風の妖精
昔々、妖精と人間が一緒に住んでいた頃のお話です。
その頃の人間には自然の中で遊ぶ妖精達が見えていましたし、会話をすることも出来ました。
しかし人間の手に因って自然が汚されていくにつれ、妖精達は人間達と親しくすることを止めてしまったのです。
大地に住んでいた妖精達は大地の神様にお願いして、地の底に妖精の国を作ってもらいました。
同じように、海に住んでいた妖精達は海の底に、火山に住んでいた妖精達は火口の奥にと、人間の手が届かない世界に隠れてしまったのです。
そして世界を自由に飛び回っていた妖精達は、人間の目に見えないように姿を消してもらいました。
今私達が妖精の存在を感じる事が出来るのは、本当にごく僅かです。
慌てん坊の妖精が落とし物をした時に咲く季節外れの花や、悪戯好きの妖精に脅かされた動物の突然の鳴き声。そんな些細な気配でしか妖精達を知ることが出来なくなってしまったのです。
でもそんな妖精達の中にも人間に友好的な一族もいるのです。
例えば風の妖精達。
花と一緒にダンスを踊っている所を見たことはない?
凍り付くような寒い朝、太陽の光と戯れている所を見たことはない?
見たことが無いからってがっかりすることはありません。そんな人の為に一つ秘密を教えてあげましょう。
紅茶をいれた時に薫りに誘われて風の妖精はやって来ます。
紅茶の中にレモンの雫を一滴落として、紅茶の色が変われば妖精が来てくれた証拠。
でも、どうして風の妖精達は人間にその存在を知らせてくれるのか不思議に思うでしょう?
それは、昔々一人の人間の女の子が風の妖精に生まれ変わったことがきっかけなのです。
それは今から何千年も前のことでした。
その頃は今のように交通や通信が発達していませんでしたから、大きな統治国とは別に小さな自治国が沢山ありました。
まだ国と国との国境もしっかり定まっていなかったこともあり、人々は自由に国を行き来していたのです。
ですが、地理的に特殊な場所、例えば険しい山の上や、大きな川の向こうでは人々が自由に行き来することが難しかった為に、次第にその国独自の文化や風習が出来上がっていきました。
これからお話する国もそう言った場所の一つです。
ノトスの島と呼ばれているゼンヌ島にはいつも南から暖かい風が吹いていました。
夏はもちろん暑いのですが冬も暖かく過ごすことが出来たので、ノトスに愛されている島と、周りの国の人々はゼンヌ島の族長を羨ましく思っていました。
ノトスとは南風の神様の名前です。
冬の寒さを知らないゼンヌ島には花々が咲き乱れ、冬でも農作物の収穫が出来ましたので、族長の家はとても裕福でした。
族長の家には男の子は六人もましたが、女の子はたった一人だけでした。
女の子が生まれてから一年もしないうちに奥様が亡くなられたものですから、族長のアランは娘のカリンをとても大切に育てたのです。
カリンが十五歳の誕生日を迎えてから何日か経った日のことです。
今までは日が高いうちに家に帰るように言われていましたが、誕生日のお祝いと一緒に夕暮れまで外にいてもいいとアランに言われたものですから、カリンはいつもより遠くまで散歩にでかけていました。
夕暮れにはまだ時間があったので、部屋に飾る紫色の花を摘みに、西の岩場と呼ばれている大きな岩のある小高い丘へと足を運びました。
なだらかな坂道を登っていると、ふいに南風が止んだのです。
不思議に思っていると、丘の上の方から微かな歌声が聞こえてきました。
その歌声はバラのつぼみが開花する時のような甘い香りと、優しい気持ちをカリンにもたらしてくれました。
カリンはその歌声の主を知りたくて、息がきれるのも構わずに坂道を駆け登って行きました。
歌声の主は大きな岩の上に座り、金色の髪を風になびかせていました。
南風は止んでいるというのに、その人の周りにだけは風が吹いているのです。
その不思議な情景に目を奪われていたカリンは足元の草に隠れていた石につまずいて大きく転んでしまいました。
「きゃっ」
カリンの口から小さな悲鳴が漏れました。
その声を聞き、岩の上の人が歌を止めカリンへと視線を移したことで、カリンは漸くその人の顔を見ることが出来ました。
その人はまだ年若い青年で、瞳は髪と同様に、太陽の光のように金色に輝いていました。
いつまでも蹲ったままでいるカリンを見て、青年は岩の上に立ち上りました。
カリンが危ない!と思った瞬間、青年は大きな岩の上から飛び降りたのです。
高さが二階家の屋根ほどもある岩ですから、カリンはとても慌てました。
でも次の瞬間、もっとびっくりすることが起きたのです。
