第二十四話 勇猛なりしは心の闇 影たちのワルツ
「ムゥ……?」
クロスは振り向むくと同時に、振り下ろされてきた警棒を石片で叩いて受け流す。警備員の渾身の振り下ろしは空を切り、外されたことにより足をもつれさせ盛大によろめいた。
警備員は何とかバランスを整えてクロスの横を通り抜けようとするが、クロスは見逃すことなく、みぞおちに軽い右フックを叩きこんだ。
「ぐはぇっ!?」
警備員は拳に押し出されると背中から床に倒れ込む。
「え……? 警備員、さん?」
ブラックは呆然とそんな警備員を見た。
観衆たちもその警備員の突撃に呆然となっていた。
「え、なんだあれ?」
「ちょっと! 彼、ここの警備員だよ!」
「何やってんだあいつ!? 危ないぞ! 早く戻ってこいって!」
観客たちが警備員を呼び寄せる。
だが警備員はそんな周囲の声を無視して、よろめきながらも立ち上がった。
「うぐぐ……。ブラックさん! 逃げてくれ!」
「なぜです、警備員さん! 危険です!」
「危険なんて承知の上! この、かかってこい殺人鬼! 俺が相手だ!」
警備員は再びクロスめがけて突撃し、警棒を大きく薙ぎ払う。
「……ムゥ」
クロスは困ったような声を鳴らすと、たやすく警備員の手首を掴んで受け止めてみせる。掴んだ腕を横に引いて体勢を崩させ、もう片手を伸ばして警備員の首を鷲づかみにした。
「あっ、っぐ! ……っが!」
「警備員さん!」
ブラックが心配して声を張り上げる。
警備員の気道と動脈は的確に圧迫され、クロスの指が深く警備員の首に食い込んだ。脳への血流は止まり、気道は丁寧に閉じられる。警備員は暴れてクロスの肩や胸部を空いた片手で殴ったが、ろくに振りかぶっていない拳ではハードレザーのコートに衝撃が吸収される。クロスはその拳を甘んじて受け、警備員が失神するのを待った。
脳への血流が完全に止まった場合、人は十秒以内に失神する。完全ではなくとも一分以内に失神。三分を過ぎれば脳細胞は壊死して、替えの利かない脳細胞は一生ものの障害を残す。
十秒後には警備員の殴る手が見る見るうちに弱々しくなっていた。
「だめっ! やめて!」
そんな状況にブラックが慌てて警備員を助けようと、クロスに突撃した。
「ム……」
クロスはブラックに向き直ると、軽く振りかぶって警備員をブラックに向けて投げつける。
「きゃっ!?」
ブラックは警備員に押し潰されるように背後に倒れていった。バランスを崩した二人は地面に倒れ、ブラックは警備員に下敷きにされた。
「げっほっ! うぇっほっ!」
警備員がブラックの上で激しくむせ込み、必死に呼吸を肺に入れる。
「大丈夫ですか!? 警備員さん!?」
「あ、ああ!」
警備員はブラックに心配されると嬉しそうに笑顔を見せた。ブラックに背中を支えられて立ち上がり、またもやクロスに向けて闘志にあふれる視線を向ける。
そんな勇敢な警備員に、観客たちが呼びかけた。
「何やってんだお前ー!」
「早くこっちに戻ってこいって! そこは危ないぞー!」
だが、警備員は観客に振り向くことなく武器を構える。
そんな警備員にブラックも怒鳴りつけた。
「早くここを離れて下さい! ここにいては殺されます!」
「殺されそうになっていたのはあんただ、ブラックさん!」
「私は死んだりなんてっ……!」
ここでブラックはハッと気付いた。
果たして自分は本当に死なないのだろうか?と。
ブラックは自ら悪人であることを明言した。しかも体内には深淵の暗闇を隠し持っている。キューティクルズの衣装を着ていながらも、その本質はダーク・キューティクルというシャドウに近い存在だ。自分の不死を信じて戦ってきたが、悪役として登場し、倒されることでハッピーエンドになる存在だったとしたら、敗北は消失を意味する。歴代の悪役と同じように。
