パートナー
「去年の夏、お前は、俺との関係の方向修正をしただろ。」
ドキリとリヴの胸の奥が飛び上がる。
寝坊して、教授に罰マラソンをさせられたあの日のことだとすぐに判った。
「正直、辛かった。俺は…俺は皆やお前が思ってるほど強くないし、考えるのは苦手だし、単純なことで道に迷う。」
ケルが、ゆっくりとした動作で、頭を抱えた。
「あの時は辛かった。でもお前の意図が判ったとき、本気でスゲエ奴だと思ったんだ。お前の真剣さが嬉しいとすら思った。お前はいつも俺の前を行く。ほんと、敵わねえ………でもなあ!」
両手で額を覆ったまま、ケルは声を張り上げた。
「ようやく気持ちの整理がついた俺に、今日のあれはズルい! 俺にとってお前は特別なんだ。どうすればいい!? 喜んでいいのか、それはだめなのか、期待していいのか、ただ黙って耐えろってことなのか!? どうなんだよ!」
リヴの心臓が尖った氷の矢で貫かれたかのように、ズキリと痛んだ。
胸の前で握りしめた右手が白くなるほど強く力を込める。
自分がこんなにケルの心を乱していたなんて、それも一年も前の夏合宿からずっと……。
リヴの心が大きくざわめき、焦げ付くように熱くなる。
ケルに声をかけようと息を吸った瞬間、怒号が飛ぶ。
「黙って聞いてろ!」
ケルの大きな手がリヴの頭を鷲掴みにし、ぐっと引き寄せる。
ケルの胸に顔を押し付けられたリヴの吐息が、はぁっとケルの服の中に溶ける。頭上のケルが息を飲んだ。
「だから、そういうのが………いや、じゃねえ、お前の気持ちと俺の気持ちの度合いが、違うんだ。」
ケルと自分の気持ちが違うとは、どういうことだろう。
静かに続きを待つリヴの背に乱暴にケルの腕が回され、力一杯抱き締められた。
「リヴ………俺は情けないほど弱い……お前の表情ひとつで心が乱れる。お前が俺のこと、パートナーとして、アタッカーとして認めてくれているのは判ってる。嫌ってくれてはいないというのも…。でも俺の気持ちはそんなレベルじゃないんだ………。」
力のない声とは裏腹に、リヴを抱き締める腕にぎゅうっとさらに力が込められた。
「抱きたい……リヴ。お前を滅茶苦茶にしたい…………。」
その低い声に、リヴの身体中が、沸騰しそうなくらいに熱くなった。
ケルの骨ばった大きな手のひらが伸びてきて、リヴの顎をくいっと持ち上げる。
真っ赤になったリヴの顔が、なされるがままにケルの赤茶色の両眼に晒された。
心臓が爆発しそうなくらいに脈打っている。
(え? ええ? め、滅茶苦茶に……?)
ケルが発した言葉に、リヴの心は緊張と混乱で荒れ狂っているのだが、ケルは切ない表情でリヴを見下ろしているばかり。
ケルのことが好きだ。
でも、ケルにそこまで求められているなんて、考えたこともない。
ドキンドキンと早鐘を打つ心臓の音が、さらにリヴを追い詰める。
(ちょっと、や、まって……っ! 心の準備が…。)
視線を交差させることも気恥ずかしく、リヴは切なげに目を伏せて視線をそらす。そんなリヴの心など気にもかけず、ケルがすっと顔を寄せてきた。
「…っ!」
驚いてぎゅっと瞼を閉じたリヴの唇…ではなくそのすぐ横に、ケルの柔らかくて、それでいて少し乾いてかさついた唇がそっと触れた。
「!!?」
ビクンと震え硬直したリヴの瞼に、もう一度、短く唇を落としてから、ケルがそっとリヴの頭を撫でた。
「…バーカ。」
クッと喉で笑って、リヴの頭を自分の胸に押し付ける。
「何もいうな、お前の心なんざお見通し。…今の俺らには、ここが限界ラインだろ。」
ケルの骨ばった指が、先ほど唇が触れた辺りをツンとつついて示す。
バクバクと脈打つ心臓を抱えたまま、リヴは静かにケルの胸の中で息を殺していた。頭上で、ハァーっと深く息を吐く気配がした。
「判ってるよ。お前は必死にアタッカーの道を進んでる。俺だってそうだ。俺はお前の邪魔はしないし、自分の道にも迷わない。」
ケルが抱き締めていたリヴを解放し、代わりに大きな両手でゆっくりとリヴの両手を包み込む。
(暖かい、ケルの手。)
その両手から視線をあげると、ケルの赤茶色の瞳と目が合う。ケルは優しく、少し照れ臭そうに微笑みかけてきた。
「俺は帝国軍一のアタッカーになる。俺の隣には、冷静で状況判断に長けたお前がいる。俺たち二人は帝国軍きってのアタッカーペア。それが俺の目標。」
ケルは、ニカリといつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「………俺の話は以上!」
とたんにリヴの両目頭が熱くなる。
(怒らないのね。言わないのね。気持ちも、何も。全部私の、いいえ、私たちのためなのね。)
ケルを見つめたままこぼれそうなくらい目を潤ませたリヴの前髪を、優しい笑顔のケルがぐしゃぐしゃと乱暴にかき回した。
「…泣くな。」
優しいケルの声に、リヴはぎゅっと目を瞑り涙をこらえる。コクコクと頷いて、嗚咽が漏れないよう息を止めた。
ケルは、はっきりとした想いを口にはしなかった。
はっきりと言わないまま、リヴに意図が伝わるように言葉をくれた。
アタッカーの道を選んで良いと、一緒にアタッカーとして歩もうと言ってくれた。
(私はケルが好き。だけどそのためにアタッカーを諦めるわけにはいかない。それでもいいって言ってくれるの?)
ケルの気持ちに、胸が張り裂けそうだ。
「………ケル。」
暫くして小さな声で名を呼ぶと、ぽんっと頭に手が置かれた。
ぽんぽんと何度も頭を優しく叩かれる。その手の重みに、リヴは心を奮い立たされた。
「…ケルは、ケルは強いわ。きっと帝国軍一のアタッカーになれる。私は、そんな貴方のとなりに立ちたいの。自分の実力で、貴方のパートナーとして、胸を張って肩を並べたい。」
リヴの言葉に、ああ、と低く柔らかい声音でケルが答えた。
「お前にいつまでもそう思ってもらえるよう、俺は最強のアタッカーを目指す。俺たちは肩を並べて、上を目指す。だろ?」
ケルが自分の右手を握り拳の形にして、リヴの目の前に差し出した。
リヴも、自分の右手をグーにして、同じように差し出す。
二人の拳が、コツンとぶつかった。
誰にも言わず、ひたすらに向かっていたリヴの目標。それをケル本人に打ち明けたのに、リヴの心は不思議と軽かった。
誰かに言ってしまったら、もっと重くのし掛かってくると思っていたのに、まるで重い荷物を二人で半分ずつにしたかのようだ。
(そうか、パートナーって、こういうことなのね。私、まだまだ何も解っていなかった、ケル、貴方はやっぱりすごい。)
歩き始めたケルの背中に向かって、誰にも聞こえないくらい小さな声で、リヴは感謝の言葉を送った。