第1章:自らの魂の支配者
17歳のアリアナ・デ・ラ・クルスにとって、はるか遠い聖地に暮らす叔父の帰りはいつも喜ばしいものだった。不撓の騎士団の騎士であるインドミタブル・ナイツとして聖地を守る叔父は、長年にわたる戦場での経験が、彼の姿勢に刻まれていたようだった。彼の身長は高く、肩幅も広く、顔には深いしわが刻まれていたが、その目はいつも強い光を宿していた。彼は常に正義のために戦い、不屈の精神を持っていた。周囲の人々からは敬意と尊敬を集め、彼の話す言葉は深い哲学的な意味を持っていた。
だが、今の叔父はまるで、死に神に取りつかれているようにみえる。従者に支えられながら城に迎えられた彼の顔は青白く、汗に湿っていた。息は荒く、苦しそうに呼吸していた。声をかけるのをためらうアリアナをよそに、彼女の両親がすぐに駆け寄る。数年ぶりの再会に、軽い抱擁の挨拶も早々に、彼らは客用の居室に移動し、そして彼女の目の前で扉が閉じられた。
大きな扉を見つめるアリアナに、隣に近づいた弟のルイスが声をかけた。
「大丈夫かな」
1つ年下のルイスは、目の高さが変わらない。アリアナに似ているはっきりとした目鼻立ちながら、表情は彼女よりも柔らかい。髪の色は姉と同じように鴉のように黒く艶やかだった。
「大丈夫に決まっている。叔父さんは前にも2回蘇った」
アリアナの言葉に、ルイスが小さく笑顔を作ろうとしたが、それほどうまくいかず、うつむいた。
声は聞こえないものの、扉の向こうで両親と叔父が話す気配が感じられる。何を話しているのだろう。叔父への心配とともに、心の中にもう一つの不安がじわじわと広がる。アルヴェリア王国の貴族にとって、聖地を守る不撓の騎士団への従軍は必ず果たされなければならない責務となる。叔父は、回復したとしてもその責を担うのは難しい。彼女にはハビエルと言う名の兄がいるが、彼は家を継ぐことになる。そうなれば、おそらくはルイスが遠い異国で危険な任務に就くことになるのだろう。
扉が開く音が、彼女の物思いを中断した。長い時間だったのか、短いのか、それもあまりはっきりしない。扉を開けたアリアナの母が、アリアナとルイスに中に入るように促した。
ベッドに横たわる叔父は、少し死の影が身を潜めたように見えた。それでも、両親と叔父の沈鬱な表情が、胸騒ぎをかきたてる。アリアナの父が、重々しく口を開いた。
「重大な知らせが二つある」
二つ?叔父の引退とルイスの従軍だろうか。少し疑問に思いながら、頷く。
「マヌエル・デ・ラ・ロサは不撓の騎士団を引退し、ルイスがその後を継ぐ」
横目でルイスを見ると、すでに覚悟していたのか、不安げな、それでも覚悟を決めたという表情でルイスが頷く。
「それから、アリアナ・デ・ラ・クルス。そなたはラモン家の当主マルコス・ラモンと結婚する」
「なっ…」
思いがけぬ言葉に、アリアナの体が揺れる。次いで、驚愕と憤りが彼女を襲った。彼女は突然押し付けられたこの婚約に反発し、拒否する気持ちを抑えきれなかった。
「い、嫌です。あの男は…」
彼女は顔を赤らめ、怒りと失望で満ちた目を父に向けた。
「アリアナ」
厳しい声でとがめられ、彼女はひるんだが、やるせない気持ちを抑えきれずにいた。
「父上と同じぐらいの歳で…それに私を「しつけが悪いメス犬」と呼んだ。どうしてそんな男と結婚しなければならないの?」
アリアナは父を睨みつけ、不満を口にしたが、彼女の言葉に対して父の表情は変わらなかった。
「そなたの義務だ」
「なぜ結婚?それが本当に」
アリアナは必死に訴えかけたが、父の表情は変わらず、母も黙ったままだった。アリアナは唇をかみしめ、自分の父母が自分をこんなにも簡単に切り捨てることに呆然としていた。
