晩餐会
室内は燦然と輝いていた。
すでに外には夜の幄が下りている。しかしこの部屋は無数の灯火が灯されて真昼のように明るかった。それだけでなく、冬だというのに温室で育てられた色とりどりの花々が室内の至る所を華やかに彩っている。贅沢の極みのような調度品も飾られ、中央に置かれた長卓では着飾った老若男女が和やかに談笑しながら晩餐の席についていた。
莉玲もそのなかにあって静かに晩餐に臨んでいた。ただし客ではない。客をもてなす側の人間だった。
今夜の晩餐は、単なる食事会ではない。先日、国王の世継ぎとして誕生した第一王子の、生誕を祝賀する行事の一環だった。国をあげて行われる祝賀行事に際して、国王の近親者や側近の重臣、そしてこのために他国から公式に訪問してきた使節たちを招いての、ごく内輪の会だ。
莉玲がこの会に出席しているのは、莉玲が先月までこの国の国軍全てを一手に統帥する将軍の地位に就いていたからだ。現在ではその地位は退いているが、これは莉玲が半年前に出陣した内乱の折に背後から奇襲されて重傷を負ったことによる。懸命の治療の甲斐もなく、莉玲の足腰は生涯動かすことが叶わないだろうとの宣告を受け、先月になって正式に将軍位を解任されたが、先の内乱を迅速に平定した功績が評価されて、莉玲が軍を追われることはなかった。後任の将軍の指導役及び助言役として軍補の地位を与えられ、今も国軍に留まっている。完全な名誉職だが莉玲は不満など抱いていなかった。むしろ感謝するべきだろう。足腰の利かなくなった軍人など、軍務の役には立たない。普通なら僅かな恩給だけ与えられて市井に放り出されるものだ。この身体で平民に戻っても、どうやって日々を生きていったらいいのか分からない。
「――そういえば、貴女ではないですか?この国で神知の将と呼ばれていたのは?」
ふいに誰かにそう話しかけられ、周囲に響く談笑が途切れた。全員の視線が自分に集中する。またか、と莉玲は内心でうんざりした。彼らが言いたいことはよく分かっている。神知の将と呼ばれるほど知略に秀でた自分が、なぜあのような稚拙な策略にまんまとひっかかったのか。それを聞きたいのだろう。あの日以来、家臣たちにも繰り返し問われてきたことだ。最近では知人から聞かれることはずいぶん減ったが、他国の賓客の中には今日初めて会う者も多い。仕方のないことだと認識してはいたが、繰り返し問われ続けるのは不快なことだった。莉玲はもう、あの当時のことは思い出したくない。
しかし一介の軍補にすぎない莉玲に他国の賓客の問いを拒むなどできるはずもなく、仕方なしに頷いた。
「左様です」
「聞くところによれば、貴女は昔、北部の戦乱を一兵も動かすことなく計略だけで鎮めてしまわれたそうですが?」
問うてきたのは莉玲の斜め向かいに座った若い男だった。彼は隣国で外交司と呼ばれる役所の長官を務めている。名前は度忘れしたが、莉玲は彼の地位だけは記憶していた。外交司の長官といえば、この国では外務大臣に匹敵する要職だからだ。それほどの地位に、彼のような若い者が就いているのが意外だったのだ。意外に思えば警戒心も湧き上がってくる。若いうちに国の要職に就ける者というのは、よほどの実力者か、生まれが良いか、どちらかしかないからだ。後者ならいい。しかし前者ならばいつも慎重な対応を要求される。
莉玲は彼に微笑んでみせた。
「昔の話です。よくご存じでいらっしゃいますね。貴殿は外交司の長官とお聞きいたしましたが、外交だけでなく軍事にも深い見識をお持ちなのですね。素晴らしいことです。私など他国の軍人の経歴までは存じ上げておりませんので」
莉玲は相手の見識の高さを持ち上げ、自分を謙遜させてみせた。彼に対して当時のことを詳細に語る意思は莉玲にはない。軍務のことは法で答えてはならないことになっているだけでなく、莉玲には過去の戦の詳細を語りたい思いがなかった。人が惨たらしく死ぬ様子など、当時を知らない人間に容易く語るものではない。
外交司の長官は莉玲の褒め言葉に微笑んだ。
