Side:R ⑧
クラップは今まで壁という壁は全て乗り換えてきた。
それこそ物理的な意味でも精神的な意味でも尽く踏破してきた。一区に強大な敵がいればその自慢の肉体で打ち倒し、三区を統括する首領にすら自分の信念を押し通した。知り合いの少年は自己中心的すぎると蔑み、また知り合いの青年は尊敬すると褒める。誰がなんと言おうと破天荒な生き方を貫くのがクラップなのだ。
しかし、そんなクラップでも他人のトラウマを退治するというのは初めての経験だった。
「クソ、賭けは失敗か」
ランベルトがクラップとミント、そして幻影の天使隊の元から去ってしばらく経つ。ランベルトがその場を離れれば幻影は消えるかと思ったが、どうやら現実はなかなかに厳しいらしい。消えるどころか弱まる気配すらない。
クラップは苦笑いを浮かべる。まだそれぐらいの余裕はある。クラップが賭けたものはもう一つあるからだ。
「うおっと!?」
クラップの鼻先を弾丸が掠める。拳銃を撃ったのはミントだ。天使隊の方は短剣使いらしく、近距離でクラップを追い詰めてくる。
厄介なのは相手が狂っているせいか、チームワークというものを全く取ろうともしないこと。クラップの近くで戦う天使隊が被弾するかもしれないのに、ミントはかまわず撃ってくる。天使隊を壁にしようとしても逆に死角を作ってしまうだけ。撃つタイミングもデタラメで予測しづらい。
「余裕こいてんじゃねえぞ!」
クラップは自慢のストレートを何発も天使隊に向けて放つ。轟音と共に発せられるそれは当たれば必殺、大砲のような威力だ。だが戦闘技術の乏しいパンチは予備動作が大きすぎて見切られてしまう。流石はランベルトの恐怖の具現化、生半可な相手ではない。
「こういうのはホントやりづれーぜ」
死なない自信はあった。
クラップの鍛え上げた肉体は鋼のようであり、拳銃の銃弾程度では貫通すらままならない。刃物も同様、骨に達するのも難しい。
だが、懸念すべきはそこではない。今回は死ぬことが負けではない。意識を失うことが負けなのだ。
『気絶してしまうと、一気に症状が加速してしまうそうです』
貧民街に向かう途中のランベルトの言葉を思い出す。堕ちるという現象、それは精神への侵食を指し示しているらしい。気絶することで精神的抵抗がゼロになり、侵食が早まるのかもしれない。そうなってしまえば強靭な精神を持つクラップといえど、どうなるか分からない。
鋼の肉体でも痛みは感じる。ミントに頭を撃たれれば昏倒。天使隊に首でも絞められたら失神。そうでなくともダメージが蓄積するだけで倒れる可能性だってある。
「ったく、俺が堕ちたら誰が倒すんだよッ!」
傲岸不遜とも捉えられるような物言いは、難敵を倒してきた今までの経験が成せるものなのだろう。
その絶対的自信に応えるかのように、だんだんとクラップの眼は天使隊の動きに慣れてきた。技量の差は埋まらないので、相変わらず大振りなパンチは躱されるばかりだが、逆にクラップにも相手の攻撃が当たらないようになってきた。
最初は隙が出来るたびに何度も切り傷を貰ったが、一発二発と攻撃を受け続けていると、その内に回避が出来るようになっていた。
動きが読める。チャンスは今しかない。そう思ったクラップは後方へ飛び退き、天使隊と距離をつくる。
「喰らいやがれ!」
クラップは腰から手榴弾のようなものを取り出すと、起爆するようピンを抜く。
狙いは天使隊。敵の動きを予測して、全力で投げ放った。
天使隊の足元に転がる。今から避けても十分爆発範囲だ。
「勝った」
ちなみにクラップは武器の類を一切つくらない。当然、投げたアレも手榴弾のようであって本物ではない。そもそも手榴弾一発程度じゃ天使隊を倒し切れるか怪しいところだ。
クラップは今回の事態において霧のことを特に問題視していた。聞けば視界すら危ぶまれるほどの濃霧。絶対に対処しなければならない。
その点において換気装置はまあまあの出来だった。しかし即効性にかけるし、屋外では使用できない。
そこで開発したのは冷凍弾。爆発すれば周囲を熱を奪う代物。大部分が水で出来ている霧であればすぐに氷結して一定の視界を確保できる。もちろん人に使用しても、最悪でも軽い凍傷を負うぐらい。
だが霧で構成される化け物に対してはどうだろうか。賭けになるが、試してみる価値はあった。
「ビンゴ! 俺は正しかった!」
足元の冷凍弾が炸裂すると、半径三メートルほどの霧が綺麗に消え失せた。天使隊の幻影も上半身が消失し、残りの下半身はその場に倒れこむ。再起不能となったその身体は瞬く間に霧となって蒸発した。
こうなってしまえば、あとは簡単だ。拳銃を乱射するミントに近づくと右腕を振り上げる。
「……仮面を壊されるのは嫌だよな」
右の拳を顔面直前で寸止めする。
ミントは素顔を見られるのを何よりも苦手としていた。それが彼の最大の恐怖かどうかは分からない。だけど堕ちてしまう原因がもしその仮面の下にあるのなら。そんなことを三区の仲間にするわけにはいかない。
クラップは返す左手でミントの腹にパンチを叩きこんだ。いくらミントが大柄な男でもクラップの鋼の拳が直撃すればひとたまりもない。短いうめき声をひとつあげると、前のめりに地面に倒れた。
「さて、とりあえずはミントを縄かなんかで縛るとして……。ランベルトとはどうやって合流っすかなー」
頭をポリポリと掻きながら思案する。先ほどまでの勇猛果敢な姿はどこへやら。今はもういつも商売人の顔つきだ。
他人のトラウマにすら勝利する。結果から見れば、クラップとはそういう男であった。