ばさっ、という大きな羽音と共に青年の背中に真っ白な羽が生えたではありませんか。
青年はゆっくりと降りて来ると、カリンに手を差し伸べて助け起こしてくれました。
青年の金色の髪を揺らしている風が優しくカリンの頬をかすめます。その風はとても心地良く、カリンに安らぎを与えてくれました。
この時、十五歳になったばかりのカリンはこの青年に恋をしてしまったのです。
カリンは助け起こしてもらったお礼の言葉も忘れ、ただ呆然と青年を見詰めることしか出来ませんでした。
どれ程そうして居たのか、不意に南風が吹き始めました。
顔を巡らしたカリンの視界の隅に海に沈んで行く夕日が入ったことで、カリンは家へ帰らなければならないことを思い出したのです。
それはほんの一瞬でしかなかった筈なのに、名前を聞こうと視線を戻した時には、青年の姿は何処にも見当たりませんでした。
カリンはその日以来すっかり変わってしまいました。
毎日西の岩場へと出かけて行き、花を摘むこともせずに、一日中空を見上げてばかりいるのです。
雨の日でさえ、アランが止めるのも構わずに出かけて行きました。
心配になったアランは北の山の麓に住んでいるおばばの元を訪れて、カリンがどうして毎日西の岩場で空ばかり見ているのかを占ってもらうことにしました。
おばばは村一番の物知りの占師でした。そればかりか魔法を使って妖精達と話をすることも出来たのです。
その為村の人達はおばばに頼んで、妖精達から病気の直る方法や、農作物の出来具合を聞き出して貰ったりしていました。
おばばの家を訪ねたアランは占いの部屋へと通されました。
薄暗い部屋の中央に大きな織物が敷かれています。その織物には色々な線や文字が模様として織り込まれてありました。
おばばはその中央に座り、色とりどりの小石を転がして占いを始めました。
「カリンは恋をしておるね」
おばばの言葉にアランは耳を疑いました。
カリンが空ばかり見て過ごしているのは、悪い妖精が彼女に取り憑いた為だと思っていたからです。
「では毎日西の岩場へ行くのは何故なのだ」 アランの言葉におばばは、ふーっと長い溜め息を吐きました。
薄暗い部屋の中で吐かれた溜め息は、なお一層部屋の空気を暗く重たいものに変えてしまいます。
おばばは小さな水晶玉を、手元の魔法陣の上へと転がしました。
「愛しい方が来られるのを待っておるのじゃろう」
「何と申した!カリンはただ待つ為だけに毎日出かけておると言うのか!」
アランはカリンが何日もの間、来るとも知れない人を待ち続けていたことを知り、悲しくなりました。
「相手は誰じゃ!カリンが毎日待たなくとも儂が連れて参ろうぞ」
アランの言葉におばばは首を横に振りました。
「娘の願いは決して叶わぬ。例え其方がどれ程力を尽くしたとしてもな」
「おばば、それでは答えになっておらぬ。相手は誰なのだ。隣国の御子息とでも申すか」
例え隣国の王子であったとしても、アランはカリンの為ならばあらゆる手段を用いて、王子をこの島に招いたことでしょう。
おばばはゆっくりと立ち上り、部屋の隅に置かれてある古びた机へと向かいました。そして引出しから神々の言葉が書かれている魔法の書を取り出すと、パラパラとページをめくり始めました。
魔法の書には沢山の細かい文字が記されてあります。しかしこの文字を読めるのは妖精達だけで、人間が読もうとすると文字は形を変えてしまうのです。
おばばは妖精に頼んで文字を読めるようにしてもらいました。
「ここを見てみなされ」
おばばに手招きされて、アランが魔法の書を覗き込むと、そこには大きな羽を背中に生やした青年が描かれてありました。
「娘の意中の方は人にあらず。西風の神、ゼピュロス様じゃ」
アランは言葉に詰まりました。相手が神だとは思いも寄らなかったからです。
「人と神とが結ばれるのは、人が神の寵愛を受けたときのみ。人の思いは神には届かぬ」
アランは意気消沈しておばばの家を後にしました。
おばばの所から戻ったアランは、パーティーを開いたり、お祭りに連れ出したりと、カリンの気持ちをゼピュロスから遠去けようとしたのですが、カリンの思いが色褪せることはありませんでした。
もしかしたら今日こそはあの方に会えるのではないかと、期待に顔を輝かせて西の岩場へと出かけて行き、そして今日も会えなかったと、悲しい顔をして家に帰って来るのでした。
心に憂いのあるカリンは日毎にやつれて行きました。ですが、誰もカリンの心を癒すことは出来ないのです。
季節が二つ程巡り、ゼントの島は遅い冬を迎えようとしていました。
