越えるには大陸を横断する大山脈を越えなければならず、山歩きにも旅にも慣れていないだろう彼が単独で、警備兵の目を掻い潜って踏破するのは困難を極めるはずだからだ。下手をすれば越える前に遭難して死ぬことも考えられる。それを避けたければ越境者に案内を乞うべきだ。彼らは国境の死角について熟知しているのだから。そして、秀珠が出国を望んでいるのならば、彼の目的は二つしかないように思う。全てを捨てて他国で新しく暮らしを立て直そうとしているのか、あるいは再び謀反を起こすつもりで、同志を集めるために他国でこの国と敵対する勢力を探すつもりなのか、どちらかではないのか。
莉玲が秀珠の行き先について思いを巡らせながら街路を進んでいると、しばらくして目的地の酒場に辿り着いた。労遣場からそれほど離れたところではなかった。かなり規模の小さい酒場だった。だいぶ古びている。外から見ただけでも、さほど客席数はなさそうだと判断できた。十人も入れば満席になってしまうだろう。
彰麗が酒場の表扉を押した。扉は難なく開いた。酒場が昼間に商売をしているのかと、莉玲は驚いたが、すぐにこれが普通のことなのだと思い出した。酒場は概ね、夜でなければ商売が成り立たない。それでも昼に店を閉めっぱなしにするのは勿体無いと考える者は多いのだ。それで酒場の店主の多くは夜に自分が商売を開始する時刻まで、自分の店を人に貸して普通の料理屋を開かせたりしている。その借用料として借り手から小金を得て収入の足しにしているのだ。借り手となるのは露店商や行商のような地位の不安定な流れ者の商人や、まだ独立することが資金的にも技術的にも難しい若い見習いの料理人たちばかりで、ここもそうした類いの店だから開いているのだろう。いま酒場にいる人物は莉玲が訪ねようとしている店主ではないだろうが、借り手なら当然、店主に連絡ができるはずだ。
莉玲が彰麗と店内に入ると、若い男の威勢のいい声が聞こえてきた。
「いらっしゃい!お客さん、二人連れっすか?」
出迎えてくれたのは莉玲とさほどに年の変わらないであろう、若い男だった。言葉遣いが整っていない。行商ではなくどこかの見習いだろう。彼は客用の卓を拭いていた手を止めてこちらに歩み寄ってきた。店内には客の姿がなく、四つしかない卓のうち二つには食べ終わった後と思しき食器が載っている。時刻を考えると早めの昼食を済ませた客が出て行った後なのだろう。
「済まないが、食事を摂りに来たのではないんだ。ここの所有者に用があってね。君はここの借り主だろう?悪いが連絡をとってもらえないだろうか?」
彰麗が若者にそう訊ねると、若者は怪訝そうな表情をした。
「ここの所有者は僕ですっけど?僕になんか用っすか?」
莉玲は思わず彰麗と顔を見合わせた。彰麗が若者に向かって口を開く。
「いや、用があるのは君じゃない。君が所有者とはどういう意味かな?ここの酒場の主は私より年上の男だと聞いていたのだが」
若者はその言葉を聞いて、何かを納得したような顔になった。
「ああ、それ、たぶん前の所有者のことっすよ。僕は数日前にこの建物を買い受けて独立したばかりなんです。まだ改装まで手が回らないんで、前の所有者の内装が残ってるんですけど、ここはもう酒場じゃなくて普通の料理屋なんで、朝から夕方までの商売になります」
「君が、ここを買ったのは数日前のことなのか?」
彰麗が確認するように問うと、若者は頷いた。
「そうっす。僕はそれまでもずっと昼間はここを借りてたんですけど、前の所有者が突然、ここを僕に譲ってくれたんです。なんでも急に、転居しなきゃならなくなったとかで、すぐに処分しなきゃいけないから代金は僕の言い値でいいって。僕はまだ見習いを終えたばかりで、ほとんど資金もなくって、だからこれは絶好の機会だと思ったんです」