そんな可能性にブラックは一人呆然としていると、警備員が必死の勢いで喋り出した。
「俺はな、あんたの隠れファンなんだ! 他の三人のキューティクルズよりもあんたの事が好きだ! 同僚にはマイナー好きだってバカにされているが! とにかくあんたがやられるところは見たくない! お行儀の悪いファンで申し訳ないが、あんたを助けてぇ!」
「い、いえ……。助かり、ました」
ブラックは素直に感謝を述べる。すると、警備員はそれだけでも無茶をした甲斐があったとニヤリと笑った。
「おっしゃぁぁぁ! それじゃあ俺があいつをぶっ飛ばしてきてやる!」
「待って下さい、勝てるわけがありません! キューティクルズが手も足も出ない相手です! 思いつく方法は、もう……」
ブラックは警備員の手首を掴んだまま固まる。
そして思いついた作戦が実行可能なものか思索していた。
「……ムゥ」
クロスは行儀よく立ったまま、行動を起こさず待っていた。
会話中と作戦説明中は手を出さない、悪役のお手本のような落ち着きである。実際は状況の変化を待っているだけなのだが、クロスが期待するようにヒーロー戦隊も怪人も他キューティクルズも動こうとする気配がない。
キューティクルズを全員ぶちのめして帰っていったのでは何をしにきたのかわからない。ブラックなど問題の種を残したままでは解決を先延ばしにするだけである。
クロスの理想としてはヒーロー戦隊と協力することによって戦況を大いにヒーロー戦隊側に傾け、アオバの説得によってキューティクルズから戦力を引き抜き、ブラックのような黒幕を引き出すつもりだった。
しかしレッドの気遣いのおかげでヒーロー戦隊も怪人も観客となり、なまじクロスが強かったためキューティクルズも半壊。挙句クロスのことを解説してくれる人もいなかったため正体不明の殺人鬼となってしまう。
周囲の反応、自分の見た目という変数の存在、理想値で計算してしまった未来予測。完全なクロスの計算ミスである。
「ウゥ……」
クロスは周囲を見渡したが、役に立ちそうな道具も、声を挙げてくれる味方もいない。一対多ならばヒーロー戦隊も協力に駆けつけてくれるなど考えが甘すぎた。調子に乗った代償はあまりに重く、ただ勝利するわけにもいかずブラックの次の行動を待つほかなかった。
「警備員さん、心の強さに、自信はありますか?」
「心? ああ、まあ。自衛隊だった時は反抗的で有名だったから……」
「では、私を信用してくれますか?」
「それはもちろん!」
「では警備員さん、私に考えがあります。私の目を見て下さい」
「……? なにするんだ?」
警備員はクロスを警戒しながらもブラックに向き直った。
ブラックはそんな警備員の目を覗き込み、その奥に光が輝いていることを確認した。
「さすがにこんな行動を起こしただけあって、光に満ちていますね。……いまからあなたの闇を引っ張り出します。私も責任を負いますから、あなたも覚悟してください」
ブラックは真摯な目で警備員と視線を重ね、警備員はその眼に射抜かれたかのようにドキリと心臓をはね上げた。
そんな警備員のネクタイをブラックは引っ張り、顔が密着しそうなほどまで強引に引き寄せる。
「お、おう……?」
そんなブラックの行動に警備員が驚きの表情を浮かべた瞬間。
意を決したようにブラックは口を固く結び、回避させる間もなく、警備員に唇を押し付けた。
「っ!? ……!?」
警備員は驚きのあまり目を見開き、全身の筋肉を硬直させた。
ブラックの薄くやわらかい唇が優しく押しつけられ、ほんのりとしたブラックの体温が警備員の唇の奥に流れる。