「見識があるというほどのことでもありませんよ。この話は有名だ。一市民であっても知っていて当然のことでしょう。それだけに私はこの機会に、貴女の口から当時の武勇伝をお伺いしたい。救国の英雄になど、滅多にお会いできるものではありませんから」
莉玲はややうんざりしていたが、ここまで言われると拒むことは難しかった。仕方なく当時のことを語ろうとした時、ふいに莉玲の注意が外交司の長官とは別の場所に向かった。
不自然に思われないよう何気なく視線をそちらに向ける。莉玲の目線の先にいたのは国王だった。最上座に穏やかに座し、傍らには王妃が控えている。生まれたばかりの王子の姿はない。赤ん坊がいないのは夜が更けてきて乳母が預かっているためで、不思議なことでもなんでもないが、莉玲の注意はなぜか王妃に吸い寄せられた。何だろう、何か、何かが妙な気がする。
莉玲は外交司の長官に過去の戦話を語りながら視界の片隅で王妃に注意を向け続けた。王妃は静かに果物を口に運んでいる。今のところ、彼女の動きに特に不審な点はない。
「・・それで、貴女は敵の首魁の許に偽の情報を届けることで司令系統を混乱させ、統率をとれなくさせて敗戦させたのですか?」
長官の問いかけに莉玲は注意をいったん彼に戻した。頷いてみせる。
「左様でございます。どこであっても軍というのは完全な上意下達の社会です。首長が混乱すれば自然に全体が混乱します。統率が行き届かなくなれば、どれほど戦慣れした軍勢でも本来の力は発揮できません」
「・・今までの話によると、貴女は個々の兵士が勇ましく剣を構えて勇敢に突撃していくという戦の仕方は無謀だとお考えのようですね」
長官は試すように莉玲に問いかけてきた。莉玲は頷いた。
「勿論です。どこの軍でも長は自軍の兵士に、戦場においては常に死を恐れず勇敢に戦えと教育し、戦場とは常に敵と味方の兵士同士の生命の衝突であると認識しておられると思います。しかしそのように戦をすれば必ず双方、ひどい消耗戦になります。決戦まで長い時間がかかり、膨大な戦費もかかります。なにより、死ななくてもいい者まで生命を落としてしまう。それはできるだけ避けなければなりません」
「なぜ?戦場で生命を散らすことは兵士にとって最上の名誉では?」
莉玲はそれを聞いて内心で顔を顰めた。いかにも軍務を知らない者の言葉だ、と思う。
「そんなことはございません。個々の兵士にも人生がございます。それぞれの思いがあり、家族もあります。戦場で死ぬことは常に名誉の戦死ともてはやされますけれど、現実に死んだ兵士には名誉も何もありません。戦場で死んだらただ無惨な亡骸になるだけ。誰も死にたいと思って出陣する者などおりません。ただ、戦に向かう自分の心が、ほんの少し楽になるだけです。自分が死んでも、犬死にだけはならないと思えますから」
莉玲は自分がまだ一介の傭兵だった頃のことを思い出して告げた。莉玲に家族はなく、傭兵として軍に入ったのも単に生活の手段を得ることが目的だったのだが、それでもそういう風に考えていないと戦場になど出られるものではなかった。戦地で手柄を立てればすぐに出世できる、軍務に就いている限り生活には困らない、たとえ死んでも戦死ならば名誉だ、救国の英雄だと持ち上げられるのだから大丈夫だ、個々の兵士の頭にあるのはいつの世もそんなことばかりだ。傭兵ならなおさらで、だから莉玲は将軍の地位に就いてからというもの、とにかく兵士の生命を一人でも多く守るための戦略を練ってきた。最前線で戦う兵士の気持ちを誰よりもよく知っていたからだし、そういう戦略を採らないと必然的に市民からの徴兵や傭兵に頼った戦にならざるをえなくなるから、寝返りや裏切りが発生しやすくなるのだ。なぜなら傭兵は、金品で容易く大義を変える兵士だから。
長官は何やら楽しげに笑った。
「戦場で死んだらただ無惨な亡骸になるだけ、ですか。貴女は変わった御方だ。そんなことを仰られた将軍経験者になど、私は初めてお会いしましたよ。軍の長が口にするのは、いつも貴女とは真逆のことばかりなのに」
