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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

二度と春が来ませんように

作者: 短沢コリー
掲載日:2025/12/10


※このお話には【虐待、ストレス障害、自殺】などの表現が含まれています。


 たぶん、はじめは祖父の葬式だった。

 父親はあまり家に帰らないからと、母の実家へ連れられて一緒に葬式へ参列した、幼い頃の記憶。呟き続けるお坊さん以外のいっさいが沈黙していて、いつも他人をなじっている母の口さえ、何か強力な命令でもされたようにぴたりと閉じたままでいた。

 順番が来たら母と共に席を立ち、道中何度かお辞儀をして、一番前にある台の前に立つ。砕いた木のようなものをいくらかつまんで灰の中へ落とすと、火がじりじりとそちらへ燃え移っていく。

 煙の匂いは不思議なあたたかさを保って、途切れることのないお坊さんの静かな声が、重い沈黙をやわらげてくれていた。時間が緩慢に流れるのを誰も咎めない、その場所はひどく穏やかで。

 死とは優しいものなのだと、僕の頭に刻まれたのはきっとその時だ。


 〇


 何日かかけて諸々の作業や手続きを済ませたあと、母と二人で電車に乗って家へ帰った。母は一度も笑わなかった。元々朗らかな笑みなど浮かべない人間だったけれど、嫌味を言う時の口元を引きつらせる仕草さえなかった。

 幼かった僕にもわかるほど落ち込んで、何も考えられていないようだった。祖父のことが大好きだったんだろう、と今なら理解できるけれど、当時の僕にそんな推測ができるほどの頭はなかった。ただ分からないなりに、何も言わないでいてくれるなら僕も何も言うべきではない、という思いだけでずっと黙っていた。母が使う言葉は、いつも僕を攻撃するものだったから。

 帰ってからしばらく経っても母は元に戻らなかった。僕を責め立てることがない代わりに、生活を回すこともろくにしなくなって、家事が滞る分だけ家の中が汚くなった。

 それでも自分が生きるための最低限くらいは動かしているようだったけれど、それも今までよりはずっと粗雑で、僕が困ったことで声をかけると「自分でやって」と言われるか、あるいは金を渡された。元から無関心だった父は荒れた家に帰ってきた痕跡すら残さなくなって、母も少ししてからそれに気付いたようで、けれど面倒が勝ったのか何も言わなかった。

 やがて渡された離婚届には猛反対していたけれど、どう説得されたのか、それともまた面倒になったのか、最後には判を押していた。その後の父親がどうしているのか、僕は知らない。

 それから母も働き始めて、酷く重たげな様子で家に帰ってきては、落ちくぼんだ目で愚痴と嫌味を呟き続けるようになった。その対象は当然のように僕でもあったけれど、向かう矛先が外に増えた分、以前に比べれば僕宛てのそれがずっと少ないのも事実だった。

 今まで働いたことなんてないんだから、という言葉を母はよく吐き捨てた。冷えた部屋の中で冷えた言葉がいつまでもぎちぎちと鳴り続けていたから、僕は時々祖父の葬式を思い出して、今この瞬間にあれがまた起こってくれないだろうかと、何度か思ったのを憶えている。

 数年後に再婚相手を紹介されて、共に住み始めるまでほとんど間はなかった。僕が中学二年になったばかりの春だった。

 どうにか仕事の隙間に時間をひねり出して、やっと見つけてきたのだと自慢げに話す母は、僕がそれをどう思うかなど考えてもいないようだった。僕に反対する理由はなかったし、そもそもそんなこと許されてもいないけれど。

 相手には連れ子がいて、顔を合わせたのは同居が始まる初日だった。まだ小学校低学年で、僕の弟になるのだという彼は、よく分かっていないような顔で躊躇うようにぼそぼそと挨拶をしていた。僕はそれに静かに返事をしながら、この臆病な子供の行く末をぼんやり思って、嫌になってやめた。

 それから、家計に余裕が出たからと、高校に進学することを許された。へらへら笑う新しい父親と、その隣に立つ母が僕を見て、ぞっとするような優しい声音で「よかったね」と言った。それまでも明確にダメと言われたわけじゃなかったし、通いたいかどうかも考えていなかった。ただ、高校に通う必要が生まれたのだな、と思った。

 進路は家から遠くない場所の、進学校を謳う公立高校にした。凡庸で、無難で、学費が安いところ。受験勉強に集中したいからとギリギリまで学校に残ってから帰る。そのうちに、弟になった少年の様子が変わって、初めて会った時よりずっと怯えた顔をするようになったことに気付いて、けれど何も言わなかった。