しかし既にアランの館では冬の訪れより寒く、暗い空気が漂っていました。
愛娘のカリンが寝込んでしまったからです。
男ばかりの家族にとってカリンは一輪の可憐な花でした。その花が力無く横たわってしまった為、兄弟達は勿論、館に使える者達も悲しみに沈んでいました。
カリンは当初、日毎に食欲が落ち、栄養が不足した為に少し動くと直ぐに疲れてしまうようになりました。それが次第にひどくなり、今では一人で起き上がれない程衰弱しきってしまったのです。
カリンの替わりに侍女が西の岩場へ行き、夕暮れまでゼピュロスの姿を探す毎日を送っていました。
そんな娘の行為を見兼ねたアランは、占師のおばばを館へ招き、少しでもカリンの憂いを取り除いてやって欲しいと頼みました。
館へとやって来たおばばは変わり果てたカリンの姿に心を痛めました。
カリンに想い人は西風の神であることを告げ、風の神は人とは一緒に暮らせないのだと言って聞かせたのですが、カリンは涙するばかりなのでした。
おばばはせめてカリンの気持ちをゼピュロスに伝えてあげようと、愛を司る神エロースに西風の神への伝言を頼んだのでした。
神に祈りを捧げて一月が経ったある夜のこと、眠っているカリンの元へエロースが訪れました。
金色の髪に淡いブルーの瞳の青年は、手短かにカリンに自己紹介をすると、悲しい知らせを告げました。
それはゼピュロスは風の神。人間のカリンとは一緒に旅をすることは出来ないというものでした。
「私の想いは届かなかったのですね」
カリンはつぶやくとそっと目を伏せました。その目の縁には薄らと涙が光って見えます。
「ゼピュロスは其方の気持ちを喜んでいたよ。しかし彼のことを好いているのは其方だけではない。彼とて全ての者の気持ちに応えることは出来ぬのだ。解ってやって欲しい」
エロースはそう告げた後、優しい言葉でカリンを慰めました。しかし彼がいくら優しく慰めてもカリンの悲しみが癒されることはなかったのです。
ゼピュロス様に想いが通じるようにと祈り続けたというのに、せめてもう一度だけでも逢いたいと思い続けて来たというのに…。
「私の元へはお顔すら見せてはくださらないのですね」
そう言ってカリンはとうとう泣き出してしまいました。
「ゼピュロスは西風を司る者。南風が支配するこの地に留まることは出来ないのだ」
「ですが以前あの方はこの地にいらっしゃいました。それなのに何故今は来てくださらないのでしょう」
勝手な言い分だとは思いましたが、カリンはどうしても言葉を止めることが出来ませんでした。
「あの日ゼピュロスは北風のボレアースからノトスへの伝言を頼まれていたのだ。それだからこそノトスはゼピュロスをこの島へと迎え入れた。理由も無く風が向きを変えることは無いのだよ」
エロースの言葉通り、あの日以来いくら待ち続けても南風は止まず、ゼピュロスが現れることもありませんでした。
「それでも、せめてあの方の口から答えを聞きとうございました」
「其方の想いには応えられぬと、もう一度彼の優しき者に言わせたいのか」
エロースの言葉にカリンは胸を痛めました。
「例え想いは届かなくとも、せめてもう一度あの方とお会いしたいのです」
カリンの強い願いにエロースは胸を打たれました。そしてもう一度ゼピュロスに会わせてあげようと思ったのです。
「これから三月と八日後、夕刻に風の流れが変わる。その時にまだ其方の想いが変わっておらねば部屋の窓にオリーブの枝を差すが良い。私はゼピュロスを伴って西の岩場を訪れよう」
エロースの言葉にカリンは喜びの声を上げました。
「本当でございますか」
「約束しよう。だから其方もそれまでに元気になると約束しておくれ」
「はい」
カリンの瞳は未だ涙に濡れていましたが、口元には漸く笑みが戻って来ました。
それを見てエロースは安心し、蝋燭の灯りの瞬きにも似た光を残して消えて行きました。
カリンはエロースとの約束を守る為、少しづつですが食事の量を増やし、起き上がる練習もするようになりました。
カリンの変貌にアランは不信を抱き、一体何があったのかを問いただしたところ、カリンはエロースと交わした約束のことをアランに教えました。
ゼピュロスにもう一度会えること、それまでに元気になること。そう言ったことをアランに話したのです。
エロースはここで大いなる誤算が生じてしまったことに気付いていませんでした。
エロースはカリンの言葉を信じ、ただゼピュロスに会わせてあげたいと思い、再会の約束をしたのです。