彰麗は若者にこの酒場を買った金額を問うた。若者が答えた額は驚くほど安かった。莉玲は思わず店内を見回す。酒場はだいぶ古びていたが、それほどの安値にしなければ売れないほど傷んでいるようには見えなかった。この値段で手放すことに応じるほど店主が急いで転居しなければならなかったとしたら、その理由は限られているだろう。しかも詳しく聞いてみれば、店主が酒場を閉めて目の前の若者に店を売った日は、秀珠が刑場から逃亡したまさにその日のことだ。つまり、莉玲が訪ねようとしていた越境者としても名高い酒場の主は、秀珠が来店した日に閉店を決めて行方を眩ました可能性がある。店主の行動と秀珠の行動が無関係だとは、莉玲には思えなかった。店主は、秀珠に雇われたのだろうか。秀珠は、今頃はもう国境に向かっているのか。
「念のために訊いてみるが、君は前の所有者がどこに行ったかなど知らないよな?」
若者は首を振った。
「分かんないっすねえ。なんかひどく慌てていたのは覚えてますけど。だから僕、なんとなく借金を逃れるための夜逃げかなと思ったんですけど」
若者は彰麗のほうを窺うように見、次いで莉玲を見て怪訝そうにした。彰麗を借金の取り立てと思ったのかもしれないが、そういう人物がなぜ足の不自由な女を連れているのかと訝しく思ったのだろう。
「彼が借金を抱えていたのかどうかまでは、私では分からないな。私たちは借金の取り立てのために来たわけではないからね。君が彼の行方を知らないというのなら構わない。仕事の邪魔をして悪かった」
彰麗は若者に軽く頭を下げると、莉玲の椅子を押しながら踵を返した。
今や普通の料理屋と化した酒場を出ると、莉玲は彰麗に語りかけた。〈秀珠はもう、国境へ向かっているかしら?〉
「どうかな。その可能性も皆無ではないが、案外まだ近くに潜んでいるかもしれん。なにしろあいつは昨日の昼までは王都にいたことが確実なのだからな」
〈それならば、酒場の店主が行方を眩ましたのは陽動かもしれないわね〉
彰麗は頷いた。
「可能性はあるな。あいつには何らかの目的で王都に留まり続けなければならない必要があった。しかし勿論、軍に再び捕まりたくはない。だから軍の目を逸らさせるために、意図を持って人目につきやすい酒場を訪れ、そこの店主に金を払って越境を依頼した。越境者として近辺では名高い人物が、秀珠の来訪と同時に姿を消したということが軍に知られれば、秀珠は国境に向かうつもりだと軍では考え、捜索の手を国境付近に集中させるだろう。そうなれば王都の捜索は手薄になると、そう予想したのかもしれん」
彰麗の考えは莉玲の考えそのものだった。秀珠がいったいどこでこの酒場の主が越境者であることを知ったのかは分からない。軍は毎年のように越境者たちを摘発しているから、その者たちから情報を得ていたのだろうか。以前に捕まえたことのある者から彼のことを聞いていて、それで咄嗟に彼を越境させることを思いついたのか。しかしそれならば、なぜ彼は不審に思わなかったのだろう。金を払って越境の手伝いを求めてきているのに、自分は越境しない、越境者だけが単独で国境を越えてくれなどと要求されたら、誰だって妙に思うのではないか。そんな怪しい依頼を引き受ける越境者がいるとは思えない。自らが違法行為をしていると自覚のある者たちは、他人の犯罪に加担してしまうことを恐れるからだ。行っている不法行為の数が増えれば増えるほど、軍に目をつけられやすくなるのだから。秀珠はいったいどうやって彼に越境を引き受けさせることができたのだ。よほどの大金を渡したのだろうか、それとも何か弱みでも握っていたのか。
「――まあ、これはあくまでも私の推測だから、国境の警備を怠るわけにはいかないけどな。秀珠がまだ王都にいると、断言できるわけでは勿論ない。しかし、王都の捜索を手薄にしてもならない。今の若者から得られた情報で判断できるのはこの程度のことだ。莉玲はどうだ?他に何か判断できることはあるか?何もなければまたあの労遣場に戻るか?」