 今まで僕に向けていたそれの矛先が変わって、母は僕のことを褒めるようになった。あの子は優秀なのにねぇ、あなたはどうしてそんなことも。リビングから聞こえるそれらと、弟の掠れた謝罪に背を向けて、何もかもを自分から切り離すように自室の扉を閉じた。この家で聞こえる音の全部が気持ち悪かった。


 無事に合格して高校へ通い始めて、何かが変わるかもしれないと、そんな期待をしていなかったと言えば嘘になる。けれども変わらなかった。なんにも良いことはなかった。相変わらず家ではぎちぎちと音が鳴り続けて、変わろうとする人間は誰もいなくて。僕もそのうちの一つだったから、元より変わるわけがなかったのだろう。

 そのうち人間が発する音のすべてが気持ち悪くなった。家で鳴る音を聞くのも耐え難くなって、帰るのが遅くなる言い訳に勉強を使い続けることにした。

 クラスメイトの声も聞きたくなくて、授業の合間はイヤホンをして、本当は教師の声さえ嫌だったけれど我慢して。昼休みは少しでも人のいる場所から離れていたくて、屋上に続く階段を登った。屋上の扉自体は閉鎖されていたけど、だからこそ階段の一番上まで来ようとする人間も大していない。

 扉は鎖と南京錠で堅く閉ざされて、その前の小さなスペースに、使われてない机と椅子を積み上げた塔がいくつもひしめき合っていた。僕はそれらの中に人一人が座れるだけのスペースを見つけて、昼休みはずっとそこにいることにした。

 初めは人が来ることもあったけれど、僕を見ると気まずそうな顔をしてそそくさと帰っていって、数ヶ月もすれば誰も来なくなった。自分がどんな目で見られているかはなんとなく分かっていたけれど、ちょっかいを出される気配はなかったし、その方が有難いのでそのままにしていた。

 暗くて静かな場所だった。屋上扉の磨りガラスからぼやけた外の光が入ってきて、けれども積み上がった机や椅子がいくつも影を作るから、屋上前はいつも薄暗かった。それらの中には脚のパイプが折れ曲がっていたり、すっかり無くなっていたりするものもあった。みんな死んでいる場所だった。そこにいる間だけは、自分の呼吸の音が聞こえた。

 あの葬式で見た、静かな火種と煙の匂いが無いことだけが残念だった。


 何も変わらないまま一年が過ぎた頃、ふいに彼女が屋上前に現れた。

 まだ夏にはならないくらいの季節だったと思う。久しぶりに自分以外が階段を上る足音を聞いた。俯いたままゆっくりと歩みを進めていた彼女は、僕に気付かないままずいぶん近くまで上ってきて、最後の数段ではじめて顔を上げて、それでやっと僕に気付いたらしい。見るなり肩を跳ねさせて、視線をあちらこちらに動かしてから、下手な笑顔を浮かべて、ごめんなさい、と一言だけ喋った。

 僕がいいえと返している間に、彼女の目線が屋上の扉と、厳重な施錠に向けられて、表情がわずかに動く。それからふっと、下手な笑顔がほどけて自然になった。

 閉まってるんですね、お邪魔しました。彼女はなんでもない世間話のように笑って、ぺこりと頭を下げてから、来た時よりずっとなめらかに階段を下りていった。


 初めはそれだけ。けれども僕が彼女の顔を覚えるには、それだけで十分だった。

 全てを諦めることに慣れきったその表情は、僕も知っているものだったから。


 それから数ヶ月くらいは、また何も変わらず日々が過ぎた。彼女は同じ学年だったらしく、何度か廊下ですれ違うこともあって、けれど僕は何も言わなかったし、彼女もこちらを見てはいなかった。階段を上ってきた時みたいに俯きがちで、人に話しかけられれば自然な仕草で顔を上げて穏やかに笑って話す。それを横目で少しだけ眺めて、いつも足を止めないまま通り過ぎた。

 夏休みが始まっても学校の自習室はおおよそ開放されていたから、今まで通りの理由で家から出られるのが有難かった。自習室は人がいても静かだった。ただ室内での食事は禁止されていたから昼はどこかに移動する必要があって、一度だけ屋上前に行ってみたけれど、こもる熱気にうんざりしてやめた。初めはもっと違う場所を探そうと思って、すぐに自習室近くのベンチが定位置になった。どうせ学校のどこへ行っても静かだったから。


 その日は夏休みに数日ある登校日のうちの一日だった。とはいっても午前中だけだったから、他の生徒はすぐいなくなるだろうと思っていたのに、何かしら理由を付けて──あるいはただ友人や教師と話すためだけに──残る生徒が想像以上に多かった。

