幕間 用心棒契約
貴族は平民の上に立つ存在だ。
平民よりもたくさんの富と魔力を有し、生まれながらにして傅かれ、奉仕される対象である。
だが、そんな貴族たちにとっても、自由でそして勇敢な『冒険者』とは尊敬と憧れの対象であった。貴族は時として高名な冒険者を屋敷に招き、賓客として遇する。名誉騎士として栄誉を与える。力のある家ならそのまま召し抱えたりもするだろう。
冒険者への憧憬は平和ボケしてる貴族ほど強い。
私もそんな子供の一人だった。
剣を振るって魔物を倒すという勇者の冒険に、純粋な気持ちで憧れたのだ。道楽でダンジョンに入り、採取してきた魔物の骨や魔石を誇らしげに飾り物にしている青年貴族すら、羨望の眼差しで眺めていた。
もちろん、私の教育係はそれを「愚かなこと」と評した。
危険を冒すのはあくまで平民の役目だ。貴族の役目は勇者ではない。勇者であってはならない。
勇者が成した功績を公正に評価し、褒め称え、その手柄に相応しい報酬と名誉を与えることが高貴な『青き血』の役目である。たしかに、青き血を引いている者は、平民よりははるかに強いかもしれない。だが、だからこそ貴族は平民の仕事や役目を取り上げてはならない。彼らに忠誠を尽くされてこそ貴族である。
そして、高貴な者は危険を犯してはならない。魔物の前に身を晒すなどあってはならない。匹夫の勇など言語道断である。血を残せなくなってはお家が傾くからだ。主君を失い、お家が取り潰しとなれば家臣や領民はみな露頭に迷ってしまうではないか。安全なところにいるというのは貴族の義務なのだ……と。
正論だ。頭では理解している。
だが、どうしても行きたいのだ。行ってみたいのだ。高いところがあれば登ってみたくなるだろう。
この空の向こうがどうなっているのか?
あの丘を登れば何が見えるのか?
まだ見ぬ世界がもしもあるというなら、一度はこの目で見てみたいではないか。
吟遊詩人の歌を聞くだけでは分からない興奮を、この身で味わってみたいとは思わないだろうか?
私は貴族だ。
家付きの師範に格闘術や攻撃魔法は習っている。半分はおべっかだろうが、才能はあると褒められた。
「自分がどれだけ強いのか試してみたい」などと増長するのにそう時間はかからなかった。新たな技や魔法を覚えるたびに、冒険への憧れは強くなった。
格闘術は好きだ。魔法の練習も苦にならない。男は寄り付かなくなっても構わない。まぁ、生まれつき魔力が強い体質なので、求婚者には困っていないそうだ。
他の娘は社交界でお相手を探すのに躍起になっていると言うのに、私自身、つくづく変人だなと思う。私はもっと訓練して、もっと強くなりたい。
だが、こんなことができるのも今のうちだ。貴族の家に女として生まれた以上、お家の役には立たねばならない。15を過ぎれば政略結婚の道具になるだろう。20を過ぎれば嫁き遅れだ。家に世話になっている以上、義務は果たさねばならない。
こんな馬鹿な夢はそう長く見る訳にはいかない。
……だが逆を言えば、多少、無茶な夢をみていても、やんちゃで済むのは今だけなのだ。
私は決心を固め、背中まで伸びていた黄金色の髪を自分の手でバッサリと切った。
いいじゃないか、髪なんてまた伸びるのだから。
余人には馬鹿かといわれよう。
ええ、馬鹿ですよ。それでかまいません。
そして、人知れず『実家』を飛び出して、私はこの町にやってきた。
要するに家出だ。
こんなことをして私は親に勘当されたりしないだろうか?
