泥パック
「くやしい、くやしいですわー! あとひと息でしたのにっ!」
練習場のベンチに座ったリヴが、ぎゃんぎゃんと吼えている。装備されたオーブは全て真っ黒になっており、ついでに顔も泥にまみれて真っ黒だ。
「いやー、面白かった。お前を掴んでひっくり返した時の、あの、アヒルが踏み潰されたような声!」
「あ、俺真似できる! "ぎゃんっ!"」
リードがリヴの声真似をして、ケルがそれにゲラゲラと笑った。ケルの両足と左手のオーブは真っ黒だが、その右手のオーブだけが鮮やかなオレンジ色をしている。
リヴは右拳をぶるぶると震わせて立ち上がった。
「リードォォォ……!」
リードが笑顔のまま、どうどうという風に両手を前へ出して一歩下がる。
「わ、やべ、リヴちんが怒った!」
「リヴちん怒った顔もかわいいよ!」
「でも笑った顔の方がもっと好きだよ!」
ヤンヤヤンヤと擁護するウェスパーとバートンの声にも、リヴは泥まみれの鬼状態から回復せず、キっと三人の方に向き直った。
「三人ともおだまりなさい!」
ぴしゃーんとリヴの雷が落ちた。
ケルとリヴの対戦は、ケルの勝利で終わった。
2対1となったリヴはかなり善戦し、ケルのオーブを3つ黒くすることができた。しかし何とか対抗しようとしたケルの、スパッツを履いていて安全圏なリヴのスカートをわざわざめくる、というしょうもない挑発に、頭に血が上ってしまったのが敗因だろう。
大振りになった攻撃はひょいひょいと軽々交わされてしまい、右手、左手、左足と次々オーブを黒くされ、最後は右足のオーブへの攻撃から続けざまに足首を握られて、ぐるりとひっくり返されその場で青天井を見させられた。
「ひっくり返った私の顔を覗き込んだ時のケルの顔に、嫌な予感を感じたのに!」
リヴは悔しそうに言いながら、憎たらしいケルの背中をぺしぺしと叩く。
あの瞬間、抵抗できない状態のリヴの顔を見下ろしたケルが、にやーっと満面笑顔になったのだ。そして、その右手には土魔法で出したたっぷりの泥。
「叩くな叩くな。だってお前のあのポカンとした間抜け面見たら、何か悪戯してやろうって気になるじゃん。な、お前ら!」
三人が顔を見合わせて、いやいや、それほどでも、と呟きながら互いを小突く。
そうなのだ。すでに勝負が終わり負けたリヴの顔にむかって、ケルがたっぷりの泥をぬりたくってくれたのだ。それも楽しそうに、たっぷりとだ。
酷い。酷すぎる。
「け、ケル先輩ひどいですっ! 女の子の顔をこんな真っ黒にするなんて!」
アンとその友人が、ぷりぷりとケルに食って掛かった。ケルは、背の小さな彼女たちにおお?っと身をかがめて、ニカリと笑う。
「ばぁーか、女だからって戦場で手加減する阿呆がどこにいる。むしろ戦に負けた女なんて、とても口で言えないような恥ずかしいことをたっぷりされるに決まってるだろ。」
「!?」
アンたちが顔を赤や青にして、たじろぐ。
「というかお前ら、アタッカーのリヴが死んだら次に狙われるのは、後ろに控えたヒーラーだぜ? 女とかヒーラーとか関係なく、敵方のアタッカーに狙われるんだ。自衛手段、若しくは緊急回避手段のひとつやふたつ、用意しとけよ。」
「ぐううっ」
アンたちは唇を引き結んで、唸っている。実際、リヴが倒された後、アンは何の抵抗もできずオーブを黒くした。ケルの言葉も正論だと理解したのだろう。
リヴとしてもケルの言葉は耳に痛い。今日一日で、近接戦が不得意だということを嫌と言うほど思い知らされた。
(同じく近接戦が得意だったバートンとの対戦は勝てたけど…あれはまぐれみたいなものですし。)
お色気戦法でバートンの足を止めて勝つことは出来たが、対ケルに有効な精神攻撃が思い付かなかった。別いや、全く何も思い付かなかったわけではないのだが、それを口にする勇気をリヴは持ち合わせていなかったし。
(だって、ちゃんとした実力で戦いたいじゃない。うん、そうよ。)
何となく言い訳じみたことを自分に言い聞かせながら、リヴはベンチの上のバッグを手に取る。とにかくシャワーを浴びたい。今日の反省はその後だ。