 いつものベンチはそういったグループの一つに占拠されていて、僕は別の場所を探さなければならなくなって。だから、結局暑くて嫌になるとしても、屋上前へ行くだけ行ってみることにしたのだ。

 階段を上っていって、いつものスペースが見えてきた辺りで、そこに人がいることに気が付いた。思わず足を止めた僕に人影は気付いていないようで、ぴくりとも動かない。数秒眺めて、その人影がどうやら彼女であること、壁に寄りかかって寝ているらしいことを知る。

 少し考えて、そのまま階段の途中で座ることにした。少なくとも数歩先の屋上前に比べればそこは涼しかったし、下手に動いて彼女を起こすのも嫌だった。それが面倒だっただけなのか、親切心が含まれていたのかは自分でもわからない。

 昼食を食べ終えて、移動しようと立ち上がったら、後ろからガタンと物音がした。あ、と思わず零れたらしい声も聞こえて、振り向けば彼女が丸く開いた眼でこちらを見ていた。いつ起きたのかは分からないが、たぶん僕がいるから出ていけなかったのだろう。

 すみません、お邪魔しました。僕がそう言って頭を下げると、彼女は焦った様子で、いえ、と否定する。

 本来ここはあなたの場所なのに、勝手に使って本当にごめんなさい。そういったことを口にして、奇妙なほど深く頭を下げて、彼女はその姿勢のままぴたりと沈黙した。

 許されたがっているように見えた。それでいて、そう簡単には許されないと信じているようだった。そもそもこの場所は僕のものではないから、彼女は何も悪いことをしていないのに。

 自分が他人の怒りによって罰されることを、ひとかけらも疑っていないようだった。

 僕はそれを知っていた。その感情を知っていたけれど、その姿は──土下座じみたその姿だけは絶対に理解したくなかったから、吐きそうなくらい気持ち悪いと思って。

 だから咄嗟に、僕の場所じゃないです、と言った。必要以上にきっぱりと、ともすれば威圧的に聞こえる声音がそこに響いて、身勝手に耳を塞ぎたくなった。頭の中でぎち、と音がした。

 ここは単なる学校の敷地の一部分であり、本来誰が占拠できるものでもなく、それは僕も僕以外も何一つ変わるところはない。だから僕が誰かに咎められることはないし、同じくらい、誰が来ても僕には咎められない。だからここは僕の場所ではないと。

 そういったことを──恐らく、まくし立てたと思う。気持ち悪さ、怒りに任せて、座り込んだままの彼女へ──それでもそんな自分さえおぞましくて、極力抑え込んだつもりではあったけれど。本当のところは彼女しかわからない。

 それを、彼女は頷きながら聞いていた。やや不思議そうでありながらも、笑顔のまま。そうですね、ごめんなさい。そんな返事をして。

 聞く気がないのではなく、聞く機能が潰れてしまっているのだと、分かっていても腹が立った。だから最後にこう言った。

「好きに来ていいです。来てください。僕がいても、いなくても。あなたの自由──あなたの権利でしょう、それは」

 それでやっと、彼女は瞬きをした。相変わらず分かっていなさそうな、けれども少し笑顔が減った顔で「ありがとうございます」と言ったから、僕はすぐにその場を離れた。相変わらず自習室前のベンチには人がいたけれど、自習室に入ってしまえば音量は減ったし、彼女が喋っている姿の方がよっぽど不愉快だと思った。

 その日はいつもよりずっと家に帰るのが嫌だった。


 〇


 それから時々、彼女は屋上前に姿を現した。夏休みが終わり授業が再開して、なんなら始業日の翌日にはやって来たから、まさかと思って。

「……昨日、来てました?」

「あ、はい。すみません」

「別に好きに……していいと思います」

 好きにすればいい、と吐き捨てそうになったのをなんとか堪える。きっと一度でも攻撃したら、彼女はもう来なくなるか、あるいは完全な義務として訪れるようになる。それは想像したくもない未来だった。

 何度か二人でそこにいるうち、少しだけ会話をするようになった。僕は相変わらず机と椅子の塔に囲まれるようにいて、彼女はその数段下にやって来る。気を遣わなければならないとでも思ったのか、初めの頃は彼女がぽつぽつと話を振ってきて、まるで普通の人間のような雑談であるうちは彼女の過度な謝罪もなりを潜めていた。相変わらず人間の声は気持ち悪くて、彼女の声だって例外ではなかったけれど、それが相手を否定する理由にならないことくらいはわかっていたから、出来るときは短い言葉を返した。それでも笑い返すことだけは難しかった。

 僕が笑わないと分かってから、彼女も笑わなくなった。僕がろくに話さないと知ってから、彼女もあまり話を振らなくなった。その頃だったと思う。ふいに零れるようにして、彼女がぽつりと呟いた。

