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トイレの話

作者: 鶏もも肉

落ちはおまけ


「う~、トイレトイレ!」


おいお前。そこのお前、便意は遊びじゃねぇんだぞ。わかっているのか? 有名なネタと状況が酷似していたとしても、本人にとっては至って深刻な問題なんだ。

便意の絶対性はマジ神にも等しい。便意を本当の意味でスルーできる人間はいない。一度目の前に現れたからには絶対に避けて通れなくなるのが便意だ。

帰り道で唐突かつ激烈な便意に襲われたら、家への最短ルートから外れてでもトイレを探すのが理性を持つ人間のすることだ。

そう、この理性こそが便意を絶対たらしめていると言っても過言ではない。

トイレ以外の場で、ためらいもなく排泄できる人間はいない。赤子だけだ。子供という存在が真実のところ人間ではないという説は、このあたりから来ているんじゃないかと考えている。

聖人だろうが悪人だろうがブサイクだろうがイケメンだろうが美少女だろうが男だろうが女だろうが勝ち組だろうが負け組だろうが便意には決して勝てない。

どんなに崇高な作業、労働をしていても便意が来襲すればそれに従って然るべき場所に駆け込み、排泄しなければならない。

そうでなければ便意に責め立てられ続けながら、集中できない作業を続けるしかない。その最果てにあるのはいろんな意味での負け戦だ。


いいか、だから遊びじゃねぇんだ。切羽詰まってるんだよ。コンビニの一軒くらいあってもいいもんなのに、俺の排泄欲を満たしてくれそうな場所は一向に見つからない。

俺の肛門括約筋は頑張っている。よく頑張っている。俺は彼に何度も救われた。

小学生の時分である。小学生の間には、よくわからないが「学校でうんこするのは恥ずかしい」的風潮が高確率で蔓延している。

特に男子にとっては深刻な問題であった。

男子にとって「個室=うんこする場所」であり、そこに入ったりそこから出てくるところを目撃されたが最後、次の休み時間から「うんこしてた奴」としてと吊るし上げられるのは目に見えている。

俺は多くの小学生男子に漏れず、給食後に襲ってきた強烈な便意を幾度となく耐えきった。それも肛門括約筋というパートナーあってのことだ。

我慢している間、授業の内容など全く頭に入ってこない。全ての束縛から解放されるシャングリラ(トイレ)において、至福の時(排泄)を迎える未来をただただ思い描くことしかできないのだ。


そして今の俺も大体そんな感じである。それくらい余計なことを考えていないと決壊しそうなのである。

とめどなく流れる脂汗。全速力で駆ければその衝撃によって俺のパートナーが押し寄せる濁流に屈してしまうだろうことは経験則として知っていたから、早歩きと小走りの中間くらいの絶妙な歩行(走行)速度である。

しかしそのたゆまぬ功夫すら嘲笑うのが便意である。勝てない。便意には勝てないのだ。天災と同じなのだ、便意は。

泣きそうだ。世の無常と便意の苛烈さに。神よ、なぜ私にこのような試練を与え賜うたのですか。

だが、世界は俺を見捨ててはいなかった。帰り道のルートからかなり外れてしまい、見たこともない住宅街の中にそれはあった。

公園である。ちょっとした広さを有しているものの、遊具は全体的に古びていて過保護保護者集団に撤去を要請されていないのが不思議なくらいだ。要請中かもしれない。

緑化運動の一環として植えられでもしたのか、よくわからない木が公園の真ん中に鎮座していて枝葉を方々に伸ばしまくり、人を癒すというより人間の生活を浸食しているような不気味さがあった。

が、まぁ差し当たってどうでもいいことである。俺の双眸は節穴ではなかったらしく、公園の奥にあるカビ臭さがこっちにまで漂ってきそうな公衆便所を発見したのである。

幸い、公園のベンチには青いつなぎの男もいないし障害物もない。この勝負、もらった!!

心中で負けフラグを立てていようと、俺の勝利は確かであった。簡略化された人体のマーク(色は青)を視界の端に捉えつつ駆けこみ、スニーカーの踵で制動をかけてターン。

視界に飛び込んできたのはヘヴンズ・ドアー。まさに天国への扉だ。スタートのピストル音で鼓膜を震わせた水泳選手が水面に飛び込むよりも正確な角度で個室に滑り込む。


ドアを閉める、施錠、ベルトを外す、ズボンを下げつつ便器を背にするよう体を翻し、腰かける。この間わずかコンマ数秒。




     大     勝     利     




そんな言葉が脳裏をよぎった。楽園は確かに、今この場にある。排泄の一時、トイレという場所は誰にとっても聖地である。

大きく安堵の息を吐きながら、ようやく周囲の光景が目に入ってきた。実に平均的な、どこにでもある公衆トイレの個室だ。

薄い板の壁とドアで仕切られているスペースはしかし絶対領域であり、不可侵である。

白かったのであろう壁は黄色がかった灰色にくすんでいて、下らない落書きが列挙されていた。俺はこの便所の落書きが嫌いではない。

特定の人名を上げ連ねて死ねだとクズだのと書いてあったり、意味不明だが女性器の故障が延々と書き連ねてあったり、妙にクォリティの高いキャラクターの絵が描いてあったり。

