Side:L ⑤
貧民街の下水道にはひんやりと冷たい空気が流れていた。
真ん中に下水が流れ、両端には人が通れるよう水がない部分がある。レディたちはそこを歩いていた。
鼠の鳴き声や虫の這う音が聞こえる。臭いもするしライトが無ければ先も見えない悪質な環境。だが、ここには地上と違って霧がない。奴らが入り込んでいない証拠だ。
「よくこんな道を通ろうと思ったな」
「まあね。でも安全だし迷うこともないから」
元家無し路上孤児だったレディならではの発想だ。街の裏路地よりも複雑怪奇な迷路になっている下水道はレディにとっては故郷のようなものだ。昔はここで雨風をしのぎつつ一夜を明かしたものだ。どの道を進めばどこへ通ずるのか、そんなことは調べずとも頭の中に入っている。
もし堕ちた住人たちが入ってきたとしても迷うだけ。これだけ暗ければ追いかけるのも無理だ。入ってくることが出来る奴がいるとしたら、そいつはレディと同じく下水道を詳しく知っている人間だけだろう。
「……まさか」
レディが息を呑む。
あと少しで蟲屋の前に出られるというのに、通路の先には霧が広がっていたのだ。照らす光は霧で拡散し奥が見えない。まず間違いなく堕ちた住人が下水道内に入り込んでしまったのだ。
よりにもよってゴール目前。ここまで来て道を引き返すことなど出来ない。そう焦るレディは警戒もせずに霧の中へと足を進めてしまった。
「いるはずがない。たまたまマンホールが開いていて落ちた奴がいただけだ」
「レディ、前を歩くなら、僕か蜜が」
「平気だよ。もう五十メートルもないんだ。早く行こう」
カワードの制止も聞かずレディはどんどん進んでいこうとする。自分の店を前にして油断が過ぎてしまったのだろう。前方からの人の気配にレディは全く気付けなかった。
「レディ、危ない!」
霧の中から明かりに反射して光る刃が飛び出す。突然のことに唖然とし、避ける術はなかった。
間一髪でカワードがレディの服を引っ張り、後ろにずらしたお陰で当たらなかった。しかしその反動で代わりに彼女が前に出てしまい、結果庇うような形で彼女が斬り上げられてしまった。
激しい水音。正面から斬られたカワードはそのまま水が流れる方へと落ちてしまった。最悪なことに下水が流れる方向は蟲屋への出口。つまり目の前にいる敵を排除しなければ彼女を助けにいくことは出来ない。
「カワード! 早く助けにいかないと!」
「あの太刀筋……いや、まさか……」
「何固まっているんだよ、蜜! こうなったらボクだけでも!」
この緊急事態に蜜は動揺して動けなくなっていた。霧の先によほど恐ろしいものがいたのだろうか。だとしても今はどうでもいい。今はカワードのことだけを考えなくては。
さっきは不意打ちを喰らっただけ。敵がいることが分かっていれば十分対処できるはず。レディは駆け出そうとした、その時だった。
「……スズナ!?」
壁から足音が聞こえた。走る音だ。誰かが壁を走っていた。
見上げた先にいたのはレディもよく知る顔、調査隊のひとり、スズナであった。
何が出てきてもいいように覚悟していたレディだが、仲間が出てきたとなれば面食らわずにはいられない。反応が遅れたレディをスズナはいとも簡単に拘束してしまう。冷たい床に顔を押し付けられ、うつ伏せの状態で手は背中に押さえつけられる。
軽い女の子の身体のはずなのに抵抗が全く出来ない。どこを押さえれば暴れられずに拘束できるか、スズナはそれを理解しているようだ。
「スズナ。 ボクだ、レディバードだ。頼む、放してくれ!」
「……分かってますよ、主殿。主殿の命令は絶対ですから」
聞いたことのない冷たい口調とかみ合ってない会話からレディは分かった。スズナは既に堕ちてしまっている。経緯はどうあれ、彼女は霧の住人と化してしまった。