「わたし、こんなに人と話したの、初めてかもしれません」

 一番初めが敬語だったから、僕らのやり取りはずっと敬語のままだった。平坦な声音で、ぽつぽつと呟くように会話する。感情の起伏が薄いそれは、少なくとも不快ではなかった。

「……ううん、そんなことない。いつも友達と喋ってるのに……」

 ほとんど独り言みたいな言葉だから、僕はしばらく返事をしなかった。聞いていても、いなくてもいいし、喋っても喋らなくてもいい。屋上前はいつの間にかそういう世界になっていて、彼女はほとんど謝罪の言葉を使わなくなった。聞いていない人間に謝罪する必要はない。少なくとも彼女は呼吸をするために謝っているのだから、呼吸を制限する相手のいない空間では大して意味を成さない。

「……聞くのと話すのは違うから」

 僕がそう言うと、彼女は「ああ……」と呟いて動きを止めたようだった。自分で放った言葉を咀嚼し直して、たぶんそうだろうな、と思う。会話には話す人と聞く人がいて、その役割分担が偏ることはよくあることだから、彼女はいつも聞く人だったのだろう。

 こんなに、と彼女は言ったが、実際そう話しているわけでもない。むしろ一般的な会話に比べたら言葉はずっと少ないはずだ。それでも確かに、彼女はここでいくつかの話をした。きっと初めは義務感から、今は……どう思って話をしているのか、僕は知らないけれど。少なくとも自分の意思で、自分の思うことを言葉にして、僕はそれをそう拒むこともなく聞いていたから、真新しい感覚を抱いたのだろう。

 彼女は屋上前を去るとき、いつもぺこりと小さく頭を下げる。それを見送ってから僕も教室へ戻った。

 彼女がどんな人間だろうと、同じ空間に他人がいる煩わしさはずっとあった。昼になると嫌気が差したし、心から面倒だとも思った。けれど何度行くのを止めようと考えても、他に逃げ込める場所なんて僕にはなかったし、仮に違う場所にいる僕を彼女が見たら──どう思われるかなんて分かりきっていたから、僕は昼休みに屋上前へ通い続けるしかなかった。

 結局、優しさなんかじゃない。同情でも、共感でもない。ただ自由であれと彼女を呪い続けていただけ。それが自分に返ってくるわけでもないのに、そうしなければ自分が死んでしまうような気がしただけだった。


 学年が上がり三年生になって、僕は就職をするのだろうとぼんやり思って、そのための準備を始めた。母親と話す機会は少なくなっていたけれど、就職活動をすると伝えたら笑っていたから満足したのだろう。弟の声は聞こえなかった。はやくいなくなればいいな、と思って、どこかがぎちぎちと鳴った。

 就職活動は六月から。それ以降はきっと、屋上前へ行かない日が出てくるだろう。彼女に伝えることはひどく億劫で、どうして伝える必要があるのか、別にどうでもいいんじゃないかと散々思って、それでも結局、自分が救われるために話をした。以前と同じように、自分がいてもいなくても好きに来ていいと。彼女はただ静かに聞いていて、最後に微笑んで頭を下げた。

「わかりました。わざわざありがとうございます」

 表情が曇っているようには見えなかった。その日はそれで終わり。


 就職活動が始まって、ああ、無理かもしれない、とすぐに思った。自己PR、志望動機、美しい上辺の言葉で飾り立てた文章を読み上げようとして、自分の口から出た言葉を自分の耳で聞いて、気持ち悪くなって一度吐いた。それから文章そのものを上手く読めなくなって──目が上滑りして言葉の意味を汲み取れない──そらで言おうとしても頭に何も浮かばなくて、絶望より先に途方に暮れた。自分の内面がとっくにぐちゃぐちゃになっていることに、その時やっと気が付いた。

 そういえば、最近しばらく母親の言葉を聞いていなかったけれど、自分が聞き取れなくなっていたんだなぁ、と他人事みたいに思う。教師の講義は聞こえるが、時々聞き取れない部分がある。クラスメイトの会話は──どうだろう、聞こうとしたことがないからわからない。

 一度は面接に行ってみた。そこにいるすべての人間がこちらを値踏みする空間は耳鳴りがひどくて、質問が上手く聞こえなくて、真っ当な言葉さえろくに吐き出せないまま終わった。帰り道の足元を眺めながら、ぎちぎちとどこかで鳴り続けている音を聞く。これからどうするのか。どうしたら働き先を見つけられるのか。どうしたら真っ当な人間として生活できるのか。

