第8話 セレウスとの別れ
窓辺の花瓶に生けられた季節の花ばなを見つめ、イゼルは小さくため息をつく。目を細め、そっと花びらに触れる。
窓の外へ目を向ける。良い夜だ。強い月の光を、雲が淡く彩ってくれている。
窓ガラスに映る自らの赤い瞳。そっと指先で触れ、顔をしかめる。
背後で扉が開かれる気配がした、と同時に、コン、コン、とノックの音が聞こえる。振り返り、イゼルは苦笑した。もう開け放たれた扉にノックしながら、反抗的な空色の瞳がこちらを睨んでいる。
「ノックはドアを開く前にするものだよ」
「そいつは失礼。あいにく礼儀作法には疎くてね」
セレウスは無遠慮に部屋に入り込むと、ソファに座って足を組む。イゼルは開けっ放しのドアを閉めに行ってから、彼と向かい合って座った。
「紅茶でいいかい?」
「……いらねえよ」
イゼルはティーポットに伸ばしかけた手を止め、少し姿勢を正した。彼が馴れ合いに来たわけではないことはわかる。
「……あんたは」
セレウスは眉間にぎっちりと皺を寄せ、とても不機嫌そうに切り出した。
「あんたは、本当にティーゼを王にするつもりなのか」
「…………」
イゼルは穏やかな表情をくずさずに、セレウスをじっと見つめる。青空の色をそのまま閉じ込めたような、その瞳を。
「あくまで私自身の望みとしては、そうだね。私は、エレンティアーナの子孫に王位を還すことを目的に生きてきた。それが正しいことだと信じている」
「あほか。言っておくがティーゼは馬鹿だぞ。世間知らずで貧乏性だ。王になんかなれるはずがない」
遠慮のない言い様に、笑ってしまう。けれどセレウスの顔があまりに真剣なので、イゼルもすぐに笑顔を引っ込めた。
「……なのに。あいつはお人好しだ。なりたくもない王になるかどうかで、真剣に悩んでる。今まで何にも知らなかったのに。ただの、呑気なティーゼだったのに」
イゼルは眉をひそめた。
「あの子を追い詰めるつもりはない。それこそ、彼女が王になりたくないならば私はその気持ちを尊重するつもりだ」
「それでも、あいつはそうやって割りきれないんだよ。あんたのことを思いやってるからだ。あんたのことも、顔も見たことないご先祖サマのことも」
セレウスはため息をつきながら、ソファにもたれる。
「……あいつのばあさんが殺されたことも。この城で聞かされた話も。すべて。あいつを苦しめてる。悲しませてる。俺は、それが許せない」
空色の瞳に、確かな怒りの色が浮かぶ。ゆらめく青い炎のようだ。静かにそれを見つめながら、イゼルはぞく、と背中に悪寒が走るのを感じていた。
「あいつの関係のないところで何もかもが起こって、それがあいつを苦しめてるなんておかしいだろ」
セレウスはぐっと瞳を細める。
「俺はあいつのためならなんだってする。確かに言ったんだ、ティーゼは……王になりたくないって」
「…………」
イゼルはしばらく言葉を失っていた。セレウスの空色の瞳に射すくめられ、身動きもできなかった。きっと、300年前のウェインも、同じように力のある瞳を持っていたのだろう。そして、同じように、テールのために、と生きていたのだろう。
ウェインとテール。その末裔であるセレウスとティーゼが、この時代で再び巡りあった。
その瞳の色を見れば、それが必然であったとわかる。快晴の青空と同じ、輝くような空色の瞳。そして、星の光を宿したように煌めく、深い藍色の夜空の瞳。なんて美しく対になる色だろう。
「……確かに、勝手な話だね」
イゼルは自嘲するように言う。
「ティーゼは私の瞳を見て、恐ろしいと思ったそうだね。しもべであるリュチータの瞳のはずなのに。きっと、300年前、この瞳に蔑まれた記憶が、彼女の血に刻まれているのだろう……。過去にそこまでのことをして、しかも、この時代で彼女のおばあさんまで失わせておいて、私にティーゼに何かを頼む資格はないのかもしれない」
「…………」
「……私は結局、彼女の臣となる人間だ。彼女がどんな決断をしようと、受け入れる。ただ、知ってほしい……真実を。その上で、考えてみてほしいんだ……」
利己的な考えと言われれば反論はできないが、イゼルにはそれより最良と言える道が思い浮かばなかった。
セレウスは静かにイゼルを見据えていた。紅色の瞳と空色の瞳が、長いことお互いの心の内を確かめるように視線をぶつけ合っていた。
「……あんたはいい奴なんだろうな。ティーゼのことも思いやった上で、リュチータの子孫として、今の王子として、最善のことをしようとしてる。……けど、だからこそ。あんたがいい奴だからこそ、ティーゼは自分の思いを押し殺して王になるって言うんだろうよ」
セレウスは氷のような声で、呟いた。
「俺は、ティーゼをもうこれ以上……泣かせたくない」
静かに立ち上がり、身を翻すセレウスを、イゼルは呼び止める。
「待て。セレウス……」