そんな警備員にとって夢心地の時間が二秒間ほど続くと、ブラックは顔を離した。
「…………」
警備員は放心状態となり動かなくなっていた。
「なっ!? えっ!?」
「なんだ! なんだ!?」
観客からも困惑の声が湧きあがってきた。
「警備員さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
「……そうですか。では、今すぐこの場でエッチな事を考えて下さい」
「はぁ!?」
警備員は真っ赤にした顔に驚愕の表情を浮かべた。
そんな警備員の動揺をよそに、ブラックは警備員の瞳の中の光を見て少々苦々しい表情を見せる。
そしてブラックも羞恥心でほんのり薄桃色に染めた顔に覚悟を重ねて、両手で警備員の手を掴むと、その警備員の手のひらを自分の薄い胸板に押し当てた。
「うぇあっ!? うぇ、うえぇ!?」
警備員は動揺して変な叫びを上げる。
手のひらの中には小皿ほどの肉の厚み、皮膚の下の肋骨の感触。胸というには未発達で初々しいものであったが、警備員には大脳の視床下部が焼き切れるほどの衝撃があった。
ブラックは一秒ごとに頬を赤くさせて、最終的に顔をうつむけさせると、震える声で警備員に尋ねた。
「っぅう……。私のファンなら、私の事を考えて、よこしまな想像くらいしたことありますよね?」
「えぇ……!? はぁ、あの、あんたでヌいたことが何度か……! いや、違います! なんでも……!?」
「では、その時の事を、思い出して下さい」
「え、いや、いくらなんでも、その……」
「いえ、もう充分です! 最低限の心の闇は用意されました。これからあなたの劣情を、シャドウにします!」
ブラックは警備員の手を払いのけると、真っ赤になった自分の顔を両手で叩いて雑念を振り払った。
羞恥心をごまかすためかブラックの行動は早い。今度は逆に、警備員の胸にブラックが手が押し当てられた。
「うっ!」
ブラックの手のひらから闇色の影が噴出しき、隙間から溢れだして水流のように飛散していく。
「うぐぅぅぅぅぅ!?」
「影よ! 真実の、心よ! 大いなるイドの底より、顕現せよ!」
警備員の背中から影の塊が盛り上がってくる。
血しぶきのように黒い煙が噴出し、長い牙と豚の鼻を持った闇の獣が飛び出して地面に着地した。
現れたのはイノシシのシャドウだ。黄金色の瞳、揺らめく影の肉体、口角より生えた黒鉄の牙。
ただし小さい。立派なのは牙だけで体格はウリボウサイズの小型のシャドウである。
「う、意外と小さいですね」
「あ……。すいません、幻滅しましたか」
「いいえ、私の体が未熟だったのが原因でしょう」
「そんなことない!? 小さいのにコリコリしたところがあって、別のところはすごく大きくっ――!」
「それ以上言ったら、死んでもらいます」
「あ、はい……。すんません」
「大きさは今更関係ありません。今から私が大きくしますから、安心してください」
そう言うとブラックはイノシシのシャドウの背に手を乗せた。
「汝に真祖たる混沌の権限を与える! 目覚めよ! 深淵!」
「プギィィィィィ!?」
イノシシのシャドウは驚き声を上げて飛び跳ねる。すると着地することなくそのまま滞空した。
宙に浮かびあがったシャドウは見る見るうちにいびつに膨張していく。腹部が風船のように膨れ上がり、次には頭部、さらに胸部とボコボコとした膨張の連鎖を繰り返して球体のような形へと変貌する。
「な、なんだこれ……」
「これは深淵の暗闇。すべてのシャドウの根源であり、触媒です」
「これを操って戦えばいいのか?」
「いえ、操ろうとしても確実に暴走します。これを自由に操れる人はいません」
