しかたない、なあ
大学の授業と授業の合間の空き時間に、部室でぼんやりと過ごしていたときのことでした。文芸サークルと銘打ってはいたけれど、名前だけの、特に何をしているわけでもないサークルです。活動内容といえば、時折集まってはバカ話に興ずるぐらいのものでした。これではやることなどあるはずもなく、ただただ暇だったのです。
そんなふうに何するでもなくただぼうっとしていた私のもとへ、彼はいきなり現れました。普段の彼は良くも悪くも普通の人だったので、こんな登場の仕方をすることはまずありません。物語ならば、ここは異変を察知する場面でしょうか。けれど、このときの私は突然やって来た彼に素直に驚いていました。
彼は大きな音を立てて部室のドアを開けると、そのまま勢いよく閉めました。ドアの前から一歩も動かぬまま、唐突に頭を下げます。
「ごめん、沙弥子。本当にごめん」
「……何が?」
ごまかしたわけではありません。私は、このとき本当に何のことか分からなかったのです。
「あの、その……」
言いよどむ彼の様子は、尋常ではありませんでした。頬は色をなくし、額にはぽつぽつと汗が珠になっているのが、部室の奥にあるソファに座っていた私にも分かるほどです。
「どうしたの?」
「それが、さ。あの、沙弥子。……別れて、欲しい」
「別れる? 急にそんなこと言われても。なんでって、訊いてもいいよね」
当時、私と彼は付き合っていました。同学年で、同じサークルに所属している者同士がくっついたという意外性も捻りもない関係です。私たちは、よくいる平凡な大学生のカップルでした。
「それが、その。……俺、浮気してたんだ」
「それで?」
「相手、学部長の娘でさ」
「それが?」
「……妊娠させた」
彼のその言葉に、私は天を仰ぎました。もう何も言えません。
学部長の娘、というのは私たちと同学年の派手な美人です。良くも悪くも有名で、人のものほど欲しくなるという悪癖の持ち主だと専らの噂でした。かく言う私も、彼女のせいで誰と誰が破局したという話を女友達からよく聞かされています。けれどなんだか遠い世界のできごとのようで、いつも適当に聞き流していました。もちろん、自分がその渦中の人になるとは夢にも思っていません。
「それで? 結婚でもするの?」
「ああ、うん。学部長にバレたから、責任とって結婚することになった」
自棄になって質問すると、曖昧に頷かれました。彼は大学院に進むことを希望しています。学部長に逆らえないのは何となく分かりますが、それにしてもあまりに煮え切らない態度でした。
「学部長にバレたから結婚するの?」
「……だって、あいつのこと特に好きじゃないし。俺が愛してるのは、沙弥子だけだから」
「あ、そう」
何を言ったらいいのかよく分かりませんでした。愛してると言いながら他の女を妊娠させる男にかける言葉など、このときの私の二十年と少しの人生経験からは到底導き出せません。
「大体、誘惑してきたのは向こうだし、安全日だって言ってたし。あいつと裏で遊ぶぐらいのこと、うちのサークルとか学部では結構普通だし」
急に饒舌になった彼を見て、次の恋人は学外に見つけることを決意しました。
「妊娠が分かったときだって、最初は堕ろすってあの女も言ってたんだよ。なのに、あっさり親にバレてこのザマだ。俺は被害者なんだよ」
「そうなんだ」
「そうなんだって、沙弥子。もっとほかにないのかよ」
ほかとはなんでしょう。罵ってでも欲しいのでしょうか。彼とは友人時代も含めてかれこれ三年半の付き合いがありますが、そんな特殊な性癖があるとは初めて知りました。ならば、なおさら別れて正解です。
「ないよ、別れよう。これでおしまい」
「っんな、もう少し恨み言とかあってもいいだろ。沙弥子は俺のことなんかどうでもいいのかよ」
率直に言うと、つい一分ほど前にどうでもよくなりました。はっきり言って、自分の男を見る目のなさに震撼しています。しかし真実は円滑な人間関係を生みません。
「そういうわけじゃないよ。ただ、もう相手のお腹の中には子どもがいるんでしょう。それなら私が何を言っても無駄かなって思うだけ」
「それでも、もっと泣いたり未練があるようなこと言ってくれてもいいだろ」
「……未練ねえ。もしかして、君は私に未練でもあるの?」
「あるに決まってるだろ。今日だって、もし……もし沙弥子が泣いて縋ってくれたら沙弥子との関係も続けようって」
少し待って下さい。関係も、とはどういうことでしょうか。もしかして、私に愛人になれとでも言っているのでしょうか。目眩がしましたが、幸いなことに私は座っていたので彼に気付かれずに済みました。