ま、願ったり叶ったりだからいいけどさ。
体が健康で、剣や攻撃魔法が使える者は冒険者として生きていけるという。なりたかったわけじゃない。なれると証明したかったのだ。自分が、ただの『世間知らずな家付き娘』なんて思われて生きていくのは我慢ならなかった。
冒険者の町、ゼフィランサスに来て思った。
攻撃魔法が使える冒険者は貴重だという。加えて、師匠の薫陶もあり私には武術には心得がある。歩く人々の姿を見て、足の運びや重心の移動の滑らかさで相手の力量がわかるぐらいにはなっていた。
冒険者はみな勇者だというが、それはピンキリで私が「その程度」と鼻で笑うようなレベルの連中も少なくない。 体が丈夫で読み書きさえできれば、冒険者は身分にかかわらず誰でもなれるという。私なら、少なくともそれなりのパーティに「是非とも仲間したい」と思われる位の冒険者にはなれるはずだ。
意気揚々と冒険者ギルドを訪れた。
体は健康、武術の心得もあって、魔法が使える。私が条件を満たしていないは年齢だけだ。だが、それは少々大人びた話し方をすればバレることはない。相手は平民だ。チョロいと思った。
………しかし、あっさり歳はバレた。世の中うまく行かないものだ。
ふてくされて行きつけの飯屋で安いパンをかじっていると、楽しそうな話し声が聞こえた。金髪でひょろ長い男と、黒髪の少年だ。少年の方は私より頭ひとつ以上は小さい。
だが、そいつは私がダメだったのに、冒険者試験をそいつは親のコネで受けるという。
思わず、ケンカを売った。理由なんて特になかった。
相手はガキだ。強気に出れば、簡単に萎縮すると思った。
だが、そいつは一歩も引かず、正論を並べやがる。
周りの大人達が煽ったこともあって、決闘になった。
いや、人のせいにしちゃいけないか。ケンカを売ったのは私なんだから。
まぁいい、退屈だしこの流れに乗ってやる。
勝ったところでどうにもならないが、生意気なことをいうガキに世の中の広さを教えてやるくらいはできるだろう、などと自惚れたコトを考えていたのだ。
そして、負けた。
完敗だった。自惚れていたのは私だった。
私は、8歳の平民の子に完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
相手の左を躱し、懐に踏み込んで左右の連打。これで一気に決着をつけるつもりが、あっさりとカウンターを返された。目から火花が出そうなほどの逆撃に一瞬意識が飛びかけ、反射的に『牙炎脚』を放ってしまう。
頭部への打撃に対し、反射的に首を保護する『強化』。そして、相手の打ち終わりを襲う『牙炎脚』は、何万回もシミュレーションを繰り返した。
拙いと思った。だが、無意識に反応できるようになるまで、何万回も反復練習を繰り返してきたのだ。
咄嗟の時ほど、得意技が出てしまう。自制しろという方が無理だ。
達人であろうと不可避であろう、後の先の必殺。
だがそれを、あいつは難なく潰しやがった。
強敵だと悟った。私より…いや、下手すりゃ師匠より強いかもしれないと直感した。
容赦できるような相手じゃない。
思わず、相手を浮かして空中戦を仕掛けた。
空中では魔法が使える私の方が絶対有利なはず。無防備な相手に『火爪』を放つ。炎を纏わせ、しかも強化した拳。子供の腕力じゃ止まらないはずだ。
けど、予感はしていたんだ。
「たぶん、躱される」って。
むしろ、あいつがどんな風に対処するのか、正直、ワクワクした。
そして、あいつは私の予測の上を行った。
躱すでも、止めるでもない。私の腕を「掴んだ」のだ。
できうる限りの速度で突き出したはずの、私の右拳を、横から難なく。
私自身、反射神経や動体視力には自信があったが、目の前の少年は正に化け物だった。
そして、あの小さな指で手首を捻り上げられただけで、全身の動きが封じられた。
苦し紛れに出した左の『火爪』。
それすら、あいつに鳩尾を殴られた途端に、針でつついた風船のように魔力が弾け、効力を失う。