「じゃあ俺はどうすればいいんだ? ……もう一回胸を揉んだりすればいいのか?」
「……(死んでほしい)…………。大きな声で、呪文を唱えて下さい。“シャドウ・レボリューション”と」
「それだけでいいのか?」
「はい、難しい操作はすべて私がします」
「分かった! シャドウ・レボリューション! どうぁぁぁぁぁぁぁ!?」
警備員の目が照明灯のように黄金色に発光すると、闇の球体が鼓動を鳴らした。
重々しく和太鼓のように空気が震えるが鼓膜には響かない、そんな魂の律動。
それはかつて、核シェルターで響いた怪人誕生の音色によく似ていた。
「きゃ! なにこの黒いの」
「うわ! なんだ!」
「体から黒いモヤモヤが!」
異変は観客の中で起こった。ショッピングモールに集まった無数の観客たちの体から、湯気のように黒い影のオーラが湧きあがってきたのだ。
その中でも特に警備員の黒いオーラはひときわ濃かった。警備員の黒いオーラはすべての観客に暗い影を貸し与えるように拡散し、揺らめいて、薄らいでいく。
「なんだこりゃあ……! 自己顕示欲に、恋愛願望、承認欲求……! 金欲に、女装癖だって!? うおっ! 死体性愛者とかどいつだ!?」
「それが人々の心の闇です! さあ、すべてを解き放って!」
「それはどうやって、うっ! なんだ!? 心が、溢れて! うあぁぁぁぁぁぁぁ!」
警備員が叫んだ瞬間、観客たちも一斉に声を上げた。
その声は苦痛にうめく声やただの驚愕の声などさまざまであったが、起こった現象は同じであった。
観客の足元から無数の影が観客の前まで伸びてくると、地面からシャドウが一斉に飛び出してきた。
「なんだ! あのねずみのシャドウが俺のシャドウか!?」
「うそ! 私のシャドウ、コウモリ!?」
「ちょっと! なんで私のシャドウはミニブタなのよ!」
「スマトラオランウータン!? 俺だけ細部のクォリティ高ぇぞおい!?」
「ぼ、僕のシャドウはあのライオンさんだ!」
「私のは、あのハゲワシかしら。……ふふ、私にはぴったり」
観客たちが自分から生まれたシャドウに驚きと関心を向ける。
そのシャドウの数は千、二千、三千と加速度的に増えていく。ヒーロー戦隊やキューティクルズは慌てふためき、瞬く間にクロスの周囲を埋め尽くすように出現していく。
クロスやヒーロー戦隊、キューティクルズといった面々からは距離を空けて増殖しているが、増殖する場所が無くなってくるとショッピングモールの二階や駐車場の車の上などにも出現していく。観客の数だけシャドウが発生すると、その黄金色の瞳は星よりも明るく闇夜に輝いた。
「……ッ!」
クロスもさすがにその数には焦りを見せた。観客は視界に入っている以外に駐車場などに溢れている見物客もいる。つまり生み出されたのは、最低でも八千から一万以上のシャドウ。アクションゲームでも撃破を諦める数である。
「ブラック! 貴様ぁ! よくもこれほどのシャドウを!」
三階の渡り廊下から、ディアブロが怒りの声を上げた。
「黙ってくださいディアブロ! 私がもはや頼れるものは、闇しかない!」
「うっ!? なんだ!」
そんなディアブロにブラックは言い返した。そして黄金色の瞳でディアブロを射抜いて、体の自由を奪い取る。
「観客の皆さん! 聞いてください!」
ブラックは観客に向けて叫んだ。
「このシャドウは、あなた達の心の力です! 今、あの怪物を倒すためには、みなさん以外に頼れるものはありません! どうか心の闇を恐れないでください! このシャドウたちは本当のあなた自身です! 生きる力の源であり! 私たちの足元を支えてくれている影の本性! 私が力を貸しますので! どうか向きあって、そのシャドウに命じて下さい! あのバケモノを、倒せと!」
