第三十三話 正義に生きる為の決意(後編)
ショッピングモール四階。映画館前休憩スペース。
炸裂したのは、閃光手榴弾の光だ。
「うぉぉぉぉぉ!」
「ヴォォォォォ!」
一瞬の閃光の後、クロスの左肩に斧が刺さり、ジャスティスイエローの頬にボールペンが突き刺さった。
血が床に飛び散り、二人は大きくよろめく。
「グゥゥ!」
「がぁぁぁぁ!」
クロスは肩の僧帽筋が四センチほど切り裂かれ、むき出しの表情筋を歪ませてうめいた。
イエローは頬に突き刺さったボールペンを奥歯で噛み締めて、追撃を仕掛けるべくクロスの首を狙って左手を伸ばした。
「ヴォォォォォ!」
だがクロスが一瞬早く左ストレートをカウンターとして放ち、拳をイエローの顔面にめり込ませる。
「ぐぅっ!」
イエローは唇から血を散らすと背後によろめき、三人掛けのソファーチェアに足を引っ掛けて転び、ソファーに運よく座り込んだ。
「ぐ! くそったれがぁっ! か弱い乙女の顔を殴るとは、最低の悪役だぜ!」
イエローは笑顔だった。唾でもはくように頬に突き刺さったボールペンを吐き捨てると、薪割り斧を杖にしてソファーから立ち上がる。
「ムゥゥ」
クロスはそんなイエローのジョークに上手い返答ができず、困ったような表情を浮かべながら肩の切り傷を手で押さえた。
「くくく! はっはっはっは! 悪役がお前で、正義の味方が私か! だったら勝利するのはもちろん私だ! それが当然の結末なんだからな! どうもまだ余裕ぶっている見たいだが、すぐにその不抜けた顔を潰してやるよ!」
ジャスティスイエローは笑顔だ。はしゃいでいる。
イエローの右手の小指と薬指は折れているし、顔は頭部からの出血とガラスによる切り傷で血だらけである。笑っていられるような怪我の数々ではないのだが、どうやら痛みなど忘れるほどに楽しんでいるらしい。
「……フゥー」
クロスは一息入れて心臓を落ち着かせると、近くに落ちていたゴルフバックから五番アイアンを引き抜いた。
クロスもまた無傷ではない。肩や腕に大きめの裂傷。右の太ももには刺さりっぱなしのキッチンハサミ。醜い焼けただれた顔は、今は飛び散ったガラス片のラメが入ってキラキラしている。
そのガラス片はジャスティスイエローが自爆覚悟の手製爆弾でショーウィンドーを吹き飛ばした時のものだ。
二人はすでに血まみれもいいところだったが、とはいえ眼球も動脈も主要臓器も無事なので、お互い実質的に無傷扱いしているようであった。
「まだまだ行くぞクロス! お前の為にたくさん用意してきたんだからな!」
ジャスティスイエローは駆け出した。
一見無策のような突撃だったが、クロスのゴルフクラブをイエローは薪割り斧で受け止めると、懐から化粧用具であるはずのコンパクトミラーを取りだした。
「おらぁっ!」
イエローがコンパクトミラーを開いた瞬間。内部の着火石フリットが擦れて火花を散らし、パフの代わりに入っていた硝酸カリウムとマグネシウムの混合粉末シートに着火した。
「ムゥ!?」
硝酸カリウムとマグネシウムの混合粉末は古いカメラのフラッシュに使われる燃料だ。燃焼すると激しい閃光を放つ代物である。
そんな閃光に対してクロスは、網膜が焼かれる前に瞳を閉じた。視界が無くなるのはイエローも同じのはずなので、真っ白な光の中で先読みして、振り下ろされるはずの斧を受け止めるために五番アイアンを掲げた。
「ここだぁー!」
だがイエローが光の中で斧を捨て、代わりに取り出したのは痴漢撃退スプレーと簡易ライターだった。可燃性のスプレー噴射にライターで着火させる、簡易火炎放射機を用意していたのだ。
視界の一切ない状態でイエローは勘だけを頼りに着火し、その炎は見事にクロスの顔半分を焼いた。
「グゥゥゥ!」
クロスは顔を焼かれる炎に耐えた。痛みによろめく時間など取れない。
噴射された圧縮空気の圧からイエローとの距離を算出。これ以上の炎の噴射をやめさせるため、即座に五番アイアンを振り下ろした。
「がっ!?」
イエローの前額部にアイアンは当たった。五番アイアンは皮膚をはじいて勢いよく血液を飛ばした。
「ヴォォォォ!」
クロスは顔に張り付いた炎をそのまま放置して、まずはイエローの首を掴んで握りしめる。