しかしもう会えないと悲しんでいたカリンは、もう一度会える喜びに、今度は想いが通じるのではないかと、増々ゼピュロスへの恋心を募らせてしまったのでした。
カリンはどうしたら想いが通じるのかを知りたくて、占師のおばばの元へ使いを送りました。
いくら元気になろうと思ったところで直ぐに元気になれる筈も無く、まだカリンの足で北の山の麓へ行ける程には回復していなかったからです。
健気に努力しているにも拘わらず、やはりカリンの恋占いは悲しい結果になりました。
しかし元気になろうと努力しているカリンに、悲しい結果を伝えることがどうして出来ましょう。ましてやおばばはカリンの名付け親でもあったのですから。
子供の頃から可愛がっていたカリンの願いを叶えてあげようと、おばばはやってはいけないと妖精に止められていた黒い魔法を使ってしまいました。
黒い魔法を使う時、使った者は代償を支払わなければなりません。
おばばは自分の両足と引き換えに、地底に棲むドワーフに頼み“何でも切れる剣”を作って貰いました。
【この剣で神の背の翼を切り落とせば、彼は神の力を使うこと能はず、ましてやこの地より飛び立つこと能はず】
両足を失ってしまったおばばは剣と一緒に手紙をアランの元へと送りました。
愛しい娘を悲しみに沈めたことでアランはゼピュロスを憎んでいたものですから、剣を手に入れた今、何としてもゼピュロスの翼を切り落とそうと奸計を巡らせました。
そしてあろうことか、恋する娘心を利用してカリンを唆したのです。
「この剣で翼を切り落とせばゼピュロスは人間になる。そうすれば地上でお前と一緒に住むことが出来るのだ」
カリンは父の言葉に心を動かされました。
この剣を使えば愛しい人に会えない悲しみから解放されるのです。
それにこれはおばばが届けてくれた剣です。
カリンは翼を切り落とせばゼピュロスと二人、幸せになれると占いに出たのであろうと思い込んでしまいました。
カリンは約束の日までに軽やかに歩けるように、あらゆる努力をしました。軽やかに歩けなくとも輿に乗ったりせず、せめて自分一人の足でゼピュロスの元まで行きたいと思い、懸命に歩く練習をしたのです。
痩せ細ってしまった身体が少しでも女性らしい膨らみを持って見えるように、新しい服を作って貰ったり、痩せこけた頬が痛々しく見えないよう笑顔をつくる練習もしました。
二年以上に渡りゼピュロスを待ち続けたカリンにとって、三月と八日はほんの一時のように過ぎて行きました。
何も知らないエロースはカリンの部屋の窓に飾られているオリーブの枝を見て、約束通りゼピュロスを伴ってゼント島の西の岩場へとやって来ました。
『ゼピュロスに想いを告げ、もしも断られたのならば思い出に羽を一本欲し、隙を見て剣で翼を切り落とすように』
アランにそう含められていたカリンは言われた通りの行動に移しました。
「ゼピュロス様、どうか私の気持ちに応えてくださいませ」
ゼピュロスは小さく首を横に振りました。
「私は人間の一族よりも風の一族を愛しているのだ。其方の想いには応えられぬ」
エロースは傍らでカリンに何と声を掛けようかと考えていました。
約束通り元気を取り戻し、今日の為に愛らしく着飾ったカリンが一層哀れに思えました。
どんな言葉を以ってしても彼女を慰めることが出来ないのは解っていましたが、それでも何か言葉を掛けてあげたいと思ったのです。
泣き出して仕舞うのではないかというエロースの心配をよそに、カリンは「せめてもの思い出に貴方の羽を一本私にお与えくださいませ」とゼピュロスに告げたのでした。
「羽一本で心が休まるのならば…」
そう言ってゼピュロスは羽を抜きやすいようにとカリンに背を向けました。
その瞬間、カリンはショールの下に隠し持っていた剣を引き抜くと、ゼピュロスの翼めがけて振り降ろしたのです。
「やめろ!」
エロースの叫び声に振り返ったゼピュロスの頬に、生暖かい血飛沫が降り掛かりました。
なんとゼピュロスを庇った為に、カリンの振り降ろした剣はエロースの肩を切り裂いてしまったのです。
しくじったという思いよりも先に、恐怖がカリンの心を支配しました。自分の手に握られている剣が斧のように重く感じられ剣を落としてしまいそうでしたが、硬直した指から剣は離れてくれず、それが一層カリンに恐怖を与えていました。
「何故剣がゼピュロスに届かなかったのか教えよう」
自分のした行為の恐ろしさに震えているカリンにエロースは優しく声を掛けました。
「ドワーフの作った剣は切るべき相手を間違えたりはしないのだよ。呪われるべきは我が身。愛を司りながら侭ならぬ故に人を苦しめてしまう力の無い私にこそ、剣が向けられるべきなのだ」