どういう技か見当もつかないが、私の魔法使いとしてのアドバンテージはあの一撃で叩き潰された。
私は『身体強化』も維持できないまま、墜落した。
死ぬかと思ったが、情けをかけられた。
結果だけ言えば、『秒殺』だ。決闘開始から30秒も経ってない。
自分から難癖つけておいて、あっさりとやられる三流悪役のような無様な負け方だった。
* * *
目を覚まして、最初に見たのはよく知らない天井だった。白いカーテンで区切られた、大広間の一角。白を基調とした屋内は、ガラス窓から差し込む自然光だけで十分明るい。
ここは都市が運営する治療院という施設らしい。
私は骨折した左足を吊り上げられ、寝台の上に寝かされていた。昨日、8歳児にボロ負けして、『入院』なるものを余儀なくされたのだ。
周囲から人の気配と薬の臭いがする。おそらくカーテンの向こうも同じようなスペースで、病人や怪我人が寝てるんだろう。
「グレンジャーさん、どうですか? 調子の方は…」
「まぁ、先生。おかげさまで、ずいぶん楽になりました」
「そりゃあ良かった。……じゃあ、お薬、減らしましょうかね」
……なんて、若い男と老婆のやり取りが聞こえてくる。
治療に携わっている若い男は『治癒師』ではなく、『医師』と呼ばれる白い上着を纏った平民だった。彼らは、人を本来あるべき元の形に戻す第一回復魔法や、聖母の力を降臨させる第三回復魔術が使えるわけではない。高度な魔道ですぐ完治させるのではなく、回復促進の初級魔術だけで、経過を見ながら何日も掛けて治すのだそうだ。
平民の治療っていうのは実にまどろっこしいが、残念ながら治癒師を呼べるほどお金は持っていない。
「あぁ~、いつ治んのかしらぁ…」
…………暇だ。
退屈で死にそうだ。攻撃魔法の練習とかしたいけど、ここでやったら怒られる。『魔法・魔術厳禁』っていたるところに貼ってあるし。
なるべく早く治したい。
あんな奴にあっても次は負けないように、特訓するのだ。
手首を指で掴んだだけで、全身の動きを封じる技なんて初めて知った。
今度は私がやってみようと思う。
寝っ転がりながら、記憶の糸を手繰る。
自分を倒した技。
手首の出っ張ってる所を指で掴んで捻り上げるだけ。
意外と簡単そうだ。
いや、あいつは飛んでくる拳を難なく掴んだのよね。
どういう訓練したら、あんなことができるのかしら?
手持ち無沙汰だったので枕元に置いてある、粗末な紙の束(『新聞』とやら)を手にとった。
【剣聖来訪】と一際大きな文字のあとに小さな文字がびっしりと敷き詰められている。
「都市設立の英雄、剣聖シュナイデル・ファルカ氏(97)は養子タクミ・ファルカ君(8)を伴い風月20日にゼフィランサスを来訪し、同日、アマルダの旅籠にて催された懇親会に出席した。氏は記者のインタビューに、都市が賑やかで喜ばしい、などと語り、後身である冒険者たちとも楽しげに懇談した……」
詩的表現などを一切排した飾り気のない文章の中に、あいつの名前が載っていた。記事の中ではあの小僧はおまけ扱いだ。奴の爺さんはもっと強いんだろうか? ジジイや子供であんな強いがゴロゴロいるなんてちょっと信じがたいが。
他の記事にも目を通す。評議会で決まった条例の施行、陵守巫女の求人広告。道具屋の新装開店のお知らせ。中級難易度の冒険依頼に、市民の寄稿。連載小説。銅板刷りの風刺画まである。
一枚の紙によくもまぁ、これだけところ狭しと文章を載せらるもんだ。
そもそも、平民が毎日これだけの文字を読んでるというのは驚きである。ゼイレシアでは、活版で刷られる読み物なんて聖典ぐらいなのだが、この町ではこれが毎日配られるらしい。
「よぉ!!」
カーテンをめくって図体のデカイ男が入ってきた。
昨日、私をここにかつぎ込んだ男だ。
「……ああ、誰かと思えば、酔っぱらいか」
「助けてもらって、『酔っぱらい』はねぇだろ!? アレック・ボーンだ。今はもう酔っちゃいねぇ!」
助けてもらった…のか?
