イノセントダーティー
彼女の全てがほしい。もっと深く理解したい。いつまでもそばにいたい。そんな風に強く心を奪われるのは初めてだった。
大学生になったばかり。春の夜。
あの時アオイさんと出会わなければ、きっとこんな感情を知ることはなかったと思う。
それまでも何度か女の子と付き合ったことはあるし、彼女達のことをそれなりに好きだから付き合ったはずなんだけど、アオイさんに出会った後ではそれらがちゃんとした恋愛だったのか分からなくなった。
そういう意味で言うと、アオイさんに出会ってから俺はまともに人を好きになるという経験を実感できたんだと思う。
一途な想いで成り立つ恋。人より遅い初恋。
アオイさんはとても優しく聡明な女性だった。彼女も俺のことを友達レベルくらいには好きになってくれていたはず。
でも、好きになってはダメな相手だった。アオイさんには旦那さんがいたからーー。
大学に入ってすぐ、高校から一緒のイクトに誘われサークルに入った。『アクティブで健全な学生生活を送るため年間を通しスポーツで交流するサークル』だと説明されたけどそれは学内でスムーズに事を運ぶための建前ってやつで、実質は飲んだり遊んだりするためのいわゆる飲みサーというやつだった。
サークルに入った翌日、駅前の居酒屋で新入生のための新歓コンパが行われた。遠方から来ている人は参加を断っていたけど、大学進学が確定してすぐ駅前のアパートで一人暮らしを決めていた俺とイクトは迷わず参加した。帰りの電車の心配をしなくていいのは本当に助かる。
急に大人になれた気がした。先月まで高校の制服を着て深夜には眠りにつくのが当たり前の生活を送っていたのに。
漠然と、大学生になったら新しい自分になれるんじゃないかという希望があった。サークル活動は有意義な大学生活を送るために必須だとイクトは力説していた。俺もそれに乗った。単純に大学での新しい友達がほしかったし、入学式で高校とは違う顔ぶれを見てワクワクした。
現役合格できたので俺もイクトも18なのだけど、居酒屋で席に着くなりサークルの先輩達は否応なしにお酒を勧めてきた。もちろんお酒なんて今まで一度も飲んだことがない。ついこの間まで受験生だったのだから当然だ。
「二杯目からはウーロン茶飲んでていいから、一杯だけ付き合ってよ〜。な?」
アルコールを強引に勧めるのってパワハラじゃなかったっけ? ニュースか何かで見た情報が頭に浮かんだものの、口にはしなかった。飲酒に抵抗があるのはたしかだけど、賑やかに騒ぐ先輩達の姿を見ていたら俺もそれに混ざりたくなった。
「じゃあ、一杯だけ」
そうして出されたお酒はカシスオレンジというカクテル。最初はアルコールの匂いがしたけど、すぐに慣れジュースみたいに勢いよく飲めた。
「マサ、すげえ! いつもそんくらい飲むの?」
「初めてですよっ」
「そうとは思えん飲みっぷりだな〜。もう一杯飲みたいなら頼むけどー」
「じゃあ、あと一杯だけ。本当にこれで最後にしときますんで」
「りょーかいりょーかいっ。すいませーん、こっちにファジーキウイひとつお願いしまーす!」
先輩のオススメらしいファジーキウイもすごく美味しかった。ほぼジュースだった。
その後はさすがに先輩達も気を遣ってくれたのでウーロン茶に切り替えた。たった二杯のカクテルでテンションが上がりすぎってくらい上がってしまったのだから当たり前か。
ふわふわと心地よくて、受験の苦しみやつらさなんて吹っ飛ぶほどの開放感。そして、今なら何でもできるという万能感。お酒の力を、この日初めて知った。
先輩達と適当に別れ、近所の別のアパートに住むイクトとも彼の自宅のそばでバイバイした。
家に帰ると急に喉が渇いてきた。さすがに飲酒初心者のクセに調子に乗って飲みすぎたのかもしれない。冷蔵庫を開けたけど、引っ越し直後で何もなかったのだと気付きうなだれる。仕方ない。コンビニまで行くことにした。
夜も深い。終電も終わった頃か。普通だったら面倒なはずなのに、夜中にコンビニへ行くという行動すら楽しかった。まだアルコールで酔っているのか、人気がほとんどないのをいいことにスキップまでしてしまった。誰かに見られたら完全に変な奴だ。