言いながらエロースはカリンの手から剣を抜き取り、大地に横たえました。
その剣の上にポタポタとエロースの血が滴り落ちます。
エロースの言葉によりカリンが何をしようとしたのかゼピュロスにも漸く解りました。
羽が一本欲しいと言いながら、実は翼を切り落とそうとしたということに対し、ゼピュロスが怒りと蔑みの目を向けると、その冷たい視線に耐えられず、カリンはその場から逃げ出してしまいました。
「やめて!そんな目で私を見ないで!」
その時です。
ザザッと木々が唸る音がしたかと思うと、漁で使われる大きな投網がゼピュロスとエロースに向けて投げられたのです。
カリンが失敗した時に備え、アランは屈強な男達を辺りに潜ませていたのでした。
網の先に付けられてあるおもりがドス、ドスと重い音を立てて地面にめりこんでいきます。
その音に振り返ったカリンの目に、捕らえられた二人の姿が映りました。
「済まぬゼピュロス。私が愚かなばかりに、君をこのような目に遭わせてしまった」
二人の周りを数人の男達が取り囲みました。
「エロース、あなたはこんな状況に於ても、人に怒りを覚える前に私のことを気遣ってくれるのだね」
人間達の仕打ちに対して怒りを顕わにしていたゼピュロスの顔から、険しさが薄れていきました。
「何てことをするの!これは一体どういう事なの!」
慌てて二人を助け出そうとするカリンを男達が止めました。
「娘よ、愛は暴力では満たされぬぞ。心の無い者を側に置いたとて、それは人形と変わらぬ」
左半身、血塗れのエロースが告げました。
カリンはいやいやをするように首を振りました。決して暴力でゼピュロスの愛を受けようなどとは思っていなかったからです。
出血によりふらついたエロースをゼピュロスは抱き竦めるように抱えました。
その為エロースの血が、ゼピュロスの白い翼に赤い染みを広げて行きます。
「私の翼を切り取ったとて、私はお前のものにはならぬ」
カリンはゼピュロスの口から—愛しい者の口から—辛い言葉を浴びせられました。
《ちがう!そんなつもりじゃない!》
心が締め付けられるように苦しくなり、カリンは思いを言葉にすることが出来なくなってしまいました。
「娘よ、お前の呪いは既に成就された。これ以上心を闇の者へ渡してはならぬ」
エロースの言葉に、カリンは涙を流しました。
《ゼピュロス様の翼を赤く染める程、血を流しているというのに、そしてその血を流す傷を負わせたのは、私であるというのに…》
それは自分の犯した罪を悔いる涙でもあり、罪を犯した自分を気遣うエロースの心に感謝しての涙でもありました。
ですが島の男達は二人の言葉をカリンを非難する言葉として受け取ったのです。
「お嬢様の心がどれほど辛いか、解ったような口をきくな!」
男の鞭がゼピュロスの翼に打ち降ろされました。
「やめて!」
カリンが悲鳴のような叫び声を上げ、男の手を止めます。
「痛むか?エロース」
「この程度の傷で、私は倒れぬ」
エロースの言葉に軽く頷くと、網を纏ったまま、ゼピュロスはエロースを抱き上げ、大きく翼を広げました。
それだけの動作で風が舞い、おもりの付けられた網をものともせず、ゼピュロスは空へと上がって行きました。
軽く体を反転させると、網は他易く男達の上へと落ちて行きます。
下からうろたえる叫び声が幾つも聞こえて来ました。
ゼピュロスはゆっくりと舞い降り、エロースを大地に横たえると、男達と一緒に網の下へと潜ってしまったカリンの元へと向かいました。
「解って欲しい。私は風を司る者。風は一箇所に留まる訳にはいかぬのだ」
ゼピュロスは出会った時と同じように、カリンに手を差し伸べて助け起こしてあげました。
男達が網の下で、もがきながら訴えます。
「お嬢さん、今、そいつ等を逃がしたら、一生捕まえられませんぜ」
男の一人が、先程エロースが大地に置いた剣を網の隙間から投げつけました。
「避けろゼピュロス!」
それを見て取ったエロースは咄嗟に声を上げましたが、今度はゼピュロスを庇うには距離がありすぎました。
立ち上がった時には、娘の悲鳴を聞いていたのです。
カリンが抱きつくようにゼピュロスにしがみついていました。
あろうことか、剣はカリンの背中から胸へと突き抜けていたのです。
エロースは左肩を庇おうともせず、カリンの側へと急ぎました。
がっくりと膝を折ったカリンをゼピュロスは抱えるように支えました。
ゼピュロスの胸から腹にかけて、痛々しい赤い液体の這った痕が付いています。それは正しく自分の腕の中にいるカリンの流した血の軌跡でした。
