後輩と図書委員 其の二
「先輩さん、なんなんですかあの女は」
放課後、珍しく後輩ちゃんが憤慨していた。静かにではあるが、だからこそ、その瞳に滲み出ている怒りの色が怖い。
金曜日。土曜日に最も近い日。大体の学生にとっては次の日が休みという理由だけで土曜日、日曜日に次いで愛される曜日だろう。七つある曜日の中で三位とかそこまで人気じゃねぇな。
とにかく、一週間続いた図書委員の当番もこれで終わりという日、普段は音もなく入ってくるのに、今日は扉を壊しかねない勢いで扉を開けて後輩ちゃんが入ってきたのだ。なんとも極端な。
いつもの物静かな彼女の様子とはかけ離れたその姿に、俺はキーボードを叩く手を止め、後輩ちゃんに向けて二、三度ほどぱちくりと瞬きをした。
「あの女って……後輩ちゃん、あのなぁ……」
恐らく夏未の事だろう。
後輩ちゃんは夏未のような見るからに陽キャって感じの人はあまり好きじゃないだろうし。というか思いっきり避けてたし。
けれどもまあ、夏未は多分後輩ちゃんが思っているような人ではない。ああ見えて良いやつ……ではないかもしれないが、少なくとも悪いやつじゃないし。
教室で一人でいるやつにもガンガン話しかけていくし。それでいて本当に一人を好んでいる人には必要以上の会話をしないし。俺のクラスの雰囲気が絶妙に良いのは、ほとんど夏未の功績と言えよう。俺が小説書いてるってクラスメイトたちに言いふらしたのだけは一生許さないけど。
「先輩さんに……男の人にあんなにベタベタして。なんですかあのクソビッチは」
「ただのクラスメイトだよ」
「……本当に?」
「ああ、あいつは大体誰にでもあんな感じだ。俺にだけ特別ベタベタしてるとか、そういうことはない」
「…………」
頬を膨らませ、後輩ちゃんは低く唸っている。
「……わかりました。信じます」
不服そうではあるものの、一応は納得したらしい後輩ちゃんはカウンターの椅子に腰かけた。
今週は新たな本の搬入があったので昨日まではそこそこ忙しかったがのだが、今日やるべき仕事もなく暇である。
というか元々図書委員の仕事なんて限られているのだ。
さして多くの人がやってくるわけでもないし、数名の貸出や返却の手続きをするだけ。
なので図書委員らしく、カウンターで適当な本を読んで、図書室の閉館まで時間を潰す。それがオーソドックスな図書委員だ。俺は持ち込んだパソコンで小説書いてるけど。
それから五分、あるいは十分ほどが経過したころ、からからと立て付けの悪い図書室の扉が開かれた。
その奥で茶色の髪の毛が揺れているのが見え、同時に隣で本を読んでいた後輩ちゃんが嫌そうに顔を歪めた。
「やっほ、文月」
夏未はニコニコ笑顔で手を振って、俺の方へと歩いてくる。
「帰れ」
「酷くない?」
「ここは本を読む場所だ」
「私だってたまには本読んだりするよ?」
「テスト前に教科書とかな」
「なんでわかったの!?」
「つい数日前に教室でまったく同じ話を誰かさんがしてただろ」
「盗み聞きとか超きもいんですけど~」
「なら盗めないような音量で話すんだな」
「うぐぐ……」
「さ、仕事の邪魔だからさっさと帰ってくれ」
「仕事って、そこで小説書いてるだけじゃん?」
「ここにいるのがもう仕事だ。何をしてるかは問わず」
「つまりただの暇人じゃないの?」
「お前には俺が暇に見えるのか?」
「指だけはめちゃくちゃ忙しそうだね」
夏未と話しながらも、俺はタイピングする手を緩めることはなかった。
「指だけじゃなく、頭も忙しいぞ。次の文章考えながらバカの相手をしてるんだからな」
「一発ぶん殴ったろかこの男」
「やれるものなら。その変わり、俺はどんな手を使ってでもお前の人生を破滅させるが」
かたん、とエンターキーを強めに押し、会話を打ち切る合図をした。
それを夏未はしっかりとくみ取ってくれたようで、ふん、と鼻を鳴らして後輩ちゃんに向き直った。
「栞ちゃん、何読んでるの~?」
というか、はじめから後輩ちゃんが目的で図書室に来ていたのだろう。新しいおもちゃを手に入れた子供みたいな笑顔だ。
「『クビ〇メロマンチスト』です」
「くびっ……」
夏未は少々体をのけぞらせて目を見開いた。自分から聞いたくせに。
「そいつ、意外とそういうの好きだからな」
後輩ちゃんは誇らしそうにこくこくと首を振って、ページを一つめくった。どうやら今良いところらしく、食い入るように文字を追っている。
「……人って見かけによらないんだね」
「お前は見たまんまだもんな」
「どういう意味だ?」
「アホって意味だ」
「あ゛?」
強めに頭を叩かれた。痛い。
「頭はやめてくれ。お前みたいになったら困る」
「次は本気でいこうか?」
「これで本気じゃないとか、さてはお前の前世はゴリラだな?」
「ならあんたは……怠け者?」
「今もばりばり活動中なんだが?」
「でも基本机の前から動かないじゃん」
「読書も執筆も勉強も全部机で終わるからな」
「たまには運動しないとさらにもやしになるんじゃない?」
「何言ってんだ、もやし最高だろ。おいしいし栄養価高いし」
「金持ちが貧乏人みたいなこと言ってる……」
「すべての貧乏人に土下座してこい」
「二人とも、静かにしてください」
睨みあう俺と夏未の間に、後輩ちゃんが割って入ってきた。頬をぷっくり膨れさせ、不満顔で。読書の邪魔をしてしまったのが、相当頭にきたのだろう。