まぁいいや。そういうことにしておいてやろう。
アレック・ボーン。たしか、そういう名前だった。
無駄にデカイ図体。短く刈り込んだ赤茶けた髪に、無精髭。格好良いか?と尋ねられると、かなり微妙だと言うしか無いが愛嬌はある。昨日と違うところは、酒に酔っていないところと、左目に青痣を作ってるところだが…。
「その左目は?」
「ああ、こりゃあな………」
「アンタもケンカに負けてきたわけだ?」
「負けてねぇ!!」
「そういう情けない顔してても説得力ないわ」
情けない顔が更に肩を落とす。
「で、何の用?」
「………い、一応、教えとこうと思ってな、お前の負けた相手なんだが……実は…」
「ああ、剣聖ファルカの孫ね? 今、読んでるわ」
私は男を一瞥して、新聞の方に視線をもどす。剣聖シュナイデル・ファルカ…私の生国ゼイレシアでは『ナヴラの死神』とか呼ばれていた男だ。ここじゃ英雄みたいだけど、ゼイレシアじゃ暗殺者扱いだったからな。その孫とやらも過小評価していたかもしれない。
「まぁ、気を落とすな。アレは相手が悪い」
「相手は悪く無いわ。悪いのは私。不用意に空中戦なんて仕掛けたのが悪手だったのよ」
強いとわかったときに、もうちょっと慎重に戦えばよかった。
距離を取って、ミドルレンジで攻撃魔法を連射するとか。
いや、無理か。その手は師匠にも通用した試しがないし、私自身も何度もクリアしてみせた。
おそらくあのガキの反応速度は私より輪をかけて速い。
至近距離からの打撃すら全部回避されたのに、通用するとは考えにくい。
そんなことを声に出してぶつぶつ、呟いてしまった私をみてアレックはドン引きしていた。
「お前……会話全然噛みあわねぇな」
「そう?」
「ああ、てかお前、人と話合わせる気がねぇだろ?」
「うん。無いわね」
彼は頭を掻きながらため息をつく。
「で、用件はそれだけ?」
「いやな、お前の冒険者試験の推薦の件、知り合いに頼んでみたんだが…」
「断られた?」
「あ、うん。まぁな……いや、いやいや」
「どっちだよ!」
「断られてねぇ」
「ほんとに?」
じーっと目を覗きこむと、案の定、視線をそらしやがった。
「嘘ね」
「嘘じゃねぇよ! ただ、知らない人間を推薦なんてできない、って言われただけだ!」
それ断ってるだろうが。人語がわからんのかこの男は。
「……実際会って、お前の実力を見て貰えばいいだろ?」
「じゃあ、いつ会ってくれるって? 約束はもらってきたの?」
「い、いや……」
ははっ…こいつマジ使えねぇ。
考えてみれば断られることなど、当たり前だ。先方としちゃ、アレックの尻拭いをわざわざしてやる理由もない。左目の痣はそのとき殴られでもしたのだろう。冒険者って気の短い奴もいるだろうからな。
まぁ、私は憂さ晴らしのためにコイツを利用しただけなので、期待してもいないが…
私が嘆息した、その時である。
「アレック、あんまし自分の都合の良い解釈ばかりしてると信用なくすわよ?」
今の会話を少し聞いていたんだろう。カーテンの中に入ってきた、赤毛のお姉さんから有無をいわさぬツッコミが入る。
ミリィ・ロックウェルと名乗った彼女は平民にしては綺麗だった。
左右で束ねた赤い髪が艶めいており、眉目ははっきりとして、意志の強そうな青い瞳が輝いている。たまご型の輪郭に、形の良い鼻と唇。
別に、淑女を口説くのが商売という外交専門の貴族さんじゃないから私にはこの程度の描写しかできないが、要するに貴族の私から見ても『かなり美人』だということだ。
2日前の宴会で客の料理をつまみ食いをしてたとき、目が合ってしまったので憶えている。そのときはウェイトレス姿だったが、今日、身につけているのは白いブラウスと長い紺のスカートだった。
「先日はごちそうさまでした。んで、私に何か御用ですか?」
「ええ、まずそこの悪いおじさんがアンタを悪の道に引き込もうとしてるから、忠告しに来たのよ」
「なっ……!」
アレックが絶句する。おい、心当たりあんのか?
