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勘違いしたままのケルが最初、家を出るために軽く荷物を取りに行くと自邸に向かったのが不幸?の始まり。強引に手を引かれて玄関ホールに一歩足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできた人物の顔に、リヴはあっけに取られた。
茶褐色の髭をなでつけながら、渋い顔をした年嵩の男性と、その隣に並ぶ見慣れた水色の髪の男…つまり、リヴの父が、さも嬉しそうな顔で立っていた。
少し後で気づいたが、その二人の後ろには、笑顔の教授と複雑な表情の姉も居たりしたのだが。
「と、父さ…」
「うわ、くそじじい!」
リヴの声を遮ったのは、ケルの声だった。はっと隣のケルを見上げると、あの俺様なケルがさも嫌そうに渋い顔をして年嵩の男性を見ている。
「ケルの、お養父さま…?」
少し疑問をはらんだ声で見上げると、髭の男性はほっほ、と小さく笑って見せた後、ゆっくりと視線をケルに移し、
「……こンの、大馬鹿息子がぁ!!」
雷鳴が落ちたかのような怒号が、広い玄関ホールに響き渡った。
高齢な様子からは想像できないほどの怒号に、その場に居たリヴの父以外の者がビクンと飛び上がる。リヴもびりびりと鼓膜を震わせるその声に、肩をすくめた。
そっと見上げると、髭の男性から柔和な微笑みが消え、刺すような視線でケルをにらみ付けている。
「ケインごときの言葉に惑わされおって。お前には、次期当主として大事なものが全く足らん!」
次期当主。
その言葉にリヴは驚きに驚いて、隣に立つケルを見上げた。
目を真ん丸に見開いたリヴと対照的に、彼は目を細めた苦々しい顔で養父をにらみ付けている。
「け、ケル? あなた、バフォーエン家の養子だとは聞いていたけれど…。」
跡取り息子だったの? という言葉にたどり着く前に、髭の男性、つまりケルの養父でありバフォーエン家現当主が口を開いた。
「わしには嫁も子がおらんでの。縁戚のこやつを養子にむかえ、次期当主としたのだが……。」
そうだったのか、とリヴは当主とケルを交互に見た。相変わらずケルは、苦々しい顔のままだ。
「ケル。お前の戦いの実力には目を見張るものがあるが、浅慮が過ぎる。南国の国境警備隊送りにしてやるから、たっぷり揉まれて来るんじゃな!」
「は!?」
耳に聞き覚えのある南国の国境警備隊という言葉に、リヴは目を見張った。
「ちょ、じじい! 何だよ、国境警備隊って!」
唐突な言葉に、ケルが怒りの声を上げた。
それを押しとどめたのは、落ち着いたリヴの父の声だった。
「ケル殿。」
リヴと同じ水色の目で語りだした父を、ケルは今にも噛み付きそうな顔をして見つめる。
「娘、リヴは私の目からみても立派に育ったと思っている。そして、それは君無しでは成し得なかったということも、先ほどケイン殿から聞いて理解したつもりだ。」
落ち着いた父の声音に、まだ状況のつかめていないケルは、眉をヒクヒクと動かしながら黙って聞き入っていたが、続いた言葉に…
「君ほどの男なら、リヴを任せても良いと思っている。」
「………はい?」
間抜けな声をあげたのはリヴだ。
「ケル殿。君がリヴを妻として望んでくれているのなら、私に反対する理由はない、ということだ。」
ケルは、思考回路が崩壊したかのように、固まっていた。
「お、お父さま、ケル……。」
時が止まったような沈黙に耐えきれず、リヴが声を絞り出して二人を呼ぶと、繋がれたままだったリヴの手を、ケルがぎゅうっと握る。
「………しかし、彼女はケイン教授と……。」
ケルの言葉に、ああと明るい声で教授が笑った。リヴはこのとき初めて、その場に教授と姉がいたことに気づく。
「ケル。私はリヴと結婚するなんて一言も言っていないよ。」
