第3話 語られる真実
イゼルの後に続いてお城の中を歩きながら、ティーゼはその広さにただただ驚いていた。天井は見上げるほど高く、何度も階段を昇ったり降りたりしても一向に果てが見えず、それどころかお城の中にもうひとつ庭があり、そこを抜けるとまた違う建物が現れたりして、目が回る思いだった。
「こちらが居館だ。君たちだけと話がしたい。歩かせてすまないが、私の部屋に来てくれ」
イゼルの部屋は、最上階の奥まった所にあった。相変わらず廊下は豪奢な照明と絨毯で飾られていたが、その部屋の扉は簡素で、高い天井に似つかわしくないほど小さかった。
中に入ると、ふわりと花の香りがした。見ると、窓辺に置かれた花瓶に、美しい花ばなが活けられている。すべてこの初夏が見頃の花たちだ。けれどその他に、この部屋を飾り立てるものはない。家具は備えてあるが、どれも質素な物だ。それでも上等な品であることはわかるが、王子の部屋にしてはあまりに味気ない。ただティーゼは少しだけ、イゼルという方がわかったような気がした。
イゼルはふたりをソファーにすすめ、自分も腰かけるとテーブルの上のティーポットに手を伸ばした。慣れた手つきで、あたたかい紅茶を淹れてくれる。
「砂糖とミルクは?」
ティーゼは一国の王子にお茶汲みをさせていることに気づいて竦み上がったが、イゼルは気にする様子もないので結局はティーカップと角砂糖、ミルクポットまで受け取ってお礼を言った。セレウスはお茶に口をつける気はないようで、腕を組んだままソファーに沈みこんでいる。
「話があるんならさっさとしてくれ」
刺々しい声でそう言う。セレウスは敵意を隠そうともしない。
「ああ、そうだね。すまない」
イゼルは立ち上がり、本棚から一冊の取り出す。それをテーブルに置き、彼がまたこちらに向かい合ったところで、ティーゼはまたその赤い瞳にぞくっと悪寒を覚えた。
「これは、この国の神話だ。どの家にも一冊はあるような、皆に知られている物語だ。この国を創造した女神と破壊の神との争い、そして女神が人間に転生し、それが今の王族となるまでの話がえがかれている」
「……はい。私も読んだことがあります。女神の名前は……」
エレンティアーナ。
ティーゼとイゼルの声が重なる。
テーブルの上の古い本。ティーゼの家にあるものと同じだ。アンナはたくさん本を持っていた。みんな、破れたり汚れたりしている古いものばかりだったけれど、幼かったティーゼは物語の世界に夢中になり、文字も覚えた。
「エレンティアーナは破壊の神ヨルバルとの戦いで疲れ果て、力を失う。そしてこの国を神の支配する世から人の世へと移すため、自ら人間に転生した。エレンティアーナは人間となったが、その紅色の瞳だけは力を失わずに残された。それが今の王族の先祖である。そう伝えられているね?」
「はい」
イゼルは絞り出すように長い息を吐いた。ティーゼを見つめ、しばらくの沈黙の後、
「……違うんだ」
「……え?」
「我々の先祖はエレンティアーナではない。今、国民の知る神話は書き換えられたものなんだ」
しんと、空気の冷える音がした。
イゼルの言ったことが、この国をひっくり返すくらい重用なことだということはわかる。けれどティーゼはいまいちその意味を掴めていなかった。
「この神話に登場する、リュチータという天使はわかるかい?」
「はい……わかります。エレンティアーナのお付きの天使ですよね」
堕天の烙印を押されそうになったリュチータをエレンティアーナが救ったときから、リュチータは彼女のために生きることを誓った。それからリュチータはエレンティアーナの一番のしもべだ。銀の剣を手に、ヨルバルとの戦いでも幾度となくエレンティアーナの危機を救った。
「そのリュチータこそが、私たちの祖先なんだ。エレンティアーナは人間となり、人々を導く王となるはずだった。けれど、それをリュチータが止めた」
イゼルは本のページをめくり、エレンティアーナの戴冠式の場面を開いた。王冠を頭に乗せ、人々を前に演説するエレンティアーナの絵が描かれている。この絵は、間違いだということだろうか。
「実は、エレンティアーナはヨルバルを倒したわけではないんだ。力を奪う封印は、その時から千年後に完成するもので、それまでは安心できない。リュチータはそう言って、エレンティアーナを王の身分に置くのを避けた。自分がエレンティアーナの身代わりになることにしたんだ。ヨルバルを完全に封印する、千年後まで」