「……というのは、冗談でね」
たぶん、ジョークではないな。アレックに釘を指すのも目的だろう。
「実は、アンタに怪我をさせた子が、謝罪に来たいっていうのよ。ま、女の子に怪我をさせたわけだから…」
「必要ないわ。決着が付いたら恨みっこなしでしょ?」
それが、決闘のルール。貴族でも平民でも変わらないはずだ。
「へぇ、プライドが高いのね」
そりゃそうだろ。
あの決着にとやかく言うようじゃ、格好が悪いではないか。
「いっそ、ちゃんと仲直りしたいくらいよ」
「うん! あなた気に入ったわ! それなら私が取り持ってあげる。
それより、治療費はどうするつもりかしら? お金は持ってるの?」
「持ってないけど、自分で何とかするわ」
「何とかって?」
「仕事を探すわ。そこのアレックが紹介してくれるって言うし」
ミリィが一瞬冷ややかな視線をアレックに向ける。アレックはどことなくビクついていた。こりゃ、頼りにならんな。
ミリィもそう思ったのだろう、私の方に向き直って言った。
「じゃあ、こうしましょう! ここの治療費、私が立替えるからあんたウチで働きなさい」
「『ウチ』ってあの旅籠? そこまでお世話になるわけにはいかないわ…」
「まぁ聞きなさい。仕事を探すんでしょ?」
「ええ…」
「この町は治安はいいけど、だからといって、あんまり女の子が一人でぶらぶらしていいってわけでもないのよ? よくない場所や近づくべきじゃない所もあるわ……クルワ島とかね」
「クルワ島?」
「城外の西を流れる川の輪島にある町でね。そこのアレックみたいなモテない独り身がお世話になるような所よ」
「ああ、なるほど」
遊郭街か。そりゃあるだろうな。これだけ大きな街なら。
身寄りも金も無い若い女にゃ女衒が近づいてくる。冒険者はさすがに無法者じゃないが、荒くれ者は多い。冒険で小金を稼いで買うものといえば、もっといい装備の他には、酒と女だろう。
需要は当然あるのだから、私みたいなのが途方に昏れた顔でうろついていたら、近づいて来ない方がおかしい。
……実は私も考えてはいたのだ。
(入院代を女衒師に肩代わりさせたあと、どうやって逃げようか?)
