檻
暗がりの中に、足元を氷に包まれた巨大なクイーンアントの姿が見える。
唯一の出口は今、自分で封鎖した。暗く湿気た密室に、リヴとクイーンアントだけが取り残されている。
「困ったわね…。」
リヴのこめかみを、つ、と一筋の汗が伝った。
リヴの氷魔法で動きを鈍らせることは出来たが、同時に、倒すことは不可能だとも思い知った。皆と一緒に部屋を出て、あの狭い出入り口を氷付けにして退却することももちろん考えたが、ケルの石化をやすやすと解いてみせたクイーンの力に、それは無謀だと悟った。
全員で退却しながら襲われた場合、メンバーの死の確率は限りなく高いと思われた。王子であるエドワードの生死は、たかが卒業試験の一言で片付けられない。 だから、誰かが残って、ここでクイーンの興味を惹きつけなければいけない。他の皆が無事脱出するまで。
ケルの踏ん切りをつけさせるために、軽々と氷らせたかのように見せたが、あれは虚勢だ。相当の魔力を練りに練って放った、渾身の一撃。渾身の一撃で、クイーンの足しか凍らせることが出来なかったのだから、はっきり言って、もう手も足も出ない。
「さっきのケルの顔、すごかったですわ。」
絶体絶命のピンチであるのに、リヴの脳裏には、氷の向こうに消えていく瞬間のケルの悲壮な顔が浮かんで、何故か頬が緩んだ。 左手の杖を右手に持ち直し、ひゅうっと音を立てて振る。
「いつも俺様最強男のくせに、あんな顔されたら、落ち着いて天国にもいけないじゃないの。」
ね? と、リヴは氷に足を取られて蠢いているクイーンに向かって問いかけた。なんとも緊張感の無い絵面だ。 もちろん意味が通じるはずもなく、クイーンはキシキシと歯を鳴らしながらリヴに向かって戦意を露にする。
「あら怖い。あなた女王様のくせに、美しくお淑やかにって、習わなかったのかしら?」
そう言いながら、ゆっくりと塞がった出入り口とは反対の方向に、リヴは足を進める。
リヴは確信している。 今のリヴでは、たとえ消耗がない状態だったとしても、このクイーン相手に勝機は無い。 でも、かといってここで死ぬつもりも毛頭無い。
「別にね、私が貴方を倒す必要なんて無いのよ。」
ケルたちが脱出して、援軍を呼んで、援軍がここにたどり着くまで生き延びれば良いのだ。 ゆっくりと、出入り口と真反対の位置に到着すると、背を壁にもたれて、リヴは杖を構えた。
「全く、とんだ卒業試験ですわ。」
そう呟いて、はあっと息を深く吸い込む。ゆっくりと吐き出すとき、奥歯がカタカタと音を立てた。
本当は死ぬほど怖かった。 それでも残ったのは、エドワードのためか、それとも…。
目の前に、得体の知れない大きさのクイーンアント。仲間は誰もおらず、逃げ場も勝機も無い。精一杯強がって、気持ちを持たせなければ負けてしまう。 リヴはゆっくりと魔法の詠唱を始めた。
リヴの周りにキラキラと氷の結晶が浮かぶ。湿った空気中の水分が凍り、リヴのまわりを取り囲むように、ゆっくりと集まっていく。
リヴを中心に、半径約10メートルといったところか。小さな氷の結晶が集まり膜を張り始めた。
「リヴ、落ち着いて。最初は大きく、ドーム状がベストよ…。」
パリパリと音を立てて、氷の層が厚みを増す。あっという間に、リヴを取り囲む氷のドームが出来た。
「いいわ、そう。その調子よリヴ。」
ぶつぶつと独り言で自分を奮い立たせながら、さらに杖に魔力を込める。 氷の膜が外側へ厚みを増すように、内側から魔力を送る。壁との接続面を広く取って、強度を増す。
氷の外側からは、ギチギチと耳障りなクイーンの声が聞こえてくる。
「クイーンに襲われても割れないように、もっともっと、強度を…!」
自分を氷の中に閉じ込めて、リヴは必死に生にしがみつく。
「ハァッ!ハァッ……!」
すっかり外が見えないほど厚みを増した氷の部屋の中で、リヴは地面に両手をついて、荒い息をしていた。
もう魔力はほとんど残っていない。クイーンが足元の氷の呪縛を解くまでにどのくらいかかるのか。その後、リヴに襲いかかろうとこの氷の部屋を壊すまでに、どのくらいかかるのか。それまでに、援軍が来てくれるか。
沢山の不安がよぎった後、また最後に見た悲壮なケルの顔が脳裏に浮かび、頬が緩む。
「ハァッ……、さむっ」
吐き出した息が真っ白く立ち上る。分厚い氷に包まれた部屋の気温は驚くほど低い。そんな中でも、消耗しきったリヴの額から、ぽたぽたと冷や汗がしたる。
「おかしいですわ…私、寒さには強いはずですのに…。」
消耗と寒さで、気を抜いたら意識を失ってしまいそうだ。
「援軍が来る前に、凍死しないように気をつけなければ、いけません、わね……。」
もう体に力も入らないリヴは、壁にもたれかかるようにして座り込んだ。勝手に落ちてくる瞼を必死に揉んで、意識を失わないように自分の両頬をたたく。
なにか大きな物音で、リヴは目を覚ました。
(いけない! 私、眠って…!?)
寒さの中眠るなんて凍死への道まっしぐらである。あわてて頭を上げて自分の顔を触ろうとしたが、全く体は言うことをきかず、目の焦点もあわない。
意識を取り戻したリヴに気づいたのだろう、誰かにぎゅうっと手を握り締められた。
(暖かい……。)
体の底から生きる力が涌き出てくるようだった。近くにいる誰かは、一生懸命に今の状況を説明してくれているようだったが、頭がぼんやりしているリヴには、半分以上が聞き取れなかった。
「魔力をリチャージしますね、応急処置です。」
ぽわりと体に注入された魔力と共に発せられた言葉は、今度ははっきりとリヴの耳に捉えられた。若い女性の声だ。
誰でもよかった。誰かがいる。その事実に、どうやら自分は助かるのかもしれないと、張り詰めていた緊張の糸が、少しずつ緩んでいくのを感じた。
「眠って大丈夫ですよ。もう助かりますから!」
暖かく力強い声に、リヴは少しだけ頷いて見せると、ゆっくりと意識を手放した。