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飲み屋街から少しはずれた所、人気のない路地裏にぼんやりと光る看板が見えた。段差が歩幅よりりんご一個分大きい階段を下っていくと、黒い観音扉が仁王立ちしていて、中心にはバーの店名が白文字の筆記体で書いてある。手元の携帯を覗くと、時刻は午前2時36分となっていた。

恐る恐る扉をあけると、カウンターに座るナオさんの後ろ姿が見えた。


「遅いぞテル、かけつけ一杯な」


ナオさんは振り返り、手に持っていたグラスを入り口の蛍光灯に反射させて光らせた。


「店の場所が地図に載ってなかったんですよ、こんなところよく知ってますね」


こんなところ、という表現をしてしまったことを、僕は言った直後に反省した。僕にはこういう、思考と言動を別々にできないところがある。カウンターに立っていた髭面のマスターはうつむいたままグラスを磨いている。よかった、聞こえてなかったのかな。僕は安心してカウンターに座った。


「お疲れ、テル。」


と言ってナオさんはウイスキーのショットグラスを滑らせてきた。僕はため息をついてウイスキーを一息に胃に入れた。


「久しぶりですね、ナオさん。」


「おう、元気してたか」


ナオさんは僕のバイト先の女の先輩で、半年前までアルバイトで一緒に働いていた。本名は坂下菜穂子。同僚は皆「ナオ」と呼んでいたので、僕も真似してナオさんと呼んでいた。当時はバイト終わりに2人でよく飲みに行っていて、安い居酒屋で朝まで飲んでフラフラで帰ることもしばしばだった。


「バーなんて、ナオさんも大人になったんですね。」


「私は何も変わってないよ。そう言うテルはどうなんだ?」


ナオさんは姿勢を低くして下から僕の顔を覗き込んだ。長いまつ毛が美しい。瞳はやや茶色がかっていて大きく、ふっくらと柔らかそうな唇には、真っ赤な口紅が塗ってある。


「テルと昔飲んでたことを思い出すよ。酔っ払って便器に頭突っ込んだ後、なんて言ったか覚えてる?」


きれいに整った顔面から吐き出される言葉は、たまに品がない。でも僕は、女性だから品行方正に振る舞うべきだとか、そのような考えは持っていない。だから今までナオさんに幻滅した経験はない。今でもナオさんと安酒で酔って暴れたことを思い出して笑うことができる。


「バナナのおかわり下さいって言ったんだよ、あれは腹抱えて笑ったね。」


ナオさんはこの鉄板エピソードを僕に会うたびに話す。この鉄板エピソードに対し毎回このように返す。


「最悪の思い出ですね。いや、覚えてないんですけど。」


このやりとりが僕は好きだ。僕は愉悦にひたりながら、髭面のマスターにレモンサワーを注文した。







楽しい時は過ぎ去り、とっくに陽が昇る時間になっていた。僕が財布を出そうとすると、ナオさんはいいと言って僕の腕に触れた。どうやら僕はお金を払う必要がないらしい。「奢る。」この状況のことをそう呼ぶのは今や当たり前のことだが、奇しくも「驕る」と音が同じである。金を多く払うことが威張ることなら、ナオさんは僕を屈服させたいと思っているのだろうか。


「すみません、ナオさん。」


「いいよ、今日は付き合ってもらったんだから。それに、後で頼み事もあるから、前払いだよ。」


その言葉に、僕は少し安心した。なぜなら、ナオさんは僕を屈服させるために金を払ったのではなく、何かしらの依頼の対価に金を払ったということになる。そこまで考えて、僕は自分が思考の泥沼に陥っていることに気がついた。酔っているんだ、きっと。

僕は会計中のナオさんを置いて店を出た。店に入るときは階段を降りてきたので、当然目の前には階段があった。僕は息を止めて階段を上った。僕には幼い頃から階段を上るときは呼吸を止める変な癖があった。何がきっかけなのかは分からない。なにせ物心がつく前の話だ。誰かから階段には恐ろしいおばけがいて、呼吸をすると吸い込んで悪霊に取り憑かれてしまうなどと吹き込まれたのだろうか。ともかく、気づいたころにはそうなっていたのである。中学校に入学したての頃は学校の階段で酸欠を起こして倒れたこともあった。それ以来階段の踊り場で息を整える技を覚え、階段を凌いでいる。

酔っているせいか、呼吸を止めているせいか、いや、恐らく両方だろう。頭がぼうとして視界がぐらつく。なんとか店前の階段を上りきり、呼吸を整えた。辺りはすっかり明るくなっている。


「大丈夫か?お酒弱くなってない?」


背中をさすりながらナオさんは僕の顔を覗き込む。そのときナオさんの黒くて大きな目と僕の目が合ってしまい、呼吸が止まりそうになった。咳き込みながら距離をとり、頼み事はなんですかと尋ねた。

あ、そうそう頼み事しないと。ナオさんは思い出したように笑顔になり、人差し指をピンと伸ばした。


「宝くじで、百万円を当てた男がいるらしい」


「えっ!だっ、誰なんですかっ」


「わからない、から、探して欲しい。噂で耳にした程度だけど…」


ナオさんは、噂で僕のバイト先、つまりナオさんの元バイト先のメンバーの中に宝くじが当たった男がいると聞いたらしい。

それで、話が変わって申し訳ないのだけど、とナオさんは前置きした。


「実は私、来週この街から出ることにしたんだ。」


「はっ!?来週?出るって、引っ越すってことですか!?」


僕はリアクション芸人みたいに連続で大声をあげた。久しぶりにナオさんと再会できたかと思ったら来週には街から出る?おまけに百万円当選男を探し出してくれ?どうなっているのか、僕の人生にはこれまでこんな想像を超える急展開がなかった。それゆえ思考がまとまらない。眠りたい。酸欠になって眠りたい。


「街を出る前に、百万円当たった奴に酒を奢って欲しくてさ。門出の祝いだよ。いや、門出なんかじゃなくても、百万円当たったなら、一晩の酒くらいもらってもいいと思わない?」


はい、と僕は答えることしかできず、それじゃあと言ってナオさんは消えていった。









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