莉玲の耳は彰麗が労遣場と言った時にだけ、僅かに厭うような響きを込めたのを敏感に聴き取った。やはり彼はこうして莉玲に同行していても、労遣場を頼ることだけは嫌なのだろう。莉玲は首を振った。秀珠がまだ王都に留まっているのなら、労遣場に戻る前にまだ調べておくべき場所がある。王都には様々な人間が集まるから、労遣場の他にも犯罪者の集まりやすい場所が幾つもあるのだ。自分にはそれらの場所を巡って情報を集めることぐらいしかできないのだから、できるだけ多くの場所を訪れて、情報を得なければならない。
莉玲は急いで次にどこに行くかを決めると、帳面に書いて彰麗に見せようとした。彼を振り返ろうと身を捻り、そして初めて莉玲は自分に向けられる視線に気づいた。誰かが、街路のどこかで自分をじっと見ている。思わずその方向を凝視した。
「どうした?」
彰麗が足を止めて訊ねてきた。無理な姿勢のまま動きを止めた莉玲を怪訝に思ったようだった。莉玲は彼の問いには答えず、身体が動く範囲で街路を見渡し続ける。昼間の街路は人通りが多く、どこから誰が見ているのかまでは分からない。それでも確かに誰かの視線を感じる。明らかに誰かが何かの意図をもってこちらを見ていると分かる。莉玲が何とかその誰かを探そうとしていると、それに気づいたのか、ふいにその誰かが視線を外した。何も感じられなくなり、莉玲は彰麗を見上げて首を振る。言葉を書いた帳面を彼に見せてから再び前に向き直った。
誰が視線を向けてきたのかについては相変わらず気にはなっていたが、莉玲はあえて意識しないように努めることにした。莉玲のように身体に不自由を抱えている者は街路ではけっこう目立つ。ゆえに特に意味もなく見世物でも見るように眺める者はどこにでもいるものなのだ。先ほどの視線の主もそうした類いの者かもしれない。莉玲の姿が珍しくて思わず見入ってしまったが、莉玲がその視線に気づいたために慌てて目を逸らしたのかもしれなかった。だとしたら莉玲がいちいち気にするべきことではない。そう思って莉玲は彰麗と王都の様々な場所を巡り、そうしているうちに陽が暮れてきた。依然として秀珠の行方について有力な情報は得られないままだったが、それで今日のところはいったん切り上げたらどうかと彰麗に提案される。莉玲は頷いた。今日一日で得たものは疲労だけだったような気がする。気分は鬱々と沈み、露店で簡単に夕餉を済ませて労遣場に戻った。昨夜と同じ客室に入り、早めに就寝しようと支度を整えていると、ふいに彰麗が窓に向かって誰何する。
「誰だ?」
彰麗は警戒した様子をみせながら窓辺に歩み寄っていった。莉玲も思わずそちらを窺う。労遣場の窓には硝子が入っていない。窓は木枠に薄い布を張っただけの代物で、布越しに風を入れて通気し、寝る時などはその布張りの窓の外にある板戸を閉めるのだ。今は勿論、その板戸は閉めているから外の様子は窺えないが、外で物音がしているのは今や莉玲にもしっかりと聞こえていた。誰かが外から板戸を叩いている。人目を憚っているような静かな叩き方で、執拗なほど何度も板戸を叩いていた。
彰麗が慎重に布張りの窓を引き開けて、板戸に手をかけた。万一に備えてだろう、鞘を払った短剣を構えながらゆっくりと板戸を押し上げにかかる。そしてある程度まで戸を上げたところで彼は驚きの声を上げた。慌てたように短剣を腰帯の鞘に戻す。
「星珠、お前、どうして、ここに?」
彰麗の言葉が聞こえてきて、莉玲は思わず窓辺へ向けて身を乗りだした。見れば、確かに窓の外に星珠の顔が覗いている。すぐに彼女の声も聞こえてきた。口調は丁寧だが、小さく抑えた声音からは星珠が苛立っていることが言外に伝わってくる。
「どうしてここに来たのかとお訊ねですか?一言で申し上げれば副将軍と軍補をお迎えに参りました。こんなところで何をなさっているのか存じ上げませんが、軍は指揮官が不在で大変混乱しております。一刻も早くお戻りいただけませんでしょうか?国王夫妻をはじめ、宮廷の者は皆お二人のことをとても心配しておりますよ」
「――言いたいことは分かった。ところで星珠、そういう用件で来たなら、どうしてお前はそんなところにいる?私がここにいると分かったのなら、表に訪ねてきて施設の者に私を呼び出してもらえばよかったのではないか?」
