Side:A ⑥
相も変わらず霧の街の視界は悪く、人の気配どころか風の音すら聞こえない静寂が支配していた。
20番街に着いて初めて感じたのは刺激臭。食べ物や生き物が腐った臭いだ。ミントやララによれば、20番街というのは貧民区の中でも最も環境が酷いらしく、大量のゴミや汚物だけではなく、餓死や病死した人間の死体も珍しくないという。
そんな最悪な場所で人間が生きていくのは疑問ではあったが、少なくともトエンティに殺された人たちは此処で暮らしていたのだ。それも大人じゃなく、多くの子供たちが。
「アルジダさん、これでいいのかい?」
「ああ、完璧だ。あとは奴を釣るだけだな」
20番街の一画にある廃墟ビル、そこの三階でアルジダたちはトエンティを倒すための仕掛けを準備していた。
「やはりというか、なんというか、だいぶ時間がかかってしまったな。条件にあった建物を見つけるだけで一苦労だ」
「粗悪なアパートが多いとはいえ、各部屋のベランダが一直線に繋がってるのはそうそうないからね」
仮面越しにミントの溜息が漏れる。ともあれ、愚痴の一つもこぼさずに大がかりな仕掛けに付き合ってくれた彼には感謝しかない。
「ありがとう、ミンストレル。私やララと違って、お前には事態の解決を急く必要はなかったのにな」
「そんなことはないよ。早く解決できればいいというのは本心だし。それに外に出れば蜜さんの手がかりもあるかもしれないからね」
そういえばミントは知り合いと一緒だったと話していた。朝に外の様子を見ようと外に出たきり帰ってこないということだったが。
仕掛けの準備が全て完了し、アルジダはミントと最終確認をする。
「上手くいけば直接戦闘をせずにトエンティを倒せると思う。だが想定外のことも考えて、一応は護身用の武器を持っていた方がいい。私は短剣がいくつかあるが」
アルジダは上着を少しめくると、腰のあたりに携えてる短剣たちを見せる。ララを助けた時に何本か消費してしまったが、まだ尽きてはいない。
「それに関しては僕も大丈夫だよ。厄介な客を追い出すとき用の銃がある。ビリー・ザ・キッドとまではいかないものの、それなりに撃てるさ」
「よし。残るは……」
アルジダは息をひとつ飲み込むと、懸念していたことについて語り出す。
「幻覚症状についてだ」
そう、この幻覚についての対処ができていなければならない。明星にいた若者を見る限り、堕ちる前から幻覚を見てしまうのは明らかだ。
仕掛けの準備が終わったというのも嘘だったら、作戦は当然失敗する。
「それも大丈夫。幻覚は個人の認識の具象化だ。つまり二人以上の人間があるモノを確認し同一だった場合、それは必ず正しい姿で見えているはずだ」
「ララもミントも私の幻覚という可能性は?」
「僕が虚構の存在か……。ははっ、面白いこと言うね。面白いけど……それもないよ」
ミントはアルジダが提示した可能性に少し笑い声を出すと、はっきり否定した。
「認識というのは記憶から成り立つ。そして僕らは初対面だ。知り合いではなく初対面の人間を幻覚で見ようとするのは不可能に近い。まあ、あるにはあるかもしれないが、僕らは普通の住民とは程遠いだろう?」
ミントの主張は筋が通っている。幻覚は認識から、認識は記憶から構成されているのならば現れるのは記憶の中にあるモノでなくてはならない。
もし一般的な三区住民という認識から生み出されたものならば、仮面を被った大男や大人より勇敢な少女は一般的からは遠すぎる。
「これで安心したかい? それじゃあララちゃんを呼んで作戦実行といこう」
「……」
「アルジダさん、どうかした? やっぱり囮は僕が……」
「いや、そういうことじゃない。平気だ。ララを呼んできてくれ」
ミントは心配する素振りを見せつつも、ララを呼びに部屋から出ていった。
誰もいなくなった部屋で、アルジダはひとり、強く瞼を閉じる。
(君が覚えた違和感は正しいぞ、アルジダ。いざとなればワガハイが君の身体を)
「黙れニヒツ。お前なんかに二度と身体を渡すものか」
(やれやれ……ワガハイも嫌われたものだ)
――――――――――――――――――――
アルジダがニヒツの存在を自分の中に明確に認識できるようになったのは明星に来てからだ。
それ以来、ニヒツは何かとアルジダに語りかけてくる。どうやらアルジダの身体を通して、ニヒツも周りを見ることが出来るらしい。心の中でお互いに会話も出来る。とても奇妙な感覚だが、無視することも難しかった。
ニヒツは何が望みなのだろうか。アルジダの身体の主導権を握ることだろうか。それならば、ニヒツには悪いが、彼女に身体を預けることはしたくない。
「ところでニヒツ。前に話していたことだが」
20番街の道の真ん中でアルジダは自分の中にいるニヒツに話しかける。
はたから見れば独り言で会話をしている危ない奴だが、今はララもミントもいない。当然、この霧の街で外を出歩いてる人間もいないので問題ない。
(前に話していたこと?)