 それ以前に、そうまでして生きていく理由があるのか。家に着くまで考えて、結局ひとつも思い当たらなくて、それでまた途方に暮れた。


 屋上前へは行かなくなった。行けなくなった。彼女の姿かたちを見ることができない。そこに座る彼女が、こちらを見てどんな反応をするにしても──今の自分はそれすら想像がつかなくて──どうしたって、今まで通りには接することができないだろうと思った。

 ぼんやりくすむ程度だった視界に痛々しい色が混じり出していた。ぎちぎちと人が鳴くたびに目玉を刺すような、色が、ばちりと鳴って。瞬きののちにそれは消え失せて、また色褪せた世界に戻る。彼女の顔も見えないかもしれないと思った。それは恐ろしいことのようで、同じくらい、その時こそ僕は心から安らげるのかもしれないと思う。何にせよ屋上前へ行くべきだという義務はほとんど僕の中から消え失せていた。


 停滞したまま夏休みになった。どうすればいいのか分からなかった。

 学校には足を運び続けて、就職活動に励んでいるふりをした。自習室で意味もなく大学受験の参考書を読んで、時々履歴書に向き合って、結局一文字も書けないまま一日を潰した。そのうち去年と同じ夏休み中の登校日が訪れて、彼女のことを思い出した。

 昼過ぎになって、相変わらず何か喋るためだけの人溜まりがそこかしこにある中、屋上前へ向かう。たった一年前、彼女はそこにいた。今日はいるだろうか。いない方が良かったけれど、いたらどうしようとも考えていなかった。どうでも良くなっていたのかもしれない。あるいは、何か──何かを求めていたのかもしれない。自分を救う何か。輪郭さえ想像できない救いの手。そんなものは存在しないのに。僕と同じくらい停滞したままの彼女に誰を救えるわけもなく、ふたりとも救いを待つ側だというのに。

 階段を上った先に、彼女は座っていた。去年とは違って起きていて、僕を見て、ほんのわずかに口元を微笑みの形にして会釈した。特に変わった様子はなかった。僕は彼女の姿をぼんやり眺めて、眺めて──。

「……あの?」

 声が聞こえたから瞬いた。僕は相変わらず階段の途中で立ち尽くして、彼女は僕を見つめていた。

「大──です─? どこか────いなら、────……今日は確か、先──いると思います」

 心配しているのだろう言葉が聞こえる。……聞こえる。全てではないけれど聞き取れて、彼女の顔は目に見えていた。返事もしないまま佇む僕に、彼女はいよいよその場から立ち上がった。体がひるむ。

 彼女は屋上前を離れて、階段を降りてくる。僕の方へ。耳鳴りがぎちぎちぎちぎちとわめき出す。逃げ出したくなって、どこにも逃げ出せやしないと知っていて、諦めて足音が近づくのを待った。

 彼女は僕の数歩向こうで立ち止まった。僕の顔を眺めて、色のない表情をしていたかと思うと、何かが解けたように優しく笑った。


「好きです」


 それを聞いた。

 聞いて、ぶつん、と途切れる音がして、それから何もかも聞こえなくなった。彼女はまだ同じ顔をして口を動かしていたけれど、何もわからなくて、耳鳴りはずっと煩くて、だから何も聞こえないんだということを伝えようとしたけれど、自分の声すらまともに出ているのかわからなかった。

 それでも何かが伝わったらしく、彼女の口は静かに閉じられた。それから踵を返して階段を上がっていって、屋上前のスペースに置いていたらしい通学鞄を取って戻ってきて、中からノートとシャーペンを取り出して書き始めた。僕はその手元に視線を落とす。

『聞こえませんか?』

 頷く。彼女が続きを書く。

『あなたが好きです』

 耳鳴りが酷くなって、顔が歪むのを自覚する。彼女が書く。

『いつも話を聞いてくれてありがとうございます。あなたに』

 ペンが止まる。待つ。

 続きが書かれる。

『助けられたことを、知ってくれたら嬉しいと思って。でも、ごめ』

 違う、と叫んだと思う。僕には聞こえなかったけれど、彼女の手はまた止まった。違う。そうじゃなくて、僕は、あなたの罪のうちの一つになんかなりたくなくて。少しでも息ができる場所にいてほしかった。誰かに、僕にも、縛られないところで生きてほしかった。そうすれば僕もそうなれる気がしたから。僕のことなんか、僕が死んでも、何一つ気にとめずにただ生きていてほしかったから、僕は。

 全部エゴだ。全部独りよがりの、自分が潰れてでもそうあれと呪った、おぞましい願望だ。そんなものを背負ってほしくなんかない、そんなことは望んでいやしない。

『でも、あなたの耳を壊してしまった』

 違う! 違う、だから、僕はどうせ、いずれこうなるはずだったのだから、あなたではなく、どうせ生きている人間の音は全部だめになっていたのだから、いまさら……何もかも聞こえなくなったところで、どうしようもない。元よりどうしようもなかったのだから。