そりゃあ、私だって悪魔ではない。いくらなんでも世話になった治療院に代金を踏み倒すのは心苦しいではないか。
「悪いことは言わないわ、ウチに来なさい。報酬も出すわ」
「女中さんとして働いて、治療費を稼げるくらいになるの?」
「従業員じゃなくて、用心棒として雇いたいのよ。あなた強いそうじゃない?」
「用心棒?」
「ええ、うちの母さん強いから大抵のトラブルは解決できるんだけど。いまちょっと母さんが忙しくて、手が足りないのよ。けど、荒事に対処できるような人間はそれなりに高いわ」
そりゃあ、それなりの手練なら旅籠に雇われるよりダンジョンで魔物を狩ってた方が儲かるだろうな。旅籠の用心棒なんて、いわゆるチンピラの相手である。
「そこで、よ。私の知り合いに腕の良い治癒師がいるの。その怪我はすぐに完治させてあげる。そしたら、ウチで働いてくれないかしら? 入院代と治療代の分は差し引くから報酬は安くなるけど、旅籠だから部屋と三度の食事は用意してあげられるわ」
なるほど、悪い話じゃない。
知り合いの治癒師相手にお得意様価格で治療させるかわり、こちらも良心価格で用心棒やれということか。
どちらもウィンウィンの関係。交渉上手だな。
自慢じゃないが、私に女中はたぶん無理だと思う。
用心棒もやったことはないが、まぁ女中よりマシだろう。私の経験上、大抵のチンピラは、攻撃魔法が使えるってことを教えればしっぽを巻いて逃げ去る。それをやればいいのだ。
「とりあえず、一日、12ノグチ。非常時以外の勤務は10時間。一ヶ月契約でどう? もちろん、これは手取よ? さっき言った経費は抜いてあるわ」
『ノグチ』とは自由同盟都市近郊で流通している大銅貨だ。食事付きの宿に泊まるのに3枚あれば余裕だろう。10枚でユキチ銀貨となっており、このレートは固定である。銀貨と銅貨のレートが固定というのは珍しいかもしれない。
天引きされているとはいえ、三食寝床つきでその日当は悪くない。
一か月も働けば、3、4か月は凌げるわけだ。
「どう?治療院で天井のシミを数えてるより、有意義な時間になると思うわよ?」
「ふぅん。悪い話じゃないわね…」
「ちなみに、ウチの母さんは元Bランクの冒険者だから。そこのアレックと違って推薦も可能」
それも耳寄りな話である。
信頼さえ勝ち取れば推薦してやる、と匂わせているわけだ。
仲良くなっておいて損はないだろうな。
ミリィの提案にアレックは顔色を変えた。
「って、おい!そりゃねえだろ。ミリィ!! アマルダの奴は推薦はしねぇって………」
「会ったこともない奴を推薦することなんてできない。当然でしょ? でも知り合いになって信用できることがわかれば推薦状も書けるわよ? なんか問題ある?」
まぁ、道理だよな。
アマルダって、あの威勢のいい赤い髪の女将さんだっけか?
身のこなしからして相当できるっていうのはわかったけど。
そうか、上級冒険者だったのか。
ということは、ミリィの母親はアレックが『話を持ちかけたが、拳で返答された相手』であり、今、金欠の私を用心棒として必要としてくれる店舗経営者であり、さらに、私がいま欲しい推薦状を用意することもできる上級冒険者だ。
「私には断る理由がないわ」
アレックは愕然としていた。
「それと、母さんからの伝言ね。『見込みがあるからって若い娘を引きずり込むな。次、この子に余計なことを吹き込んだら速攻でギルドに通報する』だそうよ?」
「お前らはどうなんだよ!」
「健全な宿と職場を提供するだけよ。払えない報酬をちらつかせて芸をさせようとかさもしいことも思わないし、他所のお子さんとの喧嘩を煽って、怪我させるような馬鹿な真似もしないわ」
「うぐっ…」
昨日から熱心に私を勧誘していたアレックは、がっくりと肩を落とし、病室を後にした。
「ほんと子供なんだから……」
病室の窓から、遠ざかっていくアレックの煤けた背中が見えた。
ごめんね。アレック。
見たところ、アレックは30前後…ミリィは私より2つか3つぐらいしか違わないが、そんな彼女に子供扱いされてちゃあたしも頼りにできないわ。
「あいつにしてみりゃ『鳶に油揚げをさらわれた』ってところかしら?」
「へ、鳶に油揚げ?」
「お宝をモノにしたと思った瞬間、横から他人に掻っ攫われるってことよ」
油揚げといえば、袋みたいな食べ物で、スポンジ状の中身にスープが染みこむと濃厚な肉汁のような旨味がしみだす逸品である。大豆で作るそうだが、ああいう美味しいものを鳶ごときにとられたら、そりゃがっかりするわな。
そうか、あれは鳶も好きなのか。
かくて、私はミリィ・ロックウェルと握手を交わし『リナ・スタンレー』という、その場でテキトーに考えた偽名を契約書に書き込んだ。
この日、私は用心棒リナ・スタンレーとしてデビューしたのだ。