彰麗は溜息をついて、遠まわしに星珠の不作法な訪問の仕方を窘めた。すると星珠はうんざりしたような顔で彰麗を見上げてくる。
「勿論そうしようといたしましたよ。けど、施設の者に副将軍と莉玲さまのことをお訊ねしたら、そんな人は来ていないと言い張られて取り次いではいただけなかったんです。しかし私は先ほど、副将軍が莉玲さまを連れて施設に入っていくところを見ました。絶対にここにいるはずです。施設の者と話していても埒が明きませんから、それで、直接にお訪ねすることにしたんです。塀を乗り越えて裏庭に入って、そうしたら偶然、副将軍が板戸を閉めるところが見えましたので、この部屋にいると分かりました。不作法は承知の上ですが、私にも事情があります。一刻も早く、お二人にはお戻りいただかなければならないという事情が」
その言葉が聞こえてきて、莉玲は自分で車輪を動かして窓辺に向かった。帳面に自分の言葉を書いてから、星珠に見せる。
〈星珠、ごめんね。それはたぶん、ここの人たちが私に気を遣ってくれたんだと思う。私は、いつもここに来る時は彼らに人払いを頼むから。今回は頼んでないけど、いつものことだからと彼らが自分たちで判断してくれたとしても不思議はないし〉
それから彰麗に対しての言葉も書いて、彼を見上げた。
〈彼女を、部屋に入れてあげて〉
彰麗が帳面を見て頷くと、星珠は特に彼が手を貸すまでもなく、すぐさま身軽に窓枠を乗り越えて室内に入ってきた。一瞬だけ、莉玲は彼女の軽やかな動作が羨ましくなったが、努めて顔には出さぬよう気をつけながら星珠に身振りで椅子を示す。星珠は軽く頭を下げてからその椅子に腰を下ろした。
「どうしてお二人がこのようなところにいらっしゃるのか、お伺いしても宜しいですか?」
星珠は莉玲と彰麗の双方を見て訊ねてきた。莉玲は帳面に書いて答えようとしたが、それより早く彰麗が口を開く。
「まあ、一言で言えば、調べたいことがあったから、だな」
星珠はその言葉を聞くと眉を顰めた。思わずそうしてしまったのかもしれない。彼女は彰麗を見上げて訊ねる。
「調べたいこと、ですか?それはわざわざ莉玲さまを連れ出さねば調べられないことなんですか?莉玲さまは今、謹慎中なのではないのですか?謹慎中の莉玲さまを無断で王宮の外に連れ出したりすれば、副将軍とて何らかの咎を受けるのではありませんか?」
「その通りだ。しかしそんなことを気にしていられないほど重大な問題が起きてね。一刻を争うことだったから悠長に莉玲の外出について許可を取っている暇がなかったんだ」
「副将軍がそこまで対処を急がれるほどの重大な問題が起きたのですか?それはどんな問題ですか?」
「詳しくは言えない」
彰麗は自身の邸に刺客が現れたことについて触れようとはしなかった。もしかしたら彼は、その刺客は邸の者か、あるいは邸の者が手引きして侵入させた者のどちらかではないかと、そう疑っているのかもしれない。もしも家臣の誰かが自分にとっての敵、あるいは敵の一員となっているのならば、その家臣の一人でもある星珠に、不用意に発言することは控えなければならないからだ。
星珠が莉玲たちのそうした事情を理解できているとは考えにくいが、彼女は彰麗に回答を拒絶されても、いっさい不満そうな素振りはみせなかった。逆に、彰麗の答えに何かを納得したような顔をする。
「言えないと仰られるということは、その重大な問題というのは、もしかしてあの噂に関係することですか?」
「噂?」
彰麗は訊き返した。
「どういう意味だ?星珠はどんな噂が私の行動に関係していると考えているんだ?」
彼は何を聞かれているのか分からないという表情をしている。莉玲も首を傾げた。星珠がいう噂というのが、何の噂を指しているのかが分からない。宮中は常に様々な噂の飛び交う場所だ。あの噂というだけではどの噂なのか、莉玲には判断できない。
