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二日酔いだ。
僕は深くため息をつきながら分厚いパソコンをにらみつけながらキーボードを叩く。1日のアルバイトの仕事の最初の仕事は勤怠の時間を記録することと、その日の目標を記入することである。見飽きた画面に「笑顔であいさつする」と打ち込んだ。同じことをおそらく百回は書いているだろう。アルバイトの僕が知ったことではない。
「おはようございます。」
夕方にも関わらずおはようと挨拶してきたのは後輩の松下くんだ。丸い眼鏡が特徴的で、体の線は細い。昨日夜中までゲームをしてきたのだろうか。三重のクマが目に垂れ下がっている。夕方におはようと言ったのは彼が徹夜でゲームをしていたことが理由ではなく、ここの職場では皆出勤する際はおはようと言うからだ。僕も例外ではない。
「うわ、もしかしてテルさん、お酒飲んできました?お酒の臭いしますよ」
「うそッ、違う、二日酔いだよ。そうか、お酒の臭いしてるのか、僕。」
思わず口を手で覆い、松下くんにパソコンを譲った。しかし、二日酔いで酒臭い状態でも、今日休むわけにはいかなかった。ナオさんは来週には街を出ると言っていた。それまでに百万円を手に入れた男を見つけ出さなくてはならないが、時間がない。松下くんに目をやると彼もまたため息をつきながら打刻を行なっている。ここの従業員ならば、最も憂鬱な時間であることは間違いない。ホールに出れば忙しさで休む暇もなくなる。
—松下くんではないかもな。
なんとなくそう思った。あくまでなんとなくである。
百万円当たったとき、人はどのような使い方をするのだろうか。百万円といっても、働くことをやめてしまえば生活費であっという間に消えてしまう。仕事を辞めることはないだろう。とはいえ僕らにとっては大金だ。簡単に稼げる額ではない。車を買うのだろうか。それとも新築に引っ越すのだろうか。はたまた、夜遊びに使うのだろうか。
そんな風に、欲まみれの妄想を仕事中にも繰り広げているに違いない。僕はそこを狙う。百万円をどう使うか考えて緩んでいる顔を探すのだ。
その点において、松下くんはあまりにも今日の出勤に絶望しているように見えた。人間観察をこれまで意識して行ってきたことはなかったが、意外とわかることもあるようだ。少なくとも松下くんは百万円当たったような表情ではなかった。
ホールに出ると、ちらほらお客さんは入っていた。良かった。今日はそんなに多くない。
僕が働いているのはフランチャイズの飲食店で、基本二十四時間営業である。僕のシフトは夕方から夜中までが多い。昼シフトの人と交代するとき客が多いと情報伝達などの余計な仕事が増える。
ホールに入ってすぐ、従業員全員の顔を舐めるように見た。ほとんどの人には目が合ってもすぐに目を逸らされたが、1人だけ話しかけてくる男がいた。
「おはよう。ってお前、」
男は眉間に皺を寄せてあからさまに嫌な顔をした。何かに気づいたようだ。彼はここのお店に二人いるバイトリーダーの一人で、シフトの管理などを請け負っている。僕ら普通のアルバイトよりいくらかは給料が良いらしいが、具体的な時給は聞いたことがないので分からない。
僕は彼のことをリーダーと呼んでいる。
僕はおはようございます。と短く言ってその場を去った。ホールは広い。今日はうまく立ち回ってリーダーには近づかないようにしよう。
僕がホールに入り始めてしばらく経ち、会計を済ませたテーブルの片付けをしている時だった。向かいの方からリーダーが歩いてきていることに気づいた。僕めがけて真っ直ぐ歩いてくる。目が合って、僕はすぐにテーブルに視線を落とした。
急いで皿をまとめて両腕に抱える。いつもより少し皿の量が多いが構わず厨房に歩き出した。リーダーと目が合わないよう地面を早足で歩き、厨房の入り口に差し掛かったときだった。
トイレから戻った客と正面からぶつかり、僕は勢いよく尻餅をついた。
両腕の皿が宙を舞う。
間もなく抱えていた皿は金切声のような音と共に一枚も残すことなく全て割れた。
皿の破片は他のお客さんがいるテーブルの足元まで飛び散り、加えて皿に残してあったハンバーグやサラダ、ソースも赤茶色の絨毯に散りばめられ言うまでもなく悲惨な現場となった。
小さな悲鳴の後、賑やかな店内は静まり返った。店内で流れる軽やかなピアノのBGMが遠くで聞こえる。
「お前何やってんだ!」
リーダーの怒鳴り声がした。気づくとリーダーは目の前にいた。
どけ!