そう叫び終えると、ブラックは宙に浮いていた直径一メートルほどの球体、深淵の暗闇に両腕を突き刺し、命じた。
「心たちよ! 目覚めよ!」
ブラックが深淵の暗闇に無理やり命令を送らせる。すると深淵は反応し、小さな揺らぎ、のような静かな波動を観客に向けて全方位に放射させた。
その薄い膜のような波動はシャドウの姿とその足元から伸びる影をより色濃くし、観客とシャドウとのリンクをより高めていく。
「うっ……! ああ、そうか。だから俺のシャドウは白鳥か。昔は本気でバレリーノを目指していたんだもんな。どうして今の俺は、営業職なんてやっているんだろうな……」
「カラス……。わたしは、宝石が好きだから……。そうよ! なりたかったのは宝飾店員じゃない! 私は本当は、宝石強盗になりたかった! カラスのように、部屋にたくさんの宝石を集めて!」
「そう言えば小さい頃は、考古学者になりたかったんだよな……。だから三葉虫のシャドウね……。へへへ……、ずっと合いたかったぜ、俺のディア・フレンド!」
「そうよ! 私の本性はウツボ! どんな相手だって喰らいついてやる! 奥さんがいたって関係ない! 離婚させてでも奪い取る!」
「僕のライオンさんかっこいい! これなら僕もヒーロー戦隊みたいに戦えるよね!」
観客たちからシャドウを肯定する声が湧きあがってくる。シャドウもそれを感じ取ったのか、自分の本体に振り返りった。ライオンは力強くうなずき、オランウータンは親指を立て、カラスはウインクした。
再びシャドウが振り返った時、シャドウは一斉にクロスに敵意ある視線を向けていく。
「ムゥ!」
クロスは焦ったような声を鳴らした。
「いっけー! 僕のライオンさん!」
「俺の全力を見せてやる! 行け! 俺のハムスター!」
「私のカラス! ブラックを助けてあげて!」
クロスに一斉に闇の動物たちが飛びかかっていく。
「ヴォォォォォ!」
クロスは最初に飛びかかってきたカラスのくちばしを掴んで地面に叩きつけた後、足に噛み付こうとしてきたダックスフンドを蹴とばして振り返った。そしてその場からショッピングモールの奥に向かって駆けだしていく。
「逃げます! 取り囲んで……!」
指示を飛ばそうとした瞬間、ブラックは何かに気付いた。
「あの行動の速さ、どこかに向かっている? ……そうか、エスカレーター!」
クロスは飛びかかってきた豹の鼻を右ストレートで弾き返すと、転がっていく体を飛び越えて真っすぐにエスカレーターに向かって走っていた。
「一本道では数の優位が無くなってしまう! みなさん! バケモノがエスカレーターに到達する前に袋叩きにしてください!」
獣たちがクロスの元へ津波のように押し寄せる。
だが、シャドウたちはクロスを取り囲むことが出来ない。
クロスは蹄を持ち上げた馬の隣をすり抜け、突進してくる小熊の背中を踏み越え、飛んでくるハゲワシのくちばしをオランウータンの頭に突き刺して通り抜けて行く。
ロングコートに牙を突き立ててくる蛇やチワワなどはそのまま放置し、背中をついばんでくる小鳥など大した攻撃力のないシャドウは完全に無視していた。
シャドウたちは無意識に自分の攻撃するスペースを空けており、それがそのままクロスの回避する余裕へとつながっていた。シャドウが密着すればクロスの回避も不可能であっただろうに、観客は誰もが悪のバケモノと戦いたがっていた心があったゆえか牙と爪を振るうだけの空間があった。英雄願望に満員電車のような状況は誰もが忌避したようで、影たちはその無意識を遂行していた。
回避可能な空間があるならばクロスに敗北はない。クロスは口を広げて飛びかかってきたゴールデンレトリバーの顎にアッパーカットを叩きこむ。