「ねえ、君にはもう子どもがいるのよ。父親なの。しっかりして」
「子どもったって、別に望んだわけじゃない」
「望んだわけじゃないって、君は産まれてくる子どもに言うつもりなの? それを言われた子どもがどんな気持ちになるか、お願いだからもっと真面目に考えて」
「だって、母親になる女自身がそう思ってるんだ。なんで俺がそんなことを真面目に考えなきゃならない。こっちは被害者なんだ」
あんまりな言い草に、彼の精神年齢を疑いました。確かに私は母性本能を刺激されて彼に恋をしましたが、まさかここまで幼いとは思いもしません。子どもは男と女、両方そろっていないとできないというところから懇切丁寧に解説した方がいいのか、一瞬本気で悩んでしまいました。
「本当にそう思っているのなら、その学部長の娘さんとの結婚は断りなさい。そんな考えで結婚しても誰も幸せにはならない」
「でも、俺は研究者になりたいんだ。ここで断ったりしたら……」
「実力があればどうにでもなるでしょ。大学は世界でここにしかないというわけでもあるまいし」
そのあたり、本当はよく分かりません。口から出まかせです。私の心の中には既に彼の将来への関心なんてもの微塵も存在してはいませんでしたから、これも当たり前のことでしょう。
しかし、彼は救いの女神を見たとでも言いたげな目をして私を見つめました。反射的に、何か嫌な予感が背筋を這い回るのが分かります。
「そうか、じゃああの女との結婚は断ろう。それで、沙弥子とやり直すよ」
「え……?」
「沙弥子がいればきっとなんとかなる。いつも、どうにかしてくれたから。だから沙弥子のことを好きになったんだ」
魔の二十秒間でした。彼の発言全てが爆弾発言です。今度は座っているソファから崩れ落ちそうになりましたが、気力で持ちこたえました。しかし、もう気力の在庫もありません。
しばらく考え、私は彼に返事をしました。
「……しかたない、なあ」
「本当か? 本当にやり直してくれるんだな?」
「分かったよ、やり直そう。だから、学部長に結婚を断ってきて」
彼と学部長の娘がこのまま結婚すれば、うまくいかないことは明らかです。別に彼と学部長の娘がどれほど不幸になろうと私の知ったことではありませんが、学部長の娘のお腹の中にいるという子どもはあまりにも不憫でした。父親がいなくなることで、子どもの命は亡きものとされるかもしれません。しかし経験上、堕ろされるべき子どもというのは最初から不幸になる運命を背負っているのだと私は知っています。
私がそうだったのですから。父は浮気癖が治らず、母はアルコールに溺れました。母の口癖はあんたさえいなければ、です。あまりにありふれた話ではありますが、私は悩み多き思春期を送りました。この螺旋から抜け出そうと単身上京したのです。
私はすでに就職も決まり、大学にはもうゼミと卒論以外の用事もありません。卒業までももう半年を切っています。卒業と同時に就職先に近いアパートに引っ越すつもりだったので、その気になれば彼との関係もゆっくりとフェードアウトさせることが可能でしょう。
そんな思惑で、私は彼とやり直すことに同意したのです。これが、甘い考えであったとは思いもせずに。
彼は、上機嫌で部室から去って行きました。
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「母さん。なあ、なんとかしてくれよ。母さん!」
卒業までの半年間、どうしても拒みきれずに彼と関係を持ってしまったことが一回だけありました。それが、全ての始まりだったのです。
三月、新居に引っ越してしばらくして吐き気に襲われました。もしやと思い病院を訪ねると、案の定妊娠を告げられたのです。私は悩み抜いた末、一人で産み育てることを決意しました。堕ろすという選択はどうしてもできず、また足手まといになるような父親ならば必要ないと思ったのです。
彼は、私の手に息子だけを残して私の人生から消えて行きました。
息子はすくすくと成長し、もう青年と呼んでも差し支えないほど大きくなっています。
「なあ、俺は騙されたんだ。あの女、大丈夫だって言ったのに。だから、だから俺は!」
身体だけは。
取り乱す息子と、目を真っ赤にしている黒髪の女性。そして、女性の肩を抱くようにして立っている壮年の男性が怒りのこもった目でこちらを睨んでいます。当然でした。
息子は彼と同じことをしたのです。なぜでしょう。私が育て方を間違えたのでしょうか。
それとも、所詮子どもは親と同じことをしでかしてしまうのでしょうか。私が、どうしょうもない男を選んでしまったように。
螺旋から抜け出したくてやってきた東京で、私は螺旋に飛び込みました。