だがカワードを斬ったのはスズナじゃない。スズナの武器は短刀だが、先ほど見えた刃はもっと長い。まだもうひとりいる。
レディの予想に応えるように霧の中から、その人物は現れた。そいつの姿に目を疑ってしまう。
「み…つ……?」
対峙する二人の雪見蜜。服も顔も体もまるで同じ。ただ片方の刀には血が滴り落ちている。間違いない。こいつがさっきカワードを斬った奴だ。
「そう怯えるなよ、本物の私。私は貴様に思い出させにきただけなのだから」
「……黙れ」
本物の蜜は先んじて偽者に斬りかかった。あっさりと偽蜜はその一撃を弾いてしまう。それから何度も蜜は斬撃を打ちこむが、どれもこれも容易に返されてしまう。
ふたりの技量は互角。当たり前だ。どちらも雪見蜜なのだから。
「無駄だ、本物の私よ。私が貴様の記憶からきているのは分かっているのだろう? 貴様の技は私の技でもあるのだ」
「黙れと言ったはずだ! その姿でたわごとを語るな!」
「やれやれ……。私が現れたという意味をいい加減理解したらどうだ」
鍔迫り合いになり、互いの顔をつき合わせて挑発と怒号を繰り返す。決して劣勢ではないはずなのに本物の蜜の方が感情的だ。
やはり偽蜜というのは蜜の抱える恐怖が具現化したものなのだろう。だとしたら奴はどういう存在なのだ。
「貴様は思い出したのだよ。かつての自分を、冷酷な人殺しだった時の自分を!」
「ふざけるな……! 私はもうあの頃には戻らない!」
「いいや、それはどうかな。私があのカワードとかいう少女を斬った時、貴様は美しいと感じたはずだ。完璧な技で標的を殺す快感。血が染み込む貴様の手が何よりもそれを欲しているではないか!」
偽蜜の言葉を振り払うかのように、デタラメに刀を振るう蜜。
このままではまずい。偽者の言葉を聞き続ければ蜜は今度こそ本当に堕ちてしまう。レディは何度も無視しろと叫ぶが、もう彼の耳には他の人間の声など届かない。
「私はもう二度とあんなことは……」
「人を殺してしまったという罪悪感より、人を殺してやったという達成感が上回る。当然だ、貴様は人殺しなのだから」
「……」
「諦めろ。受け入れろ。私の存在こそが貴様の本質だ。逆らわず拒まず、自分という人殺しを肯定してくれる世界で生きていけ」
軽い金属音が下水道に響き渡る。蜜の刀が床に落ちたのだ。彼は両膝をつき、グッタリとして動かない。その目からは生気を感じられない。
「愛する人が待っているぞ。あの時の彼女か、それとも牡丹か、あるいは新しく見つけた大切な者か。単なる殺人者として具現した私には分からぬことだが、都合の良い夢の中で愛され続けるといい」
返事はない。偽蜜の言葉を否定する者はもういない。
諦めきれないレディは動かない蜜に向かって叫び続ける。だが、かすれた声は虚空に消えてしまう。
「蜜、それは幻だ。現実じゃないんだ……。目の前にいる偽者のオマエも単なる記憶なんだ……。だから頼む。起きて戦ってくれ……」
「無駄だ。少年だって何人も見てきただろう。本物の私はもう堕ちた」
偽蜜は座り込む本体に背を向けて、レディの方へと振り返る。
奴の言う通り蜜はきっと堕ちてしまったのだろう。堕ちてしまった者は愛されたいと願う人に愛される夢の中で眠り続けるか、幻覚の彼らに言われるがままに暴れるかのどちらかしかない。
「さて残りは少年だ。さっきの少女を仕留めきれなかった分、物足りなくてね。この疼きを鎮める為にもその首を落とさせてもらおう」
本物の蜜ならこんなことを言わない。例え不殺の信念をやめたとしても。でもこいつは人殺しだったという過去の蜜の記憶を抽出した存在。ただ殺しによる快感を得たいだけの存在だ。
眼前に突き出される刀の先端に恐怖を覚える。なんとか動こうとするが、スズナの力が弱まることはない。もう本当に成す術はひとつも残されていない。
