幸せな勘違い
「ケ、ケル?」
髪を振り乱して駆け込んできた様子のケルは、燃えるような目で部屋の人物を見渡した後、ぎりりと教授を睨みつけた。
「教授、あんた…。」
教授は満面の笑みだ。
「やあケル。今しがたお父上に許可いただいたところだよ。これでもうすぐ、リヴと私は正式に家族だ。」
意味深な教授の言葉に、ケルの顔からさっと血の気が引いた。
「リヴ、本当か……。」
かすれた声で聞かれ、リヴはうんうんと頷く。答えた瞬間、何故だか判らないが、ケルの顔面が蒼白になった。
姉が、あっと小さく呟いたのを、教授が目で諌める。状況についていけず姉と教授を交互に見ると、二人はいたずらっぽく笑顔を浮かべた。姉がリヴに顔をよせ、小さい声でネタ晴らしをする。
「彼、ケインが貴方にプロポーズして許可されたと勘違いしてるのよ。」
えええっ!?とリヴは背筋を粟立たせた。
もう一度ケルを見る。そんな勘違いをして、こんなに怒ったり、顔面蒼白にしたりするってことは。…ことは!
リヴの心臓が、ドクドクと激しく暴れだす。
ケルはぐっと下唇を噛んで何かを考えているようだ。リヴが視線を合わせると、眉をぎゅうっと吊り上げ怒気をはらんだ表情で、しばらく見つめてきた。そして。
「リヴ。…リヴ!」
すっと手を出した。リヴはびくりと肩を震わせ、無意識に一歩後ずさった。ケルは必死の形相で叫ぶ。
「リヴ! 俺を選べ!」
リヴは呆然と、ケルを見つめた。
「俺を選べ! 来い!」
出した手をさらに前に出し、ケルが叫んでいる。
教授に騙されているとはいえ、今までずっと、気持ちをはっきり口にすることのなかったケル。
一度はリヴから身を引いて、それ以来近づいたり離れたり、家族のような微妙な距離を保ってきたケル。
そんな彼の全ての気持ちがつまったようなその声、言葉に、リヴの足が勝手に一歩、前へ出た。
ぐわんぐわんと耳鳴りがし、自分の胸がドキドキと鳴る音だけがリヴの頭に響く。
そろり、そろりと足を進め、そっとケルの手に手を乗せた。
瞬間、大きな手が包み込むようにリヴの白い手を握り締め、そのままぐいっと引っ張られる。リヴは体制を崩し、ケルの胸へと倒れこんだ。
「リヴ!」
抱え込むように抱きしめられ、リヴはようやく状況を察して真っ赤になった。
早く、騙されていると伝えなければ。声を出そうとするが、きつく抱きしめられていてはっきり声が出せない。
「……ル、ケルってば!」
ようやく緩んだ腕の中で、名を呼び顔を見上げるが、ケルは勝ち誇ったように前を睨みつけていて、リヴが必死に言葉を紡ごうとしていることに気づかない。視線の先には教授がいるようだ。
「ケル、あの。」
もう一度声を発した瞬間、ぐいっとリヴの体が持ち上がる。まるで丸めた絨毯や米俵を運ぶかのように、ケルの肩に担がれたのだ。
「きゃあ! ちょっと!」
リヴの悲鳴などものともせず、ケルがそのまま駆け出した。
「ま、まて!」
慌てた様子の父の叫び声にケルがぐんっとスピードを上げた。
「誰かリヴを!」
続けざまに聞こえた父の声に驚き、ケルの上から部屋を見れば、一瞬だけ、にっこりと意味深な微笑を浮かべて手を振る教授と姉が目に入った。
リヴをかかえたまま、ケルはリストの屋敷を飛び出し、道をひた走る。まるで飛ぶように障害物を飛び越え、絶妙のバランス感覚でかけていく。ものすごい速さで景色が後ろへ流れていくのを、リヴは場違いな、幸せな気持ちで見送っていた。
ケルも自分も強くなった。卒業試験で見たケルの背中にリヴは絶大な信頼感を感じたし、その彼と肩を並べて戦えたことには、言い知れぬ達成感を感じている。
リヴの目には、彼が軍のアタッカーのトップになり、戦場で活躍する姿がはっきりと浮かんでいるのだ。
そして、やはり自分はその隣に居たいと願っている。
やがて徐々にスピードが緩み、ようやくケルの足が止まる。ケルはリヴをすとんと下ろすと、両膝に手をあててはあはあと息を整えていた。
「け、ケル。」
おっかなびっくり声をかけると、額に玉のような汗を浮かべたケルがくっと顔を上げて、リヴを正面から見、ニイッと笑った。
「…は、ははは、やっちまった。」
「!」
「俺やっちまったな。お前をさらっちまったわ。」
言葉と裏腹に、真っ白な歯を見せる晴れやかな笑顔に、リヴの胸がドキンと飛び上がった。
勝手にドキドキと鼓動が早まり、頬が熱くなる。
「あーーっくそ! バートンの奴に乗せられたわ!…けど、まあいいや、お前を取られるくらいなら、こっちの方が。」
「えっ」
「リヴ、一緒に行こう。互いの家が何か言ったって、もう俺ら入軍が決まってるんだ。後ろ盾なしでも身を立てていけば問題ねーだろ。」
「そ、それって。」
ケルがにいっと笑みを深め、リヴの肩を抱き寄せる。
「俺と二人で生きて行こう。いいだろ?」
耳元で響く声は、低くて甘くて。
さっきの手は、何もかも捨てて、二人で生きて行こうという意味だと悟り、
ケルの想いの深さに胸の奥が歓喜に震えた。
「まずは家探しかなー。あいつらが泊まれるくらいの広さは欲しいなぁ。」
「!」
急に現実的な話をされ、リヴは耳まで真っ赤になった。嬉しいのは良いのだが、これはまずい。早く種明かしをしなければ。
慌てるリヴを見て、ケルがにまりと意地悪な笑みを浮かべ、リヴの耳に口を寄せる。
「何真っ赤になってんだよ。……今からそんなんで、夜どうなっちまうわけ?」
「は、ええ!? ン!」
リヴの叫びは、深く重なった唇によって封じられた。
この勘違いのネタばらしをしたら、きっとケルはすごく怒って、三日くらい口をきいてくれなくなりそうだ。
でも。
でも、もう少しだけ。
もう少しだけ、胸のうちを正直に出してくれるケルとの幸せな時間を味わいたくて。
リヴは唇を重ねたまま、そっとそっと、まぶたを閉じた。