ここではひるんだ方が一番の痛手を負うことになる。現在進行形で顔が焼けようが隙を作るわけにはいかない。
イエローの体はクロスに押し出され、ショッピングモールの柱に押し付けられた。
「ぐっ! ぐぅっ!」
イエローは後頭部がコンクリートの柱に叩きつけられ、視界に火花を散らせるように眩暈を起こした。
そうしてほんの一瞬だけ体の自由が利かなくなると、次の瞬間、イエローの視界には顔に炎を張り付けたままのクロスが拳を振りかぶる姿が映った。
「オォォォォォ!」
クロスの拳がイエローの顔面を叩きつぶす。眉間を打ち抜かれたイエローは後頭部を柱に叩きつけた。
クロスの拳はほんの数秒だけイエローを抑えつける。その拳が伝える感触でクロスは判断を下すと、拳を手元に引いた。
イエローの頭部は、力無く垂れ下がった。
「……」
クロスは握りこぶしを解き、燃える顔面を手のひらで覆った。その手が頭部からゆっくり撫でるように下ろされると炎は消火されていく。
幸いクロスの眼球は無事だった。顔も右半分が黒く焼け焦げたが、見栄えがほんのり悪くなっただけでさほどの変化はない。
煤の付いた顔の表情筋を動かし、ギョロリと覗いた血まみれの赤い目を動かすと、気絶したイエローを見下ろした。
「……」
イエローは気絶して動かない。はずだった。
イエローの手が、クロスの腕を掴んだ。
「ッツ!?」
「捕まえたぞっ!」
イエローは顔を起こすと満面の笑みを見せた。
「これが私の、必殺技だァァァァ!」
イエローの服の袖から金属コードが飛び出し、クロスの腕に押し付けられる。
そしてイエローは自分の腰に手を回すと力強くスイッチを入れた。
次の瞬間、カメラのフラッシュのような閃光、強烈な電流が爆弾のように発生してクロスの体表を駆け巡っていく。
「グォォォォォ!」
「ぐあぁぁぁぁ!」
電流がクロスの袖を貫通して全身を巡り、さらにはイエローの体にも通電した。
二人の体は空中に散電する微弱な電気で僅かに輝いた。
三秒ほどしてクロスの手が自然とイエローの首から離れると、クロスは全身を小刻みに震わせて片膝を付き、イエローは半歩だけ後退してから床に手を付いた。
クロスの革手袋を通しての通電なのでイエローへの感電は半減していたようだったが、それでもすぐに立ち上がれないほどの電流。
「ぐぅっ!? あっちぃ! くそっ!」
イエローはあわてて背中に手を回すと、ショートして発火したスタンガンを取り外して床に投げ捨てた。スタンガンは火を間欠的に吹かせながら、金具の隙間から白い泡を吐き出している。さらに真っ赤に発熱した送電線を袖から引っこ抜くと、感電で引きつった顔に勝利の笑顔を浮かべた。
「効いたか? 私の特製魔改造スタンガンだぜ! 電圧200万ボルト、電流100ミリアンペアっ! 電気椅子の1000倍の威力だ!」
その泡を吹いて火花を散らしたスタンガンは、イエローが市場に出ているものを改造して無理やり出力を引き上げたものだった。
威力200万ボルト。電流100ミリアンペアとは、服を貫通してさらに皮膚を焼き切り、体表に穴を空けるレベルである。(電圧は、日本の家庭用コンセントなら電圧が100ボルト。雷が200万ボルトから10億ボルト。電気椅子は電圧だけなら一万ボルト以下である)(ちなみにスタンガンの所持は違法にはならないが、アンペア数の高い軍用スタンガンは外為法により輸入から違法となる。魔改造スタンガンは実は銃刀法違反ではないが、持ち歩けば軽犯罪法違反となる)
「技名を叫べなくて申し訳ねえなっ! 次までに技名を考えておくから許してくれよな!」
イエローはいたずらが成功した子供のように笑った。
ハンディーサイズのスタンガンでその威力を引き出すために、イエローは戦闘中ずっとスタンガン内のコンデンサに電力をチャージしていたのだ。溜めに溜めたその電撃の一撃は、まさに必殺技と呼ぶにふさわしいだろう。そしてその仕込みをクロスに気付かれなかったことが、今は嬉しくて仕方がないのだ。
「そしてこいつで、チェックメイトだぁぁぁ!」
イエローは背中に隠していたショットガンを引き抜くと、僅かに電流の残る体に無理やり言うことを効かせて引き金を引いた。
「ッツ!」