本当の意味での「自由」とはこういうものなのだろう。無秩序と重なるそれは、トイレの個室のような限定空間でしか解放されない、してはいけないものなのかもしれない。

下劣かつ下等なものが多い落書きから目を離し、銀色に輝く金属に視線を向ける。

彼はトイレットペーパーを守護するためにある。いわば重鎧を装備した騎士である。純白の姫君であるトイレットペーパーは、どんなに騎士を慕っていてもいずれは離ればなれにならなければいけない運命。

姫君が行きつく先はいつも悲運の結末だ。彼女は姫でありながら、この場に入室した異邦人の汚れを清めるためにいる巫女でもあるのだから。

ごく身近にある悲劇に憂いを覚えながら、俺は彼と彼女に何もしてやれない。俺こそが彼らを引き裂く異邦人なのだ。

しかしそれさえもこのユートピアを彩るエンターテイメントの一つに過ぎない。トイレとはつまり、安息とスペクタクルの二面を孕んでいるのである。

個室の隅にはコーヒー豆が入っていたのであろう大きめの缶が置いてあり、それはただのゴミではなくこの場においての灰皿になっていた。

最近では禁煙の場所が多くなっているから、こういう物は珍しい。コーヒーの缶に書いてある銘柄は既に読み取れないほど薄汚れており、年季を思わせた。

清潔すぎるわけでもなければ不潔が過ぎるわけでもない。つまり、と俺は適度に汚れた天井を見上げながら息を吐いた。

「あー、落ち着く」

それは誰にあてたわけでもない、つまりひとり言だったわけだが。

「まったくだな」

「!!?」

唐突な返答におしっこ漏らすかと思った。いや、出てたけど。咄嗟に、しかし意味もなく俺は両手で股間をおさえた。

「世知辛いご時世、トイレという空間ほど魂を解放できる場は他にないと言えよう。ここには“しがらみ”がない。過去も未来もない」

薄い壁を挟んだ向こうの個室にいるらしいそいつは滔々と語り始めた。つーか人がいたのか。必死で空いている個室に駆け込んだから、隣が使用中かどうかなんて確認しなかった。

「あるのは純然たる“現在”のみだ。そしてその現在も排泄物と同じように、流れ、水泡に消え去っていく」

何を言ってるかさっぱりわからん。それっぽい言葉を連ねただけにも思える。トイレが素晴らしい場所であるという一点においては、俺も全力で同意したいところだがしかし。

「つーかおま、お前女だろッ!!」

叫ぶ間も股間を押さえていたのはそういう理由である。隣室から流れてくるのは、声だけ聞けば可憐な少女のそれである。話の内容はトイレだが。

「たとえば目の前の落書きを見てみたまえ。品性下劣なこれらのいたずら書きにはネット上の書きこみなど比較にならないほどの匿名性があり、不特定多数の目に触れる意思発信の場となる」

不特定なのは異存ないが多数ってのは同意しかねるね。いつ更地になってもおかしくないボロ公園のトイレだ。っていうか俺の発言が古今類を見ないほど完璧に無視されたぞ。

けどまぁ、俺の考えと似たようなことを言っている。ちょっと興味を持つ、股間押さえたまま。

「何ものもトイレの真似はできない。トイレはトイレ以上のものにもトイレ以下のものにもなれないが、他のいかなる事象事物もまた、トイレと同じ働きをすることは不可能だ」

「いややっぱり駄目だ。さすがに男子トイレにいて平然と話してる女とはロマンスも共感も期待できねぇ」

「何を言っているのかね君は。ロマンスはともかく私は君の言葉に共感したというのに。女性に恥をかかせるものではないぞ」

「そもそも立場が違うんだから共感も何もないだろ! 男子トイレは男子の汚ぇケツとナニを受け入れるようにしかできてないの! 童貞を宿命づけられてるの!」

そこに女が入ってきたとあっちゃそれこそトイレの掟を乱してるぞ。男子トイレ便器は一生女子と出会うことすらない、俺とすら比較にならないほどのチェリーボーイなんだから。

