寝坊と罰
翌朝の朝。リヴは寝坊した。
何度もドアをノックする音に気づき、ベッド脇の時計を見て飛び上がった。時刻はマラソンのスタート時刻を大幅に過ぎている。
「すみません、すぐ出ます!」
大声でノックの主に答え、大急ぎでマラソン用のTシャツと短パンに体を詰め込むと、勢い良くドアを開けた。髪はぐちゃぐちゃで、寝起きの目は腫れぼったいが、そんなことを気にする余裕は無い。
ドアの外には、表情の無い教授が立っていた。
「す、すみません。」
ぐちゃぐちゃのリヴが頭を下げた様子に、教授はふうとひとつため息を付く。
「5分で支度して玄関へ出て来い。」
「はい…。」
教授からもらった5分で、リヴは顔を洗って髪を結び、簡単に日焼け止めを塗ると玄関へ向かった。朝食を取れなかったから今日はバテると思うが、寝坊した自分が悪い。
玄関へ行くと、教授がひとり待っていた。いつも一斉にスタートする他の皆は、とっくの昔に出ているはずだ。
「お待たせして申し訳ありませんでした。」
ぺこり、と頭を下げると、教授はいやとだけ返事をした。その時、パタパタと足音が聞こえ、玄関前に、マラソンのゴールを迎えたケルとバートンが入ってきた。どうやら二人が一着のようだ。
ケルの顔を見て、リヴは気まずさに目を逸らす。昨日のあれが頭に浮かび、少し頬が赤くなった。
「バートン、休憩に入れ。ケルは俺とここで待機。」
「はっ?」
突然の教授の待機命令に、ケルが驚いた顔になる。そのケルの側に、こちらもマラソンを終えたリード、ウェスパー、他の仲間達がばらばらと現れ、何事かとリヴたちを見つめた。
教授は全員を無視してリヴに向かっていった。
「リヴ、一人で走れるな?」
「え、は、はい。」
真意がつかめないまま、リヴが歯切れ悪く肯定すると、教授は怖い顔で頷いて恐ろしいことを言った。
「俺が良いと言うまで、今日はマラソンだ。何十周でも走らせてやる。」
「えっ?」
「寝坊の罰だ。覚悟しろ。」
仲間達がしんと静まり返った。リヴはごくり、とつばを飲み込む。寝坊をしたのはリヴ自身。マラソンが一番苦手なリヴにとって、今の言葉は地獄の釜の蓋を開けられたようなもの。一日中マラソンなんて嫌だ。しかし悪いのは自分…。ぐっと下唇を噛むと、リヴはきっと教授に真剣な眼差しを向ける。
「…よろしくお願いします!」
「よし。行け!」
「はい!」
リヴの長い長い一日が始まった。
ゆったりとした上り坂が延々と続く。合宿の最初に比べたらペースも上がったし、辛さも全然違う。しかし、これを登りきって屋敷に戻っても、もう一度ここを最初から走らなければいけないと思うと、心が折れそうになる。
(辛い…苦しい…)
ペースメーカーをしてくれる教授は居ない。逆走してリヴの隣に並んでくれる仲間も居ない。リヴ一人きりで静かな林を走っている。
孤独。
(孤独? 私、寂しいの?)
一人きりのリヴの酸欠の頭に、色々な光景が浮かぶ。
ケルたちと一緒に、合宿用の水着を選びに行ったこと。その水着が解けて、ケルと怪しい大接近をしてしまったこと。バートンが例の危険な水着を着て、ケルにからかわれたこと。楽しい光景ばかりが思い浮かんだ後、昨晩のことが浮かんだ。
林を抜けて、下り坂に入る。屋敷がぐいぐいと近づいてきた。あと何週あるか判らないと思うと、いつもよりペースは遅めだった。足に馴染んだシューズで地面を叩きながら、リヴは屋敷の玄関前に駆け込む。そこには、スタートした時と同じまま、腕組みをしたケイン教授と、その隣でふてくされて正座させられているケルがいた。彼はちらり、とリヴに心配そうに視線を送って目を逸らす。
「リヴ遅い! そのままもう一周行け!」
「…はい!」
教授の大きな声に、リヴは返事をして、そのまま二周目に入る。
(立て続けに二周なんて…!)
教授が憎たらしく感じたが、歯を食いしばって足を進めた。
(きっつ…!)
一周走ってバテ気味のリヴは、二周目の上り坂で、早くも心が追い込まれていた。
(なによ、なによ教授のバカ!)
苦しさは教授への恨みに変わり、ぶつぶつと心の中で毒づきながら長い上り坂を進む。
(どうせ私ひとりっきり。ちょっとくらい歩いても、誰も判らないわよね…)
気弱な考えが何度も頭をよぎる。その度に、頭を振って、歯を食いしばって前を見つめる。
(だめよリヴ。これは罰、寝坊した私が悪いのですわ。)
だから…! そう必死に自分を諌めて、一心不乱に足を前へ出す。
(そう、足を前に出すだけよ。右の足を前に出して、その後左を前へ出すだけ。それを繰り返すただのルーチンワーク。才能も何も必要ない、誰でも出来る簡単なことなのよ!)
自分に言い聞かせて、必死に走り続ける。
リヴは暑さに顔を真っ赤にして玄関前へ駆け込んだ。汗で背中のシャツがぺったりと貼り付き、喉もカラカラで声が出ない。そのままもう一周行こうとしたリヴを、教授が大柄のタオルで抱きとめた。
「リヴ、10分休憩。水分補給して再スタートしろ。」
教授の冷たい声に、リヴは弱弱しく頷く。膝ががくりと折れた。すぐに怒号が飛ぶ。
「急に止まるな。ゆっくり歩いて脈拍を整えるんだ。」
こくこくと頷き、必死に膝に力を入れ、立ち上がる。
ケルは先ほどと同じく、玄関脇で正座したまま、リヴをチラチラと見ては俯いていた。教授に渡された水で口をすすぎながら、リヴははたと気づいた。
(寝坊した私はともかく、どうしてケルは正座させられているのかしら?)