こんな風に夜中に外へ出るなんて初めてだ。今こんな風にワクワクできてるなんて特別な感じがして嬉しい。夜のせいか、空気の匂いも昼間と違う。それすら気持ちを高ぶらせる材料になる。
外気は少し冷えるけど、酔いでほてった体にはちょうどよかった。気持ちがいい。
目的のコンビニのそばまで来て、思わず足を止める。バス停のイスに女の人の姿があったからだ。もうバスも終わっている。一人で何をしているんだろう? 誰かと待ち合わせという風にも見えない。
いつもだったら見て見ぬふりをするのに、酔いのせいか、テンションの高さを保ったまま俺は彼女に近付いた。
「こんな夜中にどうしたんですか?」
そんな言葉が飛び出した。俺だって大した用事もなく夜中に出歩いてるというのに。
こんな時間に一人でいたら危ないですよ。言おうとして、ハッと言葉を飲み込んだ。
女性の目には大粒の涙が浮かんでいた。ショートヘアがよく似合う。小さな顔。
一瞬遅れてこっちに気付いた彼女は、凛とした眼差しで立ちつくす俺を見つめた。年上っぽい雰囲気。だけど童顔なので年齢が分からない。とても綺麗な瞳だった。
「散歩してるんです。もう帰るのでおかまいなく」
高くもなく低くもない声のトーン。透き通った声音。今まで周りにいなかったタイプの人だ。
どうして泣いていたんだろう。とても気になった。でも、これ以上声をかけたら迷惑だ。放っておくのが彼女のため。自分に言い聞かせるように心でつぶやいた。
「……そうですか。気をつけて」
……かまわれたくない。拒否の色が彼女の顔に貼りついているのを察して、酔いも急激に覚めてしまった。ついうっかり声をかけてしまった自分が恥ずかしくなる。
本来の目的通りコンビニに行き、水のペットボトル三本とミルクティー、そして、なぜかいちごのショートケーキを買ってしまった。さっきの新歓コンパで女の先輩がおいしいと勧めてきたものだ。女性なら誰でも好きになると評判の味らしい。
また会ったら気まずいので、買い物を終えた後わざと雑誌の立ち読みをして時間をつぶした。バス停のあの人がいなくなってますように。
30分後、コンビニを出た。さすがにもういないだろう。すぐ帰ると言っていたのだから。それなのに、彼女はまだいた。さっきと全く同じ場所に。
心配になって、今度は恐る恐る彼女に声をかけた。
「あの、余計なお世話ですいません。まだ帰らないんですか?」
「あなたに関係ないですよね。放っておいてくれますか」
「そうなりますよね……」
見ず知らずの男を相手に警戒するなって方が無理だ。
裏通りにたしか交番があったし、この人一人でも大丈夫かな?
「それじゃあ、俺はこれで」
踵を返した時、ぐううと盛大な音が鳴った。静かな街頭に二人きり。それは紛れもなく彼女の腹の音だった。
ツンケンしてるけど、やっぱり彼女も普通の人なんだなと、やけに嬉しくなった。隙のなさそうな雰囲気に反して無防備な感じというか。それがとても可愛く思えた。
さっき買ったばかりのミルクティーとショートケーキを彼女に差し出す。
「これ、よければどうぞ。あ、買ったばっかなんで綺麗だし毒とかも入ってないんで」
これ以上不信感を持たれないようにするためのセリフだったんだけど、それは意外にも彼女にウケた。
「毒って! あはは! 面白いこと言うね」
「面白いですか? よかった……です?」
彼女の笑顔で、瞬く間に空気が柔らかくなった。緊張していた気分もほぐれる。笑った彼女の顔も可愛かった。甘いドキドキ感が胸に広がる。
「ありがとう。ごめんね。昨日から何も食べてないの……。ありがたくいただきます」
飲み物とケーキを渡す時、一瞬だけ彼女と俺の指先が触れた。彼女の指はとても冷たかった。この人は俺が通りかかる何時間も前からここに座っていたのだろうか?
放っておけない。俺は彼女の隣に腰を下ろし、彼女が帰る気になるまでトコトン付き合おうと決めた。
「昨日から何も? それはお腹空きますよっ。他にも何か必要な物があれば言って下さいね。お金まだあるんで」
「ありがとう。でもこれで充分だよ。学生にお金使わせるわけにいかないから」
大人っぽい口ぶりに反し、ショートケーキを一口食べると子供みたいにうっとりした顔になる。社会人なのだろうか?