振り向いた空色の瞳が、あまりに悲しい色を帯びていて、イゼルは言葉を失った。
「……君は、まさか」
確かな覚悟の色。寂しさと、決意を秘めた瞳。何を言っても彼には届かないと思いつつ、何かを言わなくてはならないと思った。
「……どうか、君はティーゼのそばにいてくれ。君まで失ったら、彼女がどう思うか」
悲痛とも言える思いで、言葉を紡ぐ。
「頼む。あの子の心は、君によって支えられているんだ。わかるだろう?」
「…………」
セレウスは寂しげに微笑んだ。
イゼルははっとする。なんて哀しい表情をするのか、と。彼は今までどんな生活をしてきたのだろう。イゼルには知り得ないが、その顔を見てはっきりとわかった。彼がどれほどティーゼのことを想っているか。そしてティーゼがどれほどセレウスを頼りにしているか、わかった上で、彼は……彼女から離れようとしている。
「違うよ、セレウス」
イゼルは諭すように言う。
「彼女はきっと、何よりも、君がいなくなることなんか望んでいないはずだ」
「それでも、ここにいたら、俺はあいつのために何もしてやれない」
「何をするつもりだ……君は一体、どこへ行こうとしている?」
セレウスは答えなかった。イゼルも、何も言えなかった。彼を止めなければならない。けれど、止めてはならないとも感じていた。何よりもティーゼの幸せのために。そのために動こうとする彼を、どうして止められるだろう?止められるのはただひとり、ティーゼだけだ。しかし、彼はすぐにでも旅立とうとしている……。
「せめて、ティーゼに会ってくれ。もう一度……」
セレウスは首を横にふった。
「言っただろ。あいつは人を思いやりすぎるんだ」
俺にだって、どうせわがままなんか言ってくれやしない。
寂しそうに、そう囁いて。
セレウスはドアを開き、暗闇へと消えていった。
あたたかな風が、そよそよと吹いている。日の光はやわらかく、身体を包み込むように降り注ぐ。
おだやかな昼下がり。ティーゼはお城の中庭を探索していた。居館に入るまでの長い渡り廊下の奥、庭の隅には、見事に手入れされた花園があった。見たこともないような色とりどりの花ばなに心惹かれ、ティーゼはそちらへ向かった。
蔦のアーチをくぐると、ふわりと花の香りが押し寄せる。まるで花の迷路のようだ。導かれるように歩いていくと、花園の真ん中には、ガラスでできた小さな温室がぽつんと建っていた。日の光を受けて細やかに煌めき、花ばなに彩られたそれは華奢で美しく、ティーゼは引き寄せられるように歩を進めていった。
温室の中は、あたたかく静かだ。小さな花や、水草、苔などが丁寧に育てられている。
( 宝石箱のような場所だわ )
水路の循環する微かな水音だけが響き、耳に心地よい。中央に白い椅子が置かれている。それに座ると、日差しが優しく照らしてくれる。特等席ね、と笑みがこぼれた。けれど、すぐに泣き顔に戻ってしまう。
セレウスが行ってしまった。私のそばからいなくなってしまった……。
セレウスはきっとディアスの元へ向かったのだろう、と、イゼルから聞かされたのは昨日の朝だった。
イゼルの赤い瞳は後悔の色を浮かべ、とても辛そうにティーゼに言った。
「彼は君を王になどしないと私に言った。君の幸せのためならなんでもすると。そしてこの城から姿を消した……。行く先は、ディアスのところしか考えられない。ディアスは君に王位を譲らないことを望んでいるんだ。そこだけは、セレウスの利害と一致する」
イゼルは額を押さえ、
「すまない。何としても止めなければならなかった。けれど、私は、一瞬でも、彼の行動こそが正しいのではないかと思ってしまったんだ。君を王にすることが本当に正しいのか、揺らいでしまった」
ティーゼは静かにイゼルを見つめていた。
「けれど、そんなことは関係ない。君とセレウスを引き離すべきではなかった。すまない……」
今までにないほど激しく心を乱して、深く頭を下げるイゼルを、ティーゼは責めようとは思わなかった。
ただ、悲しかった。セレウスがいなくなってしまったことが、あまりに悲しかった。
ティーゼは降り注ぐ日差しを浴びながら、一筋、涙を流した。
「違うよ……セレウス、違う………」
掠れた声で、決して届かない思いを呟く。
「あなたのいない場所に私の幸せがあると思ったの?何もわかっていないわ……何も……」
王様になんかなりたくない。それは、今まで通りの暮らしが一番幸せだと思っているからだ。セレウスがそばにいてくれる暮らしこそが幸せだったのに。このお城で暮らす決意をしたのだって、セレウスが隣にいてくれると思ったからだ。彼が支えてくれるならば、どんな運命だって受け入れられると思った。なのに。
( あなたは誰よりも私を不幸せにしたのよ。セレウス……)
帰ってきてちょうだい、と。震える唇が吐き出した思いは、静かな温室に溶けていった。