「アリアナ、マルコス家は王家に並ぶ家柄だ。それに、マルコス・ラモンは強い戦士でもある」
「彼が強いのは、敵ではなく身内にでしょう」
アリアナは皮肉交じりに言い放ち、立ち上がって部屋を出ようとした。
「アリアナ、待ちなさい」
父が強い口調で彼女を咎めたが、アリアナは振り返ることなく扉を閉め、泣き声を押し殺しながら自分の部屋に向かった。あまりにも突然のことに、彼女の心はまだ混乱していた。マルコス・ラモンは知っているし、話したこともあるが、自分が彼と結婚するなどと考えたこともなかった。それに、自分の将来を決める権利が自分にもあるはずだ。だが、父の言葉は彼女にはとても重かった。王国の貴族としての義務、そして、家族としての義務。アリアナは、自分が今後どうするべきか、深く考え込むことになった。
寝苦しい一夜を過ごし、迷ったアリアナは、叔父の部屋に向かった。両親には会いたくなかったが、自分の身に起きたことの理由を知りたかった。ベッドに横たわる叔父の顔色は、昨日よりはずいぶんと良くなっていた。まだ弱々しくはあったが、死の影は感じられない。老医とそれを手伝う女性が、入口に立つアリアナに非難の眼差しを向ける。
「ありがとう、大丈夫だ」
外してほしいというように叔父が小さく手を上げると、老医が少しためらった後、頷いて部屋を出る。女性がそれに続いた。
「叔父様…怪我はいかがですか?」
アリアナが尋ねると、深い皺が刻まれた口元が小さくほころんだ。
「全快とはいかないが…。家での暖かい寝床と食事が何よりの助けになる」
「ええ」
裏切られた気持ちのアリアナにとって、「家」という言葉は昨日までと同じように暖かいものではない。それは口にせず、あいまいに頷いた。
「浮かない顔だな」
「それは当然でしょう」
「そうだな」
「どうしても必要なんでしょうか、私の結婚が?」
叔父が、アリアナを真っすぐに見る。どこまで話すべきかを推し量っているように見えた。その目を真っすぐに見返す。
「…じきに大きな戦いが起きる。ラモン家との強い同盟が必要だ」
ラモン家はクルス家と同じく長年にわたってこの地方を治め、領土や財産、軍事力もクルス家とほぼ同等だ。当主のマルコス・ラモンは野心家で、隙あらば領土を拡大しようと狙っている。ラモン家の軍勢がクルス家の所領に侵入して挑発し、一触即発の危機に陥ったのもわずか5年前のことだ。必要、という言葉は理解できる。
「大きな戦いというのは?」
「知るべきことではない」
それ以上を尋ねても答えがないだろう。
「…貴族の娘などに生まれなければよかった」
大きくため息をついたアリアナに、叔父が問いかけた。
「農奴の娘は生まれたときからそう思っているだろう。夜明けに目覚め、家事や畑仕事、牛や羊の世話、育児をし、教育を受けず、結婚相手も自らで選べない」
「そう…かもしれませんが。それでは我々は皆、奴隷と同じではありませんか」
そう言いながら、幼いころから故郷から遠い聖地で騎士として戦っていた叔父も、あるいは同じように自らの人生を捧げていたという点で同じだったのかもしれないと思う。
「自らの魂を奴隷とするか、あるいはその支配者になるか。それは自分で選ぶことができる」
「自分で…?」
「義務を…逆境を友とすることだ」
「…」
完全にその言葉に納得できたわけではないが、自らに課された聖地を守る騎士団の一員としての義務を受け入れ、そこで名声を築いたのちも厳しい戒律を守り続けている叔父の生き様を思えば、わからなくもない。
「アリアナ、そういえば、遅くなったがこれを」
叔父が荷物を探り、一冊の本を差し出す。