「働いてるんですか?」
「うん、一応。短大出てからカフェ勤務。まだ1年目だけどね」
ということは21歳くらいか。やっぱり年上。
「ああ、なんか分かります。カフェっぽいですよね」
「カフェっぽいー? そんなこと初めて言われたー。名前は?」
「マサです」
「マサね。私はアオイ」
アオイさん、か。名前もイメージ通りって感じだ。ショートヘアでサバサバしたしゃべり方でカッコいいのに、仕草や声、時折見せる女性的な目が可愛い。そのアンバランスさがたまらなかった。
「マサってやっぱり面白いね。よく言われない?」
「アオイさんに言われたのが初めてですよ」
「へえ、そうなんだー。これ、おいしいなぁ。今度お礼するからラインかメアド教えてくれる? 高校生の子にもらいっぱなしは申し訳ないから」
「大学生ですっ、これでも。まあ、この前まで高校生でしたけど」
「そうなの? ごめんね、勘違いして。でも年下に変わりないでしょ? お返しはさせてほしい」
「そんなの気にしなくていいですよ、ホントに」
遠慮がちに言いつつ、心の奥では絶好のチャンスだと思った。連絡先を聞くついでに彼氏の有無を訊ける! 自然な流れで。
「それに、お礼とはいえ男と二人で会ってたら彼氏が怒りませんか?」
この質問は賭けだった。こんな素敵な人に彼氏がいないわけがない、そういう前提だ。もしいなかったらこれから仲良くなれるよう頑張って、いるって言われたら潔く諦めよう。そう思った。
「旦那は怒らないよ」
俺の生活圏にはない単語が急に出てきて、驚いた。彼女の口から出た旦那という言葉は妙な生々しさを帯びていて、それは彼女の生活にはあって当たり前の存在なんだろうなと思わせる。だけど、信じたくない気持ちになった。
「結婚してたんですね……」
とっさのことで、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。うっかり黙り込んでしまう。
「マサは? 通りすがりの女と連絡先の交換したら彼女に怒られる?」
下から顔を覗き込まれてドキッとした。アオイさんの目は艶っぽくて、まっすぐだった。シャンプーのいい匂いがする。状況的には最悪なのに気持ちは恋一色になった。
「いないです、彼女なんて」
いたら、ケーキ渡してさっさと帰っていた。
「迷惑じゃなければ、お礼させて?」
恩を受けっぱなしはどうしても嫌だと頑ななアオイさん。結局俺達はラインの交換をした。嬉しいって気持ちと、引き返したいという思いがごちゃまぜになった。
「旦那はね、もう私に興味がないの。でも結婚って生活だから、そのために籍入れてるだけ。私はそれでも好きだったんだけどね……」
「だった? 過去形ですか?」
「んー……。どうなんだろ」
アオイさんの手のひらが俺の二の腕に触れて、瞬間冷凍されたみたく時が止まった気がした。今、何が起きてるんだ?
「少しだけ、肩借りてもいい?」
上目遣いで訊かれ、断ることなんてできなかった。
「俺のでよければ」
二の腕からアオイさんの体温が伝わってきて、その後彼女の頭が俺の胸元に倒れた。鼓動が速くなる。彼女は泣いているようだった。静かな泣き方をする。
彼氏がいたら諦めようと思ったら旦那さんがいると言われて、だったらなおさら諦めなきゃいけないのに全然諦められない。
ラインを交換して一週間。アオイさんからの連絡はまだない。その間、何度も彼女の顔を思い出した。声を聞きたいと願って、あの夜交わした会話を思い起こす。
結局あの後、アオイさんの結婚話を少し訊いて帰ってきた。彼女の生家は先代から有名企業の経営をしているそうだ。一方旦那さんの家は貧しかった。アオイさんと結婚すれば旦那さんはアオイさんの祖父が会長を務める会社の重役にすると約束された。
恋愛結婚したはずなのに、旦那さんの結婚の目的はいつしかアオイさんではなく、自分の出世欲と金銭を得るための手段でしかなくなっていた。
「そんなつらい結婚、やめたらいいのに。アオイさんがもったいないよ」
「そうだよね。やめたい。でも、大人の事情ってやつでそう簡単にはいかないんだよ」
やけに落ち着いた様子のアオイさん。何もかも諦めているようなトーン。二人の間に子供はいないが、旦那さんはお金のため自分の立場を守るためアオイさんと別れる気はないらしい。
やりきれない思いで、その日はバス停でアオイさんとさよならした。
服越しに触れた彼女の体温は俺の中で都合のいい妄想に化け、独りよがりな欲を浅はかに満たす。