 何もかもが嫌になって、口を閉じて、ずるずるとその場にうずくまる。耳を塞いでも一番大きな音は内側で鳴り続けていた。それでも塞がずにはいられなかった。彼女もしゃがんで、膝をついて、またノートを僕の前に差し出して、書いた。

『死んでいる人間なら、平気ですか』

 その文章は意味を読み取るのに時間がかかった。

 死んでいる人間。死体のある光景が蘇る。静かな火種、煙の匂い。念仏を唱える平坦な声。動かない人間。沈黙する人々。言葉の無い、どこまでも穏やかな空間。

 死んでいる人間なら、平気だろう。だって喋らないんだ。

『死んだ人間なら、寄り添ってもいいですか』

 読み取って、重たい頭を上げる。彼女は笑っていた。嬉しそうに、諦めたように、やわらかく眉尻を下げて。


 どうして?

『エゴです。あなたと同じ』

 そっか。

『いいですか?』

 うん。

『ありがとうございます』

 いえ、……いいえ。


 ありがとう、と口に出来たかはわからない。それでも彼女は目を細めて微笑んだ。


 〇


 卒業までには、必ず。彼女は僕にそう約束した。

 夏休みのあと学校が始まって、屋上前は僕一人だけになる日が増えた。

 就職活動は終わったと嘘をついた。教師にも、母親にも。担当の教師は深く追求してこなかった。母親は散々に聞いてきたけど言葉が分からなくて、濁しているうちに不信感が募ったのだろう、やがて声が鋭くなっていった。そんなに聞かれても、どうせ聞こえないのだから諦めてほしい。もうどうでもよくなっていたけれど、それでも母親の声は何よりひどい耳鳴りがしたから、ただでさえ見えない視界はもっとかすんでいった。

 屋上前にいても遠くでぎちぎちと何かが鳴っていた。彼女がいる日は少し和らいだけど、自分の呼吸の音はもう聞こえなかった。僕らはいつまでも話をせず、ただ二人でそこにいた。


 やがて夏が薄れて、気温は少しずつ下がっていく。半袖が長袖になる。緑が枯れていく。風が吹く音がするようになって、それも凍りついて、自分が息をしているのが目に見えるようになった頃。彼女は僕に一枚、ノートから破いたのだろう紙を差し出した。

 手書きの地図のようなもの。端にはその場所への行き方と、日時も書かれていた。

『ここに来てください』

 付箋にはその一言だけ。しばらく眺めて、彼女の顔を見た。いつも通りに微笑んでいた、と思う。

 示されたのは授業が全て終わった頃、2月の初め。何もかも食い潰していく鳴り止まない音を聞きながら、はじめて、生きていることが少しだけマシに思えた。


 それからは、長いのか短いのかよく分からない期間だった。冬休みはどう過ごしたか、よく覚えていない。どうでもいい日々だったのだろう。変わらず家には留まらないようにして、それだけ。あとはどうでもよかった。何も見ないまま、約束の輪郭だけを追っていた。


 〇


 その日は朝日が昇る前に、必要なものだけ持って家を出た。学生服が家にあると怪しまれかねないから、ボストンバッグに詰め込んで持ち出す。通学鞄は前日から学校に置いてきた。

 授業は全て終わって、就職が決まったと報告したのだから、僕が学校へ通う理由はもうなくなっている。母親はそれを知らない。学校もやるべきことが終わった生徒の動向まで丁寧に追ってはいない。だから今日一日程度なら、僕がどこへ行ったかなんて誰も気に留めないだろう。

 それが慰めになることはない。ほんの少しの逃げ道だからこそ、いずれ見つかる恐怖の方が大きくなる。だから、今日一日だけ。それで済むかどうかまで考えて、きっと彼女は場所を決めたのだろう。

 行き方のメモに従って電車に乗る。まだ暗く、大して人のいない車内で、座席に座って手書きの地図を眺める。僕は携帯を持っていないし、持っているはずの彼女もあまり使う様子はなかった。連絡先なんて知らない。知りたくなかった。今でも僕は彼女に、僕と関係のないところで自由に生きてほしいと思っていて、けれども彼女に差し出された約束はこうして手に握りしめている。

 何がしたいかなんて分からない。ずっと分からなかった。ただ嫌だと思って、それから逃げたくて、逃げられなくて、ずっと中途半端にどろどろと歩いている。ああだから、そういう意味では、彼女は僕よりずっと“したいこと”がはっきりしていたのだろう。