「あっ…」
アリアナの顔に喜びの光が差す。
普通の書物よりは随分と小さいそれは、表紙にはここヴァルディア大陸で使用されるヴァルド語が使われている。だが、中に書かれた言葉は異なっていた。この大陸では見かけぬ流線形の美しい文字が並んでいる。ヴァルディア大陸の国々にとっては異教徒の国、そして不撓の騎士団にとって不俱戴天の仇ともいえるマンハーラ王国で使われる言葉だった。
「アル=ナジャト・アルの天文学と占星術に関する研究書…手に入れるのが大変だったでしょう。ありがとうございます、叔父様」
指でその文字を愛おしそうになぞるアリアナに、叔父が顔をほころばせた。
異教の書物を所持することは、当然ながら異端として審問を受ける可能性がある。戒律に厳しい叔父が、アリアナのこの異国の書物への情熱にはお目こぼしをしてくれるのが、ありがたくもあるが、少し不思議ではあった。だが、叔父はこれ以上の質問を受け入れる様子も見せなかった。
「気をつけなさい。最近は、ここアルヴェリアも異教への弾圧が強まっているそうだな」
「…はい」
その言葉に、アリアナの心はまた暗くなった。元来、ヴァルディア大陸の最西端に位置するアルヴェリアは、異教であるシルヴァリア教を奉ずる民と互いに尊重しながら共存して暮らしていた。だが、聖地奪還の宗教的情熱の高まりとともに、政治的、商業的な競合もあり、この地にも戦いが生まれ、多くのシルヴァリア教徒はこの地を離れた。その中にはアリアナの最も親しい友人も含まれていた。
肩を落としたアリアナを慰めるように、叔父がベッドから手を伸ばし、その腕に軽く触れた。
「だが、これが読めるとは…ルイスではなく、そなたがナイツになれればよかったのかもしれぬ」
「えっ?」
ナイツにとって、異教の文明に関心を持つことは異端に値するはずだ。叔父の言葉の意味を測りかねて、アリアナは首を傾げる。それに答えようとはせず、叔父が目を閉じた。
「少し、休ませてもらおう」
「はい…」
様々な感情を持て余したまま、アリアナは叔父の部屋を離れた。
二週間が過ぎた頃、アルヴェリアの城壁から、馬と馬車と共に数人の小集団が滑らかに出発した。マルコス・ラモンに嫁ぐアリアナと、聖地に向かうルイスと、その付き添い達だった。
馬車に乗って進む道中、アリアナは窓から外を眺めていた。目の前に広がる景色は、まるで絵画のように美しかった。草原や森林、小川や湖など、自然が織り成す美しい風景が続いていた。
時折、馬に乗って横に付き従うルイスが、目があうと微笑んだ。ルイスは鎧を身にまとい、背負う盾には不撓の騎士団の紋章が刻まれていた。前を見つめている時、ルイスの口数は少なく、表情も硬かった。元々、静かな性格ではあるが、彼が何かを負っているように感じられた。もちろん、一生を騎士団で聖地の守護と戦闘に身をささげることは大きな責務であることは間違いない。そしてもちろん、自分自身も大きな責務という点では変わりがない。マルコスという人物に対して嫌悪感を抱いていたことも大きな要因のひとつだったが、それ以上に、自分の人生が完全にコントロールされているような感覚があった。
道中、小さな町や村を通り過ぎ、宿泊したり食事をしたりしながら、二人は移動を続けた。ルイスとアリアナたちは、山道を進んでいた。空気は爽やかで、鳥たちのさえずりが心地よかった。しかし、突然、草むらから数人の男たちが飛び出してきた。
「お前たちは、金を持っているだろう?出せ!」
山賊の声が響き渡る中、アリアナたちは危機感を感じた。ルイスは急いでアリアナを守るために前に出たが、その瞬間、山賊の一人が手斧を振り下ろした。ルイスはかろうじてかわしたものの、手首に傷を負った。