ふむ、と少女らしき声は思案するようなそぶり。

「それは新しい着想だな。この発見だけでも君と会話できたことは有意義だ」

「すいませんそういうのいいんで。ここ男子トイレなんで」

あれ? 俺は唐突に思い出した。ここはトイレ、そうトイレだ。排泄をする場所だ。その場にいるということはつまり。

「何を考えているのだね。いや、年相応性別相応の妄想かとは思うが」

「妄想なんて可愛いもんだろお前の蛮行に比べれば!」

見透かされたのが恥ずかしいのもあったが、何を考えているなどとこいつにだけは言われたくない。びっくりするわ。

「そうそう、私は普段露出できない部位をさらすことができるのも、トイレの魅力の一つだと思うね」

「変態か」

「いいや。それは公衆の面前で局部を露出する人間に贈与される言葉だ。私の行為は正常だ。それとも君は下着を履いたまま用を足すのかね?」

どの口が正常などと言うんだどの口が。もうあれなのかな、こいつが男子トイレにいることを咎める方が間違ってるのかな。そういうノリなのかな。

突っ込む気力も失せたわ。ちょうど俺の用も終わったところだし。出きったところだし。

ガラガラガラ、と貞淑な乙女たるトイレットペーパーを引っ張り出す。

「そういえばトイレットペーパーの使い方にも個性が表れるそうだな。私は綺麗に畳んで使うタイプだ。君は適量引き出した紙をくしゃくしゃに丸めて肛門を拭くタイプと見た」

「肛門とか言うな年頃の乙女が。恥じらいを持て」

まぁそんなもん欠片でも持ち合わせていたらきっと男子トイレになどいないだろう。奴の言っていることが当たっているのが気に食わなかったが黙っておいた。

くしゃくしゃに丸めたトイレットペーパーでケツを拭いて便器に放る。立ち上がり、パンツとズボンを上げる。

「んじゃ、俺行くから」

じゃばー。始まりがあれば終わりがある。便器に座るところ、場合によっては便座カバーを上げるところから始まり、水を流すことで終わる。

この奇妙な邂逅も終わりだ。俺も偶然このトイレに入ってしまったが、もうこの変な女と会うこともないだろう。

「何だ、もう行くのかね? 珍しく同志と会えたというのに、寂しいではないか」

「う、うっせーな。誰が同志だ誰が。俺を変態同好会に入れんな」

ちょっと本気で寂しそうな声にたじろぎそうになったが、あくまで場所はトイレであり、相手は男子トイレに侵入する変態女だ。

ベルトを締め、下半身露出の排泄形態から通常モードに移行した俺は施錠を解除してドアを開く。楽園には長くとどまれない。必ず日常へ帰らなければいけないのだ。

ふと、最後になるだろうから今さらながら俺はそいつに尋ねた。

「お前、何で男子トイレにいんの?」

変態だから、と答えられたらもう何も言えないわけですが。

「……間違えたから」

「はぁ?」

間違えたって入るトイレをか? よっぽど間抜けなのか、それとも俺と同様抗えぬ便意に襲われて急いでいて男子女子の確認をする暇すらなかったか。

やれやれと俺は個室を出、振り返る。そこには俺が用を足した個室と、その隣、女のいる個室がある。女の個室は、当然だがドアが閉じていて女の顔はわからない。

多少興味があったのを否定できないが、深入りしても多分いいことはないだろう。振り返ってその場を去ろうとして。

がちゃ。

「え」

キィィイ

ドアが、開く。

いや、それ自体はいい。お前流したか? 流したのか? 流せよ? トイレにおいて最も破ってはならない禁忌だぞ、その忘れ物は。

まさかのボーイ・ミーツ・ガールですか? 期待とも不安ともつかない感情に心臓を鷲掴みにされて、俺の目はそこに釘づけになる。出てくるのは変態だというのに。

そして扉が開き――

「……え」

情けないことに、そんな頓狂な声しかあげることは叶わなかった。

誰も、いない。

「間違えたんだよ、地縛する場所を」

声だけが聞こえる。あ、あれぇ? これ、もしかして……。

「あ、あー。もしかして……お名前、花子だったりする?」

「おや、知っているのか。嬉しいな」

「そ、そういうことかい……」

「それではな、同志よ。私は割と全国に分布しているから、また会うこともあるだろう」

そう言い残して声は去った。後には排泄後にもかかわらずちびりかけた俺だけが残される。

「…………」

また会うって……。

「そうそう男子トイレにはいねぇだろ、花子さんは……」

津々浦々の花子さんがこいつど同一の存在なのか、それぞれ違う個体なのかは知らんが。

「じゃぁな、変態」

とにかく二度とごめんだね。俺は踵を返してこの場を今度こそ去ることにする。


あ、そうそう。手は洗えよ?




終わり

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