アオイさんのことを好きになってしまったーー。絶対に恋をしたらいけない相手なのに。
それから数日後。アオイさんからラインが来た。飛び上がるほど喜んでしまう。もしかするともう二度と連絡なんて来ないかもしれないと思っていたから。
コンビニ品のお礼にしては高すぎる、ステーキレストランのディナーコースをアオイさんは予約してくれていた。そんなことされたらまるで本当の恋人同士みたいだと浮かれてしまう。だから特別な演出はやめてほしいのに、やっぱり嬉しい気持ちはごまかせない。
「こんなところじゃなくてよかったのに」
「あれからすぐ連絡できなかったから、そのお詫びも兼ねてだよ。この前は声かけてくれて本当にありがとう」
ニッコリ笑う、彼女の薄くて形のいい唇。柔らかそうな髪。白い肌。暗がりだった初対面の時と違い、今日は薄オレンジのライトの元、アオイさんのことがよく見えた。
旦那さんともこういう場所へよく来るんだろうか。慣れた手つきでフォークとナイフを使うアオイさんを見て嫉妬心が湧き上がった。付き合ってすらいないのに。
「今日は元気ないんだね。何か悩み事?」
食事の手を止めアオイさんが俺を見つめた。優しい視線。胸が砕かれそうになる。
「元気ですよ。おいしいですね、ここのステーキ」
「よかった。だったら無料の優待券あげるよ。ここ、うちの親が経営してる会社の系列店なの」
「いいんですか? でも、さすがにそこまでしてもらうのは」
「女性に人気あるみたいだし、彼女ができたら一緒に来るといいよ。マサは恩人だから。いつでも言って?」
そういうことか……。アオイさんの言葉にガッカリというか、苛立ちというか、失望というか、絶望というか、それら全部抱えたような心持ちにさせられた。アオイさんから見て俺は女にがっついてるように見えるのだろうか。それに初対面でのお礼なら今日この場だけで充分なのに、何でわざわざ優待券とか彼女ができたらとかそんなことを言ってくるんだ?
穏やかに笑う彼女の気持ちが全く読めない。
「ありがとうございます。でも今はアオイさん以外の人と出かけたいとか思わないんで」
ムキになり、つい本音が出てしまった。アオイさんはさして気にした様子もなく、俺の言葉をサラッとかわした。
「もしかして酔ってる? この前も飲んでたよね」
「今日はお酒一滴も飲んでませんっ。ていうか新歓コンパ以来飲んでませんよっ」
「どうして? 大人に隠れて飲んじゃえばいいのに」
「アオイさんそれダメな大人ですよ。お酒飲むと自分が自分じゃなくなる気がするから控えてるんです……」
そう。アオイさんと出会った日のことを反省して、20歳までは飲まないと改めて決めたんだ。あの日の俺は根拠のない自信に満ちておかしかった。アオイさんがこういう人だったからよかったものの、相手が短気な人とかだったら俺のせいでトラブルに発展していたかもしれない。
「自分が自分じゃなくなる、か。その感覚分かるかも。お酒ってなんか結婚と似てるね」
ドキッとした。アオイさんの目はいつしか物憂げになり、彼女の手で傾いたグラスと重なる。酔っているのかと思ったけど違う。アオイさんが飲んでいるのはノンアルコールカクテルだ。
「結婚も、自分が自分じゃなくなるんですか?」
「皆が皆そうとは言えないけど、私の場合はね。結婚してからどんどん嫌な自分になってくのが分かる。旦那といると自分がいかに小さい人間かって思い知らされてばかりで、自分で自分が嫌になる」
グラスにそっと口つけて、アオイさんはニコッと笑った。
「大学、楽しい?」
「急に話変わりましたね」
「料理がまずくなるかなって。変な話してごめんね。せっかく会えたし、マサのこと教えてほしいな」
「と言われても、見ての通り平凡な大学生ですよ」
「平凡ってのはどうかなー? マサはモテると思うよ。彼女がいないなんて信じられなかった」
「それを言ったらアオイさんじゃないですか? 旦那さんいるように見えなかったし」
「そういうのはいいからー」
「お世辞とかじゃなくホントですって! 可愛いし話しやすいし」
しまった。つい言ってしまった。まあ、どうせ軽く流されるんだろうけど……。
アオイさんはふうとため息をつき、苦笑いを浮かべた。
「ありがとう。さっき私があんな話したから慰めてくれてるんだよね」
「別にそういうわけじゃ」
「そういうことにしておいて?」
「アオイさん……」
