第5話 何もかも変わる
ティーゼとセレウスは、廃劇場のステージに寝転がって、空を見上げた。円形に劇場を取り囲む建物の合間に、ぽっかりと空いた大きな天窓。空の高さを、美しさを、まっすぐに見つめられるこの場所が大好きだった。光が差し込んで、スポットライトのようにふたりを照らし出す。あたたかい日差しだ。雲が流れていくのが見える。こうやって横になり、ぼんやりと空を眺めていると、時の流れがとても緩やかに感じる。
けれど、そろそろ行かなくては。
ティーゼはなんとなく感じていた。きっとお城に行けば、何かが変わってしまう。今の、この時のティーゼの目で、ここからの空を見ておきたかった。セレウスとともに、他愛のないことで笑いながら過ごしたこの場所。セレウスはいつもここから空を見上げていた。彼の瞳の空色があまりに綺麗だから、本当に空の色が焼き付いてしまったのではないかと思うほどだった。
「行こう、セレウス」
セレウスに呼びかけてから、少し考えて付け足す。
「またここへ来よう。今度はここから、夜空も見てみたいな」
セレウスはティーゼを見つめ、少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
ふたりは、歩いて王都まで行こうと決めた。またソウンのお世話になるのは申し訳ないし、何の用で王都に行くのかと問われたらうまく答えられる自信がなかった。
きっと半日もあればたどり着くだろう。露店でお弁当になるパンやら果物やらを買い、紙袋に詰めてもらう。それをカバンに入れると、なんだか壮大な旅に出るような気分だ。お弁当を持ってお出かけするなんて、そういえば初めてのことだなあ、と、ティーゼはぼんやり考えた。
森の反対側の町外れにはあまり行ったことがない。木彫りの門を出ると、のどかな野道だ。荷馬車や馬が往来し、遠くから牛の鳴き声が聞こえる。かごや包みを持った人たちと、たまにすれ違う。やわらかな日差しが降り注ぐ、穏やかな昼下がりだった。
ティーゼもセレウスも、言葉を交わさなかった。今まで起こったことに疲れていたし、これから起こることへの不安でいっぱいだった。ただ、隣に一緒に歩いてくれるひとがいることで、心はだいぶ救われていたと思う。
もうじき夕焼けが空を茜色に染めるだろう。染まり始めた薄桃色の雲を見て、ふたりは足を止めた。道は石畳に変わり、きっともうじき王都の光が見えてくるはずだ。
旅人のための休憩所で、ふたりは食事にすることにした。あまり立派なものではない。小高い丘に苔の生えた石のベンチが置かれているだけだ。けれどそこに座ってみると、沈んでいく夕日がよく見えた。
「……綺麗ねえ」
目を細めながら、パンを一口かじる。空っぽだったお腹にパンの甘さが染み渡っていく。真っ赤な太陽の光を受け、徐々に暗くなっていく空を眺めながら、お腹がぺこぺこだったことに気づく。パンを食べて、止まらなくなり、果物もチーズも全部残らずたいらげる。美味しい……そう思った瞬間に、なぜだか涙がこぼれ落ちた。
ふたりが王都にたどり着いたのは、日も沈みきり、月が夜空に輝きだしたころだった。今日は濃い灰色の雲が夜空を覆っていたけれど、時おり風が雲を流すと、美しく淡い金色の三日月が姿を現す。
お祭りが終わったといっても、王都の繁華街は賑わいを見せていた。人々が楽しそうにお酒をあおる店の合間を突っ切り、王城へ向かう。
王城の門は、閉ざされていた。舞踏会の夜とは売ってかわって、重々しい雰囲気が城を包んでいる。ティーゼは怯みながらも、門番に向かって、
「ごめんください。イゼル様にご用があって参りました」
兜で顔をかくした門番は、表情が読み取れなくて恐ろしく見えた。
「ああ!」
明るく声をあげられ、ティーゼは目を丸くする。門番は兜を取った。少し乱れた茶色い髪を透かすように、優しそうな緑の目が現れる。舞踏会の夜、ティーゼとセレウスを森まで送り届けてくれた青年だった。
「お待ちしておりました。どうぞ中へ。ご案内致します」
噴水のきらめく中庭を通って、イゼルの部屋がある居館に向かう。
青年は名をフレタといい、イゼルの直属の騎士なのだという。彼の穏やかな物腰からは、あまり剣を振るって戦う姿は想像できない。ティーゼのそんな気持ちに気づいたのか、フレタは陽気に、
「騎士とは名ばかりで、実際は雑務ばかり任されていますけどね」
自嘲するようにははは、と笑う。ただこちらの緊張をほぐそうとしてくれているのが伝わる。いいひとだな、と思った。
「あなた方がいついらっしゃるかわからないものですから、イゼル様は僕に門番を任せたんです。他の者に任せて追い返しでもされたら大変ですからね」