クロスはついに心の底から驚愕した。
ショットガンの銃口から盛大なマズルフラッシュが花開く。
クロスは電流で全身が痙攣して回避出来ない。クロスに出来ることは背後方向に倒れ込み、片腕を掲げて頭部と胸部を守ることだけだった。
散弾が飛び散ると、クロスは左腕と左大腿部で散弾を受け止め、散弾の勢いに押されて吹き飛ばされた。
「グォォォォォォ!」
クロスはスポーツ店のランナーウェアの棚に突っ込む。
散弾一粒は8.38mm。それが左肩に3発、左上腕に4発、左前腕に1発、腹部に1発、左大腿部に3発、残り数発の散弾は外れたようだった。
当然、至近距離でのショットガンの威力はすさまじく、肩や上腕の骨が粉砕骨折する音がクロスの脳髄にまで響いたほどだった。
だが幸いなことに、そのショットガンの口径は20ゲージ(直径15.621mm)だ(映画などで人の手足を吹き飛ばしているのは、一回り大きい12ゲージショットガン)。20ゲージショットガンは小動物狩りや女性用として扱われる小型のものである。ゆえにイエローが手に持っている銃身切り詰めショットガンは、少し長めの短銃程度の大きさで携帯性に優れているが威力は低い。
だが使用したショットシェルは対人用の00(ダブル・オー・バック)のバックショット弾だ(8.38mmの鉛玉15個入りのショットシェル)。火薬が少なめとはいえ散弾は散弾。衝撃力、ストッピングパワーも申し分ない完全な殺傷兵器。クロスの鎖骨、上腕骨、第六肋骨をたやすくへし折るだけの威力はある。
「グ、グウゥゥ」
複数箇所の銃創でクロスの左腕は完全に垂れ下がった状態となっていた。さらには坐骨付近の筋肉に食い込んだ散弾が左足の動きを大きく阻害している。クロスは柱を背にもたれかけたまま、動くことも出来ずにうめき声を上げるしかなかった。
「油断したなクロス? それとも増長したか? いかにも悪役らしいやられ方だぜ!」
イエローはいかにも楽しそうに笑っていた。感電でやや動きの鈍い手足に立ち上がり、この好機を逃がすまじと一歩二歩とクロスに近付く。
「これで、仕舞いだぁぁぁ!」
イエローはクロスの頭蓋を吹っ飛ばせるほどの距離まで近づくと、ショットガンを勢いよく両手で構えた。
その構えの勢いはまるで必殺技のようだった。クロスを殺すことに何の疑問も抱かない、殺しに慣れ過ぎた正義の味方の動作。殺す殺されるという日常に戻ってきた、死刑執行人の断罪。
引き金を引けば、クロスの頭部が吹っ飛ぶ。それはもちろん分かっていて、イエローは引き金を引こうとした。クロスに邪魔されない絶妙な距離で、“勝つ”という目標の為に、遠慮なく殺す。その後どうなろうと考えられない。
なぜならヒーローは不滅なのだ。ここで死ぬようならヒーローではない。
「グゥゥゥっ!」
クロスの慢心がもたらした被害はあまりにも大きい。丁寧に立ちまわれば余裕を持って勝てるなど、クロスの間違った試算だった。自身の特殊な頭脳を過信した結果だ。
導いてやろうとしたがゆえに、無意識的にイエローを見下していたのかもしれない。だがクロスは考えを改めねばならないだろう。相手は対等な、もしくはそれ以上の、本職の正義の味方なのだと。
そしてクロスはイエローの期待通り、銃の早撃ち勝負に勝利してみせた。
「ヴォォォォォ!」
クロスは懐に隠し持っていたイエローの小口径リボルバーを取り出し、即座に発砲したのだ。
ショットガンの引き金が引かれる寸前に銃弾はイエローの左肩鎖骨部に命中、イエローは体を大きくよろめかせる。
「ぐぅっ!? この、クソ野郎がぁぁぁぁぁ!」
しかし一撃ではイエローはひるまない。肩からの血しぶきを無視して、持ちあがらないはずの腕を根性だけで持ち上げ、再びショットガンを構える。
だがクロスの方が僅かに速かった。感電で震えている腕が、幸いなことに生存本能の神経信号を受け取ってくれた。リボルバーの弾倉に入っていた残りの二発を、イエローの左大腿部、左前腕に打ち込む。
「ぐぁぁぁぁっ!」
弾丸は左腕の骨を折ったようでイエローはショットガンを取り落とし、そのまま倒れ込んだ。
いずれの弾丸も体内に残っているようで、イエローの左腕と左足はもはや使い物にならない重傷だった。