ゼピュロスの表情には苦悩の色が浮かんでいます。
翼で風を起こせば、難なくかわせた剣だったのです。ですが、ゼピュロスの動作より一瞬早くカリンが身を乗り出した為、風を起こせばカリン諸共吹き飛ばしてしまう躊躇いが、ゼピュロスの判断を鈍らせたのでした。
ゼピュロスはカリンの身体から剣を抜き取り、身体を横にしてあげました。
この日の為にあつらえた真新しい服が無残にも破け、胸から流れ出る血でみるみる赤く染まって行きました。
血の染みは服だけでなく、カリンの周りで咲いている小さな花の色までも変えてしまう程広がって行ったのでした。
カリンの元へとやって来たエロースは言葉を失ってしまいました。
カリンはまだ十七歳なのです。悲しい恋を経験してしまいましたが、これから沢山の人と出会い、新しい恋を実らせることも出来た筈なのです。
「大地に棲む精霊達よ。私に力を貸しておくれ!」
無駄とは知りつつもエロースは叫ばずにはいられませんでした。
両手を大地に押し当て、有りったけの声で女神の名を呼び続けました。
大地の女神は寛容です。
祈りを捧げれば、死に向かう者の命を繋ぎ止め、回復する時間を与えてくださるのです。
ですが、カリンの命の炎は既に繋ぎ止めておける程強くはないことは誰の目にも明らかでした。
病に伏せっていた時が長かった為に、心の臓を貫いた傷を塞げる程の力をカリンは有していないのです。
それでもエロースは祈りました。精霊達の力を借りて、直接大地の女神に呼びかけました。
しかし幾ら祈りを捧げても叶えられないことはあるのです。
女神はカリンの血によって染まった花の命を吸い取ると、それをカリンに与えました。
それが女神に出来る精一杯の思いやりだったのでしょう。
カリンは僅かに与えられた力で、その瞳を開きました。
真摯な瞳で自分を見詰めているゼピュロスとエロースがカリンの瞳に映し出されます。
「これで良いのです。呪われるべきは、我が身。ドワーフの力は、それを送るべき相手を、間違えたりはしない。そうでしたよね」
小さな声でカリンが問いました。
「そうだ」とエロースが答えます。
「この剣を愚かな人間が持つと、ろくなことはありませんわ。命まで、断ち切ってしまうのだもの」
カリンはそう言って薄く笑いました。
ゼピュロスの手の中で、本来の目的とは違う使われ方をした剣が鈍く光っています。
「エロース様、どうかあなたが、この剣を持っていてください。…あなたならば、怒りや、愚かな考えを持って、この剣を、使うことは、無いでしょうから…」
「承知」
エロースは片膝を地面に着け、右の拳を心臓の上へと当てがい、神聖なる誓いの姿勢を取りました。
「ここに居るゼピュロスが証人だ」そう付け加えます。
「ゼピュロス、さま、愚かな私を、…許して、ください」
喋り続けたことで、カリンに残された体力が、急速に失われて行きました。
ゼピュロスは答える替わりに、翼を軽く広げて安らぎの風を贈りました。
カリンの胸に、初めてゼピュロスを見た時の、安らかな、暖かい気持ちが膨れ上がりました。
少しでも長くゼピュロスの姿を見続けていたいカリンの心に逆らって、視界が涙で霞んでいきます。
霞んだ視界が急速に明るさを失い、最早愛しい人は影でしかありません。
それでも、この言葉だけは言わなければ…。
「…ありが、と、う」
そう言い残してカリンは息を引き取ったのです。
ゆっくりとゼピュロスが立ち上り、剣をアランの方へと翳しました。
少し離れた岩影からアランは事の成り行きを震えながら見守っていました。
怒りと、畏怖と、娘を失った悲しみとが、彼に呼吸以外の動作を忘れさせていたのです。
網の下でもがいていた男達も、動きを止めています。
ゼピュロス以外の誰もが風景の一部のように凝っとしていました。
ゼピュロスはアランの元へと歩み寄るとマントを掴み、剣に付いている血を拭い取るのと同時に、スパッ、と切り裂きました。
ゼピュロスの一挙手一投足が風を生むのです。
切り裂かれたマントは風に煽られ、ばさばさと大きな音を立て、空へと持ち上げられました。
ゼピュロスは血の付いた部分を掴み取ると、布切れをアランに手渡しました。
「あなたの娘の血だ」
しかし、放心しているアランの手から布は落ち、夜を告げるノトスの風に吹かれ、海の彼方へと飛ばされて行ってしまいました。
「エロース、立てるか?」
先程から、膝を着いたままのエロースに声を掛け、ゼピュロスは手を差し出しました。
今はの際に娘が願った想いを、エロースは大地の女神に伝えていたのです。
《もしも、生まれ変われるのならば、ゼピュロス様、あなたと同じ風の一族に…》