「悪い、もう終わりにする。という訳でさっさと帰れ」
そんなに読書が良いところだったのかと思いながら、俺は夏未に向けて追い返すように手をひらひらさせた。
「ま、今日のところはこれくらいにしてやりますかな」
夏未はそういたずらっぽく笑うと、軽快な足取りで扉の向こうへと消えていった。
ふーっと息を吐きだし、椅子に背中を預ける。
テンションの無駄に高いやつを相手にするのは疲れるな……。てか何しに来たんだあいつ……。
首を一度ぐるりと回し、俺は再びパソコンを覗き込んだ。
差し込む斜陽の色に染まった図書室には、人がちらほら。
教室で友人と無駄話をしたあとに真面目に勉強しにくる人や部活で使う資料を探しに来た人、あるいは行き場のないぼっちが漫画を読みに来ていたり。もちろん、受験勉強に使う人だっている。
基本的にはみんな一人でやってくるので、ページを繰る心地の良い音が図書室の中を占めていた。
「先輩さん、時間」
隣でちょうど一冊読み終わったらしい後輩ちゃんが、くいくいと制服を引っ張ってきた。
左腕につけた腕時計をみると、二つの針が南を指して重なっていた。
七時には下校せよとの校則があるため、その三十分前には図書室を閉める準備をしなければならないのだ。
「図書室閉めるんで、貸出したい本がある人は並んでくださーい」
普段出さないような、図書室中に響き渡る大声で叫ぶと、それぞれの世界から戻ってきた人たちが一斉に顔を上げた。
五人いたうちの四人は読んでいた本を棚に戻しにいって、うち一人がカウンターに近づいてくる。俺は図書室の備品の方のパソコンにつながれたコードを辿り、バーコードリーダーを手に取り、貸出の準備を始めた。
「これ、お願いします」
この人はよく図書室に通ってくれている三年生――橘先輩だ。去年は図書委員をしていて、俺が図書委員に入って右も左も分からない時期には。今年は受験生だからという理由で委員会には入らなかったものの、ほぼ毎日図書室に来ているので、後輩ちゃんとも知り合いなのだ。未だに上手く貸出もできない後輩ちゃんのことを気にかけてくれていて、たまに練習を手伝ってくれたりもしてくれている。
「あの、先輩さん」
差し出された本にバーコードリーダーを近づけようとすると、後輩ちゃんが腕を掴んできた。
「私に、やらしてください」
後輩ちゃんは真剣な瞳で、俺を見つめてくる。
時間が押しているわけでもないし、断る理由も特には見当たらなかった。なにより、本人がやりたがっている。
バーコードリーダーを手渡すと、後輩ちゃんはごくりと喉を鳴らし、首に汗を伝わせた。
ゆっくりと、一歩一歩、後輩ちゃんは本に近づいていく。いつもよりも一歩だけ前に出て、細く白い腕が伸びていく。
俺は固唾を呑んだ。
――ぴっ。
機械音が耳に届くと同時に、ふっと肩の力が抜けていく。
パソコンには貸出が完了された旨のメッセージが表示され、後輩ちゃんはそれを見てもまだ信じられないようで、「えっ、えっ」と言いながら少しづつ後ろに下がってくる。
俺が後輩ちゃんの肩に手を置くと、ようやくこれが現実だと気づいたようで、俺を見て僅かに瞳を潤ませた。
「せ、先輩さ……」
その瞳に、この二ヶ月間の苦労が鮮明に思い出される。
初めての図書委員の当番の日、何もできず固まってしまったこと。出会って一か月ほど経ち、ようやく俺ともまともに会話ができるようになってきて、この三十分間で必死に練習したこと。何度も失敗し、当たり前が当たり前にできないことに苦悩し、その度に前を向いたこと。
その全てが一直線に並び、こうして一度だけでも、成功したこと。
嬉しくないはずがなかった。それを間近で見てきた俺も ですら泣きそうになるのに、当事者である後輩ちゃんがぽろぽろと涙をこぼすのも、無理もないだろう。
「頑張ったな」
俺が後輩ちゃんの頭を撫でると、後輩ちゃんはさらに顔をくしゃくしゃに歪めて、俺の胸に押し当てた。
これまでの後輩ちゃんを知っている常連さんたちが、おめでとうと言い残し、図書室を去っていく。それがさらに涙腺を緩ませたようで、後輩ちゃんはしばらく俺から離れなかった。
十分ほどが経過したころ、ようやく涙は止まり、、後輩ちゃんは顔をあげた。
「先輩さん、ありがとうございました」
そして俺に頭を下げた。
「俺は特に何もしてないだろ。全部、君が頑張ったからだ」
「でも、先輩さんがいなかったら多分、頑張ることすらしなかったと思います」
後輩ちゃんは顔をあげ、熱のこもった目で俺を見た。
「……そっか」
それを否定したくなくて、肯定の言葉がでてしまう。
強い子だ、と思う。
二ヶ月前は誰かと関わることすら怖かったくせに。自分の意見を言うことすらままならなかったはずなのに。一人でいるのに誰かの助けなしでは何もできない程に弱かったはずなのに。
それが、こんなにも真っ直ぐな目をするようになるなんて。
しばらく見つめ合って、とたんにそれが恥ずかしくなって目を逸らす。
「俺たちも帰ろうか」
「……ですね」
図書室の電気を消し、鍵をかけた。
鍵を返しにいき、昇降口へと向かう。
完全下校時間近い下駄箱には俺たち以外の姿はなく、長い影が伸びた。
夏にぐっと近づいた湿り気を含んだ空気を一口吸って、俺は切り出す。
「そうだ、後輩ちゃん」
できるだけ緊張を隠して、続けた。
「明日デートしない?」