そう思って立ち上がろうとした、その時。
「リヴ・リン・リスト! 待ちなさい!!」
前方に、仁王立ちのジュリアが現れた。
「うわ、なんか来たぞ。」
「リード、しぃっ!」
嫌そうな顔をしたリードをウェスパーがたしなめる。
リヴは突然のことに、真っ黒い顔のままきょとんとしてジュリアを見た。
「なあに? ジュリアさん。」
「ああああああんたの毎日の訓練メニューを教えなさいっ! つ、次こそあんたをぎゃふんと言わせてやるんだから!」
リヴはさらにきょとんとした。
「私の訓練メニューを貴女がやるんですの?」
「そんなわけないでしょ! 私はエレガントなヒーラーで、あんたは野暮ったいアタッカー! あんたの訓練メニューを見て攻略法を研究しつくしてやるのよ!」
肩を怒らせて宣言したジュリアに、バートンが突っ込む。
「って言っちゃってるし。」
「あっ!」
ジュリアが、しまった!という顔をしたので、バートンがふふんと笑った。
「ははーん、さてはジュリアちゃん…、おバカ?」
バートン、お前が言うな、とその場にいた全員が思った。
「な、なによ失礼ね! それに気安く私のことを呼ばないで頂戴!!」
バートンにいじられて、ジュリアは顔を真っ赤にして怒っていた。口から火を吹きそうな勢いだ。リヴはそんなジュリアの様子にこっそりと笑った後、紙にさらさらと訓練メニューを書いて、ジュリアに手渡した。
「はい、訓練メニューよ。これが参考になるか判りませんけれど。」
「ふ、ふん!参考になるかならないか決めるのはわたくしよ! しっしっ! はやくあっちへ行って頂戴!」
リヴに向かってタオルを投げつけながら、ジュリアが向こうへ行けと手をふった。タオルを受け取ったリヴは、素直じゃないジュリアの優しさに苦笑しながらロッカーへと足を向ける。
「はいはい、じゃあまたね、ジュリアさん。」
「ま、またねとか気安く声をかけないで頂戴!」
きいーっと歯軋りをあげるジュリアに背を向けて、リヴは笑顔で練習場を後にする。
さんざん昔は嫌な奴だと思っていたけれど、今なら彼女のことが好きになれそうな気すらした。
リヴの去った練習場で、ジュリアとその取り巻きが一斉に紙を覗き込む。皆一言も発さず、真剣に紙に書かれた流麗な文字を追っていく。
「な、な、なんですの。この暴力的なメニューは…!」
最後まで読み終えたらしいジュリアが、第一声を発した。
「マラソン毎日10キロ!? それも5キロのダンベルを持って!?」
「食事は日に5回!? に肉を中心に!?」
取り巻きのひとりが、空中を見上げた。リヴの姿を思い出しているらしい。一日に5食も食べてあの体型を維持できるのか、と呟いたところで、鬼のような剣幕のジュリアに睨まれて、あわてて黙った。
「………リヴ・リン・リスト! しばらく見ないうちに、筋肉バカのバケモノになっていたようですわね! ほほ、ほほほほほ! 負けませんわ! あの女に二度とバカにされないよう、みっちりヒーラーの立ち回りを鍛錬しなくては!」
ジュリアの言葉に、取り巻きたちもうんうん、と大きく頷く。
「さあ皆さん、行きますわよ! わたくしの家で本日の反省会と、今後のわたくしたちの訓練メニューを考えましょう!」
「ええ!!」
決意を新たにしながら練習場を出て行くジュリアとその取り巻きたちを見つめ、ケイン教授が誰にも聞こえぬよう、ぽつりと呟く。
「うわー、持ってかれてる持ってかれてる。リヴの奴、今度はヒーラークラスの士気をガッツリ上げやがったか…。」
今日の講義は、自分の受け持つアタッカークラスの連中には良い刺激になるだろうということは想像していたが、まさか担当外のヒーラークラスまで刺激を受けるとは、さすがのケイン教授も予想外だ。
「てかあの訓練メニュー、ケルのだし。リヴがどこまで先を読んでるんだか、もうさっぱり判らないぞ…。1対2でも余裕でひっくり返すケルの成長にしろ、今年は豊作だなぁ…。」
教え子の成長を肌で感じ、ケイン教授はさわやかに笑いながら練習場の扉を閉めた。