マラソン
リヴはマラソン用のノースリーブと短パンに着替えた後、少し迷ってから日焼け防止に薄手の長袖をを羽織って部屋を出た。玄関前の広いスペースには、すでに仲間たちが思い思いの服装で集合しており、互いに小突きあったりしてじゃれていた。
(どうして今からマラソンだっていうときに、こんな気楽にしていられるのかしら?)
リヴは、苦手なマラソンだと考えるだけで胃がキリキリしてしまうのに。全くその体力も気楽さも、羨ましくて仕方ない。
「全員いるか?」
珍しく運動用の服装になった教授が、間延びした声をあげながら現れた。指で空中を叩くようにして人数を数えると、全員いることを確認したのだろう、ひとつ頷いて脇から小さな紙切れを出して彼をよんだ。
「ケル。」
その名に、リヴの耳はピクリと反応する。呼ばれて教授の側に近寄るケルを横目で盗み見たが、いつもと同じけろっとした顔で教授の差し出した紙を覗いていた。
(何よアイツ。)
無性に苛立ちを感じて、リヴはぷいっと顔をそらした。
「じゃあ出発! 終わったやつから今日は自由行動だぞ。」
「マジで!? 海水浴ー!」
バートンが浮き足だって叫びながら力強く走り出し、ウェスパーとリードがそれに続く。一呼吸遅れて、若干ふくれ面のケルもそれに続いていく。
リヴは先頭集団の彼らを見送った後、ゆっくりと自分のペースで走り始めた。
「リヴ。」
ケイン教授がリヴの隣に並んだ。
「教授?」
てっきり道案内を兼ねて先頭集団にいると思ったのだが。そのリヴの疑問を読んだかのように、教授は爽やかな笑顔を浮かべた。
「道はケルに教えておいたから大丈夫だ。リヴの案内とペース配分は俺に任せろ。」
「は、はい!」
「よし、いい返事だ。」
教授はリヴの表情や息づかいから、疲労度を全て読んでいるかのようだった。彼のペースに合わせていると、決して楽ではなく、すぐに限界を迎えないギリギリのラインでの走行が続く。
「はっ……はぁっ………」
心臓が激しく脈打って、口から飛び出しそうだ。リヴは必死に足を前に進める。
「頑張れよ、あの角を曲がるとゴールが見えるぞ。」
ひとつも息を乱すことなくそう言った教授の言葉に、リヴは最後の気力を振り絞る。
マラソンルートはゆるやかな坂が繰り返す、林の中の道だった。出来ることならあの木陰に倒れ込んで、パンパンに張った足を伸ばして、靴を脱いで、胸一杯に空気を入れたい。でも、ある思いがそれらの弱い気持ちを全てはね除ける。
(負けるもんですか!)
ケルとの賭けを思う度、ぐっと足に力が入った。
言われた角を曲がると、途端に視界が開ける。真っ青な水平線。大地と海の境界線に引かれた、ゆるやかな下り坂。その先に見覚えのあるリゾートホテル風の屋敷。
(綺麗……。)
さんざん林の中で苦しい時間を過ごしてきたランナーへのご褒美。そうとすら思えるほど爽快な景色に、疲れきったリヴの体に、どこからともなく力が湧いてきた。
「よしリヴ、ラストスパートだ!」
「………っ!」
ぐんっとスピードをあげた教授の背中が、あっという間に小さくなる。
必死に地面をけって、荒い息をあげながら、リヴは教授にくらいついた。
(あと少し、あと少しですわ!)
足の裏が地面につく度に、じんじんと熱を感じる。苦しさにぎゅっと目をつむると、遠くから波の音に混じって、仲間たちの歓声が聞こえた。
(負けないわ! 私だってアタッカーなのよ!)
瞼に力をいれて開くと、屋敷の玄関が見えた。屋根の下に教授と、赤毛の大男。
「…っ!はぁ!はぁっ!」
最後の力を振り絞ってリヴは屋根の下に駆け込もうとし、何もない地面に爪先を引っ掻けてガクンとよろめいた。
「リヴ!」
誰かがリヴの名を叫ぶ。疲れきったリヴの膝は踏ん張ることができず、そのまま前へ倒れ込む。
地面に顔面を打ち付けるかと思った次の瞬間、ばふっという音と共に、リヴは熱くて固い何かに飛び込んでいた。
「…っぶねー。」
頭上から響いた声にうっすら目を開けると、最初に白いタオルが目に入る。
(な、に…?)
リヴの顔に当たるそのタオルはしっとりとしていた。
(乾いたタオルで汗拭きたい…)
酸欠でぼんやりと思考が鈍る。
「ケル、こっちに運べるか?」
「うす。」
力の入らないリヴの体は勝手に体勢を変えられ、ふわりと宙に浮く。
「動くなよ。」
「ん…?」
突如耳元で低い囁き声が響き、ぼんやりしたまま首を捻ると、リヴの視界いっぱいに赤茶色の瞳が広がる。
(あれ、何かしら、これ…)
ぼーっとそれを見ていると、また勝手に体勢を変えられ、リヴはゆっくりと地面に下ろされた。
赤茶色が離れていく。視界に広がる色が赤茶色から赤に変わった辺りで、リヴの頭がはっきりした。
「ケ…!? げほっ!」
声を出そうとしてむせかえる。
(うそ、今あいつに抱き上げられて!?)
リヴの顔は熱をもってすでに真っ赤になっていたので、変わることはなかった。
「まさか初日から休まず走りきるとはなあ。リヴ、頑張ったな。」
爽やかな笑顔のケイン教授が、横たわって動けないリヴの靴を脱がせ、両足に濡れタオルをあてがう。
「ふぁ…」
冷たくて気持ちよくて、リヴは間抜けな声をあげた。
ケイン教授はそのままリヴの張ったふくらはぎをマッサージする。ぎゅうっと押されると、溜まった疲れが押し出されるような心地がした。
「あらまあ! お嬢さん日射病かい?」
たまたま通りかかったホワイトさんが慌てて近寄ってきた。
(日射病?)
リヴはその言葉に違和感を感じる。普通、マラソン後にこの状態の人間を見たら、ただ疲れただけだと判断しそうなものだ。
「だめじゃない教授。補助役さんはちゃんと日陰で待たせておかないと。まあまあ可哀想に、まるでマラソンしてきたくらい汗をかいて!」
続いたホワイトさんの言葉に、リヴは状況を察して笑った。大分息も落ち着いたので、口を開く。
「ホワイトさん、私は補助役のヒーラーではなく、アタッカー志願の学生ですわ。」
ホワイトさんはええ?とすっとんきょうな声をあげる。
「でも、リスト家の…?」
「ええ、偽リストなの。」
ケルがぴくりと眉を寄せたが、リヴは笑顔を浮かべた。
「私、ヒーラーじゃないんですの。皆と同じアタッカー志望ですわ。」
リスト家なのにヒーラーでないとはっきり口にしながら、少しも胸が苦しくないことにリヴは驚く。
そう思えたのは、この日が初めてだった。
(偽リスト、か。)
すごく便利な言葉かもしれない。リヴは、ふと自分を見るケルに気づき、ニコリと笑った。