「じゃないと……。今好きになってもらっても、マサの気持ちに応えることはできないから」
本人の口から決定的なことを言われると、想像以上にきつかった。
「それに……。今私、本当に色々悩んでるから。そういう時に優しくされたら、ダメって分かっててもマサに寄り掛りたくなっちゃうから。そんなのマサもつらいだけだから。そんなのはいけない。分かってくれるよね?」
おいしいはずのステーキの味もよく分からないまま食事をすませ、店を後にした。
アオイさんに振られた。そのことばかりが頭を占める。それと同時に込み上げる感情。ごまかせないほど膨らんでいく。
その辺で適当に別れるつもりで歩いていたのに、雑談していると俺のアパート前まで来てしまった。時間の速さを痛感する。
「今日はありがとうございました。アオイさんとご飯行けて嬉しかったです」
もっと、もっとそばにいたい。引き止める言葉を考えた。
「喜んでもらえたならよかった。この前も今日もたくさん話聞いてくれてありがとう。マサのおかげでまた頑張れる。バイバイ」
毎日会う友達との一時的な別れの挨拶のフリをして、それは永遠のさよならを意味していた。元々あの夜のお礼をするためだけに交換された連絡先。結婚している彼女の心に入る余地なんて俺にはない。
今後こっちから連絡したとしても、彼女から返信が来ることはないだろう。来たとしても、それは恋愛を発展させるためのやり取りにはならない。
分かっている。分かっているから、抑えられなかった。ギリギリまで我慢した。だけどもう無理。
「帰したくない」
彼女が背中を向けた瞬間、俺は彼女の背後からその左腕を掴んでいた。強く、強く。
「マサ……」
「あの日体が冷えるまで外で泣いてたのは旦那さんと何かあったからなんでしょ? だったら俺がそばにいる。俺のこと、旦那さんの代わりにしていいから……」
本当は嫌だ。旦那の代わりになんて絶対なりたくない。だけど、彼女の懐に入るにはその言葉しかないと思った。
「マサ……。どうしてそんなに優しいの? 勘違いしそうになる」
肩越しに振り返り、アオイさんは泣きそうな顔をした。
「好きだからだよ。アオイさんのこと」
「同情だよ。バス停で泣いてるの見て可哀想に思ったのを恋と勘違いしてるだけ」
「違う。同情だったら、結婚してるって知った時点で連絡取らない」
言葉にして、なおさらはっきり分かった。旦那さんがいてもいなくても、俺はきっとアオイさんを好きになる気持ちをやめられなかった。
「……アオイ、だよ」
「え?」
「名前、さん付けしないで」
「……アオイ」
そっと彼女の頭を抱き寄せ、間近で見つめた。初めてこんなにも近くて目が合う。思っていたより華奢な体。折れるほど強く抱きしめたい衝動に駆られた。
「アオイは顔も性格も可愛いよ。嫌な女じゃない」
「……不思議なんだけど、マサと話してる時は自然と優しい気持ちになれる。だからラインするのも迷ってた」
アオイは、指先で小さく俺の服の胸元を掴む。その仕草がたまらなかった。
「マサと会ったら、今度こそ本当に好きになってしまいそうでこわかった。でも、してもらいっぱなしは本当に嫌で、だからお礼に会いたい気持ちも本当で……」
「下心ありのお礼だったとしても、俺は全然かまわないけど」
アオイのことがほしい。
「引かない?」
「引かないよ」
「声かけてもらった時から、マサのこと気になってた」
「どこがよかったの?」
「ナンパ目的とかじゃなく、純粋に私の心配してくれてたから。あと、ショートケーキくれたとこ」
アオイは冗談めかしてそんなことを言った。
「好きなの? ああいうの」
「イチゴのショートケーキとミルクティーの組み合わせが最高に好きなの。初対面なのに、マサとは前から知り合いだったんじゃないかって思った」
買うはずのなかったものだけど、あれは無意識のうちにアオイさん用に買ったもの。
「俺も人のこと言えないけど、アオイも今以上になること期待して食事に誘ったんじゃない?」
「そんなこと……」
はっきりウンと言わない唇にキスを落とした。柔らかくて甘い。全身がとろけるような心地になった。軽くすませておくはずだったのに、一度、二度と重なるたび触れ方が深くなる。好きな人とのキスはこんなに気持ちがよかったんだ。こんな感覚、知らなかった。
「俺だけのアオイになってよ」
「分かった。今夜、旦那と決着つけるね」
アオイの瞳は俺だけを映していた。
《完》