しかし星珠にとっては、彰麗と莉玲のそうした反応は意外なものだったようだ。慌てたように首を振る。
「いいえ、違うなら構いません。そのように仰られるということはあの噂とは関係ないということですよね。失礼いたしました。私が早合点していたようです」
問い質されて星珠は首を傾げた。
「勿論、将軍の謀反に関する例の噂ですけれど・・。あれ?ひょっとして副将軍は、ご自身の御邸で囁かれている噂話を、御存知ないんですか?」
「知らない。今の私には噂話などに興じている暇がないからな。私の邸で何か妙な噂でも流れているのか?」
星珠は頷いた。
「はい。あの、将軍が突然に謀反なんて蛮行を起こしたのは、誰かにそれを指示されたからではないかという噂があるんです。あの謀反の首謀者は、実は将軍ではなくて全く別の誰かで、将軍はその誰かにいいように利用されただけにすぎないのではないかと。将軍は実は首謀者の従犯にすぎなくて、本当の首謀者は謀反が失敗したことで将軍に全ての罪を着せて雲隠れしようとしているのじゃないか、そういう噂です。私にその噂のことを教えてくれた家人は、莉玲さまが刑場で将軍を逃亡させたのがその証拠だとまで申しておりました。決して莉玲さまは短慮を起こされたのではない、莉玲さまは誰よりも早くそのことを見抜かれて、所詮は従犯にすぎない将軍を何とかして救うために、あのような行動を起こしたのだ、だから、きっと莉玲さまが将軍を密かに匿っているに違いない。なにしろ莉玲さまはあの蛮行の直接の被害者で、あの日の晩餐にも出席していて、先代の将軍で、かつては神知の将として他国にも名を知られている御方なのだから、きっとあの謀反のことには誰よりも理解が深いはずだ。莉玲さまなら、自分たちのような平凡な家人には想像もつかないようなことをお考えになって、実行していても不思議はないだろうと」
憶測が過ぎる噂だなと莉玲は星珠の話を聞きながら思った。事実と重なるところが皆無だ。この噂を流したのが誰なのかは分からないが、その人物はきっと自分のことを過大に評価しすぎているのだろう。あの莉玲の行為なら、どんな行為にも何か深い意味があるに違いないと、そう考えているのだ。
莉玲は星珠が教えてくれた噂をそう解釈した。彰麗も同様だろうと彼を見上げると、なぜか彼は、莉玲とは異なりとても重大な問題を聞いた後のような深刻な表情で黙りこんでいる。しばらく何かを考え込むようにしてから、彼は星珠に問いかけた。
「星珠の聞いた噂では、謀反の首謀者は誰だということになっている?そこまで語られているか?」
「勿論、語られていますよ。私が聞いた話では、首謀者は莉玲さまに謹慎を命じた王妃さまではないかということになっていました。そうでなければ、昔から玉座に野心を抱いていると囁かれている王弟、そのどちらかに違いないと。・・噂をするのも畏れ多いような方々ですから、このことは私もあまり口にはしたくないのですけれど」
莉玲は思わず溜息をついてしまった。星珠の話があまりにも驚きを誘うものだったからだ。自分の短慮が引き起こした行動が、ここまで飛躍して王族が謀反を起こしたなんて話に発展するなどとは思いもよらなかった。自分の影響力が、それほどに大きなものだったなんて。莉玲は今まで知らなかった。これから自分がどうなるのかは分からないが、もしも、今後も宮中に留まり続けることになるのならば、莉玲は自分の行動には今まで以上に慎重にならねばならないだろう。
「首謀者は王妃様か王弟、か・・」
彰麗はそう呟くと、急に何かを考え込むような顔になった。彼が黙り込むと、何となく室内には静寂が漂いはじめる。星珠がどうかしたのかと訊ねても、彼は返答をしなかった。まるで視界から星珠も莉玲も消えてしまったかのように、彼は己の思考以外に意識を向けようとしない。
誰も言葉を発しないまま、静かに時だけが流れた。莉玲がその様子を見守っていると、しばらくして彰麗は何かを悟ったかのような表情を浮かべる。
「――そうだ。ひょっとしたら、そういうことだったのかもしれない」