莉玲は長官の言葉に咄嗟にどう返答してよいか迷った。それで思わず卓の上から酒杯を取り上げて口に運ぶ。杯の中身は酒ではなく果汁だ。こうした会食の席では莉玲のように酒が飲めない者には果実酒に見せかけて単なる果汁が淹れられる。祭祀の時など、必要があれば莉玲も酒を口にするが、その場合は口にするといってもせいぜい唇を湿らす程度だ。きちんとした会食の席となると杯は空かせないといけないから、こうした配慮は有り難い。
そうして果汁を飲んでいる時だった。莉玲は視界の端に再び王妃を捉えた。いま、王妃と国王の間には、この会食の間ずっと給仕を務めてくれている女官が水差しを携えて控えている。国王の酒杯は空になっていた。おそらくそれを見て取って女官が追加の酒を注ぎに来たのだろう。
国王は左手に持った美しい色をした硝子の酒杯を女官に差し出した。女官は静かで優雅な所作で水差しを傾ける。葡萄酒らしき赤紫色の液体が国王の酒杯に注ぎ入れられた。
国王は酒杯を鼻に近づけて匂いを嗅いでいた。すぐには酒杯に口をつけず、傍らの女官を振り仰ぐ。微かだが、国王の言葉は莉玲の耳にも聞こえてきた。
「・・この葡萄酒は、ひょっとして沿岸地方の紫流の街で醸造されたものではないかな?」
女官はにっこりと微笑んだ。
「左様でございます。さすがは主上でいらっしゃいますね。香りだけで、葡萄酒の産地がお分かりになられるなんて」
「なに、紫流の葡萄酒は独特の香りがするからすぐに分かるものだ。何年物かね?」
「三十年物だと伺っております。今の紫流では、その御酒が最高級の品だとか」
「ほう、誠か。・・ならばちょっと、軍補を呼んできてくれないか?」
ふいに自分の位が呼ばれたので莉玲は思わず国王を振り返った。女官は怪訝そうな表情を浮かべる。
「軍補を、ですか?・・畏まりました。すぐに呼んで参ります」
女官がしずしずとこちらに近づいてきた。すぐにと言っても緊急時でもない限り走ったりはしないのが宮中の礼儀だ。女官は静かに莉玲に歩み寄ってくると壁際に据えておいた莉玲専用の特殊移動具を運んでくる。左右の肘掛けの下に大きな車輪が取り付けられた特殊な形状のこの椅子は、足腰の利かなくなった莉玲のために誂えられたものだった。この椅子に座って両手で車輪を動かせば莉玲でも人の手を借りずに自由に移動できる。動くのが車輪であるから、平らな道しか自力では移動ができないが、それでも自由に動ける場所があるというのは、今の莉玲にとって非常に喜ばしいことだ。
女官は近くにいた同輩にも声をかけて二人がかりで莉玲の身体を抱えてその特殊な椅子に座らせてくれる。莉玲は彼女たちに礼を告げると両手を車輪に這わせて自力で椅子を動かした。ゆっくりと国王の許へ近づく。静かに一礼した。
「主上、私にどのような御用でございましょうか?」
国王は微笑んだ。
「なに、たいした用があるわけではない。この葡萄酒が紫流の産だと聞いてね、そなたは紫流の生まれだったろう?どうだ、一口だけでも味わってみないか?そなたは滅多に帰郷はしないからな、懐かしい郷里の味を感じてみなさい」
国王は莉玲に自分の酒杯を差し出してきた。酒は飲めないし、故郷の紫流のことは思い出すのも辛いが、こうなると断れる雰囲気ではないし、そもそも断れる立場でもない。それで仕方なく莉玲は酒杯を受け取った。一口だけなら大丈夫だろう、そう思って酒杯を口に運ぼうとした時、ふいに国王の傍らにいた王妃の表情が僅かに強張るのが見えた。
莉玲は王妃の様子に一瞬だけ怪訝に思ったものの、深くは考えずに酒杯の縁を唇につけ、葡萄酒を嚥下した。
その途端、莉玲は喉に激しい痛みを感じた。
あまりの激痛に耐えられず、莉玲は両手で口と喉を抑えて蹲る。酒杯が手から滑り落ちて床で甲高い音を立てた。周囲がどよめくのが聞こえたが、莉玲にはその状況を冷静に見ていることはできなかった。喉がまるで灼けるように痛い。息ができない。なにやら口中に液体が溢れてくるのも分かった。苦しい。
口を押さえた手の指の間から赤いものが滴り落ちるのが莉玲の視界に入った。そしてそれが、晩餐の席上で莉玲が見た最後の光景だった。