 献身。奉仕。服従。それしか知らない上で、そうすることを彼女は自分で選んだ。そうしたいと願う瞬間を、彼女はきっと見つけたのだ。僕に対して。僕に──よりにもよって僕に。

 怒りではなかった。失意でもない。ただ「どうして」と思う。そうしてその答えは既に返されていた。

『エゴです。あなたと同じ』

 だから何も言えない。それがどうしようもなく身勝手で醜い振る舞いであると自覚していてなお、そうせずにはいられない心のこと。誰に何を言われても、どんな正しさを突きつけられても、きっと泣いて喚き続ける心のうち。それが説得できないことなんて、僕たちはよく知っている。

 電車の車内は生暖かく、座席の下から熱風が吹き出してくる。過剰な熱が気持ち悪くて、でも立ち続けるほどの気力も湧かないから座ったままでいる。喋る人は誰もいないけれど、耳鳴りは絶えず付きまとっている。電車が揺れてぎちぎちと鳴る。

 無理やりに生かそうとしているみたいだ、と思う。本当は生きているべきでない温度を上塗りして、中にいるものを生かそうとする。生きているように見せている。本当は死ぬべきなのに。

 曽祖父との最後のお別れの時、その身体に触ったことを思い出した。無知だった自分には愕然とするほど冷たくて、その冷たさが気持ち悪くて、何よりも、まるで生きてるみたいに整えられたその姿を一番気持ち悪いと思ったこと。生き物でないものを生きているように整えて、本当を塗りつぶして偽装する。

 どうしてみんな、そうまで生かそうとするのだろう。生きていることを正常だとするのだろう。本当は死ぬべきかもしれないのに。生きてることは気持ち悪いのに。死んでいるものは、あんなに静かなのに。

 車内アナウンスはがさがさとしてよく聞こえない。少しずつ日が昇ってきて、光が突き刺さるようで、頭の中の騒音はひどくなっていく。そろそろだと思う時間に窓から駅の名前を見ていって、目的の場所で降りる。そのホームにいる人はまばらだったけれど、向かいのホームにはたくさんひしめいている。それでも車内よりはよっぽど静かだった。熱を塗りこめられた体がどんどん冷たくなって、本当の温度になっていく。吐く息にはまだ熱があって、気持ち悪いなと思った。はやく内側まで冷えきればいい。

 駅を出て、バス停の前で立ち止まる。数人がいる。誰も喋らないから静かだ。歩いている人間はそれなりにいて、ほとんどが駅に飲み込まれていく。見つからないように息をひそめて待つ。

 もう一人が僕の後ろに並んだくらいでバスが現れた。乗り込んで、一人席に座る。熱はこもっているけれど、やっぱり電車よりはマシだった。静かに息をして、その時を待つ。

 時折、ドアがぎちぎちと開閉する。人が歩く。アナウンスが響きわたる。床が揺れる。エンジンががなる。タイヤが道路をこする。全部に身を縮めて耐えた。この先に約束があった。それだけが確かにあった。それだけでよかった。

 目的地の名前が見えたから、小さくかたまった体をどうにか動かしてバスを降りた。山道の途中に、駐車場と、建物が一つ。中に人がいるだろうそれを眺めて、握った地図に目を落とす。それから、指示に従って誰もいない道を歩き出した。


 ずっと弱く風が吹いていて、耳鳴りはそれと混ざり合って、やがてきんと高い音になった。万が一にも地図が飛ばされないように強く握る。相変わらず自分の熱だけは気持ち悪かったけれど、冬山の風は痛いくらいに冷たくて、きっと内側まで冷やしてくれるだろうと思った。

 どれくらい歩いたかわからない。そんなに歩いていない気もするし、ずいぶん歩いた気もする。何にせよ示された通りの場所でそれは見つかった。褪せた色の小さなテントは今にも朽ちて崩れそうで、けれども木々に囲まれた狭いところに確かに置いてあった。近づいて、一つきりの入口をあける。

 内側から貼られていたガムテープが剥がれ落ちて、煙のにおいが頬をかすめた。瞬きしたまぶたの裏に、葬式の風景が見えたような気がしたけれど、すぐに消えて。そうして、彼女はそこにいた。

 足を伸ばせるほどのスペースがないからか、丸くなって、まるで単に眠っているような姿だった。表情は穏やかであどけなく、息をしていないだけのずいぶん綺麗な顔。それなのにテントの中にある彼女以外のものは妙に安っぽくて、なんだか笑いそうになる。横たわっている場所は薄い布が何枚か敷いてあるだけだった。テント内側にはいたるところにぺたぺたとガムテープが貼られている。彼女の隣には簡易的なコンロや着火剤があって、だから、それでこの状況を作ったのだろう。よくできたな、と思う。

