第0話 星降る夜
紺青の夜空に、星が銀色の砂のように細かくきらめいている。月明かりは優しい。幼いころに母と食べた、甘いアイスクリームの色を思い出す。
月のアイスクリームに、星のお砂糖。
素敵な夜空。そして、この寂しいテラスにやって来てくれた、愛しいひとはもっと素敵。
「テール」
名を呼ばれ、テールは振り返る。誰よりも、側にいてほしかったひとが、そこにいた。なんだか今夜は機嫌が悪いみたいだ。いつもは穏やかな青い瞳。それが今は鋭く光っている。
「どうされました、ウェイン。舞踏会は終わっていないでしょう」
微かに聞こえる音楽に耳を澄ませてテールが言えば、ウェインは益々不機嫌そうに眉をひそめた。
今夜は舞踏会。明日には戦場に赴く騎士たちの心を少しでも安らげるためにと催されたものだ。
ウェインも、夜明けには発つ。彼は、仮にも団長と呼ばれる身分だ。最前線で戦うことになるだろう。テールにもわかっていた。
「テール。貴女のいない舞踏会で、私は誰を相手に踊ればよいのでしょう」
そう言いながら側へ歩を進めてくるウェインから、目をそらす。
「そんなもの。貴方ならばいくらでもお相手は見つかりますでしょう?私などより身分も器量もよい女性が」
本当は、他の誰とも踊ってなどほしくはなかった。けれど、このテラスでひとりでいる時間があまりに心細く悲しかったので、少し意地を張ってしまう。
「私には、貴女ほど魅力的な女性はいない」
腕を掴まれ、引き寄せられた先は彼の胸。そのまま頭と背中に腕をまわされ、抱き締められる。あたたかな体温と、静かに脈打つ鼓動に、深い安心感を覚える。テールも、ウェインの背中に手をまわして、ぎゅっと抱き締め返した。
「ごめんなさい、ウェイン」
「まったく、貴女は。最後の夜に、共にいられないかと思いました」
「最後だなんて!あぁ、お願いですから、そんなこと言わないで」
戦場の最前線に身を置くウェインが、生き残る可能性は果てしなく低い。けれどテールは信じていた。ウェインは、自分を残していくようなことはしないと。いつだってそうだ。ウェインはいつも、テールの期待に応え、一番望むことをしてくれた。
今だって、こうしてきつく抱き締めてくれている。
「貴方に会うのが怖かった。愛しさで、切なさで、どうにかなってしまいそうで。貴方は明日旅立ってしまう。ああ、貴方の無事を祈りながら過ごす時間、私はどんなに辛いでしょう! 」
こちらを見つめるウェインの瞳があまりに優しくて、テールの心が震える。ウェインはテールの髪に唇をあて、
「貴女は本当に可愛らしい女性だ」
甘く囁く。
ウェインはそっとテールの顎を掴み、上向かせる。だんだんと近づいてくるその瞳に、吸い込まれそうになる。
優しく唇が重ねられる。やわらかく、あたたかい感触。涙がこぼれる。何度か角度を変え、最後に一層深く口づけられれば、愛情が心を支配して、何も考えられなくなった。
「ウェイン……」
命というものが、ひどく儚いものに思えた。ウェインは、旅立ってしまう。その命の危うさに、たまらなく胸が締め付けられる。信じている。ウェインは無事に帰ってくると。けれど、頭ではわかってしまっていて。戦争は、信じる力だけではどうしようもないと。
行かないで、と伝えたい。ずっとずっと、こうして抱き締めていてほしい。
戦争なんて、なくなってしまえばいいのに。なぜ、こんなにも愛しいひとを、奪われなくてはならないのだろう。
「死んでは、嫌ですよ……」
心からの願いを口にすれば、堪えかねたように再び涙が頬を伝う。ウェインは微笑んで、その涙を指で拭ってくれた。
「テールを残して死んだりしない」
一番欲しい答え。けれど、テールにはわかるのだ。これは、彼が自分のためにたまにつく、優しい嘘なのだと。
テールも微笑んだ。彼が最後に見た自分の顔が、彼が一番好きだと言ってくれる笑顔であるために。
……けれど、無理だ。
もうすぐお別れだというのに、笑っていられるほど、テールは大人ではない。
ふたりはまた固く抱き合い、お互いの鼓動を確かめあった。
「ウェイン……好き、です」
「……私もです」
愛だけが、ふたりの中に満ちていた。
明日には引き裂かれてしまう運命を、今は忘れたい。このあたたかさが、体の奥まで染み渡るように、お互いの熱を感じていたい。
「テール、これを」
ウェインが取り出したのは、細やかな細工の施された、翼を型どったペンダントだった。鮮やかな空色の宝石が埋め込まれている。
「貴女がいつも褒めてくれた、私の青空の瞳の色を、側に置いていてほしい」
テールの手にペンダントを握らせながら、ウェインは笑う。彼は大人だ。こんなときでも、こんなに綺麗に笑うことができるのだから。
「貴方はいつでも私をからかいますのね。……これでは、まるで……」
形見分けのようではないか、という言葉を飲み込む。はらはらと涙をこぼすテールに、ウェインは再び綺麗に微笑んで見せる。
「預けるだけです。返してもらいに来ます。必ず」
「……大事に持っていますから」
テールはペンダントを胸に押し付ける。これからは、このペンダントが、心の拠り所だ。ウェインは本当に優しい。別れを予期して、せめてもの慰めを残してくれる。
「私からも、何か贈り物をしたいのですが。あの、今からでも間に合うものなら、何でも差し上げます。ウェイン、何かお望みのものは」
「……いいえ、形あるものは要りません」
ウェインはふわりとテールの前髪をかきあげる。露になった額に口づけを落とすと、いたずらっぽく瞳を輝かせた。
「せめて、会えない時間を埋め尽くすまでの口づけを」
そして、ふたりの影が重なる。
透き通った空気に浮かぶ星空の下。ふたりの姿は銀色の光に縁取られて、今この時を生きるものの中で最も美しかった。
ウェインの瞳に輝く星の光を見つめて、テールははっと空に目を向けた。
星が、降ってくる。いくつもの光の粒となって。どんな宝石でも出せない、まばゆい美しさが、こちらに向かって降り注いでくる。虹の光より激しく、太陽の光より優しい輝きがふたりを取り囲む。まるで、満面に咲き誇った花園のよう。
――光の花園。
ああ、なんて素晴らしい光景だろう。心を確かに揺さぶるのに、それは決して激しい感動ではない。どこまでも優しく、あたたかく、包み込んでくれるような感動だ。
ウェインも、この光景に心奪われているようだった。テールに視線を戻して、眩しそうに目を細める。
「……光を纏っているようだ」
テールは微笑んだ。
光が、ふたりを包んでくれている。ここにはふたりきりだ。テールの手は、ウェインに届く。どうかお願い。いつまでも消えないで、光の花園よ……。