「っんの野郎ぉぉぉぉ! 私の銃を隠し持ってやがったなっ!」
イエローは怒りの叫びを上げた。
クロスは銃を使わないだろうという先入観がイエローの目を曇らせていた。そしてさらに怒りがイエローの目を曇らせ、クロスへの信頼はついに殺意を完全に肯定した。
「ぶっ殺してやる!」
イエローは再びショットガンを拾おうとした。
「オォォォォォ!」
だがクロスが床に落ちていた電動ジグソーを拾って投げつけ、ショットガンを弾き飛ばす。
「このっ! クロォォォォスッ!」
イエローが口を大きく開けて叫び声を上げ、ブーツからスティレットナイフを引き抜いた。
「グゥゥゥゥ!」
クロスも前のめりになって構え、咄嗟に予備のボールペンをポケットから取り出した。
双方とも左腕と左足に力が入っていない。ブランと垂れ下がり、動くたびに血液が床に巻き散る。
だがお互いに右足と右腕は動いた。
「うぉぉぉぉぉぉ!」
「ヴォォォォォォ!」
二人は同時に右足の力で跳躍、逆手に握ったナイフとボールペンで互いの肩を突き刺した。
「ぐぅぅぅぅ!」
「オォォォォォ!」
深く突き刺さったナイフとボールペンを互いにより深くねじ込んでいく。二人の顔が至近距離にまで近付き、そして因縁の相手であるかのように怒りの形相で睨み合った。
そして示し合ったかのように二人同時に頭を振りかぶり、ボールペンとナイフを取っ手のように掴んで引き寄せ、全力の頭突きを放った。
二人の額から血しぶきが弾ける。
「くははははっ!」
イエローが楽しげ笑う。額から流れた血が鼻の左右を通り過ぎる。
密着したクロスの顔がおかしいのか、眉間に力を込めながらも楽しげに笑った。
「オォォォォォ!」
クロスは感情的に怒声を上げた。余裕を見せてもいい相手ではないと認識したからには、全力を出すしかない。
クロスはイエローの肩に刺したボールペンを捻じり、体を引いてバランスを崩させる。そうして一瞬だけよろめいたイエローの顔面をバスケットボールのように掴み、スポーツショップのショーウィンドーに叩きつけた。ショーウィンドウーのガラスが砕け散り、イエローの顔に振り注ぐ。
「ぐぅぅぅぅ!?」
「ヴォォォォォ!」
ひとしきりイエローの顔にガラスがぶつかった後、クロスはさらにウィンドウの下部に残った、ささくれ立ったガラスの刃でイエローの後ろ首を貫くべくイエローの頭を押し付けて行く。
イエローの後ろ首筋にガラスの先端が触れ、血がガラスの表面を伝っていった。
「ウォォォォォ!」
クロスもイエローを信じ、殺す気で戦う事を決めた。
全力をぶつけることができる相手。対等な宿敵として、身命を尽くしてその宿命と付き合ってやろうという覚悟。このままイエローの顔を押していけば、イエローの首は半分両断されクロスの勝ちだ。
だがもちろん、イエローも期待にこたえて見せる。
「ぷっ!」
イエローは口に含んでいたガラス片をクロスの目を目掛けて吹き飛ばした。
「グゥッ!?」
クロスはあわてて顔を逸らす。そしてその一瞬の隙を突き、イエローは肩に刺していたスティレットナイフを抜き取ると、今度はクロスの首に深く突き刺した。
「おらぁっ!」
「グォォォォォォ!」
イエローはクロスを蹴飛ばして距離を取った。
クロスは大きくよろめいて後退し、右腕でスポーツショップのアルミシャッターを掴んで転倒を防ぐ。
そうしてイエローは体を起すと、頭部を振るってガラス片と滴る血液を払った。
「まだまだ終わんねえぞクロォッス! 楽しんでるかぁっ! 私は、楽しくて仕方ねぇ!」
イエローは笑ってみせた。肩に突き刺さったボールペンを抜き取り、よろめきながらも右足だけで跳ねるように進んでいく。そして床に落ちていた薪割り斧を拾い上げると肩に担いだ。
「グゥゥ」
クロスも立ち上がり、首に突き立てられたナイフを抜き取って投げ捨てる。動脈も気道も避けていたとはいえ、喉からは血が絶え間なく滴り、これまでに重ねた無数の裂傷と銃創が体力を奪っていた。
はずだった。だが今だけは、クロスの中に意欲が満ち溢れ、生まれて初めての闘志という名の殺意に酔いしれている。
「……クク」
クロスもまた、微笑んだ。