 死んでいる彼女は本当に綺麗で、なんだかこれらに囲まれているのが納得できないような気持ちになって。ここから出してやりたいな、と腕を伸ばしたけれど、自分の内側にまだ熱があることを思い出してぱたりと落とした。こんなに静かで冷たいものが、自分のせいで溶けてしまったらどうしよう。きっと僕はいつまでも後悔する。

 ばたばたとテントが揺れる。さっきからずっと風が強い。それでも彼女を見ていたくて、けれど狭いテントに不用意に入ったら彼女に触れてしまうかもしれないから、僕はテントの外側に座り込んだまま動かなかった。そのうちに、視界に白い粒が入り込んでいることに気付く。

 周りに目を向けて、真っ白なかたまりがそこかしこに出来ているのを見る。風はごうごうと鳴って、上を見れば厚い雲がすっかり日を隠していた。彼女のテントにも次々に雪が入り込んでいて、このままだとすっかり埋もれてしまうだろう。

 そうしてふと、埋もれてしまえばいいのだと思いついた。そうすれば彼女はずっとこのままでいられる。きっとその方がいい。せっかく彼女がくれた綺麗なものを、ここに放置して台無しになったり誰かに見つかったりするよりはよっぽどいいに決まっている。

 いてもたってもいられなくて、覚悟を決めて彼女をテントから引き出した。凍った彼女はひどく硬く冷たくて、でも、これならきっと僕が少し触れた程度では溶けないだろうとほっとする。なんとか外に出してから抱えようとして、でも全然上手くいかなくて、自分の指先も凍りだしていることに気が付いた。うまく力が入らない。それに気付いてから全身の寒さまで自覚して、体がガタガタと震えだしてままならなくなって、くやしくて涙がにじむ。

 彼女に報いたかった。残してくれた美しいものを、彼女の献身の分まで大事にしたかった。それなのに上手くいかない。いつだって。僕はいつだって中途半端で、どこにも逃げることさえできなくて。

 濡れた部分はますます凍り付いていく。風がごうごうと唸って、雪が見る間に彼女を覆う。ほんの少し先も見えないまま、呻いて、なんとかしようともがけばもがくほど心と体がちぐはぐになっていくようで。ふと足を滑らせて彼女の横に倒れ込んだときにはもう、体を起こすことも出来なくなっていた。

 ぼんやりとかすむ視界に、彼女が映る。凍りついたしずかな顔。ゆるく握られた両手。右手を伸ばす。いつの間にか震えは止まっていた。目の前にある彼女の手を握ろうとして、やっぱり力は入らなくて、上に重ねるだけになる。何も感じないけれど、でも、そこに熱がないことだけは分かる。

 彼女はもうとっくに冷たくなっているのだ。そんなこと知っていたはずなのに、急にひどく悲しくなった。本当は、触れたとき一番に感じたことだった。

 冷たい温度が悲しかった。奇妙な柔らかさの皮膚が気持ち悪かった。それをいまさら思い出して、彼女がもう生きていないことを理解して、心臓が凍りつくようで、逃げた熱は目の奥から溢れてきた。

 悲しかった。ただずっと、どこまでも悲しくて、ひどい濁流が腹の中を掻き回すようで、そんな感覚が嬉しかった。彼女の死を悲しいと思えたことが、涙が出るほど嬉しくて。胸の内側が絞られて、顔が引きつって、あはは、なんて笑い声さえ出てきて、涙はその上を伝っていった。確かに悲しみだった。怒りでなく、諦めでもなく、絶望とはほど遠い、あたたかな心から生まれるさみしさだった。それが自分の中にもあったのだ。

 好きだと思えた。重ねた冷たさが愛しかった。自分は彼女のことを、彼女の死を、一人の人間として、なんのてらいもなく悲しんでいた。普通の人間みたいな、誰も傷つけない、誰にも傷つけられない感情が自分の中に確かにあるのだと、そんなことが最後まで嬉しくて。

 目を閉じる。体の端々はもう把握できなくて、痛いような、熱いような感覚がどこかにあって、冷たくて柔らかい彼女の手の記憶だけが右手にあった。

 ずっと寒くて、熱くて、彼女の手が冷たくて、気持ち悪くて、死んでしまったことに泣いて、嬉しくて笑って、彼女が愛しくて、寂しくて、何もかもどうしようもなくて、何もかもどうでもよくて。

 生きていた。生きていてほしかった。死んでしまおうと思って、笑った。


 幸せだと思った。きっと、生まれてはじめて。






『二度と春が来ませんように』


 いつまでも雪が溶けず、誰も僕らを見つけませんように。



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