第六章:覚醒と全属性の胎動
旅から戻り、僕とアルベール教授は、いよいよ「覚醒の秘薬」の調合に取り掛かった。
場所は、再び学院地下の、アルベール教授の私的な研究室だ。
厳重な防音・防魔処理が施された、外部からは一切感知できない秘密の空間。ここが、僕の運命が大きく変わる場所となる。
調合は、想像以上に繊細で危険な作業だった。
集めてきた伝説級の希少な素材――月光苔、星涙石、陽溜まりの雫を、アルベール教授が解析した古代の文献に基づき、決められた手順で慎重に処理していく。
それぞれの素材が持つ魔力的な性質を最大限に引き出すための、複雑な触媒の生成プロセスだ。
「月光苔は魔力の安定、星涙石は魔力の浄化、そして陽溜まりの雫は魔力に特定の分解性質を付与する力があると言われている。これらを組み合わせ、君自身の魔力を加えることで、魔力瘤を溶かす特性を持つ溶液を作り出すのだ」
教授は、作業の一つ一つを丁寧に説明しながら進めてくれた。
僕は助手として、教授の指示に従い、薬草をすり潰したり、鉱石を特定の形状に加工したりした。
手元が少しでも狂えば、貴重な素材が無駄になるだけでなく、不安定な魔力を持つ素材が反応して危険な事態を招く可能性もあった。
僕たちは二人とも、極度の緊張感の中で作業を進めた。
全ての素材の処理が終わると、いよいよクライマックスだ。
精製された触媒溶液がフラスコの中で淡い光を放っている。
そこに、僕自身の魔力を、極めてゆっくりと、そして安定した状態で注ぎ込んでいく作業だ。
「レン君。ここが最も重要な工程だ。君の内なる魔力の奔流から、細く、しかし途切れることのない安定した流れを引き出すのだ。集中力を極限まで高めろ」
僕は目を閉じ、身体の奥底にある、荒れ狂う魔力の奔流に意識を集中した。
旅を通じて向上した魔力制御能力を、今、全て発揮する必要があった。
澱みを迂回し、あるいはその隙間から、細い糸を引くように魔力を表層へと導く。
そして、それを指先から、フラスコの中の溶液へと、慎重に、ゆっくりと注ぎ込んでいく。
少しでも魔力の制御を誤れば、溶液は不安定になり、暴発するか、あるいは全く効果のない、ただの液体になってしまう。
額には玉のような汗が滲み、全身が緊張と疲労で震えた。
内なる魔力の奔流は、僕の意識を嘲笑うかのように荒々しく渦巻いており、それを制御し、細い流れとして引き出すのは、全身の筋肉と精神力を使い果たすような苦痛を伴った。
「うぐっ…!」
歯を食いしばり、痛みに耐える。
しかし、止めるわけにはいかない。
これが失敗すれば、全てが終わる。
母が手配してくれた輝石も、アルベール教授との旅も、僕の『魔法科学』への希望も、全てが無に帰す。
数時間にも及ぶ、極限の集中と緊張の末。
ついに、フラスコの中の液体が、淡い虹色の輝きを放ち始めた。
それは、見たこともないほど美しい、神秘的な光だった。
「…成功だ、レン君。見事だ…! 君の魔力制御力は、儂の想像を遥かに超えていた」
アルベール教授が、安堵と、そして興奮を隠せない様子で言った。その声は、少し震えていた。
フラスコに残った秘薬は、小瓶にしてほんの数滴分だった。
それは、僕の、そしてアルベール教授の、文字通りの血と汗、そして希望の結晶だ。
僕は、教授に見守られながら、意を決してその虹色の液体が満たされた小瓶を手に取った。
覚醒の秘薬。
これを飲めば、僕の魔力瘤は解消されるかもしれない。
真の力が解放されるかもしれない。
しかし、同時に、制御不能な魔力が暴走し、僕自身が破滅する可能性もゼロではない。
「…覚悟は、できているか、レン君?」
教授が、真剣な眼差しで僕に問いかけた。
僕は深く頷いた。
このために、僕は努力してきたのだ。
このために、僕は家での蔑みに耐え、学院での嘲笑を無視してきたのだ。
「はい。やります」
僕は小瓶の蓋を開け、震えることなく、その虹色の液体を口に含んだ。
瞬間。
身体の内側から、灼けるような、溶けた鉄が駆け巡るかのような、凄まじい熱が込み上げてきた。
それは、今まで感じたことのない、想像を絶する激痛だった。
全身の血管が、神経が、骨髄が、全てが炎に焼かれているような苦痛。
視界が赤く明滅し、平衡感覚が失われ、立っていることもできず、僕はその場に膝から崩れ落ちた。
「う、うあああああああああああああああ!!」
堪えきれない叫び声が、研究室に響き渡った。
しかし、その声も、内側から響く轟音にかき消されそうになる。
(これが…僕の魔力…! 解き放たれる…!)
