自分の立場を理解しろ
どのくらい練習していたのだろう。おい、という男の声でリヴは振り向いた。
振り向くと、久々に見る大きな男の姿がリヴの視界に入る。ケルがそこに居て、険しい顔でリヴのノートを見ていた。何度も確認をしに行き来をしていたから、ノートは荷物の上で開きっぱなしになっていたらしい。リヴはは息を整えながら、少し汗ばんだ顔でにこりと笑って見せた。
そんなリヴの顔を見てもケルは険しい表情のまま。ノートを閉じて、左手で持つとそれを雑に掲げる。
「何だよこれ。」
「何って…」
ノートに決まっているじゃないか。それも、あんたとの連携を考えて記した、大切なノートだ。
混乱して押し黙るリヴに向かって、ケルは忌々しそうに瞳を向ける。
「お前、まだわからねーのかよ!」
突如燃え上がった炎のように、怒りをあらわにしたケルが怒鳴った。普通の貴族令嬢なら、男に怒鳴りつけられるなど恐怖で震えるところだが、夏に父に怒鳴られた影響か判らないが、リヴは恐怖することなくケルを睨み返した。とにかく頭にきたのだ。
「わからないのかって、何がよ!」
負けじと声を張り上げて怒鳴り返した。
ケルはチッと舌打ちすると、左手で掲げたノートをぱんぱんと叩いてみせる。
「何でこんな風に俺の補佐みたいなことしてんだ? お前…自分の立場を理解しろよ!」
追加された言葉に、リヴはぐっと息を呑んだ。心の奥の一番暖かいところに氷を押し付けられたかのように、ぶるりと震えた。
「自分の、立場…。」
その言葉を何度投げかけられただろう。何度、その言葉にリヴの心が砕けただろう。ぐっと、リヴは拳を握った。
ヒーラーじゃない自分がペアを得て、舞い上がっていた。ヒーラーじゃない自分がケルのペアとして、彼を全力でサポートできるよう攻撃魔法を組み立てたりしていた。
この男が、ヒーラーじゃない自分を呪縛から救ってくれる。そんな期待をしていた。…バカだ。何を考えていたんだ自分は。恥かしい!!
リヴはぎりりと唇を噛む。
そうだったのだ。この男も他の人と一緒だったのだ。リヴが望まれているのは、ペアを得ることではない。ヒーラーでもないリヴが頭を捻って、ペアとなったこの男を最大に生かせるように努力することなど求められていないのだ。
リスト家の息女として、ヒーラーとして入軍し、名を上げることでないと意味が無い。ヒーラーでないリストなどこの世界に不要だ! それが、リヴの立場だったというのに!
リヴは拳の力を抜いた。冷ややかな目でふ、と笑う。
「おい何笑って…」
「ごめんなさい。私が間違えていましたわ。」
さんざん苦しめられたこの手の話がまたか。そう思ったら、ばかばかしくて笑えたのだ。笑ったリヴを怪訝に見つめてきたケルを、リヴは笑みを消してぎりりと睨みつけた。怪訝な顔をするケルをひとしきり無言で睨んでから、すうっと目を細めて、蔑むように相手を見る。
「そうよね、ヒーラーでないリストなど不要。リスト家息女としての立場を忘れていましたわ。ありがとう、ケル・ロア・バフォーエン。わたくしの立場を思い出させて下さって。」
流暢につらつらと言葉を述べたリヴは、左手を髪に差し込んで括り上げていた紙紐を抜く。ハーフアップにされていた水しぶきのような髪が、ばさりと空を泳いでリヴの肩に降り立った。
「わたくしには、こんなことに使う時間はありませんでしたわ。今日からこの講義でのペアは他の方にお願いなさって。では、ごきげんよう。」
くすりと氷の微笑みを浮かべると、リヴは颯爽と更衣室に向かって足を進めた。後ろからケルがおいとかまてとか言っていたが、もう言葉を聞く気にはなれなかった。
(やさしい言葉はもう沢山。裏切られて傷つくくらいなら、もう私は何も見たくない。聞きたくない!)
新しい未来への期待を胸にあつらえた衣装を乱暴に脱ぎ捨てると、リヴの両目がじわりと熱くなった。
「…何よ!涙なんて!」
乱暴に脱ぎ捨てた衣装一式を、力任せに更衣室のゴミ箱に突っ込む。ゴミ箱に全ての服が入りきるはずもなく、それらはゴミ箱からあふれ出したが、リヴは気にもせず、シャワールームに飛び込んだ。
誰も居ないシャワールームで、コックを全開に捻る。熱いシャワーが噴出す中、リヴの喉奥から熱い嗚咽が漏れ出た。
(…くやしい。自分のバカさに、腹が立つ!)
悔しさと腹立たしさが全身に満ちる。誰もいないそこで、声を殺して泣いた。
ケルの軽口に怒り、ケルのペアになったことに喜び、そして今裏切られて堪えきれないほど涙する。彼の存在がリヴの中で大きくなっている事実に、リヴはまだ気づかない。