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予想はしていたけれど、ツキさんは他の人には見えない。仕事用の軽自動車を借りる際に野崎先生に挨拶をしに行ったが、彼の姿は先生に認識されていなかった。
「この鉄の物体に乗るのか?」
初めて山を下りたというツキさんは、目にするものすべてに目を丸くしていた。
「はい。これは車です。これでぱぱっとご友人に会いに行っちゃいましょう!」
戸惑うツキさんを助手席に押し込み、シートベルトを代わりに装着してあげた。
「こんな窮屈なものを付けなきゃいけないのか?」
「これは交通ルールで決まってるんです。安全のために必要なんですよ」
「人間のルールだろ? 俺はお前以外には見えないんだから、外してもいいじゃないか」
「ダメです! ツキさんの安全のために、ちゃんと付けててください」
「安全って…うっ」
彼の言葉を待たずにアクセルを踏むと、その勢いでツキさんの体が前のめりになった。料理も片付けも苦手な私だけど、運転はそれ以上にド下手だ。免許を取って数年経つが、ハンドルを握ったのはほんの数回。つまりぴかぴかのペーパーゴールドということだ。
「おいおいおい」
不安定に揺れる車に、ツキさんの顔がどんどん青ざめていく。教えてもいないのに、彼は防衛本能でアシストグリップをがっちり握りしめていた。
「大丈夫です。安全運転でいきますから! あれ、ウインカーってどこだっけ。ここかな」
「なんか黒い棒が左右に動いてるぞ」
「あ、これワイパーでした。じゃ、これですね」
「今度は水が出てきた」
「あれ、おかしいな。こっちですかね?」
「前……前前前!」
結局、梁川市まで一時間で着くはずが、道を間違えてしまい二時間もかかってしまった。
「考えてみれば、私っていつも徒歩か電車移動なんです。今日も電車を使えばよかったですね……って、ツキさん大丈夫ですか?」
コインパーキングにようやく車を停めたが、降りた途端、ツキさんは真っ青な顔でしゃがみ込んでいた。
「……なんだか、胸がムカムカする」
「もしかしたら酔ってしまったのかも……」
「酔う? 酒も飲んでないのに?」
「不規則な加速や減速の反復を受け続けると脳が混乱して気分が悪くなるんです。たしか動揺病とも呼ばれています」
「もう、こんな危険なものには乗らん」
「すみません。帰りもこれに乗って帰ります」
「か、帰りもだと? うえ……」
精霊さんだったら大丈夫かもしれないと思っていたけれど、見た目だけではなく三半規管も人間と同じらしい。私は何度も謝りながらツキさんの背中を擦る。しばらくすると落ち着いたようで、私たちは気を取り直して目的地である高倉酒蔵を目指すことにした。
「ツキさん、ご友人に会うのって何年ぶりですか?」
「さっき言っただろ。平安京で別れたと」
「え、じゃあ、千年も会ってないんですか?」
「ああ」
私は思わずぽかんと口を開けた。精霊同士の交流がどんなものかは分からないけれど、てっきり何度かは会ってる関係だと思っていた。
「俺たちと人間の時間の感覚は違う。千年なんて、大した年月じゃない」
「そうかもしれないですけど、会いに行こうとは思わなかったんですか?」
「精霊は基本的に宿ってる樹木から離れられない。魂みたいなものだから、遠くへ行くと木に影響が出るんだ」
「えっ、い、今は大丈夫なんですか?」
まさかツキさんはその影響を承知で私に付いてきたんじゃないよね?
彼自身、枯れることを望んでるみたいだし、樹木になにかあっても気にしてないのかも……。
「誤解するな。俺は別に捨て身で来たわけじゃないぞ」
「……へ? 私、声に出てました?」
「出ていなくても顔でわかる」
「では、なぜ一緒に?」
「お前はなぜかエネルギーに満ちている。お前と行動を共にしていればおそらく影響は出ない。まあ、俺にエネルギーを少しずつ吸い取られて、お前自身に影響はあるかもしれないが」
「大丈夫です! 元気と体力には自信がありますから!」
大声で宣言をすると、ツキさんに鼻で笑われた。そうこうしてるうちに、高倉酒蔵の本店が見えてきた。下町情緒あふれる梁川市の景観に相応しい瓦屋根のお店だ。テレビや雑誌でも取り上げられているだけあって、観光客らしき人たちがたくさん出入りしている。
「私、ちょっと聞いてみますね」
ちょうど店先に高倉酒蔵のエプロンをした女性がいたので、声をかけでみた。
「すみません。お伺いしたいことがあるんですがよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです」
「こちらに千年杉はありますでしょうか?」
「はい?」
「あ、そ、そのですね、千年前にこちらのほうにスギが送られたという話を聞きまして」
女性店員にわかりやすくきょとんとされてしまった。
考えてみれば千年前の話を急に持ち出しても通じるはずがない。ツキさんを助けたいと意気込んで来たけれど、質問の仕方まで考えてなかった。どうしようと困っている私に気づいたのか、ひとりの男性が近づいてきた。
「あの、なにかありましたでしょうか?」
気の良さそうな雰囲気の男性は、私の声に応じた女性店員より少し若く見える。彼の腰巻エプロンに刺繍された【四十三代目】という文字が目に入り、私は思わずハッとした。
「もしかして高倉酒蔵の当主の方ですか?」
「ええ、そうです。お客様は……?」
今回の目的は仕事の依頼ではなく、個人的な用件だ。言葉だけで説明するには私の表現力が足りないとわかっていたので、使うまいと思っていた切り札を手に取った。
「実は、私、こういう者です」
身分証明書のために名刺を差し出した。
「双葉縁さん……樹木医、ですか?」
「はい。みどりの診療所というところで医者をしています」
「……その、今日はなんのご用件で?」
樹木医という職業があまり知られていないせいか、明らかに怪しまれている様子だったが、こういう反応には慣れている。
「単刀直入に言います。こちらの高倉酒蔵にあるスギを見せていただきたいんです」
「スギ……ですか?」
「千年ほど前にこちらで当主をされて方が苗木だったスギを持ち帰ったはずなんです」
「たしかにスギは初代当主が植えたと聞いております」
「そうですか! あの、場所は?」
「この店の裏手にある本家の庭です」
「差し支えなければ見せていただくことは可能性でしょうか?」
「……かまいませんが」
疑わしげな視線を向けられつつも、なんとかスギに会う許可を得られた。