「ルイス!」
アリアナが叫んだが、山賊たちはその声を無視して襲いかかってきた。ルイスは刀を抜き、護衛の男たちとともに、アリアナを守りながら戦った。しかし、山賊たちは数で勝っていた。
「アリアナ、逃げろ!」
ルイスが叫び、アリアナは山道を走った。その瞬間、別の山賊がアリアナに襲いかかってきた。ルイスは振り返り、慌てて助けようとしたが、遅かった。山賊の刃はアリアナの服を切り裂いた。腕に熱と痛みをもたらした。
「アリアナ!」
ルイスは叫び、刀を振り上げたが、数が多すぎて勝てる見込みはなかった。彼は激しく戦ったが、最後には深手を負い、倒れた。山賊たちは負傷者を残して逃げ去った。
「ルイス…」
アリアナはルイスの傷を見つめながら、涙を流した。彼女は彼を助けようとして、彼を支えるために腕を差し出した。しかし、その手は血まみれになっていた。
「アリ…アナ」
言葉とともに、あふれ出た血にルイスがせき込む。
「頼みが…これを本部に…」
さらに数語を呟くと、ルイスは息絶えた。
アリアナはルイスの亡骸を抱きしめたまま、体中を震わせていた。彼女は、ルイスがこの世を去ったという事実に耐えられなかった。涙が頬を伝い、彼女の声はかすれていた。
「ルイス、ルイス、どうして……どうして……」
彼女の体は震え続け、声は次第に大きくなっていった。
「どうしてこんなことが起こるの!」
そして、彼女は崩れ落ち、土の上にひれ伏した。彼女の悲しみは、世界中を覆い尽くすかのように感じられた。数分間、彼女はただ泣き叫び、絶望に打ちひしがれた。
「アリアナ様…」
彼女を引き戻したのは、ルイスの従卒だったアンドレアスの声だった。彼もまた土埃と血に汚れていたが、少なくとも致命傷を負ってはいないようだった。
「いつまた奴らがくるか…」
怯える少年の瞳がアリアナに思考を取り戻させる。周囲を見渡すと、生き残ったのはアンドレアスとアリアナだけのようだ。確かに、山賊が戻るかもわからない。そうなった時、自分を守るものはないのだ。そして、ルイスとの約束もあった。
「アンドレアス、ルイスの武具を私に」
「え…?」
「いいから」
アンドレアスの手助けで急いでルイスの鎧兜を身に着けると、旅に必要な最低限の荷物をまとめる。
「馬車にルイスを乗せて…火をつけてちょうだい」
「ですが…」
「早く」
戸惑った様子を見せつつ、アンドレアスが意外なほどの手際の良さで火を起こすと、ほどなくして馬車から火が上がる。
「ルイス様…」
アンドレアスが、右手を左肩に当て、目をつぶると小さく頭を下げる。故人の魂が安らかに天国に収まるようにという祈りだった。アリアナはそれに倣うと、小さく呟いた。
「ルイスじゃない…アリアナよ。この地で山賊に襲われて亡くなったのはアリアナ」
「ですが…」
「それがルイスの望みよ」
「ですが、婚姻は…」
「従妹のレナがいるわ」
自分が選ばれたのは、継承権と自尊心のためだろうと推測がつく。アリアナがいなくなれば、従妹のレナであってもあの男は喜んで結婚するだろう。世慣れたレナであれば、自分よりよほどうまく務めも果たせそうだ。
赤い炎がルイスの魂を慰めるように馬車を舐めていくのを眺めながら、アリアナは小さく呟いた。
「…私は、奴隷にはならない」
アンドレアが、彼女の横顔を不安げに見つめた。
ゲームオブスローンズ等の中世ファンタジーやテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団などが好きで作った架空中世戦記です。色々な登場人物を登場させたいと思います。