その言葉で、この人も事情を知っているのか、と悟る。同時に、彼がイゼルからとても信頼されている存在なのだということがわかった。
フレタはイゼルの部屋の前まで案内してくれた。この人がいてくれてよかった、とティーゼは胸を撫で下ろす。このお城の敷地内を迷わずに歩くのは不可能だ。
「イゼル様。ティーゼ様とセレウス様がいらっしゃいましたよ」
「何っ」
小さな扉の向こうで、イゼルがあわてて何かをどこかにぶつける音が聞こえた。フレタの顔が曇る。
「イゼル様?大丈夫ですか」
「ああ、問題ない」
すぐに扉が開き、イゼルが顔を出す。昨日のようにきっちりと身支度をした姿ではない。ゆったりとしたチュニックに身を包み、絹のような髪も少し乱れていた。紅色の瞳がティーゼとセレウスを捉え、ほっとしたように細められた。
「……来てくれたか」
それから埃にまみれたふたりの服と、やつれた顔に気がついたらしい。やや表情が強ばる。
「イゼル様。あの……」
イゼルは口を開きかけたティーゼを手で制し、
「とにかく中に入って落ち着こうじゃないか。フレタ、紅茶を用意してくれ」
差し出された紅茶はとても熱くて美味しかった。あたたかさが身体全体に染み渡るようで、ティーゼはふう、と長い息をつく。今回は、セレウスもティーカップに手をつけた。ただ、一口で熱い紅茶を飲み干してしまう。イゼルは黙って、おかわりの紅茶を注いでくれた。
ティーゼは膝に手を乗せ、しばらくの間湯気のたつ紅茶を見つめていた。どう話を切り出せばいいのかわからない。アンナの話を口にすれば、また泣き出してしまいそうだった。
それでも、言わなくては。決意して顔を上げた瞬間に、イゼルが穏やかに言う。
「いつか手紙を遣わそうと思っていたんだ。来てくれてよかった。しかし……まさか、歩いてきたのかい?君の家はメーシェにあるんだろう?ここからだと随分距離がある」
「はい……事情が、あって」
声が震える。ティーゼはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。その手に、セレウスの手が重ねられる。
「昨日、ティーゼの婆さんが殺された」
驚いてセレウスを見る。横顔。空色の瞳が、強い光を持ってイゼルを見据えている。
「家も荒らされてた。俺たちがこの城に来て、あんたから話を聞かされた夜にだ。なんか関係があるんじゃないか。それを確かめに来た」
イゼルの目が大きく見開かれる。ティーゼとセレウスを交互に見るその瞳に、徐々に同情と静かな悲しみが浮かんでいくのを見て、ティーゼはこの人は何も知らなかったんだ、と感じた。今聞かされた真実に、心を痛めてくれたことも。
セレウスのおかげで言葉を発する勇気を得たティーゼは、続けた。
「強盗の仕業かと思いました。でも、私とおばあちゃんは、町のひととはあまり関わらずに生きてきたんです。ひっそりと、森の中で。家だって小さくて、貧しくて、盗むものなんて何もないんです。あ……」
ティーゼは髪飾りをはずして、
「うちにある宝石はこれだけ。お母さんの形見で、ずっと引き出しにしまっていたものです。これだけのために強盗に入るなんて思えなくて……」
ふと言葉を切る。手の中の髪飾りを見た瞬間、イゼルの顔つきが変わったことに気がついたのだ。唇がわなわなと震え、こめかみには冷や汗まで浮かんでいる。
「…………これが、君のお母さんの形見?」
「は、はい。もともとはおばあちゃんのもので……おばあちゃんも、おばあちゃんのお母さんからもらったものだって……」
おかしいな、と思う。昨日会ったときも、ティーゼはこれを持っていたのに。あ、と気づく。昨日はティーゼがきつく握りしめていたから、イゼルはこれを見ていないんだ。
それにしても、この髪飾りがいったいどうしたというのだろう?
イゼルは長い長いため息をついた。この短い時間の中で、とても疲れてしまったように見える。
「……やっぱり。これは、君がエレンティアーナの一族だという証拠だよ」
「え……?」
「エレンティアーナの子孫がなぜこの城から姿を消したか。なぜ君と君のおばあさんは森で暮らしていたか……教えよう。今から300年前の話だ。そこから、昨夜おばあさんが亡くなった理由も見えてくるだろう」
紅色の瞳がきらりと光る。ぞく、と背筋に悪寒が走った。
知りたい。それと同時に、聞きたくない、とも思った。聞いてしまえば、ティーゼはきっと信じてしまう。自分が、エレンティアーナの子孫だと。きっと何もかも変わる。今までの、ただのティーゼがいなくなってしまう……。