床に散らばった凶器群の中からマチェット(枝葉伐採用の片刃の鉈。刃渡り30センチ。刃の背にノコギリ刃の加工がされた品)を拾い上げ、木製の鞘をそこらに投げ捨てる。体内に残った散弾の痛みをこらえて左足を引きずり、穴だらけになった左腕を無理にでも動かせるよう手を開閉させて準備する。出血の多さに体表がヌメり、生暖かい血液が体を火照らせたが、今ばかりはその自分の生き血が心地よい。
イエローの笑顔を見ていると、クロスの破壊された顔にも自然と笑顔が浮かんでしまう。
クロスもまた、イエローに感謝した。
命を賭けるだけの使命をイエローは教えてくれた。それはヒーロー稼業という名の最悪の仕事だ。だが、クロスにとっては唯一の居場所となるだろう。
クロスはもう、唾棄すべき醜く恐ろしい一般男性ではない。ジャスティスイエローにとってのヒーローであり、肩を並べられるだけの宿敵だ。もう体を縮込ませてマンションに隠れ潜む名もなき一般人とは呼べない。クロスという名の特別な存在だ。
クロスは今後の人生を考えると胸が躍るようだった。邪悪な存在として自分を封印する必要がなくなったのだ。一般人の世界では排斥されるしかなかったクロスも、ヒーローの舞台上では存在を認められる。
ヒーローの世界ではクロスの異常性も個性となる。嫌われ者の役かもしれないが、今はイエローという同僚がいる。嫌われる事を恐れる必要はない。ユダやジャスティスレッドに恐れられバケモノと罵られることがあっても、イエローだけは対等な立場のまま変わらない笑顔を見せてくれることだろう。クロスが本当のバケモノになってしまっても、その時はイエローがクロスを殺してくれると信じることができる。
生まれて初めてクロスは、人の善意を(悪意かもしれないが)信じることが出来た。人生で二度目の信用と信頼だ。
(一度目の信用と信頼は母親)
信じられるものがあるならば、クロスは人生に足場を見つけたも同然だ。あとは階段を上るように一歩ずつ、人生を歩んで行ける。
そのための第一歩は、目の前の気の狂った正義の味方ジャスティスイエローをぶち殺すことだ。
生き残った方が正義の味方。死んだ方が悪役。クロス自身も正気を疑うような倫理観だと感じるが、ヒーロー稼業などそんなものなのだろう。少なくとも葬式を挙げてもらえるような高尚な仕事ではないし、クロスにとっても葬式は無い方がありがたい。これまでクロスを苦しめてきた常識という束縛を捨てられるのなら文句など出るわけがない。
そうして死地に人生の目標と親友を見出したクロスは、それがイエローから感染した狂気であることに気付くこともなく、マチェットを振り上げた。
「ヴォォォォォ!」
「うぉぉぉぉぉ!」
クロスとイエローは同時に斧とマチェットを振り下ろす。
そして二人同時に動かないはずの左手でその刃を受け止めた。クロスは筋肉内部に残留した散弾を無視して。イエローは関節部に入り込んだ銃弾を無視して。人差し指と親指の間の肉が骨まで切り裂かれる痛みをも無視して。お互いに肉を切らせて肩からアバラを全部切り裂く予定だった。
なんかもう、こいつなら死なないだろうという信頼が双方に芽生えていた。脳内麻薬で中毒に陥っている二人にはもう楽しさ以上の感情がない。感覚的には幼少者のプロレスごっこのノリだ。
二人は同時に凶器から手を離すと互いに右フックを顔面に叩きこんだ。
「グッ!」
「うっ!」
二人は同じようによろめいた。しかしまだ気絶はしない。
そして二人は同じように左手に刺さった刃物を振り落とし、二人は同じように血しぶきを散らして左腕を引き、二人は同じように動かしようがない左腕で相手の下顎を殴った。
「ゴッ!?」
「あがっ!?」
双方とも限界に近い脳から意識が消し飛びかける。だがまだ気絶はしない。根性だけでよろめきから立ち直ると、再び右腕を引いて二人同時に右フックを放つ。
「ッツァ!」
「いぅっ!?」
クロスの頭部が左右に揺れ、イエローは右目だけがグリンと上を向いて再び元に戻る。
二人して無事だったはずの右足が震えるほどの殴打の応酬。だがまだどちらも倒れない。
激しい失血と脳へのダメージが次の拳を放つ力を奪った。一秒が千秒にも感じられる時間の中、二人は立つためだけに力を込めた。
だがまだ終わってはいない。
「……くはははは! ははははははっ!
