第7話 夜空の下で
その夜、イゼルはティーゼとセレウスにそれぞれ部屋をあてがってくれた。今日のところはゆっくり休んでくれ、と。それから彼はティーゼに向かって、
「君はもう家に帰らない方がいい……少なくとも、ひとりでは。ディアスはまだ君を狙っているだろうから」
与えられた部屋に入ったティーゼは、わぁ、と思わず声をあげた。真っ先に目に映ったのは、宝石のようなシャンデリア。真っ白なシーツが敷かれた大きなベッド、足の細い洒落たテーブル、可愛らしいクローゼットにはハートの飾りが施され、まるで童話に出てくるお姫様の部屋みたいだった。テラスまである。ティーゼはため息を漏らしながら、おそるおそるベッドに腰かけてみた。それから、思いきってばふっと倒れこむ。ふかふかだ。雲の上ってこんな感じかしら、とぼんやり考えた。
腕を伸ばして、テールの首飾りを光に照らしてみる。空色の宝石がきらりと輝いた。300年前、テールも確かにこれに触れていたのだと考えると、不思議な気持ちになる。遠い時代のひとだけれど、なんだかとても近い存在に感じるのだ。
( 青空の色…… )
ティーゼは唇を震わせる。
青空はいつだって、セレウスの色だった。
セレウスの瞳と同じ色の宝石を見ていられなくて、ティーゼはそれをベッドに放った。それから、とても大事な物だったことを思い出して、あわててポケットにしまう。
( セレウス…… )
セレウスは怒っているだろうか。ティーゼは結局自分がエレンティアーナの子孫だと思い込んでいる。まだ、完全に信じられたわけではないけれど、それでも、もう「ただのティーゼ」ではいられないことを覚悟してしまっている。
セレウスはどう思っているのだろう。自分が、かつてこのお城で暮らしていた騎士の子孫だと言われて。ティーゼの先祖とセレウスの先祖は、このお城で出会っていたと言われて。ティーゼは嬉しかった。ふたりが再び、この時代に巡りあったこと。それが運命的なことなんだって、思えたから。
( 運命というものは、あるんだよ…… )
イゼルはそう言っていた。運命か。確かにそうなのかもしれない。ティーゼがこの時代に生まれて、それがちょうど約束の千年の時なのだということも。避けられない運命だったと言われれば、それまでだ。
おばあちゃんが、死んでしまったことも……。
寂しさが込み上げ、ティーゼは起き上がって首をふった。
窓を開ける。涼しい風が頬を撫でていくのが心地よく、テラスに出てみる。高いところから見ると、こんなに星が近いんだ。木々に囲まれた森の中では気づけなかった。掠れた筆を走らせたように雲がかかっているけれど、月の輝きは美しい。近いうちに満月になるだろう。
今朝、廃劇場のステージの上で、空を見上げたことを思い出す。途端にセレウスが恋しくなって、ティーゼは辺りを見回した。彼も綺麗な月空に惹かれて、外に出てこないだろうか。
その時、
「ティーゼ、ティーゼ!」
どこかからセレウスの呼ぶ声が聞こえる。ティーゼはあわててきょろきょろと首を巡らせる。上だ、と気づいて見上げれば、驚いたことに屋根からひょっこりセレウスの顔が覗いているのだった。
「セレウス!あなた、どうやってそんなところに上ったの?」
「簡単に上がれるよ。ティーゼも来ればいい。一面夜空だぞ」
「危なくないの?」
「大丈夫」
ティーゼは迷う。こんな立派なお城の中では、屋根に上ってしまうなんていたずらはとんでもないことに思えた。けれど、セレウスの瞳に映りこむ星の輝きがとても綺麗で、ティーゼもあそこから夜空を眺めてみたくなった。
「ほんとに簡単に上がれる?私でも?」
「大丈夫。壁の石が出っ張ってるとこがあるだろ。そこを伝って上ればいい」
ティーゼは意を決して、壁に手をかけた。一歩上ってみたところで、ここがとても高い場所だということに気づく。なるべく下を見ないように意識して、ゆっくり上っていく。小夜風が吹くだけで怖かったけれど、最後はセレウスに引っ張りあげてもらって、なんとか屋根の上にたどり着いた。
「よくやったな。スカートで」
「あ、やだっ」
ティーゼはあわてて、下に人がいないか確認する。かなり大胆なことをしてしまったらしい。
セレウスが声をあげて笑った。つられるように、ティーゼも笑ってしまう。ずいぶんと久しぶりに笑ったような気がした。
「うわぁ……」
空を見上げ、その広さに驚く。一面の夜空だ。きらめくお砂糖をまぶしたような、深い藍色の空。暗い雲が月を取り巻くようにかかっているけれど、それさえも綺麗だと思った。お月様がドレスを翻しているようだ。
「な。来てよかっただろ」
「うん」
セレウスはティーゼが落ちないように、腰に腕をまわして支えてくれた。
「お前の色だな。ティーゼ」
ティーゼはにっこりした。
ふたりはしばらく夜空を見上げていた。視界いっぱいに、空しか見えない。触れ合うセレウスのぬくもりを感じて、もうこの世界中にふたりだけしかいないような、そんな気がしていた。
「……セレウス。ごめんね」
「ん?」
「私、やっぱり自分がエレンティアーナの子孫だって、そんな気がしているの。イゼル様の話を真に受けてしまっているの。私はただのティーゼのままだって、あなたにそう言ったのに」
セレウスは微笑んだ。寂しそうな笑顔だった。
「真実は真実だ。ティーゼが信じるなら、俺も信じるよ……ただ、」
セレウスは真剣な顔をして、ティーゼを見つめる。
「ティーゼは王になりたいのか?」
「え……」