エロースはカリンの涙を拭い、両手を胸の上で組んであげました。
ゆっくりと立ち上がったエロースに、ゼピュロスは血を拭った剣を差し出しました。
受け取ったエロースは「我が名に掛けて封印しよう」そう言うと、剣を天へと翳した後、左手で弧を描きながら大地の底へと溶かしました。
二人は、大地に血の染みをつくっているカリンを見遣った後、お互い何も言わず、ゼントの島を去って行ったのです。
あの忌まわしい出来事があってから一年が過ぎました。
季節は春。
西の岩場はカリンの魂を鎮める為に、一年間立ち入りを禁止されていたのですが、喪が明けた今日、カリンの弔いの儀を兼ねて人々に解放されました。
そこで人々は不思議な光景を目にしたのです。
西の岩場では紫や白の花が多く咲くのですが、今年の春は真っ赤な花が大岩を取り囲むように咲いていました。
そしてその小さな花達はノトスの風では無く、別の風と戯れてでもいるかのように、思い思いの方向に揺れていたのです。
この島では不慮の死を遂げた者の魂は己の死んだ場所に留まり、黄泉の国にいけなくなってしまうと信じられていたものですから、人々はカリンの魂が未だこの場所に留まっているのだと口々に噂しました。
そう言った者の魂はそこを訪れた人に災いをもたらすこともあるのです。
「カリンはここで刺し殺されたと聞いたぞ」
一人が不吉な言葉を口にした途端、周りから様々な不安を煽る言葉が飛び交いました。
「刺された傷から流れ出た血で大地が真っ赤に染まったそうだ」
「きっとあの花はカリンの血を吸ったのだ」
人々の不安はどんどん募ります。
そこへアランが迎えに出した輿に乗り、占師のおばばがやって来ました。
人々はおばばにカリンの魂を鎮めて欲しいと頼みました。
「恐れる事はない。カリンの血は花になり、カリンの魂は風になったのじゃ」
「ではあの花が風に揺れているのは、カリンの魂と会話しているということなのか」
おばばの言葉にアランは感慨深げに聞き返しました。
「さよう。ドワーフの剣によってカリンは人間の命を断ち切られ、風の一族として生まれ変わったのじゃ」
おばばの言葉を聞くなり、アランは赤い花の元へと駆け寄りました。
不安が拭い切れていない者達から制止の声が掛かりましたが、今のアランには何を言っても無駄でした。
「カリン!カリン!」
必死に娘の名前を叫びます。
ですが、いくら名を呼んだところで風の一族となったカリンの姿は見えませんでした。
過去、心に邪な考えを抱いた者に妖精の姿が見える筈もありません。
泣き崩れたアランに人々は掛ける言葉を失いました。居た溜まれずに一人二人と西の岩場を離れて行きます。
「おばば、カリンは今、幸せか?西風の神に会えないと言って泣いてはいまいか?」
ひとしきり涙を流した後、アランはおばばに尋ねました。
「安心おし。風の一族は仲間を全て友と見なしておる。カリンは未だ生まれたばかりの小さな風じゃが、いつかは神と一緒に旅をすることも出来よう」
おばばの言葉にアランは漸く顔を上げました。しかし風に戯れている赤い花の側を離れようとしません。
おばばは娘を失った父親を哀れんで、風の妖精になったカリンに語りかけました。
言葉とも音楽ともとれる不思議な呪文をおばばが口にする度に、小さな赤い花が揺れます。
暫くの間、花とおばばとの不思議な会話が続きました。
「カリンが好きだった飲物は何かね」
おばばの問いにカリンの侍女だった娘が「紅茶でございます」と答えました。
また暫くおばばと花の会話が続きます。
「カリンの好きだったお菓子は何かね」
「レモンのシロップ漬けがお好きでした」
おばばの問いに侍女は少し考えた後、そう答えました。
カリンがレモンのシロップ漬けを乗せて焼いたケーキや、メレンゲにレモンのシロップ漬けを細かく切って混ぜたものなどを美味しそうに食べていたことを思い出し、侍女の目には涙が浮かびます。
「それではこの先紅茶をいれる際、カリンの分も注いであげなされ。その時にレモンのシロップ漬けを一片紅茶に浮かべておあげなさい。さすればカリンの姿は見えずとも、気配を感じることは出来ようぞ」
カリンの魂を鎮める儀式はなし崩しに終わりました。集まった内の半数もの人が帰ってしまったからです。
アランは参列してくれた人々に感謝の言葉をかけると、ひっそりと屋敷へと帰って行きました。
その日の午後、おばばの言葉を実行に移すべく、アランは侍女にカリンの為の紅茶をいれるように言いつけました。