イエローが胸ポケットから最後の手榴弾を取り出した。とっておきの一番大きなパイナップル型手榴弾だ。朦朧とした意識の中でどうにか安全ピンを口で引き抜き、前のめりに倒れそうな体で踏ん張りを利かせて、右手に包んだ手榴弾をクロスの胸に押し付ける。
「グゥゥゥ!? ヴォォォォォォォ!」
同時にクロスも右腕を振りかぶった。もはや視力など残っていないが渾身の力で振り下ろし、その拳はイエローの左目に命中した。
「あがっ! っつ! かぁっ……!」
イエローが後方によろめき倒れて行く。
クロスはイエローが背中を床に打ち付ける音と、手榴弾が床を跳ねてどこか離れた場所に転がる音を聞いた。
そして三秒して、手榴弾は起爆した。手榴弾は最悪な事にイエローが用意したガソリン缶の背後にまで転がっており、起爆と同時にガソリンの爆発も併発させて赤炎と鉄片を巻き散らかす。
その爆炎は容赦なくクロスを炎に包んで吹き飛ばした。
「ギゥッ……!?」
周囲一面に炎が燃え盛る。散らばったガソリンが張り付くように燃焼し、クロスは半身に炎を纏ってスポーツショップの健康用品の棚に背中を預けた状態で火葬されていく。
「グゥゥ……!」
クロスの黒いロングコートが炎に焦がされ、顔に張り付いた火が揺らめくように燃える。
「…………」
だがクロスは消火行動をしようともしなかった。もはや痛みなんて感覚もない。そもそも消火できるほどの体力もない。腕も持ち上がらない。ガソリンで周辺一帯が燃えているので視界が白く明るい。
クロスはそんな眩しいほどの世界でぼんやりとただ座っていた。
「うぉぉぉぉ! クロォォォォスッ!」
だがそんな炎の海をかき分けて、顔まで半分燃えているイエローが走って来てクロスをぶん殴りに来た。
「グゥッ!? ……ヴォォォォォォ!」
クロスはぶん殴られて目を覚ますと、燃え盛るプロテインの棚に突っ込んだあちこち焼けているイエローを見た。
イエローは炎だらけの棚に手を付いて再び立ち上がると拳を握る。
クロスも立ち上がり、お返しとばかりに三歩歩いてイエローの顔面目掛けて拳を振り下ろした。
「がっ!?」
イエローは殴り飛ばされて火塗れの床に倒れ込む。
だが、炎の中で手を付くと立ち上がった。ガソリンの張り付いたイエローの顔の半分は黒く焦げ、しかも燃えているが、残りの顔半分は燃えていないのでセーフらしい。
再びクロスをイエローは睨み、クロスもイエローを睨んだ。
そして言葉もなく互いに右ストレートを顔面に放つ。
「ガァッ!」
「ぐぁっ!」
そろそろ死んでもいい頃合いだが、二人はよろめいただけでまだ立っていた。
だがもう立っていられる筋力などどちらも残っていない。二人は同時に前のめりに倒れると、両手で相手の顔を挟んで互いの体を支えあった。
「ヴォォォォォ!」
「うぉぉぉぉぉ!」
イエローとクロスは互いの顔を真っすぐに見て叫び合う。そしてお互いに頭を後ろに引いて振りかぶると、同時に頭突きを仕掛けた。
「ゴッ!」
「がぁっ!」
二人は頭部を重ね合わせたまま、立ったまま相手が崩れ落ちるのを待った。
意地の張り合いでお互いが死ぬのを我慢していた。相手が死ぬまでそう時間がかからないはずだった。
全身はくまなく燃えているし、失血はとっくに致死量を過ぎているし、主要な臓器も長期休暇を申請している。
そんな瞬間だった。ショッピングモールの窓ガラスを全て打ち砕いて、鮮やかに輝く白い光が二人の体を包んだ。