賭け
入道雲の立ち上がる青い空と、見たことの無いくらい青い海にリヴは暫く見とれてしまった。家の衣装部屋に下がっているマリンブルーのドレスを思い出す。
(本物のマリンブルーって、こういう色だったのね。)
それは作り物の色より、よっぽど綺麗で素敵だった。帰ったら久々に、あのドレスに袖を通すのも良いかもしれない。
「教授ー!宿舎ってこれっすか?」
誰かが期待混じりの声で、荷物を下ろしているケイン教授に聞いている。そう聞きたくなるのもわかる。だって、まるでリゾートホテルかというような見た目のそれは、宿舎という呼び名が全く似つかわしくないから。
「おう、そうだぞ。全員荷物を下ろし終わったか?」
さらりと肯定した教授の言に、皆が色めき立つのを察して、リヴはくすりと笑った。
「皆さん遠いところから、はるばるお疲れさまでした。」
屋敷の中から、柔らかい笑顔を浮かべた年配の女性が出てきて、一行に声をかける。その後ろからは、揃いの衣装を身につけた使用人風の者が静かに現れ、彼女の後ろに横一列に並んだ。
「お久しぶりです、マダム。今年はワルガキの豊作なので、遠慮なくビシバシやってください。
皆、ここの管理をされているホワイトさんだ。」
「ちーっす。」
「よろしくでーす。」
促されて挨拶をする一同の中、リヴはぺこりと腰を折ってお辞儀をした。ホワイトさんは柔和な笑顔で皆を見渡し、簡単に自己紹介をしてから各自に部屋番号を告げた。
「リヴさんは306号室です。」
告げられた部屋番号は三階。この屋敷の最上階である。他の仲間たちは皆二階で、三階にはリヴとケイン教授だけが割り当てられていた。
(間違いがないよう教授が見張り、ってことよね。)
教授に注意するよう心配してくれた姉に少し心苦しい気もしたが、わざわざリヴの部屋から数室離して配置された教授の部屋割りに、リヴは彼の無言の気遣いを感じた。姉には黙っておけばよいのだ。
「全員荷物を部屋に置いたら、着替えてここに集合するように。じゃあリヴ、行くぞ。」
教授が皆に指示をしながら、自分の荷物を肩に掛けた。名を呼ばれたリヴも、慌てて自分のバッグを持ち上げる。何とか二つに絞ったバッグ。どちらもずっしりと重く、これを持って三階まで昇ることを考えると、ため息をつかずにいられない。
と。
「お前、三階?」
小さな荷物をひょいっと肩にひっかけたケルが、わいわいと騒がしい仲間たちの間を縫って顔を出した。
「ええ、306よ。貴方は?」
「202。ほら、それかせよ。」
「ちょ、ちょっと?」
ケルはリヴの二つのバッグをむしり取り、軽々と背負う。
「うっわ、女の荷物って何でこうなるんだ?」
嫌みを言いながらも、さっさと屋敷の方へ入っていく。リヴは慌てて後を追った。
「あの、荷物くらい持てますわ。」
「無理すんな、この後すぐお前の一番嫌いなマラソンだ。体力温存しとけ。」
「ま、マラソン…。」
いつもダントツ最下位のリヴには、マラソンは地獄だ。
「じ、地獄の猛特訓、ですわね。ま、負けませんわ………!」
自分に言い聞かせるような呟きに、リヴの数歩先を歩くケルがニヤリと笑った。
「へーぇ。」
その意味深な笑みに、良からぬものを感じてひくりと頬がひきつる。階段を上る足が、自然と止まった。
「じゃあ賭けようぜ。お前がもし一回もサボらなかったら、何でも言うこと聞いてやるよ。」
「なんでも!?」
「おう。で、もし一回でもサボったら…俺の言うことを聞けよ。」
「な、何よそれ!」
リヴの声が、屋敷の階段に反響した。少し声が大きすぎたと慌てるリヴの頭上から、あきれ声が降ってくる。
「リヴ。随分やる気だな。」
上からケイン教授が顔を出して、笑っていた。リヴは真っ赤になって、慌てて階段を上る。ケルのとなりを駆け抜けて、自分の部屋へと急いだ。
部屋の前まで辿り着くと、リヴは少し上がった息を整える。後ろからは、何かぶつぶつ言っているケルが追い付いて、ドアの前にリヴのバッグを下ろした。
「…ありがとう。」
目をそらしながら一応お礼を言ってやると、ケルが黙ってリヴの顔を見つめてきた。
「な、なによ?」
お礼くらいリヴだって言う。じとりと睨み付けてやると、ケルはにやーっと、たちの悪そうな笑みを浮かべた。
「決めた。俺が賭けに勝ったら…」
「!」
コクン、とリヴの喉が動く。ケルはもう一度ニヤリと笑みを浮かべて、行儀悪くリヴに人差し指を向け、その衝撃的な言葉を発した。
「お前と一発ヤる。」
「は!?」
驚きのあまり、リヴは目を白黒させた。
「なななななんですって!?」
「ん? 二発がいいのか?」
「ばっ!」
ばっかじゃないの!という言葉は、ケルの大きな手に鼻を摘ままれたせいで、中途半端に止まった。
ケルはニヤニヤ顔でリヴの部屋のドアを開けると、ぽんぽんとバッグを中にいれ、立ち尽くすリヴも中にいれ、
「ほれ、賭けに負けたくなかったらさっさと着替えて出てこい。遅れたら早々に俺の勝ちだぜ? せいぜい頑張れよ、ブース。」
と嫌みを言って、ばたんとドアを閉めた。
(な、な、な…!)
閉じたドアを呆然と見つめたまま、リヴは今かけられた言葉を反芻する。
(やる、いっぱつ、やる………)
何故そういう破廉恥な話になるのか、わけがわからない。
(わ、わたくしとケルが…?)
ふと想像して、リヴは真っ赤になって飛び上がった。
「さ、さ、さ、サイテーですわ!」
誰もいない部屋で、扉に向かって独り叫ぶ。
「あんっなふざけた奴に、負けてたまるもんですか! 見ていなさい…!」
メラメラと燃える闘志に身を任せ、リヴは鼻息荒く荷物をひっくり返し、着替えを開始した。
何も知らない206号室のバートンが、やけに足音が響いてくるなぁ、と思い天井を見上げていることに、リヴは気づくよしもなかった。