少し空間が開くと、クロスの正面にゴールキーパーのように両手を広げたゴリラのシャドウが道を塞いでいた。
そこでクロスはより効率的に、足元に寝転がっていたパティシエ・キューティクルの足首を両手で掴んで、振り上げた。
「うっ……。えっ!? きゃぁぁぁぁ!?」
失神から目覚めたパティシエは振り下ろされ、その頭でゴリラの頭頂部を叩き割る。
ゴリラは粉状に粉砕、その勢いのまま地面に顔面を叩きつけられてパティシエは再び気絶した。
「……ムゥ?」
クロスは思考した。
パティシエを叩きつけた時、異様にたやすくゴリラのシャドウが霧散したのだ。
これは、パティシエにキューティクルズとしての対シャドウの特攻効果あったのだと推測もできる。キューティクルズは光の戦士を自称していたので、影に対して一方的に打ち勝てる特性があるのかもしれない。
「ヴォォォォォ!」
クロスは両手で掴んだパティシエを大きく振り払った。すると、ぶつかった三体のシャドウがたやすく霧散。あまりのあっけなさにクロスには手ごたえすら感じなかった。
パティシエの体重は軽く、振りまわしやすい。
キューティクルズに限らずヒーロー戦隊にも言えることだが、変身後は著しく体重が軽くなっているようだ。高い跳躍力などを得るための仕組みだ。攻撃時のみ体重が跳ね上がるようで、個人差が大きいが、ヒーロー戦隊ならば常時体重20キロ、キューティクルズならば10キロ少々が平均だ。
そんなこともあって、気絶したパティシエ・キューティクルの体は人型決戦兵器(手持ち武器)へと進化した。
「ヴォォォォォ!」
クロスの無双が始まった。無数のシャドウが一撃でなぎ倒されていく。
クロスはブラックめがけて反撃に出た。所詮シャドウは大量生産型の雑魚であったようで、パティシエのしなる体が刃となってたやすく道を切り裂いていく。
「そんな! パティシエさんの体を武器に!?」
ブラックはまたもやクロスに追いかけられることとなった。袈裟掛けに振り下ろされたパティシエの体が白鳥とゾウガメを消し飛ばし、パティシエ背負い投げからの唐竹割りがサーベルタイガーの上半身を消し飛ばした。
女子中学生の体が幾度となく地面に叩きつけられ、顔面が柱に激突し、噴水の縁で背骨が叩き折れる音が響いた。その動きは効率的でありながらも最悪の戦闘風景だ。
ヒーローは死なないらしいので問題ないのだが、背中に担がれたパティシエはスカートがめくれてスパッツが丸出し、顔中埃まみれで化粧も掠れているという悲惨な有り様である。
後に録画された内容が動画投稿サイトで拡散されるので、半目開きで白目を剥いている姿は本人が見れば自殺だって検討すること間違いなしの代物だ。
「あ痛っ! 俺のシャドウが消された!?」
「私のも消されちゃった!?」
「止められない止まらない!? 格が違いすぎる!?」
「ふざけんな! ここは俺たちが活躍して勝っちゃう場面だろ!? あいつどんだけ強ぇえんだよ!?」
「ブラック! やっぱり逃げて! 私たちザコ役だった!」
クロスの無双は止まらない。ついにクロスから半径一メートル半くらいの距離にはシャドウが完全にいなくなってしまった。大鞭のように振るわれるパティシエの薙ぎ払いは、かするだけでもシャドウの体を削っていく。
その武器としての性能は破格である。もし銘を付けるならば、|“約束された勝利の剣”《コンナノゼッタイオカシイヨ》。もはや課金アイテムの粋である。
そんな快進撃もあり、ブラックとの距離が五メートルほどまで狭まった。
「そんな! こんな方法で……! そうか! 数を生み出したせいでシャドウの質が低く……! 警備員さん! 距離を取って体力を削ることにしましょう!」