と言われて服を引っ張られる。
僕はなすすべもなく厨房に逃げ込んだ。
皿が散らばった現場を半身で覗くと、リーダーが謝罪を連呼しながら皿を片付けていた。
「大丈夫ですか!なにがあったんですか!?」
丸眼鏡の松下くんが様子を見に飛んできた。
僕はごめん、とつぶやいて皿を拾うリーダーの背中を一瞥した。
目線を戻すと松下くんはもう厨房にはおらず、リーダーに声をかけていた。僕が手伝おうとすると、
「近づくな!奥にいってろ!」
とまた怒鳴られた。
しばらく厨房で突っ立っていると、鬼の形相でリーダーが近づいてきた。
「ちょっと、裏こい。」
胸ぐらをつかまれた。
はい、とつぶやきながら胸ぐらをつかむリーダーの手首を眺めた。
青い血管が浮き出ている。血管の側には、ミミズ腫れの跡が何本もあった。
出退勤で用いるパソコンがある、小さな事務所に連れてこられて、リーダーは僕をロッカーに突き飛ばした。
ロッカーに背中がぶつかり、痛くはなかったが、ぼこん、と大きな音がした。
「いいかげんにしてくださいよ、照文さん。」
いつもタメ口なのに、第一声はなぜか敬語だった。
津波の前に海水が引いていくような、そんな危機感を覚える。
「ここで何年働いてるの。あんなに盛大に皿を割るなんてどうかしてるよっ。それに、皿を割っても周りのお客さんに謝りもしないし、すぐに片付けもせずにぼうっとして。」
片付けをしようとしたら、リーダーに来るなと言われたので厨房に下がりました。
と反論すると火に油な気がしたので黙っておいた。
「なんだよその目は。お前分かってんのか?気づいてないと思ったか?お前、酒飲んできてるだろ。臭うんだよ!酒臭いの!それで仕事でミスして、クビになってもおかしくないけどねえ!」
酒のことは時間が経って忘れていた。
結局火に油なことには変わり無いようだ。
僕は二日酔いで、火には自動的にアルコールを注ぐことになっていたらしい。
僕は酒の臭いを指摘されて思わず呼吸を止めた。
リーダーは僕をクビにしてもいいと脅しているつもりだろうが、バイトリーダーにバイトをクビにする権限はないことを僕は知っている。
どうして俺がこんなこと、こんなことやりたくなかった、とリーダーはぶつぶつつぶやいている。
リーダーのバイト歴は僕よりも短い。
だが僕よりも仕事が出来るからリーダーをやっているし、バイト歴が長い僕にもタメ口で話す。しまいには僕に感情的になって怒っている。
驕り。
僕の頭の中をその言葉がよぎる。
彼はもしかしたら、リーダーという立場をもって、本来あるはずのない上下関係に驕っているのではないだろうか。今この状況に責任を感じているのも、バイト歴が自分よりも長い僕のことを事務所でマンツーマンで叱らざるを得ないことも、リーダー役としての呪いが、驕りが、リーダーを苦しめているのではないだろうか。
街を出る前に、酒を奢って欲しい。
ナオさんの言葉が、僕の中の何かと合致して、思わぬ言葉へと変えた。
「リーダー。もしかして、あなたですか。」
僕は今日初めてリーダーを正面から見た。賭けだった。話をそらすきっかけが欲しかったのだ。失敗すれば当然さらなる怒りが僕を襲うだろう。
「ナオさんに会いに行ってくれませんか。一杯、お酒を注いであげるだけでいいんです。今日の仕事の件は申し訳ありませんでした。とても反省しています。でも、それとこれとは話が違います。最近大きなお金が入りませんでしたか?」
僕は息継ぎなしで一気に話した。
カマをかけたのだ。
その間、普段は極力見ることを避けているリーダーの顔から目を逸らさずに話し続けた。
リーダーの眉は細く整っていて、肌の色は健康的に日焼けしていた。鼻筋は通っていて、いわゆるイケメンの部類に入るだろう。
その整った顔立ちが、わかりやすく歪んでいくのが分かった。始めは眉を吊り上げて、やがて日焼けした顔が真っ赤に染まり、唇をきゅっと結んで僕を睨みつけた。
「誰からきいた。」
予想外の返答だった。
ただ、僕が皿を割ったときより怒っているような気がする。
「ナオさんです。」
リーダーは手で顔を覆った。
それからしばらく黙り込んで、深く息を吸い込んだかと思うと、重たい足取りで事務所から出て行った。
リーダーは事務所から出ていく時、僕に聞こえるか聞こえないかの声量で、
「騙されてるぞ、お前。」
と言った。
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