『なぜ?』
彼女は、夫を愛していた。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
結婚したばかりの頃は、夫が帰ってくる時間を楽しみにしていた。
玄関の鍵が回る音を聞けば、自然と顔がほころんだ。
けれど、年月が経つにつれて、それは少しずつ変わっていった。
「おかえり」
そう言うだけになっていた。
夫が仕事の話をしていても、家事をしながら適当に相槌を打った。
「あとで聞くね」
夫が触れてこようとすると、
「今日は疲れてる」
そう断った。
最初の頃は、夫も笑っていた。
「そっか。また今度な」
そう言ってくれた。
彼女は、それで何も問題ないと思っていた。
夫は自分を愛している。
だから、少しくらい拒んでも大丈夫。
夫婦なのだから、そんなことで壊れたりしない。
そう思っていた。
ある夜、夫が珍しく言った。
「俺たちって夫婦なのかな…」
彼女は笑った。
「何言ってるの?」
「いや……なんでもない」
それ以上、夫は何も言わなかった。
彼女も聞かなかった。
それから、夫は何も言わなくなった。
不満も言わない。
寂しいとも言わない。
求めてくることもなくなった。
彼女は、夫婦喧嘩が減ったことを喜んだ。
「最近は、うまくいってるよね」
そう言うと、夫は少しだけ笑った。
「……そうだな」
その笑顔の意味を、彼女は考えなかった。
夫は、もう期待することをやめていた。
話を聞いてもらうことも。
触れてもらうことも。
愛されていると感じることも。
何度も拒まれるうちに、
「俺は、この人に必要とされていないんだ」
そう思うようになっていた。
そして、ある日。
夫の頭の中で、何かが切れるような音がした。
嫌いになったわけではなかった。
恨んでもいなかった。
ただ、
もうどうでもよくなった。
それが一番大きな変化だった。
妻は、そんな夫の変化に気づかなかった。
夫は帰宅しても、以前のように話しかけなくなった。
それでも家族としては優しかった。
子どもの父親としては、きちんとしていた。
生活も支えてくれていた。
だから彼女は思った。
「私たち、ちゃんとやってるじゃない」
ある夜、夫が静かに言った。
「離婚しよう」
彼女は、しばらく意味が分からなかった。
「……なんで?」
夫は黙った。
そして、少し考えてから答えた。
「俺、ずっと寂しかったんだと思う」
彼女は驚いた。
「だって、何も言わなかったじゃない」
夫は小さく笑った。
「言っても、伝わらなかった、もう遅かった」
その言葉を聞いて、彼女は初めて思った。
夫は、いつから寂しかったのだろう。
いつから自分を求めなくなったのだろう。
いつから、自分を見る目が変わったのだろう。
分からなかった。
分かったこともある。
夫は、最初から私を愛していなかったわけではない。
むしろ、愛していた。
だからこそ、何度も我慢した。
何度も期待した。
何度も傷ついた。
そして最後には、期待することさえなくなった。
心は、ある日突然離れるのではない。
小さな寂しさが積み重なって、
小さな拒絶が積み重なって、
「もういい」と思う瞬間が何度も訪れて、
そのたびに少しずつ、離れていく。
彼女がそのことに気づいたときには、
夫の心は、
ずっと遠い場所にいってしまっていた。
それでも彼女は、理解できなかった。
「愛してたのに……」
そう呟いた。
夫は静かに答えた。
「俺も、愛してたよ…」
その言葉は、
彼女にとって残酷な通知だった。
私を愛していなかったから、私から離れるのではない。
愛していたからこそ、
私を愛し続けることを、夫はやめた。
そして夫は今では、家族として隣にいることも、お互いの人生に関わり続けることも、全てをやめたいのだ。
愛していたのに…、
愛し合っていたはず…なのに。
夫の心はいったい、いつから離れてしまっていたんだろう。
私を見る夫の目の中に、
私がいなくなったのは、
夫の感情が何もうつらなくなっていったのは、いつからだったのか?
同じ日常が当たり前に続いていく、夫に離婚をきり出されるまで、私はそう思っていた。
愛していた。
でも、私たちは、愛し愛され続ける夫婦にはなれなかった。
…