イゼルの目は、まっすぐにティーゼを見つめていた。
「そして、リュチータの子孫はエレンティアーナの子孫を城で匿いながら、王族として生きてきた。約束の、千年の時を経るまで。そしてその千年は、もうじき経つ」
ティーゼは右手でぎゅっと母の形見の髪飾りを握りしめ、左手でセレウスの手をしっかりと握りしめた。そうしていないと、身体が震えだしそうだった。
「この紅色の瞳は、女神の子孫である証ではない。女神の臣下である証なんだ。エレンティアーナの……本来の王族の瞳の色は……」
やめて、と口を動かしたが、声にならなかった。セレウスが強く手を握り返してくるのを感じながら、ティーゼはイゼルと目を合わせたまま動けなくなる。
「君の、その瞳の色。夜空のような、濃紺だ。一目見てすぐにわかった。私の中のリュチータの血が告げるのだ。君こそが王だと」
「そんな……そんなわけありません」
ティーゼはいやいやするように首をふる。
「私は生まれてからずっと森で暮らしてきました。おばあちゃんも、そんなこと一言も言っていなかったわ」
「……エレンティアーナの子孫が城から姿を消したのには、300年前に理由がある。君には、本当に深い説明をしなくてはならない」
「何かの間違いです。瞳の色が同じでも、私がエレンティアーナの子孫だなんて、そんな証拠にはならないでしょう」
「いいや。君は家族以外で、自分と同じ色の瞳を持つ人物を見たことがあるかい?」
ティーゼは返答に詰まる。確かに、ティーゼとアンナと同じ色の瞳を持つ人は見たことがない。けれどそれは、ティーゼがあまり他人と関わらない生活をしてきたからのはずだ。
「……何かの間違いです」
「言っただろう。私の中のリュチータの血が、教えてくれるのだ。主は誰なのか」
イゼルは強い眼差しでティーゼを見つめていた。彼はティーゼの瞳の中に、遠い時代の女神を見ている。
「……だったらどうなんだよ。ティーゼを王にするって言うのか?」
鋭い声が、静寂を破った。セレウスが、身を乗り出してイゼルを睨む。対してイゼルはあくまで穏やかな口調で、
「……そうだね。きっと私とティーゼ君の代で、約束の千年が経つ。その時には、約束通り王位を還したいと思っているよ」
「そんなことはさせない。ティーゼはティーゼとしての人生を生きてきた。勝手なこと言うな」
「……君は……そうか……」
イゼルは何か納得したように、セレウスの瞳を見て微かな笑みを浮かべる。
セレウスは不機嫌そうに立ち上がると、ティーゼの手を引っ張って立たせ、
「帰ろう、ティーゼ」
「セレウス……」
セレウスの瞳の、いつもと変わらない綺麗な空色に安心する。ティーゼはイゼルに向かい合い、頭を下げた。
「ごめんなさい。今日は、何も答えられないと思います。頭がこんがらがっているし、それに、おばあちゃんに話を聞かないと……」
「……そうか」
イゼルは微笑んで立ち上がる。
「急にすまなかったね」
「……必ず、また来ます。もっとお話が聞きたいとも思っています」」
「それを聞いて安心したよ」
「でも、今日はもう帰らせてください。実は、おばあちゃんに黙って来てしまったんです。早く帰らないと心配するわ」
「……わかった。では馬車に家まで送らせよう」
言葉通り、イゼルは中庭に馬車を呼んでくれた。今更ながら、行きはソウンに送ってもらったけれど、帰りはどうするかまったく考えていなかったことに気がつく。イゼルはティーゼとセレウスが乗ったのを確認すると、赤い瞳を申し訳なさそうに細めて、
「めでたい夜に、混乱させてすまなかったね」
「いいえ……こちらこそ、失礼をお許しください」
ティーゼは丁寧にお辞儀する。ほんの僅かな時間だけれど、この王子と会話をして、本当に誠実な方だということがわかった。国民に支持されるのもわかる。そんな彼の望みに、今すぐ応えてあげられないことが心苦しい。
そういえば、もうひとりの王子はこのお城にはいなかったのだろうか。
もう舞踏会のざわめきも落ち着いており、初夏とはいえ夜はまだ肌寒い。それでもイゼルは馬車が見えなくなるまで見送ってくれていた。
ティーゼはぎこちなく座席の背にもたれる。ふかふかだ。それに、思いきり足を伸ばせるくらい広い。とても上等な馬車を用意してくれたことがわかる。