風が通りやすいようにと部屋の窓を全て開け、カリンがいつも使っていたカップに紅茶を注ぎ、おばばに言われた通りレモンのシロップ漬けを浮かべました。
するとどうでしょう。
紅茶の色が濃い赤茶色から明るい赤茶色へと変わったではありませんか。
その場に居た誰もがカリンが館へ戻って来てくれたことを喜びました。
カリンは大変愛らしい娘でしたから、カリンに逢いたいと思っている者はアランだけではありませんでした。
この事は瞬く間に人々に知れ渡り、ゼンヌの島の人々は誰もが紅茶にレモンのシロップ漬けを入れるようになってしまったのです。
カリンは人々の気持ちを知って喜びましたが、とても一人で全ての人の元を訪れることは出来ません。
カリンが困っていると、風の妖精達がやって来てこう提案してくれました。
「あなたの替わりに私が挨拶して来てあげましょう」
妖精達は口々に言いました。
「でも、替わりの方が行かれたら、私に会いたがっている人達を欺くことにはなりませんか?」
カリンがそう言うと風の妖精達はころころと可愛らしい声で笑いました。
「あなたは人に何かを贈る時、全ての人に手渡ししていたの?」
もちろん全ての人にそんなことは出来ません。遠くに離れている人にはカリンの替わりに使いの者がプレゼントを渡しに行きましたし、手紙を送る時も人に頼んでいたのですから。
カリンは小さな声で「いいえ」と答えました。
「あなたの気持ちを替わりの者が届けたとしても、それは人を欺いたことにはならないでしょう?」
妖精達は優しく問いかけます。
「でも、皆様に迷惑は掛けられません」
「迷惑?」
カリンの言葉に妖精達は顔を見合わせました。
「あなたはまだ生まれたばかりだから解らないでしょうけれど、私たち風の一族は友を助けることが迷惑だなんて思っていないわ」
年若い妖精が言いました。
「あなたがゼピュロス様に出会った時だって、ボレアース様がノトス様に会うことが出来ずに困っていらしたから、あの方が力を貸したのですよ。ゼピュロス様は迷惑そうにしていらっしゃいました?」
別の妖精が問い掛けます。
あの時ゼピュロスは大きな岩の上に座り、金色の髪を風になびかせ歌っていました。
その歌声は優しく、彼の瞳は慈愛に満ちていたのです。
カリンはもう一度「いいえ」と首を横に振りました。
「あなたも風の一族に生まれ変わったのだから、友の心は素直に受け止めなさい」
年若い妖精がたしなめるように言いました。
ゼピュロスが、私は人間の一族よりも風の一族を愛しているのだと言った意味が少しだけ解った気がしました。
カリンは妖精達の好意を素直に受けました。
「この先何かお手伝いする用事が出来ましたら、何無く私にお申しつけください」
カリンは感謝の言葉と共にそう付け加えました。
すると妖精達は困った顔をしてしまったのです。
「幼き友よ心して聞きなさい。私達が手を貸すのはあくまでも自分の意思なのですよ。友を助けるのは自分が困った時に手を貸してもらいたいからではありません」
「あなたは人に親切を行う時、何か見返りを求めますか?」
妖精達の言葉にカリンは首を振りました。
「あなたは未だ生まれたばかりなのですものね。これから少しづつ友の心が解るようになるわ」
そう言い残して妖精達は思い思いの場所に飛んで行きました。
その日からカリンが行けない時は、替わりに妖精達が人々の元へ挨拶に行ってくれるようになりました。
ゼンヌの島ではいつしか紅茶にレモンを入れることが当たり前のようになってしまいました。幼い子供も大人達を真似るようになった為、本来の意味を理解せずに習慣となってしまったのです。
それが何世代にも受け継がれた現在、妖精達の心遣いを知る人もいなくなってしまいました。
交通の便がよくなり、人々が行き交うようになったお陰で、ゼンヌ島の風習も世界に広がって行きました。
自然の開発が進み、最早妖精達を感じることも出来ません。ノトスの島と呼ばれていたゼンヌ島も今では何処の島であったのかも解らなくなってしまいました。
ですがそんな長い年月の間も、妖精達はカリンの心を私達に届けてくれているのです。
ここからは妖精が好きなあなただけに教えるとっておきの秘密です。
今度あなたが紅茶を入れる事があったなら、ほんの少しでいいのです。カリンの分も入れてあげてください。
そして、カリンの好きなレモンのシロップ漬けを浮かべてあげてください。
妖精達はきっとあなたの所へもやって来てくれることでしょう。
そうしたら「カリンは幸せに暮らしていますか?」と問いかけてみてご覧なさい。
もしかしたら後日あなたの元へ、カリンが直接挨拶に来てくれるかも知れません。