「は? で、でもリヴと家族とかどうとかって……。」
「それは正解。私は愛しい彼女とようやく結ばれて、リヴの義理の兄になるんだからね。」
神か天使かという晴れやかな笑顔を浮かべ、姉の肩を抱き寄せながら、教授はさらりと種明かしをした。
爽やかだ。爽やかすぎる。殴り倒したいほどの爽やかさだ。
「勝手に勘違いして、私にリヴを奪われると思ったんだろう? まだまだ青いねぇ、ケル。」
クスリと笑った教授の瞳に何かが見えた気がして、リヴはくらりと目眩を感じた。
きっと悪魔が現実にいるなら、こういう風に人間を騙すに違いない。あの姉を懐柔出来る人物なのだ、彼は。
「ケル。」
呆然とするケルの名を呼んだのは、彼の養父だった。
「お前の浅はかな行動をリスト殿にお許し頂けたばかりか、寛容なお言葉を頂いて、父親としては安堵しておる。が、やはり当主としては捨て置けん。そこで。」
ゆっくりとバフォーエンは視線をそらし、大きく息を吐いてから、再びケルに視線をやった。
ゴクリ、とケルの喉が上下する。
「南国国境行きを選ぶのであれば、不問に処す。」
ぐっと、ケルの眉間に皺が寄った。
「任務………。」
小さな呟きをバフォーエンは聞き逃さず、愉快そうに唇の端を上げた。
「そう、任務だ。南国の情勢が安定し、国境警備に憂いがなくなるまでのな。」
「は!?」
ケルの目がギラギラと光る。
「何だそれ。つまりはほぼ無期限ってことじゃねえか!」
バフォーエンはにんまりと笑みを浮かべた。返事はない。しかし表情が正解だと、無期限任務だと告げている。
「クソジジイ………。」
怒りに震えるケルに、再び教授が笑いかけた。
「何も、安定するまで君が駐在する必要はないよ。現地軍人を鍛え上げれば良い。」
ね?と笑った教授に、リヴは胸の内で両手を上げた。
完敗だ。
これまでアタッカーを育てることを仕事としてきた教授であれば簡単な話だろうが、今のケルには荷が重いことは明らかで。
それでもこういう話になったということは。
「教授、父さまとグルね……。」
リヴの低い声に、ほう、と面白そうにバフォーエンが声をあげる。その声が正解を意味していると悟ったリヴは、ギロリと父を睨み付けた。
「父さま。姉さまにさっさと身を固めて欲しいからって、教授の南国行きをケルに押し付けようって魂胆でしょう!」
父はニマリと笑った。
「相変わらず、あざとい娘だな。」
「…やっぱり。寛容な人物のふりまでして、尚酷いわ!」
先程のケルを認めた発言すら嘘だと、リヴは憤った。が。
「待ちなさい。ケル殿を認めているのは確かだよ。」
父は少しだけ微笑んでから、真剣な顔になった。
「私もリスト家当主という役にある。この役は、治癒魔術の実力だけでは勤まらない。それはきっと、バフォーエン家とて同じはずだ。」
父が視線を横へ向けると、バフォーエンがそうだと言わんばかりに頷いている。
ケルが将来当主となるためには、今のようにアタッカーとしての強さだけでは駄目だ、という意味だということは明白だった。
「大事な娘がバフォーエン家の当主の妻という重い立場になるのであれば、失礼ながら父として、夫となるケル殿にはそれなりの実力を要求したい。」
厳しい表情の父の言葉に、リヴの怒りは頂点に達した。
「そんなのは父さまの勝手よ! 勝手にケルのことを判断しないで頂戴。別に父さまに認められなくたって、バフォーエン家の当主にならなくたって、ケルは私にとってこの世で一番大事なそんざ………、………っ!?」
―――間。
リヴは鏡を見なくても、自分の顔がみるみる真っ赤になる瞬間を感じた。
勢いにまかせてとんでもないことを、こんな面子の前で口走ってしまって、自分の隣にいるケルの顔すらもう見れない。
「ーーっ!」
そんなリヴに出来たのは、身を翻してその場から逃げ出すことだけだった。