「私が蟲屋で目覚める前のことだ。お前がいずれ必要になるというのはどういうことだ」
(……別に気にしなくていい。その言葉は単なるワガハイの予測。外れれば杞憂に終わる)
「分かった。なら、もう一つ聞いていいか」
上手く濁されたアルジダは溜息をひとつこぼすと、先ほどから気がかりであった尋ねてみる。
「いつから自分の存在を知覚した? 明星に辿り着いたあたりからは、お前がうるさかったのは知ってる」
(その考えで合ってる。君が気絶していた時にワガハイは再誕し、明星で再び目覚めた)
「つまり蟲屋から明星までの出来事はお前は知らないんだな」
(そういうことになる。……もっとも、こうしてワガハイが徐々にアルジダに干渉できるようになってる時点で、自分の現状に気付いてるんだろう?)
姿こそ見ることが出来ないが、あのニヒツの人を小馬鹿にしたような笑いが目に浮かぶようだ。
ニヒツが危惧していることは分かる。だが、その前に終わらせればいいだけの話だ。
「さあ作戦を始めるとするか。邪魔だけはするなよ」
(分かっているとも)
アルジダは足元に転がっていていた短い鉄パイプを拾い上げると、近くの鉄柵に打ち付けた。
──ガン、ガン、ガン。何度も振り下ろしていく。特に力を込めているわけではないが、静かな街にはよく響く。
音は道を突き抜け、建物を反射し、路地裏に染み渡る。ここまでの音を、あの男が聞き逃すはずがない。
「審判の……時が来た……」
薄気味悪いボソボソとした声が正面から聞こえると、アルジダは振り上げた鉄パイプを捨てて、音を立てるのを止めた。
鉄の音を鳴らし始めてから約三分。随分と早い到着であった。
「ニヒツ、お前からはどう見えている」
(どうも何も、あの男がトエンティだろう。ランベルト君の話とも一致する)
二人で見たものが同一だった場合、それは現実のものである。
幻覚でないことを確信したアルジダはトエンティから背を向けて走り出した。
向かうべき場所は既に決まっている。建物と建物の間の細い道に滑り込むように入っていく。
(追いつかれたら殺されるな)
分かってるよ、と内心で毒を吐く。
背後からトエンティが追いかけてくる足音が聞こえる。それと同時に青竜刀が抜かれる音も。前のように両手に携えて襲う気なのだろう。捕まってしまえば今度こそアルジダに命はない。
だが、全ては作戦通り。トエンティは何も気づかずにアルジダを追いかけて細道に進みいったのだ。
(あともう少しで餌に誘われた獲物が針にかかるぞ)
走るのが不得意なアルジダの息が荒くなる。相変わらず左足は、必死になる自分をあざ笑うかのように、ちゃんと動いてくれない。ほぼ引きずっているような苦しい体勢で走り続けた。
やがて最後の一歩が踏み終わる。作戦最後の段階だ。
合図を告げるため、アルジダは振り返りトエンティを睨みつけると、大声で叫んだ。
「今だ! 落とせ!」
あと数歩というところだっただろう。盲目の殺人鬼トエンティと逃げ惑うアルジダの間の距離は。
しかし彼と彼女の間に突然、大きなタンスが割り込んできた。湧いて出てきたわけではない。空から降ってきたのだ。
(そうら。まだ来るぞ)
とっさに飛び退いたトエンティの頭上に再び家具が降ってくる。それこそ息を継ぐ暇がないほど、次から次にへと。
入ってきた方からも降り注ぐために、トエンティには逃げ場がない。そもそも建物と建物の隙間という細道の為に、回避するスペースもない。
そうして、あっという間にトエンティは轟音と共に家具の海に潰されていった。
「やはりあのお方には遠く及ばないな。あのお方なら壁を走っていた」
もちろん家具は偶然落ちてきた訳ではない。落としたのは建物の上階で待機していたミントとララだ。
一斉に落とすためにはベランダにあらかじめ家具を大量に並べておく必要がある。いくら霧で見えにくくなっているとはいえ、細道に入ればすぐに気付く異様な光景だ。更に大きな音を出しておびき寄せておいて、逃げ出す時点で罠を想定していてもおかしくない。
だがトエンティには、家具に気付く視力も、罠と考える理性も、とうに失われていた。
(……死んだか)
「みたいだな」
沢山の家具の隙間から見える、埋もれたトエンティの四肢はピクリともしない。
元凶の死を確認すると、アルジダはミントたちと合流すべく建物内へと向かっていった。