ブラックが警備員を振り返ると、警備員は深淵の暗闇の球体に両手を突っ込んでいた。
そんな警備員の行動にブラックは驚愕する。
「警備員さん! 何を!?」
「ぐぅぅぅっ!? どうやって扱えばいいんだこれ!? 虚栄心でも、自尊心でもなんだっていい! とにかく、あのバケモノを倒せるだけの力を……! さっさとなんとかしろよこのクソッタレシャドウ!」
警備員は片手を引き抜くと深淵の暗闇をぶん殴った。黒い影が水しぶきのように跳ねる。
「勝手なことはやめてください! 人の心は繊細で、適当な操作は受付たりっ――! きゃっ!?」
ブラックは前のめりに倒れた。背中にパティシエ・キューティクルを投げつけられたのだ。
うつ伏せに倒れたブラックの背中に気絶したパティシエの体が重なる。慌ててブラックが背後を振り返ると、ほんの数メートルほどの距離にクロスは立っていた。ほんの数歩でブラックの足首を掴める近さである。投げられたパティシエの体が道を切り開いたようで障害物はない。さらにクロスは無手ではなく、片手にパティシエの武器だった電動泡立て機を握っていた。
「……」
クロスは無言で泡立て機のトリガーを握りしめた。シェイカー部分の金属が高速で回転する。
本来は磨かれた青銅色でブルーメタリックの艶やかな泡立て機だったのだが、今は市販品と同様の薄灰色をしていた。それが本来の姿なのかそれとも力を失った姿なのかは分からないが、トルクの回転数は一般的なものよりはるかに高かった。
「っつ!?」
ブラックはそんな泡立て機が首筋に突き立てられる想像をして背筋を凍らせた。慌てて逃げ出そうとするが、背中に重なったパティシエの体に邪魔されて最初の一歩につまずいてしまう。
クロスはあと一歩の距離まで近づいていた。
「ブラックを守って! 僕のライオンさん!」
ライオンのシャドウがブラックの頭上を飛び越えてクロスに飛びかかる。
だが、その瞬間にはすでにクロスの拳が背後に振りかぶられていた。
「ヴォォォォォォ!」
クロスの左ストレートがライオンの鼻梁を叩きつぶした。どの動物も基本的に鼻の骨は脆弱でライオンもその例に漏れない。さらには本物と違って血の流れていないシャドウは体重も軽いため、ライオンはクロスの拳に押し返されてしまう。
突進を押し返され、よろめきながらもライオンは後退するが、痛みで首を振るう動作を見せた瞬間にクロスに耳を鷲掴みにされた。
「グォォォォ!」
無理やり顔を持ち上げられたライオンの顔は怯えに満ちており、そんな見開かれた目にクロスは回転する泡立て機を突っ込んだ。黄金色の右目にシェイカーがねじ込まれ、頭蓋の中をかき回していく。
そんな攻撃の瞬間、観客の中から子供の絶叫が響いた。
「あああああ!? 目が痛い! 痛いぃぃぃ! お母さーん!」
「ムォッ!?」
クロスはあわててシェイカーを引き抜いた。ライオンのシャドウは右目から影の飛沫を吹き出させて即座に逃げ出していく。
子供は母親に抱きついていた。ライオンと同じく右目から滂沱の如く涙を流し、さらに涙腺からは僅かに血も混じらせていた。
そのまさかのダメージのフィードバックにクロスは呆然とした。
その様子はブラックも見ていた。
「(あれは、……警備員さんが操作したから、余計な感覚までシャドウにリンクした? 冷酷なバケモノの癖に、観客に気を使う辺りはやはり怪人)」
そう考えながらその隙にブラックはパティシエの下から抜け出し、警備員の元にたどり着く。
シャドウの数はまだまだいる。クロスに向かって、蛇とミニブタ、スズメにテナガザルなどのシャドウが飛びかかっていっていた。
「ム、ムゥ!」
クロスのコートを貫通できない牙の蛇や小さなくちばしのスズメは無視して、クロスはテナガザルの首を掴んだ。