せめて最期まで屈服はしない。レディは刀を振り上げた偽蜜の顔を睨みつける。そして何の躊躇もなく、偽蜜はカワードの返り血がついた刀を強く握る。
――――だが、その刀が振り下ろされることはなかった。
「がっ……!?」
偽蜜の胸から刀が飛び出している。背中から誰かが刺したのだ。誰かと言ってもそんなことを出来る人間はひとりしかいない。
レディは喜びの、偽蜜は驚きの視線を投げかける。
「雪見、蜜……! 何故貴様が……」
「ありがとう、偽者の私。もし出てきたのが私ではなく他の誰かだったら、きっと私は斬れなかった。だが私が私自身を殺すことには何の躊躇もない」
目覚めてくれたのは正直に嬉しい。しかし一体どうして堕ちなかったのか。
レディと同じ疑問を抱いた偽蜜が血を吐きながら口にする。
「貴様は堕ちたはずだ。愛されながら夢の中に堕ちたはずだ。もしかして堕ちたふり」
「ふりなんかではない。一度は夢の中に行ったさ。でも結局私の夢には誰も現れなかった。懐かしき友も、愛しかった彼女も、一緒にいるあの娘も」
「まさか貴様は」
「そうだ。私は愛されるべき人間じゃない。そんなことを願う資格もない」
なんてことだ。レディの頬に涙が走る。
蜜が堕ちなかった理由はこれだ。何度堕ちかけても、そこに愛しい人がいなければ最終条件は満たされない。幾度となく彼は夢から追い出されてしまったことだろう。
それはあまりにも悲しすぎた。愛されることを抑える人はたまにいる。でもそれは抑えているだけだ。願わないにしても心の奥底では情景は常にある。
蜜にはないのだ。まるっきり、どこにも、欠片すら。どれだけの罪と罰を抱えて生きているのか、レディではその心境を推し量れない。故にこうして涙を流すことしか出来なかった。
「それなら、まあ、仕方ないな……」
胸から刀を抜かれた偽蜜は苦笑いを一つ浮かべると霧へと還っていった。もう蜜の前に彼が現れることはない。
蜜はふらふらになりつつも、無言で刀を構えてスズナに立ち向かう。レディも蜜も体力が尽きかけているが二対一ならなんとかなるかもしれない。
更に蟲屋に繋がる通路の先の方から声がかかる。
「撤退したらどうだい。君は拘束してるレディを瞬殺して、そこにいるサムライと戦うつもりだろうが止めた方がいい。ワガハイが来た以上、絶対に君は不利になる」
暗闇から姿を見せたのは一区の神官アルジダだった。普段の生真面目さから考えられないニヤニヤ笑いは少し不気味だが、口ぶりからして味方であることは間違いない。これで戦況はだいぶ変わった。
「分かってます、主殿。ここは退かせていただきます」
しばし思考したスズナは見えない誰かとの会話を済ませる。レディの拘束を外し、蜜の頭上を飛び越え、安全に逃げられる位置に着地した。
そのまま走り出そうとする彼女に蜜は背後から声を飛ばす。
「スズナ。次は必ず君を救う」
「……私はもう、救われてますから」
スズナは振り返ることなく地下の暗闇に消えてしまった。彼女の足の速さからして、ここにいる三人が追うことは無理だ。
レディは服についた土埃を叩き落とすと、改めてアルジダの方へと向き直る。
「ありがとう、アルジダ。どうしてここにいるのか分からないが、とにかく助かった」
「気にするな。ワガハイもちょうど君を探していたところだからな。あと名前は正確に言ってほしい」
「……名前? というかワガハイって、オマエは」
アルジダの姿をした彼女は自信満々の様子で名乗りをあげる。
「ワガハイ、名をニヒツという。久しぶりだな、レディ君」
ありえない光景には何度も遭遇してきたが、まだまだ慣れてはいないようだ。
胸に手を当てて微笑む彼女を前に、レディの口は開いたままふさがらなかった。




