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肌をなでる風

裏話 夕暮れの帰り道

 西日がオレンジに空を染める帰り道。


 思いついたかのように、突然ちぃは叫んだ。

「おなべが食べたい!」

「お鍋?」

 ちぃは私の手をぎゅっと握って、にっこりと頷いた。

「ちぃと、ママと、リョウちゃん!」

 つまり、三人で食べたい、と言いたいみたいだ。

 なんだかおかしくて、自然と口許が綻んだ。

「そうね。冬になったら食べようね。まだ少し季節が早いから」

「えー」ちぃは不満げな顔をした。

 プンスカ、という顔だ。

「ちぃは嫌いな椎茸、食べられるようにならなきゃね」

「やー。ちぃ、あれキライ!」

 そう言って唇を尖らせる。その姿が本当に可愛かった。


 少し、いじわるをしてみたくなった。


「じゃあ、いーこ、いーこ、はなしね」

 すると、ちぃは一瞬悲しげな目をした。

 だがすぐにその色を変えて、そっぽを向いた。

「……いいもん、ママの、いーこ、いーこ、いらないもん」

 意外だった。意地を張っている感じでもなかった。

「どうして?」

 ちぃは、まだ余裕よと言うように、ふふと笑った。

「リョウちゃんしてくれるもん。リョウちゃん、やさしいもん」

「――ちぃ、リョウちゃんのこと好き?」

「うん! 大好き」

「そっか」


 不思議な気持ちだった。

 ほっとしたような、どこか後ろめたいような。


「ママは?」

「え?」

「ママはリョウちゃんのこと、すき?」

 ちぃがじっと私を見上げてきた。


 何もかも見通してしまいそうな、とても澄んだ瞳だった。


「好きよ。大好きよ」

 ちぃが不安そうな顔をした。

「ちぃも、すき?」


 私は買い物袋を地面に置いて、ぎゅっと娘を抱きしめた。


「ママは、ちぃのことが一番大好きよ。当たり前でしょ」

 少し、嘘が入った。

 もう、どちらのほうがどちらより。

 関係なかった。区別が付かなくなっていた。

 それくらい、私はちぃも良介も愛していた。


「……パパ」

「え?」

 ちぃは俯いていた。

「ちぃのパパ、いない。……リョウちゃん、パパじゃない?」


 言葉が出なかった。

 ちぃはもう、父親を意識していた。


 ちぃは賢い。親の嘘を簡単に見破る。

 パパがいないことが「普通」でないことを、もう見破っている。

 誰に似たんだろう。私は、小学生になってからもずっと親の嘘を信じていたのに。

 父親がもともといないだなんて、ありはしないのに。

 私は、あの母よりも嘘が下手だ。

 苦手だ。


「パパはリョウちゃんじゃないよ」

 声が掠れた。


 この子には父親が必要なのだろうか。

 たとえ、血の繋がりがなくても……。


 動揺を隠すように、できるだけ明るい調子で言った。

「ちぃ、パパほしい?」

 ちぃは首を横に振った。

「パパ、いらない。リョウちゃん、じゃないなら、いらない」

 ちぃは肩を上下させて、懸命に涙を堪えようとしていた。


 この子にとって父親は一人だと、ずっと思い続けていた。

 でも本当にこの子のことを考えたとき、父親はあの人でなくてもいいのかもしれない。

 本当に、娘のことを愛してくれる人なら、彼でもいいのかもしれない。

 片親でないほうが、いいのかもしれない……。


 ちぃの上唇に、透明な鼻水が垂れる。

 それを拭ってやりながら、私は言った。

「――リョウちゃんが、ママのお婿さんでもいい?」

「おむこさん?」

 きょとんとした瞳が返ってくる。

 私はもう一度、言葉を繰り返した。

「うん。ママのお婿さんが、ちぃのパパになるの」


 すると、キッとちぃは顔を上げた。

「いや! リョウちゃん、ちぃのおむこさんなの!」


 ……この反応は、どう受け取ったものだろうか。


「じゃあ、パパになれないよ?」

「リョウちゃん、ずっといっしょだもん! ママ、とらないで!」


 あ、そうか。

 思わず、笑ってしまった。

 どうやらもう、ちぃの中で良介は空想の父親以上の存在らしい。


 先日、良介は言ってくれた。

『いつか、三人で暮らせたらいいな』


 それは簡単なことじゃない。

 まだ早い。

 でも、今はその気持ちだけで充分だった。


 年下の彼。笑顔が少しあどけなく見える、やさしい彼。


 最近、ちぃとよく笑っている姿を見るようになった。

 まるで家族のように、彼はやさしい眼差しでちぃを見守ってくれている。


 その気遣いが有難くて、そんなところもまた愛おしく思う……。


「ごめん、ごめん。リョウちゃんは二人のものよねー」

「やー、ちぃの!」

「あら、そんなこと言っていいの? 今日の晩ごはん、せっかくリョウちゃんを呼ぼうと思ってたのにー」

「え、ダメ! リョウちゃん、リョウちゃんよぶの!」

「じゃあ、二人のものでいい?」

「………………うん」

「はい、仲直り」

 私はにっこり笑って、娘の指に小指を絡めた。

「指切りげんまん、」

「うそついたらはりせんぼんのーます、」

「指切った。――さ、早く帰ってハンバーグの用意しなくちゃ」

 ちぃの目が輝いた。

「ハンバーグ!」

「ちぃも、リョウちゃんも好きだよね。ちゃんと手伝ってよー?」

「うん! ちぃ、こねこねする!」

 ちぃはにこにこ顔で、両手を握ったり開いたりした。



 とても幸福な時間。


 大切に、大切に、

 思えば思うほど、

 あっという間に時間は過ぎていく。


 幸福は一瞬。

 でも、その思い出は永遠。


 もし、三人で暮らせたら……


 その一瞬、一瞬を重ねて、

 その思い出を共有して、もっと笑顔になることができるだろうか。


 なれたら、いいな。




読んでいただきありがとうございました。


夕暮れの中の親子のシーンを書きたかったのか、ただ千春視点のものを書きたかったのかはよくわかりません。


ただ、千春の中で「母」として「女」としての「娘」や「恋人」に対する想いがあったことは書きたかった……んですが、

うまくいったかは微妙です。


次回、『裏話』第3弾は『胡蝶の夢』という短編です。

よろしくお願いします。

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