痛みと共に、今まで身体の中心部に澱み、僕を縛り付けていた魔力瘤が、バリバリと音を立てて砕け、溶けていく感覚があった。
それは、長年僕を塞いでいた分厚い壁が、内側からの圧力によって破壊されていくかのようだ。
そして、堰き止められていた巨大な川が、ついにその流れを取り戻したかのように、膨大な、形容しがたいほどの魔力が、僕の身体の中心から解き放たれ、全身を、細胞の隅々まで駆け巡り始めた。
それは、優しく流れる水ではなく、全てを押し流す激流だ。制御不能寸前の、あまりにも強大な力。
しかし、旅を通じて培った微かな魔力制御の技術と、前世の知識による論理的な思考が、本能的なパニックを抑え込んだ。
(流れを…意識する…分散させる…一点に集中させない…!)
身体を駆け巡る魔力を、意識的に、全身へと分散させる。
一つの場所に留まらせず、常に流動させる。
それは、巨大なエネルギーを制御する、前世で学んだ技術にも似ていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
数分か、数時間か、あるいはそれ以上か。
激痛が嘘のように引き、代わりに、身体の隅々まで力が満ち溢れてくるような、全能感にも似た感覚が広がっていた。
まるで、新しい身体になったかのようだ。
視界はクリアになり、周囲の音や、大気中の微細な魔力の流れまで、鮮明に感じ取れるようになった。
僕はゆっくりと立ち上がった。身体は軽い。
かつて僕を縛り付けていた重さも、澱みも、全て消え去っていた。
「…終わった、のか?」
呆然と呟く僕に、アルベール教授が頷いた。その顔は、安堵と、そして深い驚きに満ちていた。
「ああ…見事に、魔力瘤は解消されたようだ。そして…」
教授は、震える声で続けた。
「君の内に秘められていた力が…解放された」
「気分はどうだね? 身体のどこかに異常は?」
「…信じられないくらい、身体が軽い。それに…何でもできるような気がします。世界が、違って見えます…」
教授は、僕の言葉に頷き、次に促した。
「試しに、何か簡単な魔法を使ってみるといい。火でも、水でも、何でもいい。感覚で、力を引き出してみろ」
言われるがままに、僕は右手を前に突き出し、意識を集中させた。
ごく基本的な、火球の魔法。
以前は、どんなに頑張っても、指先から小さな火花を散らすのが精一杯だった。周囲からは、それでさえ嘲笑された。
しかし、今、僕が意識を向けただけで、手のひらの上に、それは現れた。
バスケットボールほどの大きさの、眩いばかりに燃え盛る炎の塊。
それは、以前の僕が生み出していた火花などとは比べ物にならない、圧倒的な熱量と輝きを放っていた。
それは、僕の意思に従って、静かに、しかし恐るべき力を持って揺らめいていた。熱い、しかし制御可能な力。
「…すごい」
思わず声が漏れた。
次に、水の魔法を試す。
意識を水に向けただけで、手のひらの上に、清らかな水の塊が現れた。
それは、意思に従って、自在に形を変えながら宙に浮かんだ。
水の球、鋭い槍、薄い膜…思い描いた通りの形になる。
さらに、風、土、雷、光、闇…思いつく限りの属性の魔法を試してみた。
その全てが、驚くほど簡単に、そして強力に発動した。
雷は空気を焦がし、光は暗闇を払い、闇は光を飲み込む。
大地は揺れ、風は唸りを上げた。
それぞれの属性の力が、僕の身体の中から、溢れんばかりに流れ出してくる。
「…これは…」
アルベール教授が、驚愕を通り越し、もはや畏敬の念すら含んだ声で呟いた。
「…全属性適性…! まさか…隠されていたのは、単なる膨大な魔力だけではなかったのか…これほどの、伝説級の才能が眠っていたとは…!」
全属性適性。
それは、あらゆる属性の魔法を自在に操ることができる、奇跡的な、伝説級の才能だ。
歴史上でも、その存在が確認されているのは、数えるほどしかいない、極めて稀有な能力。
アシュフィールド家は火属性の魔法を得意とする血筋で、僕も火属性に微かな適性がある程度だと思っていた。
しかし、僕の中に眠っていたのは、特定の属性だけでなく、全ての属性を操る力だったのだ。
「レン君、君は、とんでもない力を手に入れた。これは、祝福であると同時に、呪いにもなり得る」
教授は、興奮を抑え、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「この力は、あまりにも規格外だ。そして、あまりにも危険だ。もしこの事実が世間に知られれば、特に、君の家族に知られれば…」
学院長も、その場に現れた。
いつの間にか、彼は研究室の隅に立っていた。
「アルベール教授の言う通りだ、レン君。君のこの力は、学院の最高機密とする」
学院長は重々しく言った。
「君の魔力瘤の解消、そして全属性適性を持つこと。この事実は、我々三人の間だけに留める。表向き、君はこれまで通り、魔力の少ない劣等生として振る舞い続けるのだ。しかし、水面下では、アルベール教授の元で、この規格外の力を制御し、使いこなすための秘密の訓練を開始する」
僕は頷いた。
この力がどれほど危険なものか、理解できた。
家族に知られることの恐ろしさも、改めて痛感した。
出来損ないとして生きる方が、この力を世間に晒すより、今は遥かに安全だ。
こうして、僕の二重生活が始まった。
表の顔は、魔力無き劣等生。
裏の顔は、伝説級の全属性魔法使い。
アルベール教授の庇護の下、人知れず、その規格外の才能を磨き続ける日々が始まったのだ。