だがクロスは先ほどのダメージのフィードバックを警戒して、手に握った泡立て機を突き刺せないでいた。クロスは泡立て機の回転を止めると、仕方なく柄の部分でテナガザルの頭を殴り、それで起こりうるフィードバックを観測しようと観客に視線を凝らす。
その様子を、ブラックは見ていた。
「(あのバケモノ。見た目に反して分別がある。……それなら!)」
ブラックは警備員の向かって指示を飛ばした。
「警備員さん! 私の言う通りに唱えて下さい! 《深淵よ! 感覚を共有させ、痛みを倍加せよ!》と!」
「わかった! 深淵の暗闇よ! 感覚を共有させ、痛みを倍加せよ! ……痛みを倍加!? いいのか!?」
「私を信じて下さい! 警備員さん!」
ブラックは警備員に向けて小さくウインクを当てた。
警備員はそんなウインクに胸を射抜かれ、それ以上追及することは出来なかった。
「バケモノ! これでシャドウは本体と一心同体となった! あなたがシャドウを傷つければ、本体も死にます!」
「ムォ!?」
クロスはあわてて投げ捨てようとしたシャドウを再び引き寄せた。
手に握ったテナガザルを噴水の角にぶつけるわけにもいかなくなり、フィードバックの原因が攻撃によるものか、それとも色あせた泡立て機によるものなのか、その判別する機会をクロスは失ってしまった。
そうして生まれたクロスの一瞬の隙を狙い、ブラックは深淵の暗闇に手を突っ込み、命じた。
「すべての影に命ずる! 今こそ闇は一つになる時! 深淵よ! 混沌となって! あのバケモノを! 封じ込めなさいっ! ダァァァクネス・リィ・ジェネレーションッ!」
ブラックは、深淵の球体の本体をサイドスローでクロスめがけて投げ飛ばした。深淵の球体は回転しながら空中を直進、クロスめがけて高速で突き進む。さらには周囲のシャドウを吸い込むように吸収し、球の直径は即座に二メートルを超えるほどにまで膨れ上がった。
「ヴォォォォォ!」
クロスはそれを回避するわけにはいかなかった。周囲から一斉にシャドウが襲いかかっている。投擲の二秒前からその行動が予測できていたものの、シャドウを撃退せずに回避できる道筋がない。
シャドウを殺せば人命が失われる可能性がある以上、クロスは回避出来なかった。
せめてもの悪あがきとして泡立て機を深淵の球体に叩きつけるが、深淵は泡立て機をあっさりと吸い込むと同時に、クロスを頭からすっぽりと包みこんでしまう。
「シャドウよ! やつを、包みこめぇぇぇ!」
ブラックの命令で周辺のシャドウが一斉にクロスに飛びかかっていく。深淵の球体の上からクロスを包み込むように動物たちが覆いかぶさり、何層にも重なった影がドーム状の形状を形作った。
「大丈夫かブラック! シャドウが消えれば本体も死ぬんだろ! あんな乱暴に重ねて……!」
「あんなの嘘に決まっています! シャドウが消えても本体は死にません! 信じてくださいと言ったはずです」
ブラックはさも当然のように叫んで答える。
「これで大詰め! 影よ重なれ! 闇よ深まれ! 深淵の底にっ、あのバケモノをっ、叩きこめぇぇぇ!」
ブラックが向けた両手の先から複数の黒い魔法陣が生み出され、広がっていく。その魔法陣の発生に合わせて、無数のシャドウが折り重なるドーム状の闇が溶け合うように吸い込まれていった。
「クロスさん!」
「クロスさんっ! そんなっ!」
静観していたヒーロー戦隊や怪人たちからも驚きの声が上がる。
クロスは高さ四メートルまで膨れ上がったドーム状の闇の中に包まれてしまった。
「ムゥ……」
そんな闇の塊の中から漏れる困ったような声は、誰にも聞こえないほど小さく響いた。