セレウスは窓の外を眺めていた。空色の瞳に、王都の灯りが映りこんでは去っていく。
「セレウス」
その横顔が大人びていて、なんだか遠くに行ってしまいそうで。ティーゼは彼の名を呼んだ。セレウスがこちらを向く。それだけで、少しほっとした。
「……びっくりしちゃったね」
ほんのちょっと、舞踏会を覗きに来ただけなのに、まさかあんな話をされるとは。それも、王子様直々に。この自分があんなに身近に王子と向かい合い、話をしていたこと自体信じられない。その上、ティーゼこそが王族だなんて言われて、どう信じればよいのだろう。さっきまでの出来事が夢だったようにも感じる。
「ティーゼは王族なんかじゃない」
「うん。私が神様の子孫だなんて、何かの間違いよ、きっと……」
「……例え本当でも、ティーゼは王族じゃない」
「……セレウス?」
セレウスは、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「また、元通りに戻ろう、ティーゼ。もう城には近づかない方がいい」
「ええ。でも、もう一度だけ、お城へ行かなくちゃ。イゼル様ともう一度ちゃんとお話をしないと」
「必要ない。ティーゼ、あんな話を真に受けなくていい」
「あの方は誠意を持って話してくださったわ。目を見たらわかる。私もちゃんとこたえないと」
「……あんなに怖がっていたのに、目を見たらわかる、か」
ティーゼは困惑した。セレウスは何をそんな嫌がっているのだろう?イゼルが優しい方だということは、彼にもわかったはずだ。もう一度ちゃんと話し合わなければならないことも、一緒にいた彼にはわかるはずなのに。
「おばあちゃんに、イゼル様から聞いた話をして、聞いてみるわ。私は神様の子孫なの?って。きっとそんなわけがないと言うでしょう。そしたら私はそれを伝えにお城へ行くだけよ。ね、それが終われば、私たちまた元通りよ」
「どうかな。ティーゼはお人好しだから、きっとあの王子の言葉を無視できない」
そんなことはない、と言いかけ、ティーゼは口をつぐんだ。
確かにそうかもしれない。ティーゼはどこかで、本当に自分がエレンティアーナの末裔だったらどうしようと思っている。そんなことはあり得ないと言いつつ、イゼルは嘘をついていないとも思う。どちらも本心ではあるが、それゆえに、イゼルにきっぱりと私は王族ではないと言うことができるか自信がない。イゼルは本気でティーゼをエレンティアーナの末裔だと信じている。それに遠慮して、いつしかティーゼ自身もそう信じてしまう未来が来てしまうかもしれない。
セレウスは不安そうだけれど、ティーゼもまた不安だった。いくら貧しくても、豪華な暮らしに憧れていても、ティーゼは今までの暮らしが好きなのだ。捨ててしまうのは怖い。
「……私は、ただのティーゼよ」
力なく呟いて、俯く。
「そうやってずっと生きてきたのに。今揺らいでいる自分が怖いの。私が信じてきた「私」は、こんなに簡単に変わってしまうものなのかしら」
「……変えさせない。ティーゼはずっとティーゼのままだ」
「……うん」
ティーゼは微笑んだ。
「セレウスがいてくれれば平気ね。私を連れ戻してね」
「…………」
セレウスは何も言わなかった。ただ、ティーゼの望みを叶える第一歩としてなのか、腕を伸ばして手を握ってきた。ぎゅっと繋がれた手から伝わる温もりが心地よくて、ティーゼは目を閉じる。今日は、何度もこうしてセレウスの温もりに救われた。
「おばあちゃん、怒っているかしら」
ずいぶん遅くなってしまった。その上お城に行ってきたなんて聞いたら、アンナはどんな顔をするだろう。しばらくの間は夕飯抜きかもしれない。けれど、後悔はしていなかった。ずっと憧れていた舞踏会をこの目で見ることができたのだから。いろいろ困惑する出来事はあったけれど、王都は素敵なところだったし、お城はとても綺麗だった。
心地よい馬車の揺れと、セレウスの体温を感じながら、ティーゼはいつしか眠ってしまっていた。
夢を見た。美しい夢だった。夢の中で、自分が涙を流しているのを感じた。とても綺麗なものを見ていた……見ているだけで、幸せになれた。空に浮かぶような心地だった。
けれど目が覚めたとき、ティーゼは何を見て感動したのか、何があんなにも胸を突いたのか、よく覚えていないのだった。