「覚悟がないとか、そういうことじゃなく……なりたいか、なりたくないかだ」
ティーゼは俯く。
「……私は、本当は、今まで通り暮らしたい。王様になんかなりたくない」
「…………」
「……でも、もう無理なの。おばあちゃんはもういないし、私は知ってしまったの。自分はどういう一族に生まれたのか。知らなかった頃には戻れないわ」
「だから、約束の千年が経つまで……3年後まで、ここで暮らすのか?」
「そうするのが一番いいと思うの。知らないことだっていっぱいある。ここにいれば、もっといろんなことがわかっていくと思う。……知るのって恐ろしいけれど、知らないままでいるのはとても不安なの」
ティーゼはセレウスと目を合わせて、彼の手に手を重ねた。
「ねぇ、セレウス。悪いことばかりではなかったわ。あなたのご先祖様と私のご先祖様、このお城で出会っていたのよ。ウェインはテールを助けてくれていたんですって。……あなたが私を助けてくれたように」
ティーゼは目を細める。
「私とあなたがこの時代で出会ったことも、運命よ。そう思えただけで、私、救われた気がするの」
セレウスの瞳が揺れる。彼は何か言いかけ、それから何故か大げさにため息をついた。
「セレウス?」
支えてくれる腕に力がこもる。
「……俺は親の顔も知らないし、先祖だなんて言われてもなんの実感も湧かない。300年前に何が起こっていようと、どうだっていい。大事なのはこれから先だ。俺は……」
セレウスはティーゼを見つめ、一瞬泣きそうに顔をくしゃっと歪める。それからふいと顔を背けてしまう。
「……俺は、お前さえ幸せであってくれればそれでいい」
「セレウス……」
「王になって、その先にティーゼの幸せはあるか?このままだと、言われるがまま、飲み込まれるように王になっちまう。それがお前の幸せなのか?」
「……私の幸せは……」
ティーゼは言葉を失う。
私の幸せって何だろう。今までの生活は確かに幸せだった。おばあちゃんがいて、セレウスがいて。これから先、おばあちゃんを失った悲しみはたぶん一生癒えないけれど、森の小屋で、ひとりで野菜を育てて、たまに町へ行って、セレウスと会って……そんな暮らしも、きっと幸せだろう。
けれど、自分の中に流れるエレンティアーナの血のこと。イゼルの望み。ディアスの思惑。そのすべてを忘れることなんてできない。それらを見ないふりする生活が、本当に幸せだとは思えなかった。
「……ティーゼ」
セレウスがまっすぐ見つめてくる。
「……わからないの。私、まだまだ何も見えていないんだわ。お願い、セレウス。いろんなことを、見つめ直してみたいの。私が何をしたいのか、何をするべきなのか……見えてくるまで、時間をちょうだい」
ティーゼはすがるようにセレウスの瞳を見つめ返す。
「……わかった」
セレウスは優しく囁く。
「待つよ。ティーゼ」
それから、すこし顔をしかめる。
「……でも、俺はお前に王になってほしくない」
「……うん」
「大体、イゼルの言い分は勝手だ。300年前、向こうの都合でティーゼの先祖を城から追い出しといて、今度は王になってほしいから戻ってこいって言ってるんだぞ」
「うん……でも、イゼル様が悪いわけじゃないわ。それが自然なことなんだって言うのも、わかる気がするの……」
「ティーゼはお人好しすぎる」
セレウスは苛立たしげにぴしゃりと言い放つ。
「いいか。王になるってのは生半可な覚悟じゃできねえぞ。それを、何も知らずに暮らしてきたティーゼに押し付けようとしてるんだ。おかしいと思わないか?」
「……誰かが背負わなくちゃならないことなのよ。私の親だったかもしれないし、私の子どもだったかもしれない。たまたま私がこの時代に生きている……そう、運命よ」
「ティーゼ。諦めてるように聞こえるぞ」
セレウスはティーゼの腰と膝の裏に手を回し、突然立ち上がった。ふわりと身体が浮き上がり、ティーゼはあわててセレウスにしがみつく。
「いいか。俺はお前が望むなら、このまま城から逃げてやる」
セレウスの瞳は、夜空の光を受けて暗く、そして星を宿したかのように美しかった。
「お前は自由だ。どんな道でも選べる。それを忘れるな」
月の光に、セレウスの姿が縁取られる。綺麗だ、と思った。彼に抱えあげられて、彼の瞳が自分に向けられていることが信じられないほど、神々しくて神聖なものに見えた。
ティーゼは思わず手を伸ばし、セレウスの頬に触れた。
「……ありがとう、セレウス」
ぼんやりと彼の顔を見つめたまま、ティーゼは呟くように言う。
「ごめんね。まだ勇気がないの。王様になる勇気も、ならない勇気も」
滑らかな頬が、そっと手のひらに擦り寄せられる。どき、と胸が鳴った。月の光のせいだろうか、セレウスがいつもとは全然違うひとのように見える。
「……わかったよ」
ティーゼの手に頬を押し付けたまま、セレウスは目を閉じる。
「わかったから……」
掠れた声。なんだかセレウスがとても辛そうに見えて、ティーゼは泣きそうになる。彼の頬を撫で、髪を指ですく。
「セレウス」
呼びかけても、それに続く台詞が出てこない。私は彼に何を言いたいのだろう。何よりも伝えたい思いがあるはずなのに、それをどう言葉にしたら良いのかわからない。
こんなに近くにいるのに。お互いの熱が伝わる距離で、こうして触れ合っているのに。夜の色で彼の瞳に闇が落とされているからだろうか。月の光で彼の姿が金に飾られているからだろうか。とてもとても、セレウスが遠くに感じた。