絶体絶命
この男、泳ぐスピードも半端ない。
ぼんやり思いながら、リヴは静かに顎まで水に浸かる。
あっという間に到着したケルは、リヴが黙って水に浸かったままの様子に顔を曇らせながら、すいっと水をかいて近寄ってきた。
「…どうした、大丈夫か?」
リヴは言葉につまり、ブクブクと泡をはいた。良いから、大丈夫だから皆のところへ戻ってほしい。じゃないと水から上がれないではないか。
「お前が溺れたのかと思って…。」
はっきり答えないリヴに困り果てている様子のケルに申し訳なく思いながらも、リヴ自身も困り果てていた。
「あの、何でもないから…」
「いや、お前なんかおかしくねえか?」
「い、いつもどおりだと、思いますけど!」
必死に否定しようとして力強く声をあげたリヴは、勢い余って肩を水面から出し、慌てて水中に戻る。
「…何してる?」
怪訝な顔で睨み付けてきたケルが、まぶたをピクリと動かした。
「あ…。」
意味深な短い声に、リヴはぴくりと体をこわばらせる。
ケルはゆっくりと水中で向きを変え、リヴに背中を向けた。リヴの耳に、ぽつりと小さな声が届いた。
「………そーいうことか。」
自分の脇でふわりとそよぐ赤いヒモが、リヴの目に入った。ケルの今の言葉が頭の中でこだまする。
(き、き、き、気づかれた!!)
状況把握したリヴは、耳の先まで真っ赤にし、自分の上半身をぎゅうっと抱き締めた。
「まぁ、何だ。島の反対側で見張ってるから直してこいよ。」
背を向けたままそう言われ、リヴは消え入りそうな声ではいと返事をすると、その言葉に従う。
ケルや浜辺と反対側に移動し、一応覗き魔がいないことを確認した上で、慎重に背中のヒモを結んだ。
(恥ずかしすぎて死にそう!)
直した後、岩に腰かけて結び目を軽くさわり、大丈夫なことを確認する。そっと岩の向こう側を見れば、律儀にまだ背を向けている大柄な背中がひとつ。
「あ、あの、ケル…、直しましたわ……。」
「ン。」
おずおずとしたリヴの声に短く答えたケルが、すいーっと泳いでやって来て、リヴのとなりに上がった。
(き、気にしない気にしない!)
そう言い聞かせて、リヴは話題を変えようと、ぎこちない笑顔を浮かべて声をかける。
「そそそそういえば、勝負はついたんですの?」
ケルが右眉をピクンと上げた。
「………いやお前、当然俺が勝ったけど。」
「ーーっ!」
自分で話をふっておいての大失態に、リヴは心の中で絶叫する。よくよくケルの手を見れば、見たことのある憎たらしい小瓶が握られていた。
ゆっくりと、リヴは後ずさる。しかしそこは小さな小島、逃げ場所などほぼないに等しい。
「……あのなぁ、別に俺は! っ……まぁいいけどさぁ!」
ケルの大きな声に、リヴは狼狽する。
「えええっと、その、……」
もじもじと猫背気味になりながら、気まずい気持ちでケルの反対側に目を向けた。他意なく自然に、リヴの背中がケルの視界に入る。
ケルがリヴの背をちらと見て、チッと舌を打った。
「おいお前…不器用なのか?」
その言葉の意味が、リヴには理解不能だった。
「は? 失礼ね、どういう…」
ぐいっと後ろから肩を捕まれた。大きな手で強く握られているので、振り向くこともできない。
そして、もぞりと背中の中央に指の感触。
ケルの手が結び直した背中のひもをつかんだことに気づき、リヴの脳に血が巡った。
「キャアアア!!」
悲鳴をあげながら、リヴは右手を胸にあて、左手をグーにして振り上げた。ケルに殴りかかる左手だ。何せこんな人気の無い場所、助けが来るはずがない。貞操の危機だ。
「イヤァァーー!」
「うわバカ、落ち着け!」
ケルが何か言っているが、リヴの頭にその意味は染み込まない。
「キャアアア!イヤアア!!」
「ったく」
叫びながら必死に振り回した手はケルに捕まり、首に腕をまわされぐいっと引き寄せられた。お尻からケルの膝の上に抱き寄せられる形になり、リヴはヒクリと喉をならして固まった。首の腕が緩んで位置を変え、腰に回された後ぐっと力が込められた。
「バーカ。前押さえてろ。」
握られた左手を前に持ってこられ、リヴは言われるがままにビキニの前をしっかりと両手で押さえた。
するりと背中のヒモがほどかれ、かあっと顔に血が上る。ついに、こいつの餌食になってしまうのか。リヴは覚悟を決めぎゅうっと両目を瞑る。
「ったくお前、こんな結び方じゃ、すぐほどけるだろ。」
「!?」
ケルの大きな手が器用にヒモを結びなおしている。自分の早とちりを認識したリヴは、あまりの恥ずかしさに消え入りたくなった。
きゅ、と濡れたヒモが音をたてる。
「出来たぞ。」
リヴは無言でこくんと頷き、ケルの膝の上から水面に向かって降りた。気まずさに黙っていると、ベチンという音と共にリヴの脳天に結構な衝撃。
「…いった………」
恨めしそうに振り向くと、岩の上でにんまり腹の立つ笑みを浮かべたケル。
「お前石頭だな! 俺の手が持たないわー。」
「な、なな、なんですって!」
頬を朱に染めて金切り声をあげるが、ケルはにんまり顔のままだ。ざぶんと大波をあげて海に飛び込むと、くいっと砂浜を親指で示す。
「面白いイベントが始まるから、戻ろうぜ。」
あまりに嬉しそうでいたずらっぽい笑顔に、リヴの胸がドキリと鼓動した。